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宮内の歴史(8)明治から大東亜戦争まで [宮内の歴史]

1868年(明治元年)出羽の国を羽前と羽後に分け南陽は羽前に属す
1871年(明治4年)郷校設置(→宮内小学校)

宮内小学校校門にある「鍾秀学校」碑。「秀」を「鍾(あつ)」める。脇に「置賜郡宮内村設立」とある。

2-DSCF8368.JPG

1872年(明治5年)宮内大火。鳥居の場掛舞台から出火、宮内500戸のうち300戸焼失。死者2名。(49日)《申四月九日午後七時半頃より鳥居ノ場芝居小屋より焼ル 尤大火也  新町田町 新丁御蔵町本町杉町突貫寺下粡町焼ル也》(高岡家年代記)

当社の参道は全国の昔からあった他の参道にくらべて非常に立派なことである。京洛奈良のそれは別とし、高野山日光には及ばないが、その距離の長いこと、道巾が広く堂々として居ることでは全国的にも珍らしい。この参道が何時ごろに出来たものか、これを証するものは明治五年の大火で焼失した参道の入口大鳥居の両側にあった大杉である。大鳥居の東側にあった大杉の切株には畳が十二枚、西側の大杉には九枚が敷かれたと伝えられている。この十二畳敷きの大杉が植えられた昔にこの参道は完成して居りこの大杉の年輪すなはち樹齢により参道の出来た年代が想像されよう。そのかみを思えば、あの堂々たる参道の両側にうっそうと古杉が続き、宿坊が立ち並び、木の間をもれてくる熊野の晩鐘に昔の静寂の霊境を想像出来るではないか。》(往古の熊野大社)

1878(明治11年)イギリスの女流旅行家イザベラ・バード置賜を通り、「アジアのアルカディア(桃源郷)」と感嘆(日本奥地紀行)

1880年(明治13年)最高級生糸「羽前エキストラ」を海外に直輸出

(前略)

 山形県の蚕糸業が寛保ー宝暦年間(一七四一一六三)の時代置賜地方長井盆地北辺から白鷹山丘陵地帯にかけての農村地帯に已に成立、ここから村山・股上・庄内に及んだとある。

 此度の蒐集資料の浜田家文書に「京都問屋中」としての木版刷り書状があった。寛政二年(一七九一)四月の差し出しである。

 浜田家は古くからの吉野村有力な糸問屋で酒田屋文書時代にも可成り同家文書があった。

 内容が「寛政を遡る五、六〇年前迄は、貴地産生糸は大変品質が結構であったが、近年ここ五〇年この方年毎に合せ糸が多く品質も悪くなって来た。」と抗議と勧告の申入れ内容である。

 小滝・荻・太郎・金山方面が農業経営上南陽市地域内としては最も早くから蚕糸業が発達重要な収入資源の時代があったとみてよい。

 この地方の生糸が川筋物として良質の桑が得られた結果、登為糸(のぼせいと)としても高い評価を受けていたものと思われる。以上から推論すれば享保年代(一七一六一二〇)、或は元禄(一六八八一七〇三)末期頃已に登為糸が行われていたのではなかろうかとも指摘出来る。

 酒田屋文書資料でもその様な推論をしておいた。

 文化末から文政頃年間の蚕利が、小滝では三〇〇両から九〇二両、荻は七〇〇両から一、七〇八両、太郎では三六〇両から七三四両、宮内は四〇両から二、一三一両、漆山は二〇両から四四二両、池黒は四〇両から二八〇両と出ている。

