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鷹山公精神の世界発信(「Acorn」への寄稿)(1) ケネディ大統領の心に鷹山公の名が深く刻まれたわけ [上杉鷹山]

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昨年1018日、米沢英語研究懇話会第88回例会で白鷹山「伝国の辞」碑建立経緯について語らせていただく機会がありました。その折、会の機関誌「Acorn(どんぐり/英懇)」への原稿が求められ、昨年暮れに張り切って書いて送っていました。その誌の完成配布を機に、寄稿した何人かに語る機会が与えられ、私もそのひとりとして一昨日(228日)の第89回例会に参加させていただきました。

 

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2030分という時間が与えられていたのですが、頭の中が「あれもこれも」状態でだいぶ時間超過してしまったようです。他にも超過された方が多く、終了時間は予定より1時間もオーバーしていました。それだけ熱のこもった会だったと言えますが、この日のメイン講師である布川潤子先生が、自らの時間を思いっきり短縮されて語られることになったのは、その内容からしてほんとうに残念で、又申し訳なくも思ったことでした。というのも、布川先生は昨年春まで米沢興譲館高に18年間勤務され、その間、英語教育と進路指導において目をみはる実績をあげた先生だったことが、レジュメと短いお話の中からビンビン伝わったからです。当日参加された方の中に、現役の先生が何人おられたでしょうか。布川先生の実践は現場においてどれだけ蓄積継承されているものなのか・・・。布川先生は南陽市民です。こういう先生が身近におられたことを心強く思ったことでした。そういえば、置賜自給圏推進機構のメンバーになっておられ、定年退職後の現在、長井高で非常勤講師の傍ら、東北大の農学部に通って農業政策を勉強しておられるとのことです。これからのご活躍、おおいに期待されます。


さて、ケネディ大統領が「尊敬する政治家」として鷹山公の名前を挙げたかどうかの真偽についての詮索はともかく、ケネディ大統領の心に鷹山公の名が深く刻まれたとするならばいったいどの点だったのだろうか、ということがテーマでした。広く伝わる「なせばなる」ではなかったと思えたのです。書き送った原稿ではこの点について、こう記しました。

 

《大統領が『代表的日本人』を読んで異国の君主についての記述に心打たれるところがあったとしたら、鷹山公が実際に何を企て何を成し遂げたかであり、それをなさしめた鷹山公の人となりであったろう。それを伝えるに十分な中味を備えているのが内村鑑三の『代表的日本人』であることを私は納得した。実は、大統領就任演説の有名な言葉の前には次の言葉がある。
 〈今、我々を召集するラッパが再び鳴り響いています。・・・これは、長く先の見えない戦いの重荷を担えという呼びかけなのです。来る年も来る年も、希望をもって喜びとし、苦難を耐え忍びながら、人類共通の敵である虐政、貧困、病気、そして戦争そのものとの戦いを貫く覚悟が求められています。Now the trumpet summons us again ・・・ a call to bear the burden of a long twilight struggle, year in and year out, "rejoicing in hope, patient in tribulation" -- a struggle against the common enemies of man: tyranny, poverty, disease, and war itself.〉
 大統領就任にあたって自らに課したこの「覚悟」こそ、藩主就任にあたってだれに知られることもなく神に誓った鷹山公の「覚悟」と同じものではなかったか。》

しかし、今回のレジュメをつくる中で、あらためて『代表的日本人』をめくっているうちに、鷹山公の章の序の最後が次の言葉で締めくくられているのに気づき、この言葉こそが大統領の心を揺さぶったのではなかったかと強く思えたのです。

《だが、そのような(聖書で約束された)王国の到来を待つ間、それとよく似た王国が、この水と陸から成る地球上の、それも異教の国、日本にかつて実現した話を振り返り、元気をつけようではないか。西洋の知恵がもたらされる前に、この国はすでに和の道を知っており、独自に「人の道」が実践され、「死を恐れぬ勇者」がいたのである。
But while we are waiting for the coming of such a kingdom, let us refresh ourselves by an account of something very much like it, once enacted upon the terraqueous globe, and that in heathen Japan. Yes、 before wisdom came from the West, the land did know the way of peace, and in its own secluded manner, “the ways of man”were walked in, and “death was encountered with al hero's resolve.”》


いつものバタバタ仕事で、レジュメをまとめあげたことで安心してしまい、自分なりに言いたいことを聴く人にどううまく伝えるかの配慮にまで及ばぬまま語り始める結果、語ったあとにいつも後悔が生まれます。今回などはその典型で、それでいまこうして書いているわけです。

 

