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宮内の歴史(3) 宮内熊野大社縁起諸説 [宮内の歴史]

16 大津家.jpg17 大津家 昭和初期.jpg

9世紀から12世紀、平安時代から鎌倉時代が始まる前(平家政権)まで、熊野大社に関するいろんな記事を見ることができます。私が注目するのは「807年(大同2年)紀州熊野有馬村峯の神社を遷して熊野大社創建」という大津家に伝わる「熊野神社縁起」です。黒江太郎氏の「熊野大社史」では傍系資料的扱いのような気がします。背景には台林院(北野家/元天台宗)と大津家(伊達重臣→神道神主)の江戸期以来の確執があり、北野猛先々代宮司と黒江氏との関係を考えればそうならざるをえないことは十分理解できます。先の1200年祭も806年再建説に立って2006年(平成18年)に行われました。それはそれとして、私もあらためてじっくり大津家に伝わる縁起を読んでみたくて全文アップしました。「南陽市史編集資料 第7巻」にあります。花の窟神社との関わりについての私なりの考察は「宮内熊野に探る『祭り』の意味」で載せたものの再掲です。ホラ話として読んでいただいてけっこうですが、ほんとうのことかもしれません。私にとって最高のロマンなのです。

 

   *   *   *   *   * 

 

806年(大同元年)平城天皇の勅命によって熊野大社再建

《当社熊野三所大権現と奉申者、人皇五十一代平城天皇、大同元年御草創二而、八幡太郎義家公御再興、北条三十三ケ所惣鎮守、依之往古之建立而歳霜久敷、霊社御神徳猶明ニ、世々御社頭御寄付披仰付、依之上様御祈祷、正六両度之御祭礼者不及申、月二三ケ度於神前、御武運御長久、御国家御繁栄之所、丹誠修祈無怠慢相勤申候。》(一山古今日記 寛政121800)年)


807年(大同2年)紀州熊野有馬村峯の神社を遷して熊野大社創建

《山形県羽前国東置賜郡宮内村二鎮座シ玉フ熊野神社縁起来由ヲ尋ヌルニ、大同二年諸国一般神社仏閣建立ノ官許有リテ、紀州熊野郡有馬村峯ノ神社ヲ遷シ玉フ、是則当社ノ根元ナリ、抑祭神ヲ申時ハ、吾神国ノ例ニシテ大日霊女貴神、伊邪那伎神、伊弉冉神以上三神御同殿ニシテ、崇神天皇六十五年紀州熊野郡二始テ建立ス、是ヲ日本第一大霊権現ト崇メ奉ル、日本神社建立ノ最初ナリ、後亦景行天皇五十八年新宮建ツ、延喜七年那智宮建ツ、是ヲ熊野三所ト唱ヒ奉リ、景行天皇始メ、代々ノ天皇参宮御幸有セラル、平城天皇、花山法皇、白河法皇三山五ケ度、堀河天皇三山壱度、鳥羽天皇三山八度、御白河天皇三十三度参龍御誓願有セ玉フ何トナレハ御生得御頭痛ノ症、御苦心止ムヲ得ズ、有夜熊野大神ノ御告ケ夢見玉フ、其御告二云ク、汝頭痛症ハ解脱上人二問フテ知ルヘシトアリ、夢覚メ御案シ玉フ、世二伝フ解脱上人アリ、則召テ太トノ御尋問有ラセ玉フ、解脱言ス、天皇御頭痛ノ症ハ、前世ノ御屍ハ、四条河原西河岸二埋レテアリ、清水ノ為二今夕朽失セス、其上リニ大木アリ、其根ハ眼ヨリ耳二通リテアリ、風雨ノ毎度斯ノ御症ナリト言上スレハ、天皇御誠感有セ玉ヒ、直二還御、其地ヲ掘鑿セラ(レ)テ御覧アレハ、案ノ如シ、再墓ノ御行式有ラセ玉ヒテ後、柳ノ大木ヲ以テ御自ラ獅子三頭ヲ調(彫)刻為ラレ、紀州熊野神前二納メ玉フ、御頭痛症ハ忽平癒、爾来御壮健、天皇神徳ヲ感シ玉ヒ、是二於テ後世迄モ衆民誓願有ル時ハ感応アラセ玉ヒト、御誓願ヲ籠メラレ玉フニヨリテ、今世ニモ頭痛症ノ人ハ、此獅子ヲ拝セハ直二平癒スト云々、是則熊野大神ノ神徳ナリト知ルヘキナリ

