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宮内の歴史(9)戦後、南陽市になるまで [宮内の歴史]

1946年(昭和21年)宮内町立農業学校開校(→宮内高校→南陽高校)

1947年(昭和22年)宮内中学校開校

63 宮中校章 茂介.jpg芳武茂介さんのデザインです

黒江太郎と斎藤茂吉

64 黒江太郎.jpg

《斎藤茂吉〈明治15年(1882-昭和28年(1953)〉は黒江太郎〈明治43年(1910)ー昭和54年(1979)〉との縁で2回宮内を訪れています。

 最初の訪問時、 茂吉の日記にこうあります。

〈(昭和22年)五月十七日、土曜、ハレ、クモリ、・・・(上山駅で)一時五分汽車が来タノデソレニ乗り、赤湯デ降リタ。結城哀草果、西村モ同車デアッタ。徒歩ニテ宮内町ノ黒江太郎方二著イタ。○ソノ夜、女流ノ骨折ニテ鯉ヲ主二シタイロイロノ料理ガ出タ、酒、ぶだう酒、○黒江氏の蔵ニ臥、入浴〉

  この時の会話の様子を黒江が記録しています。

〈先生は目をつむって、「いい歌作ったす。『道のべに‪蓖麻(ヒマ)の花咲きたりしこと何か罪深き感じのごとく』、どうだ、『何か罪ふかき感じのごとく』はいいだらう。それからこんな歌も作った。『少年の心は清く何事もいやいやながら為ることぞなき』、何事もだぞ。『いやいやながら』はいいだろう。こんなあたりまへの事だって、苦労して苦労して作ったものだ。苦労した歌はいい。」と仰言った。「おれは天下の茂吉だからな。」、先生は一段と身をそらして、恰(あたか)も殿さまのやうに両肱(ひじ)を左右に張って見得をきった。〉

 その晩の献立表が残っており、「鯉の甘煮(うまに)、鯉のアライ、茶碗ムシ、煮染、豆腐の木の芽田楽、ウドの胡麻アヘ、アケビの萠(もえ)浸し、蕗の煮ツケ、トコロテン、ナメコの吸物、蕨汁・・・」でした。

 18日は蓬萊院で歌会。翌19日、赤湯御殿守旅館まではリヤカー、宮内高等女学校の生徒4人がリヤカーを挽くのを手伝い、茂吉先生大喜びでした。》(宮内よもやま歴史絵巻 平成26年度版)

1948年(昭和23年)宮内高等女学校と宮内農業学校が合して山形県立宮内高等学校に

小田仁二郎『にせあぽりや』

小田仁二郎と宮内展チラシミニ.jpg

《二つの作が収められた『触手』が発表されたのは戦後の昭和23年ですが、戦時中から書き続けられたと考えられます。行く先の見えない戦争の真只中の根無し草のような都会暮らし、「生きている」というほんとうに確かな手応えは、小田にとっては幼い頃の宮内での記憶の中にしか見出せなかったかもしれません。宮内での情景が実に生々しく表現されています。「にせあぽりや」という小説はまずもって、小田にとっての「生きている」ということの確認にはじまります。その舞台が宮内なのです。クライマックスの舞台も宮内です。

〈私は、トビをよび、その背にのり、ひとつの小さい町へ、北の山にかこまれた盆地の、片すみに蟠踞(ばんきょ―根を張って動かない)する町へ、旅だった。・・・トビは、力つき、廃墟の如く静まりかえる町の、四つ辻におりるとともに、息たえてしまった。・・・私は、四つ辻にたち、北をむいた。四つ辻の、ひそかな竜巻もおち、あたりの静寂が、死の重さで、私を圧しつぶす。ただ私の眼のそこには、つまさきあがりの通りのはて、その梢に寒雲をつき、葉のおちつくした銀杏の大樹が、凝然とそびえたっているのである。町は廃墟となり銀杏の大樹に変じた。私の町は一樹の銀杏と化したのである。猛然と竜巻が砂塵をまきおこし、銀杏も廃墟も一瞬にしてその底に壊滅した。〉

