宮内の歴史(7)江戸期の宮内 [宮内の歴史]
○1604年(慶長9年)置賜郡代春日元忠ら、直江兼続の命を受け熊野宮を修造(一山古今日記)
○1623年(元和9年)安部右馬助等による宮内の町割完成 (元和町割図)
●粡町通りの移りかわり
《直江兼続はすぐれた都市構想とそれに見合う土木技術を備えた武将でした。宮内の町づくりは、兼続の息のかかった土木治水の構想技術に秀でた一統によって行われました。
新しい町ができる前は、宮内と言えば宮沢城を中心にした熊野大社の北側でした。新しい町づくりは、まず吉野川の水を利用するために金山に堰をつくって水を引くことから始められました。町の南に広がる田んぼには、町を通ることで暖められた水が入ってくるようになっており、寒い夏でもその影響を最小限に食い止めることができたのです。
また、当時はまだ戦国の余韻が残っている時代でした。道路は、もし敵が攻めてきた場合を考えて、まっすぐに見通せない敵が攻めにくい造りになって今に残ります。粡町通りの北にその名残りを見ることができます。》(「宮内よもやま歴史絵巻」)
↓安永町割図
↓明治初期の粡町通り(左が西側、右が東側)
○1626年(寛永3年)熊野宮再建。安部綱吉、北条郷中の協力を得て600貫の梵鐘寄進
○1657年(明暦3年)上杉綱憲公、宮内山で約6000人を率いて御狩野を催す
○1760年(宝暦10年)課税強化に反対する北条郷百姓数百人、熊野堂に集結して一揆。藩重役色部典膳の説得で不発(青苧騒動)
●宮内の菊まつりの源流
《麻布の原料である青苧は、ごく最近まで身近な植物でした。今でも近くの里山に自生する青苧を見ることができます。江戸時代から戦前まで、青苧はこの地方の重要な換金作物だったのです。そもそも上杉藩が越後で力をつけた背景には青苧生産があったと言われています。
そのノウハウを根こそぎ置賜に移植したのが直江兼続でした。そのおかげで置賜は、品質においても生産高においても日本でも有数の青苧生産地に育ちました。後に上杉鷹山公が絹織物に着目したのも、すぐれた青苧生産技術が根付いていればこそのことでした。
明治になってその伝統は、製糸業の隆盛となってこの地を潤します。世界最高品質の生糸「羽前エキストラ」を生み出し、明治から昭和中期に至るまで日本の輸出産業の花形でありつづけました。製糸業の繁栄を背景に生まれたのが宮内の菊まつりです。「菊は宮内あやめは長井ばらの名所は東沢」と花笠音頭でも歌われています。日本一の伝統を誇る「南陽の菊まつり」として今に至っています。》(「宮内よもやま歴史絵巻」)
○1766年(明和3年)上杉治憲(鷹山公)家督を継ぐ
○1773年(安永2年)北条郷諸村の肝煎りら、雨乞祈願のため挙って熊野宮に参籠
○1775年(安永4年)検地帳改め実施(文政村目録)
○1787年(天明7年)大破していた熊野宮拝殿修復。天明12・13年(1841・42年)に改修して現在に至る。
○1800年(寛政12年)「一山古今日記」成る
○1813年(文化10年)獅子頭お顔洗いに使う菖蒲沢焼鉢新調
○1830年(文政13年)《正月 正月 ■ニテ水をとし 五日大ふき■ 宮川の水表出 五日ばんヨリ六日迄 町家々に水まし 大水まし なんきする 粡町斗 ひルなり》
○1830年(天保元年)吉野川、池黒川氾濫。宮内四尺余の水(九兵衛万控)
○1831年(天保2年)《正月 春より夏頃迄伊勢ノ国大神宮様の御はらい天ヨリふり落ル依之諸国人御かけ参り大し》
○1831(天保3年)《三月二日地しんゆる 五日天気よし 十一日ニ雪壱尺弐三寸昼夜ふる 御城下ねつ病はやり而下町家■■残りなくわつらる成り人数百人斗死す》
○1833年(天保4年)《《五月廿六日ヨリ六月廿六日迄 のべに天気わるし 六月廿六日 夜昼共大雨 廿七日水まし 米三貫三百文位 此間天気まつり有 七月七日より九日迄 御上より天気まつり難有》
《十月廿六日 昼七つ時 大地しんむかしより覚なき事なり》