然ルニ此三頭ノ獅子一頭ハ、信州碓日峯熊野社二移シ玉フナリ、次第ハ左二縁起ス

後冷泉天皇、永承三(1048)年陸奥住、安部頼時叛ス、依テ源頼義ヲ以テ陸奥守トシ、鎮守府将軍二加ヘラレ玉フ、頼時二平治ノ語ヲ説トモ、頼時降ラズ戦争発ル、康平三(1061)年ヨリ同五年迄大戦止ムコト無シ、依テ頼義ノ子義家陣柵ヲ当社二設ケラレ玉ヒテ熊野神前ニテ深ク祈誓シ玉ヒテ厨川ヲ堺シ相戦フ時ニ、神験顕レテ義家ノ引弓矢ハ、全ク篠鉾ノ飛カ如ク、熊野社ヨリ数万ノ鳥現レ、兵隊ノ押寄ル如クニ賊眼二顕レ、日光西二廻ルヨリ、忽大風烟焔吹起リテ、貞任カ陣ヲ掩ヒ、一時二焚立如ク、賊軍潰乱シ死傷甚多シ、貞任自ラ柵ヲ出テ奮戦ス、官軍鉾ヲ揃ヘテ是ヲ刺殺シ、賊軍降伏シ、是ヨリ奥羽弥平(ケ)ク、天皇大悦シ玉フ、頼義・義家ノ父子ヲ大賞シ、籟義ヲ以テ、従四位下伊予守二任シ玉フ、義家を以テ従五位下出羽守二任シ玉フ、父子帰京シ、康平六(1064)年頼義相模ノ鶴岡二八幡祠ヲ建玉フ、治暦元(1065)年ヨリ承保元(1074)・応徳元(1084)・寛治五(1091)年二至リ、清原武衡・家衡叛ス、義家ヲ陸奥守ト為シ、鎮守府将軍二拝シ、武衡・家衡ヲ攻ム、秋田仙北迄攻戦ヒ弥奥羽平治シ玉フ、義家京二帰京シ、阪東ノ武士悉ク私属ス、源氏是ヨリ盛ンナリ、是二於テ義家公ハ、奥羽国中武功有リシ地へ八幡ヲ悉ク建立セラル、然ルニ当熊野神社ハ神変ト云カ神通ト云フヘキ力、感応有難ク、惶感ノ余リ、権五郎景政ヲ遺シ、紀州熊野三所神再遷宮ヲ為シ玉フ、御太刀三振神体トシ玉ヒ、御鏡三面、金幣三立、獅子一頭、神領三百貫文、御朱印附置レ、又貞任戦争ノ時、戦死十二人、鎧・甲ノ体二木象シ、是ヲ祭ルヘシトアリ、祭式ハ古例二任シ、花時ニハ花ヲ以テ是ヲ祭リ、笛吹・鼓打・坂立・歌舞シテ祭リ、天下泰平・国民安堵ノ為メ春夏秋冬怠慢無ク大祭小祭ヲ定テ、天下永久祭ルヘシト、神官一人神太夫トアリ、外二十名ノ社僧有リ、日本第一大霊権現ト称号シ、大祭ハ神輿御幸