 小説は、「にせあぽりや――。」で終わります。

 アポリアとは「解きがたい難問」「行き詰まり」の意味のギリシア語です。「にせあぽりや」とは、「難問めかしているがわかっていないだけで、ちっとも難問なんかじゃあないよ」と言っているようにもみえます。

 小田は〈わからないとは何であるか。わかろうとしないことである。精神の怠惰にすぎないのではないか。〉(文壇第二軍」1957)と言っています。小田の小説は、これから解明されなければならない課題を後世につきつけています。

  寂聴さんは宮内での講演でこう予言しました。

〈「その一冊(『触手』)が、将来私も死に、あるいは遺族も死んで何十年かたった時に、日本だけではなく世界の文学として取り上げられ、翻訳され、日本の歴史の一つの文学の流れの中で、ある峯だとして見直される時が必ず来ると私は予言いたします。〉》宮内よもやま歴史絵巻 平成26年度版)

日本語を守った須藤克三

67 須藤克三.jpg68 山びこ学校.jpg

 《 雪がコンコン降る

   人間は

   その下で暮らしているのです

           石井敏雄

 昭和26年(1951)山深い小さな中学校から生まれた生活記録が戦後日本の教育に一大旋風を巻き起こしました。その「山びこ学校」冒頭の詩です。

 無着成恭先生は、「この子供たちに何ができるか」という課題にとことん向き合う中で、子供たちをぬきさしならないぎりぎりのところまで追いつめて「生活」の現実に直面させ、そこから教育の場と方向付けを見出そうとしたと須藤克三は振り返ります。(「山びこ学校から何を学ぶか」青銅社 1951

 克三は、無着先生が師範生時代からの良き相談相手でした。行く末定まらぬ戦後日本の中、山形新聞論説委員として県内文化運動の指導的立場にあった克三の使命を、全身で引き受けて実践した結果が「山びこ学校」でした。

 須藤克三〈明治39(1906)-昭和57年〉は横町に生まれました。師範学校を出て宮内小学校教員を勤めたあと、東京に出て日本大学を卒業、小学館等での編集の仕事を経て山形に帰り、「やまがた子供新聞」を主宰しながら山形新聞で非常勤の論説委員であったときの無着先生との出会いだったのです。

 理論社を創業し多くの児童文学者を育てた小宮山量平さんが須藤克三について語っています

「戦後すぐ、日本語がこの世から消滅するんではないかという風な時代が来ていました。日本人が、本当の意味の日本人の心を失ってはならない。いちばん大事なことは日本語というものを大事にしなければならない、そのことに心をつないだのが無着さんの仕事であり、それを支えた須藤克三の仕事でした。根こそぎ日本は植民地化されるような状態がやってくるかもしれない。そのような事になる前になんとかしなくちゃならない。そういう中で、必死になって子どもたちの中でいい文章を守ろうとしたのです。日本全体、分裂対立の風潮の中にあって、日本語を守ることを通して日本人がひとつになることを呼びかけたのが山形の須藤克三でした。日本はもう一度敗戦を迎える。それまでに日本語の大切さを守り育てておかなくちゃならない。切実な思いで克三さんと語り合ったものでした。」宮内よもやま歴史絵巻 平成26年度版)

賀川豊彦と宮内

宮内認定こども園 正門より4-DSCF2170.jpg

《賀川豊彦〈明治21年(1888)〜昭和35年(1960)〉は、貧困からの解放、戦争のない平和な世の中を目指す社会運動に生涯を捧げたクリスチャンでした。若くして神戸の貧民街に暮らし、その体験から生まれた自伝小説「死線を越えて」は、大正時代、歴史的ベストセラーとなりました。その印税はすべて社会運動に注ぎ込まれたといいます。生活協同組合の運動を立ち上げたのも賀川豊彦です。社会事業家として、政治家として活動の範囲は世界中に及びました。ノーベル文学賞の候補に2回、平和賞の候補に3回あげられています。 