○1834年(天保5年)《五月 町方 南寺之者共ニ 壱人ニ付弐合づつ 御上ゟ米五拾八文づつ出キル 町米登リ 預り礼一両先成ル 此月 日てり 廿七日七つ時より雨 廿八日神なり雨晦日迄ふる ねつ病ニ而人大々死ス 廿八九日頃ゟセミ惣して むし早ク出キル 六月 朔日ニ熊野山ニ乄 大般若有り 御大はんにや有 はやり風ニ乄大死ス 毎日ねつ病ニて 八日ニ町へ おししさま出ル 一人り二人りづつ死ス 十三日ゟ御神なり 十五日雨 廿日迄 此月日てり見寺恩寺甚敷 稲のほ出ル 町米四貫文上米ト三貫五六百文 病気の家江米五升づつ ■■る》(以上青文字「高岡家年代記」)
○1849年(嘉永2年)百花園善四郎、赤湯御入湯の上杉斉憲に菊花献上(齊藤家文書)
百花園善四郎像。齋藤篤信の賛がある。
【余談】
今でこそ江戸時代と言えば泰平のイメージがあるが、徳川幕府がスタートしたての頃はまだまだ戦国の世のきなくささ(血腥さ)が残っていたに違いない。ましてこの土地は長谷堂での烈しい戦いが、必ずしも決着がついたわけではなく生煮えのままである。情勢次第ではいつ最上勢が攻め込んできてもおかしくない。しばらくは殺しあいや焼き討ちがあったという。そういう時代、まずもって神の加護がほしい。直江兼続がいちはやく熊野宮の修造を行ったことが「一山古今日記」に記された棟札の記録からわかる。
さて町づくりである。それまで宮内と言えば熊野宮の北の一帯だった。直江が入る直前と思われる「邑鑑」によると、宮内389戸に1456人、そのうちかなりの数であったと思われる寺僧、山伏は熊野門前に、その他の多くは今の菖蒲沢地区だったのだろう。直江の一統は都市計画にすぐれていたという。ただちに宮内の町づくりが始まる。取り仕切ったのは嵐田左近か。元和9年の町割図はその成果である。戦国の余韻が宮内の町の何カ所かのクランクになって今に残る。
その後安部右馬之助が力を得るようになって北条郷開発の中心をなすことになるが、それに先立つ安部右馬之助と嵐田左近との確執が、今もすっきりしないまま宮内の底流にわだかまっているような気がしてならない。このことはいずれすっきりさせなければならない問題で、その解決は今後宮内がいい方向に向かうためにわれわれに課せられた宿題かもしれない、と忘れぬようここで言っておきます。ともあれ、安部との諍いに敗れた嵐田一族は宮内の北の高地内原地区に逃れ、そこで持ち前の土木技術によって見事に水利の工事を成し、山腹一帯今に至る農耕地に開発したのだった。空からの撮影で今でも条里制の趾がはっきりわかるらしい。
それから、これまでいろんなところで書いてきたことだが、尾崎の歴史が表舞台から消えてしまったことも、私なりにこれまでいろいろ考えてきたが、まだまだ得心したとは言えない。というのも、キリシタンとの関わりはどうだったのかが気になってならない。キリシタンと言えば、「東北キリシタン史」にある「ホウヨウ」が「北条」を指すのではないかと言われる。
《ホウヨウは有名な集落で、代官がこれを司り、そのホウョウから半里ばかりの集落に、キリシタンの頭目たるジュアン美濃が住んでいた。彼は、その地方の富豪で、大邸宅をかまえていたが、その家の管理をアシュケという息子にたくし、妻のアンナと信仰の日々を送っていた。しかし、その信仰も知られるところになり、尋問を受け、信仰を捨てるように求められたが屈しなかった。ジュアン美濃は、傑になることを望みゆるされ、彼の一族も処刑された。》
「上杉御年譜」万治元年(1659)3月19日にキリシタンとして捕われたものの中に「池黒村美濃」の名がある。(南陽市史)
「南陽市年表」を見ると、「雨乞い」についての記事が頻繁に出てくる。いま獅子冠事務所の梵天バヨイとともに、南陽市民俗無形文化財に指定されている鍋田の念仏踊りも雨乞いから始まった。ちょうど鷹山公の時代で、鷹山公が揮毫したと伝わる幟が残っていて、今のうちになんとか復元したいということで、できるだけ当時のものに近い形で作らせてもらったことがある。うれしい仕事だった。写真があったのでアップしておきます。ピンクも黄色も紅花で染めました。「北条」の「北」の一部が鷹山公の筆跡と同じだったので、鷹山公揮毫の伝承はまちがいないと思う。(つづく)
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