 吉野川流域置賜北条郷北部地方は特に早くから養蚕が行われていたことが充分窺える。

 登為糸が量は少いにしても已に行われていた事は実証出来るとみてよい。

 北条郷一戸当り蚕収が文化十一年(一八ー四)に於て三両台とある。米単作地帯として中郡村の場合は〇、五両とある。

 長井盆地で最も有力な生糸生産地北半地方は六両から八両、吉野川流域の下荻・太郎は一〇両台と最高であった。

 文化九年(一八一二)から十七年後文政十一年(一八二八)両年度の比較では北条郷北部諸村の蚕利の収入が宮内の五十三倍、漆山の二十三倍、池黒の七倍であった。

 吉野川流域の「桑畑は谷・峯・畔辺迄寸地も許し申さず候」といわれた程の盛況時代があったのである。

 一戸平均一〇両の蚕利は当時の米七〇余石当時の四斗俵換算百七十俵余に相当している。

 「天下に是に続く産物あるまじ」と当時の盛況が語られている。

 古来荻方面は、鉱産物も多い時代があったが、養蚕でこんな時代のあったことを追憶して欲しい。

 伊達領時代の延宝(一六七三一八一)天和(一六八一一八四)時代貢物として金銭納の資に農家副業に相当量が生産されていたことを裏づけている。延宝元年(一六七三)に三井が京都で越後屋呉服店を開業している。

 一方幕府が長崎港での長崎生糸貿易に一定量の白糸輸入数量を制限取引に関しては取締令を出し、年毎増加する金銀の流出を押えている。江戸では木綿問屋仲間制度も成立している。近世中期享保十四年三井大元方(宝永七年(一七一〇)三井事業統制機関として設立した)が越後屋呉服店に与えた商品仕入れ方法指示として、生糸の仕入れは最上生糸仕入れ先として奥州を挙げている。

 それは前貸制度を必要としない奥州荷主「皆々大商人が相手故ともいっている。」但しこの場合の荷主とは伊達・福島地域をさしたものであろうかと考えられる。

 国産生糸の増産で絹の量産消費が可成り進み、やがて元禄文化の絢爛期に入り、商人層の地位が一段と向上を来したことも推察し得る。一方畿内(大和・山城・河内・摂津)での絹機織りの技術も大きく進歩したものであろう。

 扨、上杉領以前伊達領(一二〇〇年伊達氏に初る)に続く蒲生時代(一五九〇、一時中断一六二四まで)農民は年貢の半分を貨弊で納める為に青苧・漆・紅花を栽培、養蚕では真綿、紬を生産していたこと邑鑑(江戸時代の地方帳簿・各村落を記したもの。この場合米沢藩初期の頃書かれた編修考証)に記載されている。

 室町幕府時代関東管領上杉憲顕が、北条氏の勃興で慶長二年(一五九七)に越後に移されている。後謙信から景虎に改名後の景勝の時代、秀吉に仕え五大老の一人として会津百二十万石に移封された。その後慶長五年関ケ原の戦で西軍に属し会津領から米沢三十万石へと転封されるに至った。領土は会津時代の四分の一となった。会津領時代可成の善政をしいていたということが家臣団が領主を慕い殆んどの家臣六千余名が追従移民して来た。当然俸禄が三分の一に削減され、士族も農民も共々開墾の奨励策に応じた。

 一方には年貢の増徴も又止む無き事態、為に質素倹約を施策として強く打出された。

 家臣団への戒告文として、上衣は紬・木綿・布子・紙子を用いよ(式目慶長十三年、米沢図書館資料)、郷村では勿論、綾、緞子、絹紬等は着用してはならぬとしてある。

 慶長十四年(一六〇九)には桑に対しても年貢を課したとある。(天保七年であるが浜田家|文章にもその事が明らかにある)そして真綿は買上制へと発展して行く。

 米沢藩は寛永二十年(一六四三)(徳川家光時代寛永十八年白糸割当制度を始めている)長井郡(今の置賜地方)の他伊達信夫地方も米沢藩の領上下にあり、その地の代官に対しての布令に「一、、御買上綿(真綿)同紅花、青苧二割より他につよきはかり目をとるまじき事」(山形県史長井郡誌代官貢納方)と命じている。(二割を越す買上げが白岩領内で行われたことから農民が苛政として幕府に訴えたことがあった。)