 昭和6年(1931)、厳しい経済状況下、満州に新天地を求めた満州事変。軍人による独断専行は、議会政治に重きを置く時の内閣総理大臣犬養毅にとって、なんとしても押しとどめねばならない事態でした。しかし昭和7515日犬養首相は「問答無用」の凶刃に倒れました。五・一五事件です。以後日本は、軍人が大きな力を持つようになって敗戦までの道を歩むことになります。賀川はこの事件の直後宮内を訪れ、いかにも宮内らしい歌を残しています。

    花すぎて 緑の山に小鳥なく

       世のさわがしさ 気にとめぬごと

 日本がまだ連合国軍による占領下にあった昭和26年(1951)の10月、宮内熊野講堂において、賀川豊彦大講演会が開催されました。宮内へは3度目の来訪です。入りきれないほどの聴衆でした。賀川は、この時集まった八千円を、「50年後100年後の人材を育てるための幼稚園をつくりなさい」と、地元にそっくり残します。この資金と地元の熱意によって翌27年宮内幼稚園が創園され、以来62年の歴史を経て昨年新園舎が建設され宮内認定こども園に生まれ変わりました。》宮内よもやま歴史絵巻 平成26年度版)

1955年(昭和30年)宮内町・吉野村・金山村・漆山村が合して宮内町に
佐佐木信綱と須藤るい

若き日の須藤るい.jpg

《佐佐木信綱〈明治5年(1872)〜昭和38年(1963)〉は、多くのすぐれた弟子を育てた歌人であり、著名な国文学者でした。昭和12年に創設された文化勲章の記念すべき第一回受章者です。また「夏は来ぬ」の作詞者としても知られます。宮内出身須藤るいが深く師事したことから、宮内には信綱の歌碑が4基あります。

 須藤るいは、この粡町の染物屋山崎與左衛門の次女として明治23年に生まれ、突貫(仲の丁)の須藤永次と結婚、すぐれた才覚で永次を陰で支えつつ粒々辛苦の末、吉野石膏株式会社を今日あらしめる礎をつくりました。昭和24年に信綱が主宰する短歌結社竹柏会に入会、72歳で亡くなるまで、熱海の住まいが近かったこともあり親しく信綱の薫陶を受けたのです。

 はやくも入会の年の11月には腰廻(菖蒲沢)の須藤家別邸「水園」内に信綱歌碑がつくられています。

   とこしへに園のあるじのこころうけてゆたけし清し山は樹々は

 長谷観音にある宮内町戦没者慰霊碑の側の碑は、昭和26年に建てられています。この時に合わせて献詠された50首の額が今も飾られています。

   国のため玉とくだけしますらおをとはに守りませ長谷の御仏  

 盆地を一望する双松公園、ここに来ると心が和みいやされます。朝日に輝く朝の公園はまた格別です。  

   山の上に朝の光の照りみちて金色の水かがよいにほふ

 昭和36年にるいは亡くなりますが、信綱は数首の歌をつくってるいを偲びました。その中の3首です。

   古里の水園をとはにまもるらむみ堂がもとの歌の石ぶみ

   春秋はふるさとを訪ひ古里人熱海にとふを喜びし

   月ごとに欠詠あらぬいそしみは道の進みを早からしめし

 昭和34,36年に、永次が信仰した魚籃観音を合祀する琴平神社に夫妻の胸像が建てられ、その傍らにるいへ捧げる信綱の歌が刻まれています。   

   ありし世にわが背守りましきみずから乃よになき今も吾せまもる刀自》宮内よもやま歴史絵巻)(つづく)

 


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めい

若き須藤克三の言葉。『南陽市史』下巻168ページにありました。昭和2年、宮内小に奉職時代の文芸誌『陽樹』(元木吉雄、鈴木与惣吉、遠藤長四郎、高田政次等)第二集巻頭言の中の言葉です。
   
《あたりまへの事、ただあたりまへの事に微かな囁きを聴き、神秘を凝視する、そこに我々の霊のおののきがあり、あたりまへの人生を鋭くさせるのではあるまいか》

大竹俊雄さんが記された文章です。
by めい (2015-11-08 06:44) 

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