ハ天皇御幸ト異ナラズ、朱創十八、弓矢太刀都テ武器具ヲ飾リ、奥羽一番ノ大祭ト是有リ、然ルニ建長二(1250)年秋、永井出羽守、大江泰秀公領主ト相成リ、此時義家公ト権五郎景政ノ小宮建立シ玉フ、今二末社ト為シ同日同様ノ祭祀ナリ、然ルニ正元二(1260)年炎上、悉ク焼亡ス、依テ大江泰秀公ヨリ粟野覚仏入道二命シ再興ス、後亦嘉元二(1304)年炎焼悉ク焼亡、依テ大江貞秀公、上総介時茂、平政盛、豊後守実忠、伊達小太郎宗綱相共二再興ス、其後嘉吉三(1443)年ノ炎上、此時本宮末社残ラス並御朱印、縁起、宝物焼亡ス、唯御太刀壱振・獅子頭一頭漸ク大津美作守是ヲ出シ奉ル、伊達臣、粟野美濃守藤原政国再興ス鰐(口)ヲ納メ置ク、今二是アリ、永禄元年ヨリ大津美作藤原光本、当社守護シ奉ル、是ヨリ天正迄宮沢城二在城、文禄年中、蒲生氏郷領地ト相成リ、大津家蒲生ノ臣ト相成リ、三千石知行、慶長三(1598)年迄守護シ玉フ、是後上杉中納言景勝公ノ領地ト相成リ、臣尾崎三郎左衛門源重誉六万石知行ニテ、信州水内郡ヨリ宮沢城二移ル、同年夏重誉信夫へ移ル、其後、臣色部与三郎平綱長一万石知行ニテ金山へ移り当社守護、元和年綱長米沢へ移ル、後臣、安部馬之介綱吉、草高廿五石ニテ郡代ト成り当社守護シ玉フ、寛永三(1626)年鐘ヲ鋳直シ納ム、今ニアリ、蒲生家ヨリ上杉家二至リ、社領五十石、寛十五(1638)年社領半地ト相成り二十五石、後亦蔵米四石八計二相成、後亦減シ五俵四升宛神事領ト為シ、六月十五日祭礼式仕来、上杉臣徒士上下五人宛来着、拝殿ノ左二仕候ス、且村内産子ノ中、郷士十四名、立鎗行列ニテ、是又拝殿右座二仕候ス、慶長年中ヨリ当明治五(1872)年二至ル迄年霜久シク、上杉家守護支配ト相続キ、然ルニ天皇教化、神社モ官国府県郷村無格社ト神社号相改リ、当時郷社ト相称シ、産子ノ守護ト相成、敬神愛国ノ布達ヲ相守リ、産子繁栄シ、皇国一般御規則年中十ケ度天皇祭、祠官掌並村吏産子中ニテ祭祀ヲ執行為ル者ナリ

