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守谷健二「日本書紀と天武天皇の正統性の問題」について(1) [歴史]

守谷健二氏が一昨年10月以来「重たい掲示板」に書かれた20数回にわたる論考についてです。前回の「何でもタダでできる世の中」に向けてでたまたま登場した天武天皇からのつながりで書いておくことにしました。


副島隆彦氏が守谷氏の論考を高く評価された。http://www.snsi.jp/bbs/page/1/view/3780

 私は、守谷氏が、「倭国と日本国(おそらくヤマト王権=朝廷)が、400年間余、並立して、存在している」という 独自の説を立てていることに、鋭く注目します。 確かに、3世紀から7世紀まで、北九州と韓半島の南一体に、倭国(わこく)という国が存在して、それは、畿内=奈良盆地を中心とする ヤマト(大和)王権とは、別物だったのだ、それが、白村江の戦い(663年)で、3万人の倭人の兵士が敗北して、それで、倭国が消滅して、大和王権に統合されたのだ、と考えるのが、ものすごく説得力があると、分かります。・・・・・・・・・・・・ 皇極=斉明天皇(女帝)の動きや、倭姫(やまとひめ)のところなどは、私はあなたの文を読んで、ハッと息を呑みました。 すばらしい創見です。》(守谷氏の論考に倭姫についての言及はない。副島氏が言うのは鏡王女のことだろうか)

しかしその後、こうつづく。

《だが、守谷さん。日本書紀を、あなたなりに、その真実を読み破った、という書き方だけでは、ここの読み手たちを、説得する事はできません。/「古代史を専門とする日本史学者のだれそれが、このように書いている」という書き方が、どうしても必要なのです。このことをどうか、分かってください。/ 私は、くだらない権威や、日本の学者の世界にひれ伏せということを言っているのではなりません。 コトバのもつ、共同了解性として、「有名な、◯◯という学者が、このように書いている。しかし、私は、そうは思わない。なぜならば、文献や、証拠として、たとえば、中国の24正史のひとつの『旧唐書(くとうじょ)』にこのようにはっきりと書かれている」という書き方をしていただきたい。/ このことをどうか、分かってください。 その上で、学問道場の「日本史掲示板」というものを立ち上げてでも、興味のある人と、議論と論究の輪を広げてゆきたい。私、副島隆彦も参加します。》

 

たしかにそうなのかもしれないが、私は歴史が「腑に落ちる」とはどういうことかを考えながら、以前引用したことのある次の言葉が思い浮かんだ。

《何かに「ついて」語ろうとするとき人は、貧しい概念の周辺をうろついているだけかもしれない。しかし、何か「を」生きるとき人は、実在にふれている。》(若松英輔「『概念』を突破し、再び『実在』へ」 中島岳志×若松英輔『現代の超克』ミシマ社 26


副島氏の誘いの先にあるのは、守谷氏の立ち位置とはまるでちがう「学者地獄」でしかない。副島氏ともあろう方がなぜこんな助言を守谷氏に向けなければならないのかちょっと哀しくなったのだが、それは守谷氏がその後すぐ自らについて、小生、新潟の古町と云う繁華街(昭和の新潟の中心街。今は夜の街としてかろうじて余命を保っている)の場末の深夜食堂で働いて糊口を凌いでいる者です。》と語ったことと関わりがあると思う。学者に付き合っている暇はない。


ひたすら自らの「腑に落ちる」ためだけの歴史理解というものがあっていい。そうした理解は「腑に落ちた」時点で完結する。それを人に伝えようとかどうとかはまた別次元の問題だ。「伝える」ことを最初から前提にするから副島氏のように言わねばならなくなる。守谷氏の文章からは「実在にふれ」た手ごたえが伝わってくる。守谷氏は、歴史を「生き」ている。


守谷氏の文章は、「重たい掲示板」の右上にある「ワード検索」で「天武」で検索すると全部読むことができる。2013-10-023713から。


「日本書紀と天武天皇の正統性の問題」を私なりに整理してみた。


   *   *   *   *   *


 『日本書紀』は、逆臣であった天武(大海人皇子)を、正統化する為に編まれた『書』である。『日本書紀』が、天智と天武は実の兄弟(両親を同じくする)と記すのは捏造である。


 唐の正史である『旧唐書(くとうじょ)』の「日本国伝」にはこうある。

 《日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本国は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。》

