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「よもやま歴史絵巻 金山編」(1)色部氏 [宮内よもやま歴史絵巻]

知られざる勝景の地 金山郷.jpg

昨日、金山公民館の「元気塾」で「よもやま歴史絵巻 金山編」ということで話してきました。金山地区は、平成2年に「商工会報かがやき」の連載シリーズ「ロマンを探る」で金山地区について書いた時以来思い入れのある地区です。その後、飯山からのつながりで尾崎の歴史に関わることになり、さらに大河ドラマ「天地人」で直江兼続への注目からその義弟色部光長につながって、また金山への思い入れが深まったのでした。それだけに館長からの講話依頼はうれしかった。おもしろいことに、準備しているうちに金山出身の写真家菊地晴夫氏にたまたま行きあたって、思いがけなくも美瑛町と金山地区が「勝景の地」ということでつながり、「スマート・テロワール」で締めくくることができました。資料はそれなりに用意したものの、例によって感覚先行で話してしまうのでどこまでうまく伝わったか。話したことをふりかえってみることにします。


間際になっての心づもりとしては、金山地区と関わった色部氏の歴史に流れる傑出した特異性、今思いついていうと、そのDNAにひそむ「倫理性」あるいは「美学」のようなものに光をあてて見ることと、金山地区を「勝景の地」として自覚してもらえるようになればいいなあということでした。その視点であらためて整理してみます。


◉色部氏の居城があった金山地区

26-B8金山 七磋古山.jpg

宮内から山形長谷堂へと向かう小滝街道の最初の集落の金山地区。かつては神山郷とよばれていた(伊藤儀光氏談)のですが、伊達の時代の金山開発に伴って金山というようになったと伝えられます。
1600年頃)「65間(うち役家17)人口432人」と「邑鑑」にあります。27-B9平館.jpg

 

三宝荒神さまのお社がある地区は平館といいます。その東方にある高台は館山(楯の山?)とよばれています。道路を挟んだ高台には「色部様のお堂」が在ったといわれ、今も石の祠が残っています。色部様のお堂.jpg置賜から村山へ通ずる交通の要衝であり、また鉱山守護の役割を担っていた金山城は、最上義光に対峙する最前線でもありました。直江兼続の義弟として色部光長は重要な役割を担わされることになります。最上に対峙するもう一方の要である荒砥城に、直江兼続の母の実家である尾崎家当主重誉の姉の夫泉沢久秀(不詳ー元和元年1615 「天地人」では東幹久が演じた)が配されていることから、最前線を直江兼続の身内で固めたことがうかがえます。『藩制成立史の綜合研究―米沢藩』による「上杉氏支城配置(置賜地方)」(南陽市史 中巻)に金山城がありますが、米沢市史にも「宮内」は出てなくて「金山」が出ています。 

04-3120万石時代の領地.jpg上杉氏支城配置.jpg

色部光長は、尾崎重誉が半年そこそこで福島へ移った後、慶長3年(1598)9月に北条郷1万石を給されて金山城に入ります。その後、慶長5年(1600)の長谷堂の戦いには、元服以前弱冠13歳にして先陣を任され兵を率いて小滝口から長谷堂に攻め込んだとあります。 以下、『最上合戦記』(『最上義光物語』教育社 1989)に記されたその件(くだり)です。なじみの名が多く出てきます。 

《直江山城守から出陣せよと命令があったので、小滝の大将倉賀野長左衛門尉網元は、手勢百人と足軽三百五十人に次の加勢を従えて小滝口から出陣した。

 金山城主色部与三郎細長よりの加勢

  武主として、色部右衛門、上泉主水正、須田伊賀、小嶋備後、牛屋土佐守、その他、大津善右衛門、町馬上には、鈴木十左衛門、小熊庄左衛門、氏家小左衛門等、地下馬上には、安部右馬之介、宮内村の板垣作右衛門、荒志田左近、高梨九郎左衛門、手塚新太郎、高橋七兵衛、管七兵衛、浜田右衛門等

 この道筋は難所が多く山中だっだので。網元が手配して道筋に多くの物見を置いて警戒した。最上方では、倉賀野長左衛門尉が小滝ロから押し寄せるのを知ると、狢(狸)森という細い山道へ、蔵田丹下、林左源太、佐藤与市等を陣将として軍勢を差し向けた。