私云、慶長六(1601)年ヨリ明治廿一(1888)年迄三百五十八年至ル、大津家神主ト相成、家主代々上京法令位官神事修行、泰平ノ精祈抽ンツヘキ許状奉戴シ相務候、神主子孫大津光成今六十九歳、倩考フル、往昔縁起ノ写書、虫喰穴ト残ルヲ拾ヒ、後世ノ為二是ヲ書写ス者也

大津光成神祇道ヲ相伝ス、皇祖天神ヨリ今上皇帝二至ル迄、天地ト共ニト云儀ハ、広大成ル言ニシテ、俗人ノ語覚(サトシ)難キ故ニ、今是ニ一説ヲ書スル、扨神道ト云ハ、玉串ヲ持、神語トナフル等ハ、祭庭ノ儀式、神道ノー事ニシテ、尤モ重キ事ト為ル所ナリ、左アレトモ此事計ヲ神道トノミ思ヒ侍ル者沢山ナル故ニ、後世ノ今ニ至テハ、獣類魚類ハ神道神事ノ備具ト覚へ、油気・人参・牛房・大根ハ仏道ノ仏祭備物ト覚へ来ル世ト成行キ、是全ク管ヲ以テ穴ヨリ天ヲ見ルカ如シトハ是ナリ、管ノ穴ヨリ見タル天モ、天ニハ相違ナケレトモ、夫レノミニテハ余リ狭キコトナリ、先以テ神道ト云ハ、人々日用ノ間二有リテー事トシテ神道二非スト云コトナシ、君神道ヲ以テ下ヲ望ミ玉フ時ハ仁君ト称ス、臣神道ヲ以テ君二事ヘハ忠臣トナリ、父タル者神道ヲ以テ子ヲ養育スル時ハ慈父ナリ、子タル者ハ神道ヲ以テ父母二仕フ時ハ孝子ナリ、夫婦兄弟朋友ノ間モ神道ヲ以テ交ル時ハ愛国ナリ、故二敬神愛国ト云上皇ノ教へ近頃二是アリ、其外飲食スルニモ皆ナ神道也、手ヲ挙ルニモ足ヲ挙ルニモ神道非スト云コト無シ、又々神書ヲ読テ神名ナト唱へ、拍打祝詞ナト読ム計り神道ナラハ、農圃医トノ術ヨリモ猶狭シ、恭ナクモ御中主尊天照太神天ノ御量柱ヲ四方ノ国中ノ中津国二立玉ヒテヨリ以来、時代ニヨリ用捨コソアラメ、今二至ル迄絶セヌ此神国、神道皇統一系、一天万城(乗)ノ君臣義務ノ神道故ニ、僧侶モ肉喰勝手次第ト大意ヲ発告セラレテアル、凡民ハ勿論、俗悪愚僧モ今タニ解セ難カルヘシ、去ハ神ノ御誓ニモ宝祚ノ伝ハル事、天壌ト極り無シト御言違ハズシテ、今上皇帝迄堅磐常磐成ル神国見人能ク考へ、又ハ工風ヲシテ見ナサヒ、漢土ノ孔子モ云述シハ、其鬼二非スシテ祭ルハ謟(?)ナリトアリ、其神二非サレハ祭り祈ルコト有ルマシキコトトナリ、今家々ニ祖先ヲ祭ルモ皆ナ同シコトニテ有ル也、親類縁者ノ外ハ、来客ニモ是有間敷コト、是ヲ考ヘテモ知ルヘキコト、何所ノ弥陀、此所薬師共二引カルル善光寺参詣トカ云、世間見物ハ格別ナリ、蚕神或ハ病者ノ療治薬等迄、他人ノ話ヲ聞テ走り廻ル世ノ中ト相成マシタ、是全ク五大州ヨリ色々様々ノ珍物来ルニ拠ル、然シ流行物ハ覚校シテモ苦シカラサレトモ、唯一化ノ者ニシテ頓テ万年経テモ、此吾国ノ土性ハ元ヨリ動クコトナシ、又此土二生ルル人物ハ、ヤハリ此当天地間ヨリ性徳ヲ授ケアル人物ナル者オヤ、且吾国ノ政度ヲ不明ト思フ方ハ、是則吾国父神道ト云、神教ノ心ノ御柱ト云ヲ伝受為サル成ルヘシ、委細ヲ問人有ラハ、大幸ノミナラス、貴賤ト無ク説解スヘキ者ナリ 賢》(『熊野神社縁起』 大津家)


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以下、「宮内熊野に探る『祭り』の意味」から「花祭」の項転載。

 

