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宮内の歴史(4) 宮内熊野大社縁起諸説(続) [宮内の歴史]

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860年頃(貞観年中)慈覚大師が清和天皇の勅命を奉じて熊野大社を再建(一山古今日記) 

1060年(康平3年)源義家が熊野社に陣柵を設ける(熊野神社縁起)

1091年(寛治5年)源義家が鎌倉権五郎景政を遣わして紀州熊野三所神を再遷宮。景政、大銀杏を手植え(熊野大社所蔵文書)

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1140年(保延6年)勧進僧正寅、玄宗らが別所山に経筒埋納(現在東京国立博物館所蔵)

《釈迦入滅2000年で仏法は滅びる。それが平安後期で「末法思想」。経典を保存して弥勒菩薩が如来として此の世に現れるのを待つタイムカプセルが経筒。そもそも慈覚大師による発願。別所山経筒は東北最古》(奥村秀雄「山形県宮内町出土の経筒」)

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《義家京に帰った此頃から源氏の勢盛になり是に於て義家は奥羽国中武功ありし地ヘ八幡神社を悉く建立せられた。武士の実力は次第に増してその勢は増々広がり、武士の間には昇殿を赦される者も数多くなった。しかし間もなく源平声氏の勢力争が表面化し、平安であるべき都もいつしか血腥い風吹き荒び、武士は地方を顧る遑さへなかったが、その間に於ても平家は熊野権現を尊崇する事を忘れなかった。即ち平清盛重盛の親子は彼の物騒な平治元年に都を後へ紀州の

熊野に詣じている。平治乱後平家の勢力は極上に達した。やがて平家にあらざる者は人にあらずと奢れる程の栄華を誇る様になった頃の當熊野権現の盛時推して知るべきである。勧進僧正寅玄宗が国家安康を祈るため青銅の経筒を埋めたのも此の頃である。・・・藤原時代の末期から平家の政治的勢力を背景にした常熊野権現の盛況を知る事は困難なことであるが、その地名や古碑によって推察すれば、熊野営を一番南とし、北へ澤深く三十三の堂坊伽藍は甍をならべ、権現に捧げる護摩の煙霞の如く棚引き、読経の声は絶えず法の声朝夕この深にみなぎり、この一河岸段丘は一地方の聖地と化し賑わった事であらう。・・・村山へ旅する者、吉野の澤へ入る者皆この熊野堂に敬意をはらった。そして熊野堂の分神は此處を中心として置賜の所々へ祀られる様になった。

 常時の置賜の地形は少しく現在と異って、盆地の底部は湿地でまだ充分に固まっていなかったであらうが、今迄山際ばかり交通していたのが、やや平野郎にも進出し、住民の密度も次第に増していた。そして今の吉野川は宮内の東から西流して、蒲生田、若狭郷屋を貫流し、島貫、高梨の西を流れ、沖田を通って宮崎の附近で松川と合流していた。そして水量も豊富で、今の宮内の附近まで舟行の便があったと言はれている。又この川の合流点宮崎は宮の前であり何時の時代であったか熊野堂の第一鳥居も此處にあったと伝へられる。・・・然しこの栄華を重ねた平家にも必滅の時期が来た。壇の浦で敗戦の苦杯をなめさせられた平家の落人はこの遠い置賜の一角である小国の里や宮内を慕ってはるばる落ちて来た。世の中は源氏のものとなった。置賜の一隅に誇った平家文化の中心宮内も次第に冷い待遇をうける様になったと同時に今迄の宗教文化も武士の文化に変り始めた。》(羽田隆助「宮内野史」)

1161年(応保元年)熊野社が後白河法皇の御祈願所となる

《抑当山之儀者大同元年中、阿弥陀・薬師・観音三体之秘仏を熊野三所大権現ト奉観請、毎年六月朔日より一山挙而精進潔斎二而平火ヲ忌、同十三日より十五日迄、二夜三日之御祭礼、天下泰平、五穀成就、万民歓楽之御祈祷勤行仕候内、応保年中、後白川法皇御祈願所二相成、一山猶々丹誠を凝らし、六月御祭礼之外、毎年十二月卅日より一山挙而祭心致し、正月七日迄御祈祷相難勤、其夜下院仕候事、代々拙寺共二於而も中伝ひ、右之通相勤罷在候事二御座候、此段御書付中上候 以上  明治二巳七月 万徳院 連蔵院  台林院 御執事》(蓮蔵院文書)

1185年(文治元年)後白河法皇が紀州熊野に参篭時に造った獅子頭三体のうち一体を宮内熊野社に納める(熊野神社縁起)

1190年頃(文治〜建久)清盛の嫡孫平維盛、父重盛の荘園を頼って宮内熊野に落延びる

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●平維盛伝説

《平維盛は、平家が滅びなければ平家の頭領となるべき清盛の嫡孫でした。笛の名手であり、光源氏の再来といわれるほどの美貌で「桜梅少将」と呼ばれました。維盛について次のような伝えがあります。

傅曰平惟盛力建立スル所也仔細ハ維盛平氏亡ビシトキ独リ死ヲ逃レ紀州那智浦二到り松ノ樹ヲ削リ平惟盛入水ト誌シ遂二頭僧陀ト成テ熊野二隠ルト云トモ頼朝捜シ求ムルノ急ヲ恐レ遂二其熊野権現ヲ負去リ奥州二来テ潜二堂森二隠棲シ居ル二六七年ニシテ又去テ宮内二至り紀州ヨリ負来レル神像ヲ此地二安置シ熊野ヲ建立セリ又社内二小祠連聯タル者ハ近代ノ代官安部馬之助神祠仏舎ノ多ク其地ヲ竊ムヲ憤り下長井ノ社祠ヲー同二熊野二移シタルト也又タ上長井ノ小社ハ悉ク松光(ヲヒタメ)山二遷セリ又夕熊野二鰐鐘アリ其銘曰藤原朝臣粟野美濃守政国明応七戊午八月六日ノニ拾字アリ又夕大鐘ノロ輪(フチ)ノ厚サ扇ノ長サナルハ馬之助鋳之古ハ楽エヲ具テ還城楽ヲ奏シタルト云テ楽器今尚ホ遺種アリト云(「鶴城地名選」小幡忠明 文化元年 1804

 この維盛が紀州より背負ってきた神像というのは、宮内本町の金幣山照明寺に伝わる秘仏ではないかと言われています。昭和五十年、地元有志が中心になって厳重に封印された栗の木箱を開けたところ、漆塗りの厨子に納められた高さ七センチの木彫りの阿弥陀如来さまと五センチの金銅製の薬師如来さまがお現れになりました。その箱には恵心僧都源心(九四二~一〇一七 浄土教の基礎となった「往生要集」を著した平安時代の僧侶)の御作で、「吾レ等寂光ノ妙土ヲ出テ此ノ秋津国ニ跡ヲ垂レ熊野権現トアラワレキ尚東ノ方此ノ処ノ衆生ニ縁深キユエニ再此地ニ飛ビ来タレリ紀州熊野権現ノ分身ナリト思イモロビトラ崇ブベシ」と記してありました。五十年毎の御開帳と伝えられ、平成三年に御開帳法要が盛大に執り行われています。》(宮内よもやま歴史絵巻)(つづく)


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