 日本列島には二つの王朝が並立していた。倭国と大和王朝である。唐朝は七世紀半ばまで倭国を日本列島の代表王朝と見、八世紀初頭には日本王朝(大和王朝)が倭王朝に代わって日本列島代表王朝に就いていた、と唐では認識されていた。


しかし、日本史学者たちは、王朝並立を認めない。この『旧唐書』の倭国と日本国の並記は、編者の不体裁な誤りである、と決め付け、否定し無視してきた。日本史学は、その上に構築されてきたのである。そもそもの誤りである。『旧唐書』に沿った理解を探ってみることにする。


 奈良時代の通奏低音は、天智系勢力と天武系勢力の深刻な対立抗争にある。なぜなら、天武天皇は倭国人であり、天智天皇は大和王朝人なのである。七世紀日本の最大の事件は、「壬申の乱」(672)と、その十年前の「百済救国の役の失敗」(663年 白村江の敗北)だ。


 二つの事件の経緯についてたどってみる。


 650年以降の東アジア状勢は、唐・新羅同盟対高句麗・百済・倭国同盟が出来ていた。倭国が新羅討伐を果すためには大和王朝との対立を回避し協力を取り付けなければならない。661年、大海人皇子が大和王朝に出向いてようやく協力体制が整った。しかしその時すでに朝鮮半島は著しく不利な情勢に追い込まれていた。


 中大兄・大海人両皇子(天智・天武両天皇)の母とされる斉明天皇の行幸を「新羅討伐軍の発進、斉明天皇親征伐」と解釈しているのが、日本史学の最大の誤りの一つである。斉明天皇の筑紫行幸は、倭国と大和王朝の同盟が成立したことをお披露目する儀式に臨席する為である。(大和の天皇自らが出向かなければならなかったことは、この時点ではまだ倭国の方が格上であったことを意味する。)協力体制ができた証しとして大海人皇子が大和に来た折、中大兄皇子の娘である大田皇女との婚姻が成立し、皇子の子を身ごもった。天皇が孫娘を無事筑紫に送り届けるがこの旅の目的であった。すなわち、両王朝の結婚(同盟)が成立したことを披露する儀式に臨席するための行幸であった。


 しかし、斉明天皇一行と倭国の間には不協和音が生じていた。斉明天皇は、半島情勢が明らかになるに伴い、唐と戦争することの無謀さを確信するようになっていた。一方倭国は、形勢不利になりつつあるも唐朝も隋朝と同じくその命脈は長くはないと判断し、派兵を急いでいた。そうした中での斉明天皇の突然の薨去である。あきらかに変死であった。まるで斉明天皇の存在が派兵開始の最後の障壁であったかのように翌8月、百済救国軍の派兵が断行されている。661年8月に始まった倭国の朝鮮半島出兵は二年後の663年8月、白村江の敗北で決着する。(つづく)


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めい

飯山一郎氏が天武天皇百済人説を述べておられました。
http://grnba.com/iiyama/more6.html#TG1223

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◆2008/12/23(火) 歴史発見! 天武天皇は志布志から大阪に向った!
 天智天皇の別邸が志布志市にあった.…こう信じる人が志布志には多い.
 天智天皇が現在の志布志市安楽に寓居されていた頃,土地の女主人と女童が布を織り上げ献上したので,上下にその志の厚いことに喜ばれ,「この地は志布志である」 と言われた.これが「志布志の由来」である.…と志布志では信じられている.
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 この志布志伝説,実際は天智天皇ではなく天武天皇である,と私はにらんでいる.
 大分や宮崎には天武天皇の行幸や征伐の伝説が多いが,天智天皇は影もない.
 『日本書紀』でも,志布志のある 「大隅」 という地名が出るのは天武の御世になってからだ.天智時代の記述には 「大隅」 の名は皆無だ.
 とにかく,天武天皇 (大海人皇子) と 「大隅」 の関係は,海のように深い.
 『日本書紀』によると,天武天皇は大隅隼人を呼び寄せ相撲をとらせている.
 天武天皇は,ご自分の故郷・百済国そのままの 「相撲大会」 を開催したのだ.
 先日,私は 『志布志・伊崎田相撲大会』 のことを書いた.
 あの時,私は 草相撲を観戦しながら,天武開催の 「大隅隼人相撲大会」 の情景を想像していた.想像はどんどん膨らみ…,ある “確信” に至った.
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 天武天皇は志布志に住まわれていた!
 百済人の天武天皇は,百済国滅亡のあと,済州島を経て九州に上陸し,志布志まで命からがら逃げて来られた.
 志布志において海賊や海の民を糾合し,彼らの力を借りて難波 (大阪) に入り…,
大海人皇子と名のり天智天皇に仕え,やがて,天武天皇になられた.
 …と考えると,『日本書紀』に記述された突然の「大隅隼人相撲大会」も合点がいく.
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 志布志は大正14年国鉄が開通するまでは陸の孤島といわれた.
 志布志は,古代から海上交通によって繁栄した土地だった.
 古代,志布志は,海賊など海洋民の一大根拠地でもあった.
 事実,志布志には倭寇船中で唄われた「倭冦八幡船」の歌が伝わっている.
 志布志港は,西南諸島や沖縄から中国大陸に直結し,難波や江戸へは大隅半島の農産物を運び出した.
 志布志の伝説も,天智天皇は難波から船で志布志に来られたとなっている.
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 事実は,『日本書紀』を読む限りでは,天智天皇は志布志には来られなかった.
 志布志.ここは天武が大和政権を打ち立てるために雌伏された土地だった.
 天武は,志布志で海賊を海軍に組織化し,大船団を組んで大阪に直行した….
 …と,『日本書紀』の天武条項からは,日本建国の秘密が明確に見えてくる.
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 百済人の天武天皇は,次のような「航路」をたどって日本国をつくられた.
 百済国建国(遼西)→百済国滅亡(遼東)→済州島→志布志→難波→日本建国.
 この流れこそが,東アジア全体から見た日本古代の歴史の真実なのだが….