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十一、花祭


康平年中鎮守府将軍源義家が、後三年の役に戦勝を熊野の神前に祈願した。戦火のおさまった康平六年(1063)に神恩を感謝し酬恩のまことを捧げんと景政を紀州熊野に遣わし、熊野大権現を当社に再遷宮し、このとき大刀三振、御鏡三面、金幣三本、獅子頭一頭を移し、武功戦死の者十二体を木彫にしてその冥福を祈り、三百貫文を御朱印として付し置かれ、祭式は日本第一霊権現と称号し花を挿し大鼓を打ち笛を吹き旗を立て歌舞して是を祭り、神輿渡御は天皇の御幸と同じであったと伝えられている。これが恒例となり、例年春爛漫の花の候に一山をあげて行なわれ、花まつりとよばれて社人は花をかざして舞をまい、旗を立てて天下泰平五穀の豊穣を祈ったものだ。舞は熊野舞といい、歌笛の伴奏があり凱旋を祝うにふさわしい快的なリズムであったというが、今は歌詞さえ伝わっていない。

 終戦後に神社経済の逼迫から、祈年祭と鎮火祭とを吸収して五月一日に行なわれ、今は人長舞春日舞などの曲に楽人が花をかざして舞い、天下泰平五穀豊穣と商工業の繁昌と安全を祈ることになっている。》 

 

19 花祭DSCF9422-001.jpg

花祭は祈年祭と併せ春祭りとして今も五月一日に盛大に行われています。明治になって神主家は北野家になりましたが、伊達時代の宮沢城主で明治まで代々神主を務めた大津家に伝わる「熊野神社縁起」(南陽市市史編集資料第七号所収)に、「祭式ハ古例に任シ、花時二花ヲ以テ是ヲ祭リ、笛吹・鼓打・旗立・歌舞シテ祭リ、天下泰平・国民安堵ノ為メ春夏秋冬怠慢無ク大祭小祭ヲ定テ、天下永久祭ルヘシ」とあります。このくだりは、日本書紀巻一(後述)に由来すると考えられます。この大津家に伝わる縁起によれば、宮内熊野大社は「大同元年諸国一般神社仏閣建立ノ官許有リテ、紀州熊野郡有馬村峯ノ神社ヲ遷シ玉フ」となっています。その有馬村にあるのが、花の窟(いわや)神社、すなわち日本書紀にいう伊弉冉尊が葬られた神社で、やはり「花の時には亦花を以て祭る」ならわしが今に伝えられています。両社に共に今に伝わる花祭は、宮内熊野大社と紀州有馬を結ぶ証しとも考えられます。 

20 花の窟神社DSCF2472.jpg

 一体紀州有馬の神社をはるかこの陸奥に遷すとはどういうわけがあったのか.古事記、日本書紀の原典ともされ、熊野信仰についての言及も多く近年研究の進展著しい「ほつまつたゑ(秀真伝)」に即してひとつの仮説を考えたことがありました。ホラ話と言われるかもしれませんが紹介しておきます。

《一書に日く、伊奘冉尊(いざなみのみこと)火の神を生みたまひし時に、灼かへて神去りましき。故、紀伊の国の熊野の有馬の村に葬めまつりき。土俗(くにひと)この神の魂を祭るには、花ある時には花以ちて祭り、また鼓吹幡旗用ちて、歌ひ舞ひて祭る。》(「日本書紀」巻一)

《イサナミは 有馬に納む 花と穂の 時に祀りて ココリ姫 族(やから)に告ぐる.》(「ほつまつたゑ」五紋)

現在、和歌山県熊野市有馬には洞穴を含む一大巌塊を御神体とする花の窟神社があり、御祭神として伊奘冉尊、併せて伊奘冉尊が亡くなる原因となった火の神様軻遇突智神(かぐつちのかみ)が祀られており、日本書紀の記述からこここそが伊奘冉尊がお隠れになつた場所であり御陵の地であるとされています。しかし古事記には「神避りし伊邪那美神は出雲の国と伯耆の国との境の比婆山に葬りき」とあることから古来紀州出雲両地の関係が種々論議されてきました。ところが、日本書紀成立の養老四年(702)をさらに六百年も遡る景行天皇の時代(126年)に天皇に奉呈されたとされる「ほつまつたゑ」に「イサナミは有馬に納む」とあることによって、有馬は熊野信仰の最重要聖地としてあらためて脚光を浴びつつあるのです。