 上杉藩の近世初期の真綿買上げは、貢租的性格ではあるが、産地毎の生産状況に応じ一定数量を適正な価格での買上制をとっていた。

 他の生産藩に比しより寛大な買上げ方針であったといえる。

 寛文四年(一六六四)屋代郷三万石が幕府領となる。その為もあってか、当地方の諸資料が余り発見されていないという。

 長井盆地置場地方全域での真綿買上数量が三十九貫とあり、全生産量の七〇%を占めていたとある。量に於て聊か誤りを感ずる。

 買上量以上は農民の自由販売として、当時は余り重要性は未だ示していない状況であったとある。村山地方が已に三十二貫匁入で銀八匁の課税で相当量を最上川で下し輸出していたとある。

 米沢市史に米沢商人五十嵐伊兵衛は厖大な資産を有し茶仕入を業とした。子応元が繰綿や縮織物の普及が進み、それに伴い真綿の取引きも増加されたと考えられる。養蚕は藩として絹織物の市場が未だ得られていなかったから、領内自給の真綿や紬の生産の為に行われていたと一般的に見てよい。生糸の取引きは前述の如く已に行われていたことは事実と思える。

 蚕糸業が勃興した宝暦(一七五一一六三)頃迄の資料が見当らなかった為であろうかー県史の叙述にはこの点は再検討さるべきと思う。米沢市史は米沢の商人五十嵐親子が茶の仕入等の場合、京阪での買入れ又転売等のことを現地でも行っていたと考えられる。已にその様な事が産地及び京阪では相当にその売買投機が行われていた。

 繰綿の場合も又、米沢藩内でも消費が相当に進んでいた事は、山形方面の問屋、又酒田屋文書の中にも繰綿の取引や投機売買が相当に出ている。酒田屋資料に依れば前述の様な茶の場合等でも、その様な取引資料も出ている。

 登為糸の生産量が相当量に達していたことは、以上の経過が浜田家文書資料で是を明らかにしているとみてよい。

 米沢藩が置賜地方特に北条郷及び屋代郷、中でも北条郷が青苧と並び大きい農家副業であり紅花、漆蝋と共に我々米沢領内全般と共に、これ等地域では重要な農作物であった。やがて西南諸藩の優秀な黄櫨蝋、北海道方面の薄荷が量産体制かなったことに押され、紅花は又、最上方面が生産の中心地となる。当藩内からの輸出は次第に衰退の一途を辿ることとなった。結果後年の蚕糸業への移行で急激な全面転換となる。青苧の場合も綿織物への移行で一部蚊帳、夏衣、裃衣等の使用に限られることとなる。

 次は全国の蚕糸の生産消費状況の記述編となるが省略、ここでとどめる。

(中略)  

製糸業(南陽市史).jpg

 日本の明治維新に始まる国運の飛躍的発展は、輸出資源としては蚕糸業が大きな担手となって行くことになる。

 明治二年、前橋藩が藩士速水堅曹に命じ、スイス人ミュラーの指導で洋式製糸器械の伝習をなさしめた。明治三年前橋市内に器械製糸場を設置している。これが吾国の器械製糸の嚆矢である。続いて小野組が東京築地人舟町に、小野組の番頭であった古河市兵衛をしてミュラーの指導で製糸工場を建設した。これが当時の名所等の版画にも出てくる。当時としては始めての規模壮大な九十六人繰りの大型設備で、当時の東京人を驚かせたのであった。然しその後の東京の都市化から工場立地条件の誤りが顕在、明治六年に閉鎖の余儀なき事態となった。設備は一部信州諏訪に大方を移した。一部は福島二本松に移設される等、他数ケ所にも移設されることとなった。

 明治三年頃から大蔵省で盛んに製糸業の重大性が唱えられた。時の大蔵大輔(その後の大臣の職名)は大隈重信であった。

 大蔵省大丞(次官補)渋谷栄一、民部省小輔(次官)伊藤博文等の訪欧からの帰国後、その進言に依り両様相侯って、明治五年六月前述の前橋藩士速水堅曹を主任として採用、始めての官製工場設立の企画を為さしめ、ここに富岡製糸工場の設立開場となった。民生の向上と国富の増大にはこの事業を於て他に無しとして、政府はその育成に民部省を通じ次々と布告を出している。各地製糸工場の増産と設備、製糸の改良に格段の前進が見られて来た。