by めい (2015-06-14 05:09) 

めい

飯山説は守谷説と一致します。
http://grnba.com/iiyama/index.html#ss09081

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◆2015/09/08(火)  「日本」という国名の由来を簡明に明かす!

「日本」。この国名の所以(ゆえん)を知る人は少ない。
自国名の由来を知らないのは、世界でも日本人だけだ。
「日出ずる国」 「日の本」 ←これが「日本」という国名の由来だろうと、日本人は漠然と思っているが…、少しは当たっている。

いっぽう、「この国から見るに、日は域内より出でず!」という疑問が、古来からあった。

日本から見るとお日様は日本の領域からは出てないし…、“日の本”ってのも日本の領域にはなく、日本よりも東の方角にあるのではないか!…という疑問だ。

この 何故に「日の本」なのか? 「日本」なのか? という疑問にキチンと答えた識者はいなかった。

そこで、「日本」の消滅が近い今…、鷲は、急ぎ、「日本」という国名の所以と由来を明らかにしておく!

世界の何処かの地において、必ず将来、「新日本」を懸命に建国しようとする日本人同胞のために…。
隋の皇帝・煬帝に小野妹子が提出した国書に、「日出ずる処の天子…」という有名な文言がある。
この「日出ずる処」という意味は、中国人の感覚では、たんに「東の方角にある国」という意味である。

上の国書では、中国を「日没する処」と記しているが、これも単に「西の方角にある国」という意味で、中国人は気にしない。

隋の皇帝・煬帝が怒ったのは「天子とは中華帝国の皇帝だけなのに、東方に天子が居るとは何事か!」という理由だ。

ともかく「日出ずる国」とは、中国から見て「東の国」という意味だということ。

同じように「日の本」も中国側から見た方角だし、「日本」も、中国からの視点で決められた国名なのだ。

「だから“日本”なんて国名は嫌いだ!」と、古来から多くの思想家が問題にしてきた。

なのに、誇り高く国づくりをしていた天武天皇は、何故に新しい国の名前を「日本」と名付けたのか?!

その理由をキチンと理解しないと…、「日本建国の秘密」も、「“日本書紀”の秘密」も、絶対に分からない。

その「秘密」は…、今まで誰もハッキリとは気づかなかった。
きょうは、その「秘密」を書く。本邦初公開だ。

さて…、
「日本国」とは「百済の後継国家」あるいは「百済の継承国家」だ。

663年。白村江の戦いで百済国は大唐国と新羅国の連合軍に大敗した。

唐と新羅は次の高句麗攻略に備えて百済国の徹底的な殲滅を狙うが…、これを避けるために百済国は国を挙げて九州まで逃れてくる。

それでも百済国は安心できず、大唐国襲来!の情報もあり、(恐怖にかられて)九州各地に大規模な“水城”(大野城や鞠智城)を築造して唐の来襲に備えた。

「大唐国に殲滅される!」という恐怖感。これが「九州百済国」の国家意思を形成する最重要動機であったのである。

「大唐国が襲来してくる!殲滅される!」という恐怖感にかられて大規模な“水城”を築造した「九州百済国」は、次には何をしたか?

