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守谷健二「日本書紀と天武天皇の正統性の問題」について(2) [歴史]

 白村江の惨憺たる敗戦によって、国民の信頼を完全に失った大海人皇子率いる倭王朝は、中大兄皇子の大和王朝に縋り付くしかなかった。国土防衛に向けて東国からの防人の徴集がここから始まる。関係は完全に逆転、倭国の皇大弟・大海人皇子は、中大兄皇子(天智)におもねり取り入らねばならない。才色兼備として名高かった自分の妃・額田王(ぬかだのおほきみ)を中大兄皇子に差し出す。


 額田王とは姉妹とされる鏡王女も大和に身を寄せていた。鏡王女の夫は、唐に連行され、唐の都長安で捕虜になっていた倭国の国王である。天智天皇も倭国王に敬意を払い、鏡王女に失礼の無いように接していた。ところがあろうことか、天智の片腕である中臣鎌足(藤原氏の祖)が、鏡王女を所望するという事態になる。(後に鏡王女は、藤原氏の氏母として藤原氏の社寺に祀られる。)大海人皇子は、土を舐めるような屈辱に耐え忍びつつ延命を図らねばならなかった。守谷氏は万葉の歌に拠って以上の流れを説明する。

http://www.snsi.jp/bbs/page/1/view/3738

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 天智七(668)年正月、不自然な長期の称制(皇太子のまま政治を執ること)を経て中大兄皇子が即位、天智天皇となる。この即位はこれ以前の大和王朝の天皇の即位とは意味を異にする。日本統一王朝の王者になったことだ。日本統一王朝はここに始まる。倭国は、大和王朝(日本国)の臣下に為ったのだ。前年の三月に近江大津に遷都した事は、奈良盆地に偏在するより天然の大運河・琵琶湖を持つ大津の地の利、将来性を勘案してのことであった。天智は、東国開拓に大きな可能性を見ていた。

 

 一方半島情勢は、668年、朝鮮半島は唐と新羅による高句麗討伐によって統一されたが、それから半島に反唐感情が充満するようになり、新羅と唐は対立、669年の後半、新羅王朝が唐に対し戦闘の火蓋を切るに至っていた。そうした中で、671年11月、唐朝は四人の倭国幹部を千四百人の兵で護送させて送り返してきた。この四人の中には筑紫の君薩野馬(さちやま)が居た。筑紫の君とは倭国王である。唐の倭国王送還は、対立関係にあった倭国と和解した上での、新羅討伐軍派兵の要請を意味していたしかしこの時、倭国は大和王朝(日本国)の臣下となり、東国の防人の警護する地に変っていた。唐の要請は、そのまま大和王朝に伝えられた。 

 

 67112月、天智天皇が薨去された。後を継いだのが長男の大友皇子(648-672弘文天皇)である。大友皇子は、唐の要請を承諾した。百済滅亡に伴う難民に尾張・美濃一帯の湿原地帯の開墾にあたらせていたが、その百済人が徴集された。

 

 大友皇子の妃は大海人皇子と額田王の間に生まれた十市皇女であり、その間に皇子の誕生を見ていた。守谷氏は「朝鮮半島情勢によく通じていた大海人皇子は、日本書紀の記述「病に倒れた天智が、我が子・大友皇子に皇位を継がせたいと思っている気持ちを察し、自ら身を引き出家して吉野に隠棲し、静かに余生を過ごすつもりであった。それなのに大友皇子は、恩知らずにも大海人皇子を滅ぼそうとして危害を加えてきた。追い詰められて仕方なく壬申の乱となった」と違い大友皇子のアドバイザー的立場にいたのではないか」と言う。ではなぜ対立することになったのか。守谷氏は言う。

 

帰ってくるとは誰も考えていなかった国王が帰って来たことで、大海人皇子は追詰められていた。白村江の敗戦による崩壊に直面していた倭国が大和王朝の下手に入ったことは理解してもらえよう。しかし、皇后を大和王朝の一臣下(中臣鎌足)に降嫁させた事をどう言えば良いのだ。大海人皇子は国王に顔向け出来なかった。》

 

 そして言う。

《大友皇子が、美濃・尾張で徴兵を開始したことが「壬申の乱」の全てであった。大海人皇子は、この兵団を手に入れることに賭けて挙兵を決意したのである。》

 

 大海人皇子は、倭国王の前に自らのスジを示すためには、娘の夫である大友皇子を弑(しい)しても、倭国の優位を獲得せねばならなかったということだろうか。娘婿大友皇子(弘文天皇)が徴兵した美濃・尾張国の軍勢というのは当初より大海人皇子の息のかかった2万人であった。

 

《天武が東国を目指して出発した六月二十四日から、進撃を開始する七月二日まで僅か八日しかないのです。伊勢国に入った翌日には近江朝の徴集していた二万の軍勢を何の抵抗もなく手に入れている。ものすごく用意周到な計略の下に進めていたとしか考えられません。

 

 結論である。

《「壬申の乱」と言うのは、倭王朝の大皇弟・大海人皇子による大和王朝乗っ取り事件のことであった。天武は、正統性を何より欲した。天武を正統とする歴史を創造せねばならなかった。》《「壬申の乱」は、明らかに王朝の乗っ取りでした。・・・「壬申の乱」は、騙し討ちによる、一家臣(大海人皇子)の謀反です。お天道様に向い正々堂々と正義を主張できるような事件ではありませんでした。天武は何が何でも正統性を手に入れる必要があったのです。実際には天智よりも年上であったのに「実弟」と挿入した。「実弟」と挿入することで革命の概念を排除した。当然革命の無い歴史を作り上げなければならなかった。日本列島には開闢以来大和王朝しか存在しなかった、という歴史にならざるを得なかった。すべては、天武は、天智の「実弟」であるに始まっている。どこが頭か、どこが尻尾かよくわからないのである。》


 ところが・・・(つづく)

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