 蚕糸業界の国際情勢が、フランス、伊太利両国の蚕種病の発生蔓延から、国産蚕種の輸出が一時期激増した。

 明治十年以降となるや民間の開業も大規模な展開を見るに至った。偏えに官立富岡製糸場の設立が原動力となったことは一応認められることである。

 東北で先駆的役割を果したのは前述の小野組で、手代の佐野利八が築地より移転した二本松工場での設備と製品の改良への努力が大きな成果を示した。当地方手繰糸が当時六百二十五ドルであったのに対し七百七十五ドルでその製品が売れていたとある。

 工場の従覧は総て解放した。陸羽各地の人々は迷夢を醒す思いで見学、両羽の製糸家各自の工場が必死の努力を技術の向上に傾けたことが明らかであった。 

昭和初期(南陽市史).jpg

羽前エキストラ(最高級品)として業界に大きく名声を博した郷土の沈み繰り繰糸方法は、明治初年群馬県下で考案され、後郷土に伝えられ、それに幾多の改良を加え、その成果が内外に謳歌され「羽前エキストラ」として世界蚕糸市場に長くその盛名を馳せ、後幾多の変遷を経て県下最大の製糸工場地帯となり得たものであろう。

 生糸の世界市場は、当初輸出先がロンドンからリヨンと次に大市場米国へと、中国、伊太利、仏国等との激烈な競争を経て質量両面で業界の制覇を遂げることとなる。

       ※         ※         ※

 ここで今一つ直輸出問題に触れておく。

 外国商社のかけ引き買取に際しての横暴振りに対抗すべく、明治十三年(一ハハ○)に直輸会社同伴社が創立され、増資を重ね一時期大いに活躍したが、明治四十二年にその活動が終った。当時現南陽市からの出資参加者三名、石黒七之助二、五〇〇株、多勢亀五郎二、七五〇株、多勢吉郎次二五〇株、他 米沢市から米沢製糸所二、五〇〇株、取締役として会社社長丸山孝一郎六、七五〇株の名が記載されてある。横浜生糸会社の設立で商戦に敗れたのである。次々と大商社の直輸出商へ参加の出現で直輸態勢が確立されて行った.。

 最後の結びとして郷土製糸女工の問題に関して一言述べておきたい。 近年の一時期一部の学者の著書の中、又テレビ等で「ああ野麦峠」の女工哀史を全国製糸労働女工の全体の歴史として殊更大きく宣伝された。徒らな興味本位ともいえる様な書き方が、著述に多く書かれたかの感すらする。一部地方に依ってはその弊害も確かにあったと思う。その地方にはそれなりの理由が存在していた。吾が郷土にはその様な事実は無い。一時期弱少工場の乱立から風紀上の問題はあったものと思うが、就業者女性の率は地域の男性に比し遥に多い関係上、寧ろ男性側が問題を起していたといえる。

 全国的に見て明治十三年頃、製糸工場数六六五ケ所、信州、諏訪、岡谷、即ち山梨、岐阜、長野方面に集中されていた。長野県三五六、岐阜県一四〇、山梨県八二ケ所とある。当然この地方では激烈な女工争奪戦と量産だけを目標とした生産方式であり、この地方での過酷な労働条件は世評通り、一時期必然の姿であったのかも知れない。品質よりも量の方が重視された結果、集中的工場地帯の宿命でもあったことだろう。

 以上の県を第一群とした場合。

 第二群は群馬の十二ケ所、福島十ケ所、山形十一ケ所という状況にあり、又風土的関係とも相侯ってのこと、郷土の先覚者群は何れも自己資本か地元資本に依り開業している点可成違っていた。健康上に工場内湿度上の点で全国的な課題もあった。この様な問題が当初或る程度あったとしても、酷使等という事は一切無かったと資料に基いて断言出来る。一般の当時の我々商人層の従業者と何等変ることのない、只集団勤務上工場としての統制が必要であり、一応の制約は止むを得ないことであったと思う。女工哀史より女工愛史の方が経営者の頭痛の種ではなかったろうか。経営者の前貸し制度等も、他地区とは可成り違っていたと考えられる。