「九州百済国」は様々な国家存続策を実施してきたが…、
その政策・策略を大分類すると、「防衛策」と「勢力拡大」と「逃避行」と「幻惑外交」。

「防衛策」は水城など。「勢力拡大」は九州土着民(大隅隼人、阿多隼人、種子島人等)との混血融和。「逃避行」は、北九州から南九州に逃げ、さらに難波・大和へ、はては信濃への遷都まで考えた。

「幻惑外交」は、大ウソをついての目眩ましと隠蔽工作である。

大唐国に対して「九州百済国」は、大ウソをついたりして必死の目眩まし外交を行い、懸命の隠蔽工作を行った。

「九州百済国」は、いったい何を必死で隠そうとしたのか?

その隠蔽内容を簡明(簡単明瞭)に書く。

「九州百済国」が、隠そうとしたしたこと。それは「九州百済国」そのものだ!

そのために「九州百済国」は、「長い長い歴史を誇る日本国」という大ウソの歴史物語を編纂する…。

その歴史物語は、すべて!大唐帝国を騙すために書かれたもので、世界一壮大な歴史物語だ。

いまだに日本人自身が、その壮大な歴史物語を「神話部分以外は、史実!」と信じこんでいる…。

それで…、その歴史物語が主張したことは、以下の3点。
・「九州にある国家は“百済国”ではありません!」

・「百済国とは外交関係はありましたが…、九州にある国家は“日本国”という歴然とした独立国家であります!」

・「どうか、どうぞ(殲滅など考えることなく)親善と友好を前提にした日本国との外交関係をお考えくださいますように…」

かくして702年、長安に到着した遣唐使・粟田眞人(あわたのまひと)は、女帝・則天武后に対して、“日本国”の使いである」と述べ…、大量の貢物を献上する。

その貢物の一つが、『日本書紀』(Ver1.0)であった…、と。

飯山 一郎


by めい (2015-09-09 05:30) 

めい

すごい!飯山氏のこの感覚。
《『日本書紀』を編纂した古代日本の百済人=日本人の知的な実力と迫力から徹底的に学びたい!》
http://grnba.com/iiyama/index.html#ss09172

   *   *   *   *   *

いま、日本という国家が危機存亡のときに、鷲が『日本書紀』のことを討論会のテーマにしたのは、じつは、深い意味がある。

『日本書紀』。この“歴史物語”は、懐古趣味で読む書物ではない。歴史学的な知的好奇心による研究の対象でもない。(ほとんどの識者は、知識や教養を誇るために『日本書紀』を語るが…www)

そもそも「歴史」あるいは「歴史書」は、過去を知るだけではなく、過去を現在と未来のために活かしてこそ、価値が出てくる。本物の“史観”とは そういうものだ。

そこで、鷲の史観を補足的かつ端的に語るが…、
『日本書紀』は、“国づくり”のための歴史物語だ。

「歴史物語」というのは「歴史」ではない。「物語」だ。「物語」なのに「史実」であると錯覚して…、新井白石も本居宣長も『日本書紀』の一行一行を「テキスト」として読んできた…。