 米沢勢はこの地が難所だったのでなかなか打ち破れなかった。小白布村の地下(豪族)を味方につけ、小滝村、小白布村の村人たちを案内人として足場のよいところから人数を揃えて鉄砲を撃ちかけて、最上勢を崩そうとした。しかし、なにぶん難所のこととて意の

ままにならず、ともすれば味方が追い立てられそうになった。

 そこで長左衛門尉は馬から降りて鎧を着替え、自分の馬には家来の山田庄三郎を乗せて、馬印を押し立て、大勢で戦った。しかしそれでも急には敵陣を崩すことができなかった。その時、敵方へ畑谷落城の報が入った。それを聞くと村人たちに逃げ出す者もあって、

蔵田、林が彼等を励ましても先に進まず、そこを米沢勢が槍で突き崩した。敵が敗れて後退するところに追い打ちをかけ、多くの敵を討ち取りながら米沢勢は長谷堂へと進出した。》(169p−170p) 

上泉主水の名があることから、その組にあったわが先祖もこの中にあったと考えられます。それからちょっと気になったのですが、光長は元服して直江兼続から「綱」の字をいただいて「綱長」を名乗ります。しかしその後、光長に改めるのです。ひょっとしたら、ここにもその後の兼続排斥の影があったのではと、ふと思ったところでした。

 

色部宛て知行書.jpg

関ケ原での西軍敗戦によって、上杉藩は120万石から30万石になります。慶長6年(1601)色部光長は1万石が1/3に減らされます。その際の知行書が残っていて、歴史資料としてしばしば引用されます。その後どういう経緯があってのことか、色部の重心は窪田村の方へ移ってゆきます。この知行書段階では窪田はまだ荒地でした。色部氏はその荒地を開くことでゼロから自分たちのの拠点を築きあげたのかもしれません。色部氏に流れるそうした心意気も思いつつ、次の「色部氏の歴史に流れる倫理と美学」につながります。

 

 色部氏の歴史に流れる倫理と美学

「倫理と美学」と言うと大層な感じがしてしまいますが、その家系に流れる一貫した価値観のようなものがあるのではないでしょうか。色部氏の歴史にそれを感じたのです。色部氏の歴史を見てきていちばん驚いたのが、その土地を離れて400年も経っているのに、今も平林地区では当時のことがたいせつに記憶されていることでした。

13-B7色部家系図.jpg

1.金山城主色部光長(天正151587ー寛永171640

兼続の母の実家である尾崎家は宮内から福島城を守るために福島へと移り、以後宮沢城は廃城となります。そして慶長三年(1598)九月金山城主としてこの地を治めることになったのが、現在の村上市、越後平林城主だった色部光長です。光長は、兼続の妹(兼続の次女?)を妻にしていました。父長実は景勝の家臣として仕え、文禄元年(1592)朝鮮出兵の最中、四十歳で亡くなるのですが、病がちの長実が亡くなる2年前に書いた、直江兼続に色部の将来を託す必死の思いの書状が残っています。長実の死後、光長は兼続の妹を妻とすることになり、兼続の身内として、畑谷城攻め、長谷堂の戦い、さらには大阪の陣で活躍することになります。


2.光長の祖父 色部勝長(明応21493?ー永禄111569

28-C1謙信公起請文.jpg

色部氏は桓武平氏秩父氏の流れを汲み、上杉が台頭する以前から越後の北を守ってきた土豪揚北衆(阿賀野川の北)のひとつでした。光長の祖父勝長の時代になって謙信公の信を得ることとなり、川中島の合戦に際しては上杉軍の勇将として大奮戦し、その武功を称える謙信公直筆の「血染めの感状」や謙信公の血判が押された起請文が今でも残っています。


30-C3越国武鑑記.jpg

3.光長の父 色部長真

(天文221553ー文禄元年1592

豊臣秀吉は長真を「北国路、まれに見る武将」と評したと言われます。太閤検地に伴って秋田で起こった仙北一揆の鎮圧に大きな功績を挙げました。光長は越後から宮内へ保呂羽神社を遷していますが、宮内に伝わる『越国武鑑記』全六巻の最後の章で色部氏と保呂羽神社の関わりの由来について、詳しく記されています。