 大正の初期高等女学校より製糸工場入りを望む中流家庭の子女も多く、大工場への入場は可成りの知能と器用、目の良否等が要求されていた。裁縫、教養等も、特に寄宿制度では常に配慮していた事が諸資料で明らかである。

 優良生糸が優良女工の熟練せる技倆から生れた事は頷けると思う。当地斯業に携わった先達諸氏のこの面での努力は認められるべきものと思う。その様な情況下、女子教育の必要を痛感した当時の高等女学校の設立に対し入学志望者が低く、態々福島方面迄女学校の教諭の方々が手弁当で生徒募集という有様で、丁度立場を逆にした時代すらあった。

 朝夕の汽笛を合図に就業に励む女工さんの楽しそうな姿、街路上の賑いは町の活気を思わせる楽しい憶出と老生等には考えさせられる。女工さん二人以上の家庭、無論優良女工さんの場合だろうが、倉が立つと迄はやされた時代もあった。県下最大、約七〇%に達した生糸生産の工場地帯として、地方の享けた余慶はまことに大きく、その盛時を知る筆者等としては証明出来る事実である。

 今や製糸業者も当地域では完全に終局を迎えた。過去に果した国益への寄与、地域への貢献長く地域経済上の歴史として記録されるべき事柄である。(後略)》(伊藤長太郎「南陽市生糸史編纂について」文化懇話会会報第一号 昭和60年)

横山大観と金上製糸

《昭和の初め頃、羽前宮内に多勢亀五郎という紀文大尽のような男が出た。」

 すぐれた審美眼と持ち前の侠気で名を成した米沢出身の美術商木村東介は「不忍界隈」(大西書店1978)の中で、亀五郎(延太郎)の桁外れの御大尽ぶりを紹介しています。

 亀五郎寵愛の名妓との宴席に、全盛期の人気役者六代目尾上菊五郎を侍らせ、さらにその場に横山大観を呼びつけて六代目の舞台衣装の絵を画かせ、歌舞伎座東の枡席を買い切ってなじみの芸者、大観一統、得意客を並べ、花道でその衣装姿の六代目に見得を切らせたというのです。

 多勢延太郎は、初代亀五郎の孫にあたり二代目亀五郎を襲名します。製糸業絶頂期、二代目亀五郎は画を愛し、横山大観、川端龍子、小杉放庵、鏑木清方といった当代きっての画家たちと交流を重ねました。

 今では「大観作品の中でも最も絢爛豪華な屏風」として横山大観の代表作に数えられる六曲一双「紅葉」は、当時あまりの斬新さゆえに買い手がありませんでした。亀五郎はその絵を二万四千円で買い取ったのです。大観は大変感激して、お抱えの表具師と共に多勢家に飛んできました。昭和六年のことです。この屏風絵はいま、島根県の足立美術館の看板作品として毎年秋に一般公開されています。》(宮内よもやま歴史絵巻) 

1893年(明治26年)粡町27戸焼失(5月)

1905年(明治33年)十文字の風呂屋の煙突から出火、105戸焼失。(9月)

《鳥居場ノ 九月十五日午後一時頃海野源八郎より出火本家八十壱軒借家半焼三十五軒斗救助基金九百四十円也義援金上杉伯米沢市中町村也より》(高岡家年代記) 

1912年(大正元年)山崎屋で菊人形展示(第一回「南陽の菊まつり」)

下の写真は料亭宮澤の菊人形

59 菊人形のはじまり.jpg
○1913年(大正2年) 
長井軽便線開通(赤湯~梨郷間)

1915年(大正4年)東置賜郡営電気事業開始。はじめて宮内に電灯が灯る

○1920年(大正9年)宮内町立実科女学校(宮内高校の前身)開校

翠松の丘(3)宮内高等女学校.jpg翠松の丘(4).jpg

大正5年宮内町割図.jpg大正5年宮内町割図

 

1-DSCF8365.JPG東郷元帥社票建立記事.jpg

○1932年(昭和7年)東郷元帥「熊野大社」社標建立 

年(昭和8年)宮内衛生組合宮内診療所を黄金町に建設(→宮内病院→南陽市立病院→公立置賜総合病院)(つづく)


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