『日本書紀』の「コンテキスト」(『日本書紀』が書かれた背景や国際環境)を意識しながら『日本書紀』を解読した識者は、ほとんど皆無だった。

鷲が強調したいことは…、
『日本書紀』という「正史」は、“国づくり”のための歴史物語であると同時に、“国を守るための歴史物語”であるということだ。

当時、大唐帝国は日の出の勢いで版図を拡大していた。その途上で、百済国は大唐帝国と新羅国の連合軍に白村江の戦いにおいて完全敗北した。

次の大唐帝国の軍事作戦は、再興を狙う百済国の残党を徹底的に殲滅することであった。

大唐帝国による徹底殲滅作戦を避けつつ、百済国の残党は遥か南方の九州にまで逃れてくる…。

しかし、大唐帝国による九州百済国の殲滅作戦の危機は去らない。大規模な“水城”を各所に築造したが「危機」は去らない。

このときに、九州百済国が放った国を守るための起死回生の策謀(知的謀略)こそが、『日本書紀』という歴史物語の「編纂」だった。

これは、実体は「九州百済国」でありながら、「日本」という“幻の国家”を大唐帝国に認めさせようとする大変な知的謀略作戦であった。

最高水準の漢語と、精緻な修辞法と、讖緯説(しんいせつ)という当時の最高レベルの歴史哲学を基礎にした華麗な歴史書。これが『日本書紀』なのである。

「正史」としても完璧この上ない『日本書紀』に、大唐帝国はコロリと騙され…、「日本国」を認めざるを得なかった、と。

こういう「コンテキスト」を念頭に置いて『日本書紀』を読まなければ…、古代の「日本国」の真相は見えてこないのだが…。

そんなことよりも、問題は…、
まもなく完全に滅び去る今の日本国などいう糞国家は、ど~でもE~として…、今後の展望=新日本国の建国の構想である。

その際、鷲は、『日本書紀』を編纂した古代日本の百済人=日本人の知的な実力と迫力から徹底的に学びたい!のである。

【結論】国家存亡の危機を意識しながら書かれた『日本書紀』を、国家滅亡の危機にある現在と未来に活かせ! これが飯山一郎の史観なのである。
飯山 一郎

by めい (2015-09-18 18:38) 

めい

上記コメントをまとめた形で飯山説。http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16427145/18/
そして《あれから1300年.あのときの「国づくり」と「国の守り方」の精神と外交手腕をシッカリと想起すべき時代が到来します!/それは,一体,いつのことなのか?/今です!》

   *   *   *   *   *

18:飯山一郎 : 2018/05/05 (Sat) 10:53:16 host:*.dion.ne.jp  
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 ☆☆☆☆☆ 『日本』という国名の秘密 ☆彡
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   『ダマされない「文章」の読み方』

「この人は良い人だ。だって凄く良いことを書いているし…」などと“ウソつき知識人”を信じてしまう人が多い。
詐欺師ほど耳ざわりの良いことを言って人をダマすのに…、人は文章の表面ヅラだけを読んで信用し、コロリとダマされてしまう。

そこで教訓。「文章の表面ヅラだけを読んでいると、ダマされる!」

それではいったい、「文章」は、どういう読み方をしたら良いのか? ダマされない「文章」の読み方は、あるのか?
あります! 今回は、先ずソレについて書きます。読んで下さい。

   『“日本書紀”は世界一!』

さて…、
人が文章を書くのは動機や目的があるからですよね? 落書きだって、それを書く動機や目的があるワケで。
であるから、文章を読むときは、「この文章を書いた動機は何か?」「この文章を書いた目的は何か?」とチェックしながら文章を読みすすめる。
すると、文章の表面に書かれた美しく耳ざわりの良い話が、じつは読者をダマすために創作された「感動の物語」だった!なんてことが見えてくる。
その「読者をダマすために創作された物語」の“見本”として、世界一壮大な「物語」が、じつは、日本にある。
それは、いったい何か?
『日本書紀』だ。『日本書紀』というのは、当時世界一の大帝国だった“大唐帝国”を見事にダマしきった壮大な「歴史物語」なのです。

    殲滅される!という恐怖のなかで』

7世紀中葉。白村江の戦いで“大唐帝国”に大惨敗を屈した百済国は、“大唐帝国”の殲滅(せんめつ)作戦から逃れるために、慌ただしく九州に逃げ込んできた。
しかし、「百済国を殲滅せよ!一人たりとも生かしおくな!」という“大唐帝国”の皇帝の殺戮命令情報は、はるか九州にも伝わってくる…。
そのため、北九州に上陸した百済国の王族・貴族は、“大唐帝国”の追討殲滅作戦に恐れおののきながら、南九州までの逃避行を決行する。
南九州は大隅半島の志布志近辺まで這々の体(ほうほうのてい)で辿り着いた百済国の王子・大海人皇子は、大急ぎで天武天皇と名乗り、大慌てで「正史」の編纂を命じた。そのときに初めて「日本」という国名が、苦し紛れの状態の中で発明された…。これが7世紀末の「日本」でした。

それでは、「日本」という国名は、7世紀の何年に決まったのか?
多くの歴史学者が認める定説では、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)という法令が施行された689年に「日本」という国名が決まったとされています。
対外的には、702年、遣唐使の粟田真人(あわたのまひと)が、『周』の女帝・則天武后に対して、「日本」の使いである!と述べたのが最初でした。
それで、女帝・則天武后は、イケメン粟田真人の『大宝律令』や『日本書紀』を駆使した必死の説得に納得! これ以降は『周』も『唐』も「日本国」の存在を認めるようになります。粟田真人、大成功です。
この「粟田真人の大成功」には、大問題が隠れています。それはそれは大変な大問題です。どんなふうな大問題か?