31-C4保呂羽山波宇志別神社.jpg


仙北一揆天正181590横手

盆地で発生した、豊臣政権に対する検地反対一揆は上杉景勝、白頭巾の戦国武将大谷吉継によって平定されます。

越国武鑑記より.jpg

そしてその後の処理を任されたのが長実(後に長真)でした。長実は、腹を切る覚悟で人質にとっていた武士の妻子たちを解放します。長実はそのことで土地民の信頼を得、帰国の際、かねて祈願をしていたこの土地の神様保呂羽権現の御神体をお預かりすることになるのです。一生の大事として取り組んだこの仙北での処理、その真心が大切な土地の御神体を渡されるまでに土地の人々の心をとらえたのでした。『越国武鑑記』は、反抗勢力をも納得させつつ成し遂げた色部長実による仙北の平定を、豊臣秀吉による天下統一の象徴的出来事として最後にとりあげ、締めくくっています。


33-C5越後平林.jpg

今の新潟県村上市の越後平林、ここは色部氏が370年にわたって治めた土地でした。今も保呂羽権現を祀る立派なお堂があり地元の人が「おほろさま」とよんで大切にお守りしています。お堂への上り口には、昭和52年(1977)に建てられた「色部公追念碑」があります。色部の殿様は土地を離れて400年を経てもなお慕われつづけているのです。

34-C6色部又四郎.jpg


4.光長の孫 色部安長(又四郎)(寛文41664ー寛保元年1741

関が原の戦役を経て上杉藩百二十万石から三十万石への減封後、光長は金山から米沢窪田に移り、以来色部家は上杉家藩家老職として藩の重責を担いつづけます。「忠臣蔵」で吉良邸討ち入りの際に、実の父吉良上野介を助けるために出兵しようとする主君上杉綱憲を押しとどめた江戸家老色部安長、通称又四郎は光長の孫でした。

「おわかりになりませぬかっ ここで殿が 兵をお出しになれば 我等家臣一同 赤穂の家臣一同と同じ目に遭うのでございまするぞー!! ここはなんとしても堪忍なされて!!

史実ではないらしいが、そう言うにふさわしい人物と見なされてはいたのではないだろうか。「忠臣蔵」の中で、芦田伸介、丹波哲郎、中井貴一、松平健、岸部一徳、内藤剛志等が演じている。


5.色部長門守久長文政81826ー慶応41868


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色部氏にあって最後の家老となる色部長門守久長は、戊辰の役において新潟警備の総督として600名の兵を率いて奮戦、しかし被害の拡大を抑え事態を収拾するため僅か数名の兵を引き連れ新政府軍の本拠地に決死の斬り込みを行い割腹を遂げます。新潟の町の戦火の拡大が抑えられたのは久長の的確な判断によるとして、新潟の人々によって昭和7年(1932)久長絶命の地に色部長門君追念碑が建立されました。(この経緯を記した資料を10数年前にいただいているはずなのですが今のところまだ見当たりません。)

07-色部長門追念碑2.jpg

一方米沢藩は、すでに亡くなっている色部久長一身に戦犯としての責めを負わせることで、ひとりの処刑者も出さずに済んだのでした。この時点で色部家は断絶となりますが、明治16年(1883)にその名誉が回復されています。さらにそれから80年を経た昭和38年(1963)、ひとり汚名を被って米沢藩を救った功績を称え、色部長門追念碑が米沢上杉記念館敷地内に建てられました。それにしても、新潟の追念碑が「色部長門君追念碑」なのに、米沢の方に「君」をつけなかったのはどうしてでしょうか。色部氏の末裔は今も優秀な家柄として存続しているようです。義弟とどこかで接点があったことを聞いたことがありました。たしか銀行関係のような気がして「色部義明」という人を見つけました。その方のお父さんの姉が森鴎外の最初の奥さんとのことです。http://nire.fool.jp/dokusyo/dokp/dokgp008/dokp703/dokp703.html

その人が色部氏の末裔だったのかどうか、そのうち確かめてみたいと思います。




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