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さらに言えば、ケネディ大統領にとって日本は特別な国でした。時間があればこの問題にも入りたかったのですが、全く触れずじまいでした。これも齊藤喜一会長が引っ張りだした話題です。まだ読めないでいますが、齊藤会長が見つけ出してきた本が手元にあります。ケネデイを沈めた男―日本海軍士官と若き米大統領の日米友情物語』(星亮一著 潮書房光人社 2014/10)です。帯に《駆逐艦天霧vs魚雷艇PT109運命の激突!太平洋戦争中、敵魚雷艇に体当たりした駆逐艦艦長花見少佐と、撃沈された魚雷艇艇長ケネディ中尉。ケネディ大統領誕生に秘められた恩讐を越えた友情の絆を描く。》とあります。この本の「まえがき」全文と「あとがき」の一部を載せておきます。

 

「まえがき」全文です。

《 米国駐日大使キャロライン・ケネディさんは、ジョン・F・ケネディ元大統領の長女である。

 原発事故か起こった福島県の復旧復興にも深い関心を寄せ、被災地を訪問し、「アメリカは援助を惜しまない」と語った。

 ケネディ元大統領は若き日、魚雷艇PT109の艇長として太平洋戦争で日本海軍と戦い、ソロモン諸島で日本海軍の駆逐艦天霧に遭遇し、避けきれず激突し、魚雷艇はまっ二つに裂けて沈んだ。

 ケネディが部下とともに泳ぎ、九死に一覧を得た話は映画にもなった。

 昭和二十六年(一九五一)、下院議員として日本に立ち寄った際、ケネディは自分と戦った駆逐艦の艦長を探してほしいと日本政府に依頼した。

 その時の艦長は福島県塩川町(現喜多方市)出身で、後に塩川町長を務める花見弘平少佐であることはすぐにわかった。

 ここから連絡を取り合い二人の交流が始まる。大統領選挙の時は旧天霧乗組員が激励の寄せ書きをつくり、ケネディに届けた。死闘を演じた敵か恩讐を越えて応援する姿は、アメリカ国民に大きな感銘を与えた。

 ケネディ大統領が誕生したのは、昭和三十五年(一九六〇)十一月である。当時、私は福島民報記者として若松支社に勤務しており、本社のデスクから

 「塩川町に行って花見町長の談話をとるように」と指示を受けた。

 私も少年時代は、軍国少年だったので、海軍兵学校出身の元駆逐艦艦長と聞いただけで、胸がときめいた。

 花見はジェントルマンだった。

 自慢することなど一切なく、ケネディ中尉の魚雷艇と激突したときの模様を淡々と話してくれた。その後、二人は長く友好関係を結び、手紙を交換してきた。

 娘のキャロラインさんは、「父は現職大統領時代、日本を訪れることを強く望んでいた。しかし、それはかなわなかった」と語り、ケネディ大統領が強く日本訪問を望んでいたと語った。

 アメリカの名門テキサスA&M大学が、福島第一原子力発電所の廃炉や高濃度汚染水の処理作業、さらにはロボットの開発に参画することになったのもキャロラインさんのおかげである。さまざまな縁か福島の復旧復興を後押しする。

 私もキャロライン・ケネディさんか駐日大使として来日したことで、この本を書く機会に恵まれた。

 日本とアメリカの友情を再確認し、この物語が、福島の復旧復興に寄与することがあれば望外の喜びである。》

 

「あとがき」から抜粋です。

《 この本はキャロライン駐日大使の赴任をきっかけに企画された出版だった。ケネディ大統領も花見さんも生前、会うことはかなわなかった。

 福島県はいま、未曽有の地震、津波と原発事故で、復旧復興のめどはまだまだ立っていない。

 私が住む郡山市にも花見の故郷会津にも原発事故の被災者が避難生活を送っている。

 キャロライン大使は一度、福島県を訪ねられたが、会津はまだである。ライシャワー大使の時代、大使は会津を訪ねられ、白虎隊士の墓前に焼香されたことがあった。

 願わくば、キャロライン大使も会津を訪ねられ、その時は喜多方市塩川にも足を運ばれ、花見の顕彰碑もご覧いただけれぱと思う。

 私が半世紀前に古いた福島民報の記事の一面トップの写真は、大統領に当選した父に駆け寄るキャロラインさんの姿だった。

 ケネデイを沈めた男、花見弘平で思い出すのは、日本か敗れたことに対する反省だった。

「ひどい戦争だった」

 花見かぼつんと言ったことを私は覚えていた。花見は一貫して駆逐艦乗りで、参謀ではなかった。海に出ることに生きかいを感じ、懸命に戦った男だった。

 戦後、GHQから招かれた際、花見は断わった。二度と戦争には加担したくない、そういう思いだったろうと思う。

 ・・・・・》

 

 潔(いさぎよ)い人であったことが伝わってきます。「ケネディ大統領にとっての日本」を思う時、忘れてはならない花見元少佐たちとの交流です。実は、その花見弘平少佐の御子息がキャロライン大使と近々お会いする段取りになっているとのことです。うれしいことです。(つづく)

 


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