   『7世紀後半までは存在してなかった日本国』

689年に「日本」という国名が初めて決まった! ということは、それ以前に「日本」という国家は地球上に存在していなかった!ということです。
分かりますか? 存在してもいない架空の国家を、あたかも存在していたかのようにして書かれた「正史」、それが『日本書紀』であった!ということが。
「日本国」という国家は7世紀後半までは存在してなかった! このあたりの歴史の流れは非常に重要なので、もう一度良~く考えながら整理してみましょう。
さて…、
「日本国」という国家は7世紀後半までは存在してなかったが、しかし、「倭国」という国家が、九州の阿蘇山の近辺にあった。この「倭国」は、小野妹子を遣隋使として隋国に派遣している。
この時から数十年後、白村江の戦いで大惨敗した百済国が、国をあげて九州に逃げ込んで来た。
この「九州百済国」は、慌ただしく『日本書紀』を編纂して、「日本国」と名乗り始めた!
つまり、中身は「百済国」なのに、「日本国」と名乗ったのだ。
そうしてから粟田真人を遣唐使として派遣して「日本から来ました」と言わせた。
この粟田真人の物言いを、則天武后の朝廷にいた外務官僚と歴史学者たちは、「日本とは倭の別称である」と“勘違い”した。このことは『旧唐書』や『新唐書』にも記録されている。
“勘違い”ではあっても、「日本とは倭の別称である」と、中国の女帝・則天武后が認めた!
この瞬間!「日本国」は、中国の皇帝が認めた“実在する国家”になったのである。これは歴史の大転換!と言うべきでしょう。
その結果、大唐帝国は、百済国が九州に逃げ込んだことを薄々は知りながらも…、そして、百済国の人間が「日本国」の内部に入り込んでいることを半ば承知しながらも…、九州に攻め込み、百済国を殲滅する!という当初の路線を修正した。このことは歴史が証明している。実際、大唐帝国は日本列島に攻め込むことはなかったのですから…。

   『何故に「日の本」なのか? 「日本」なのか?』

「日出ずる国」「日の本」。これが「日本」という国名の由来だろうと、日本人は漠然と思っている。
しかし、「この国から見るに、日は域内より出でず!」という疑問は、古来からあった。
日本から見るとお日様は日本の領域からは出てないし…、“日の本”ってのも日本の領域にはなく、日本よりも東の方角にあるのではないか!という疑問だ。
では、いったい何故に「日の本」なのか? 「日本」なのか?
この答は簡単です。中国から見て、「日本」は「日の本」なのです。

隋の皇帝・煬帝に小野妹子が提出した国書に、「日没する処」という有名な文言がある。
この「日没する処」という意味は、中国人の感覚では、たんに「西の方角にある国」という意味だ。中国人は気にしない。
煬帝が立腹したのは、倭王が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日沒処」との記述に対してではない。
ともかく「日出ずる国」とは、中国から見て「東の国」という意味であるということ。同じように「日の本」も中国側から見た方角だし、「日本」も、中国からの視点で決められた国名なのだ。
「だから“日本”なんて国名は嫌いだ!」とかと、古来から多くの思想家が問題にしてきました。

だが、思い出して見よう!
百済国の王子・大海人皇子こと天武天皇が、新しい国の名前を「日本」と命名し、自らを「天皇」と称し、『日本書紀』の編纂を命じた。
この天武天皇の「偉業」があったからこそ、粟田真人は則天武后に「日本国」の存在を認めさせることに成功し…、「日本国の独立」を見事に勝ち得たのです。

  『新日本国の“建国”と“独立”と“安全”』

読者の皆さん、以上が飯山一郎の『日本書紀』の読み方です。

『日本書紀』の表面ヅラの文章(テキスト)は流し読みしながら、『日本書紀』を書いた「動機」や「目的」、そして当時の国際環境や背景(コンテキスト)を徹底的に分析しながら『日本書紀』を読み進める…。
その結果、飯山一郎は、『日本書紀』の秘密だけでなく、古代の日本人が「日本国」と命名した、その国名の秘密をも知ることができました。

古代の日本人は、精緻なウソを華麗な漢文で書いた『日本書紀』を駆使して、強大な隣国である“大唐帝国”の説得に成功! 「日本国の建国」と「日本国の独立」を勝ち得て、「日本国の安全」を達成することができました。

あれから1300年.あのときの「国づくり」と「国の守り方」の精神と外交手腕をシッカリと想起すべき時代が到来します!
それは,一体,いつのことなのか?
今です!
(了)

by めい (2018-05-06 07:27) 

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