熊野信仰はこれまで、いわゆる熊野三山・熊野三所権現、すなわち現在の本宮・新宮・那智へと向った中世院政期上皇方による熊野御幸や庶民の熊野詣を中心に、神仏混交的観点からのみ論じられてきました。しかしなぜ中世の人々が、幾多の困難を圧しての熊野詣へと駆り立てられることになったかについての明解な理解は見いだされてはいません。「熊野詣はいまもって歴史の謎であり、宗教の謎でもある」(豊島修「死の国・熊野」講談社現代新書 平4)とされてきたのです。しかし、以下に述べるように「ほつまつたゑ」によってわれわれは熊野信仰の淵源を知るに至り、そのことでおのずと熊野信仰の持つ意味が明らかになってきました。

《スサ国に生む スサノオは 常に雄叫び 泣きいざち 国民(くにたみ)挫く イサナミは 世の隈(くま)なすも わが汚穢(おえ)と 民の汚穢、隈 身に受けて 守らんための 隈の宮。》(「ほつまつたゑ」三紋)〈現代語訳(鳥居礼「完訳秀真伝上」八幡書店)〉

素盞の国(熊野)にてお生みになつた素盞鳴尊(すさのおのみこと)は、伊奘冉尊が月の汚血(おけ)のときにはらまれた御子であつたため、常に荒々しい叫び声をあげ、泣きわめいて人々を困らせていた。伊奘冉尊は、素盞鳴尊が世の隈となっているのも、もとはといえば、月の汚血にはらんだわが身の過ちであると思召しになり、民の汚穢隈(おえくま)を御自からの身に受け、民を守ろうと熊野宮(隈の宮)をお建てになった。

20B  千手観音 m_IMG_0023E58D83E6898BE8A6B3E99FB3.jpg

「ほつまつたゑ」を発見しその後のホツマ研究に道を開いた松本善之助氏(奥さんの実家は米沢市のロンドン屋さん)は、世の中の禍を全部一身に受けて国民を守るために熊野宮を建てたイサナミノ神は大乗心の権化であり、その贖罪の精神はイエス・キリストに比されるとし、仏教導入と共に大慈大悲にして地獄の苦悩を救う千手観音がイサナミノ神に当てられたのももっともであるとされるのです。思えばわが熊野大社にも、明治の廃仏棄釈によって仏の一掃が図られたにもかかわらず、なぜか千手観音のみは頑として境内に鎮座しています。神様の御計らいとして故のあることなのでしょうか。

さて、このように紀州熊野有馬の地に淵源を持つ熊野信仰ですが、ではいったい、その地の神社が遠く陸奥のこの地に遷座され、そしてそれが熊野神社として千二百年にわたって信仰を集めてきたその所以は何なのでしょうか。

 「ほつまつたゑ」によれば、当時の日高見の国、すなわち仙台多賀城を中心にしたこの東北地方こそが日本の中心でした。そしてイサナミノ神とは代々東北を治めてきたタカミムスピノ神の五代目にあたるトヨケ神の娘、つまりイサナミノ神のふるさとはこの東北なのです。そもそもイサナミの父トヨケ神とは今の伊勢外宮の御祭神豊受大神で、晩年裏日本の乱を鎮めるため東北から丹後宮津に出向き、今も元伊勢の地名の残るその地で崩御、その後東北の何処かに祀られたと「ほつまつたゑ」には記されています。そこで松本氏は、トヨケ神の御本霊が祀られたその有力候補地は出羽三山はなかったかと考えを提示されました。というのは今から千四百年前、崇峻天皇の第三皇子蜂子皇子が出羽三山を開山したのは、古来豊受大神と同神とされる倉稲魂神(うがのみたまのかみ)の導きによってであると伝えられるからです。つまり、蜂子皇子による三山開山以前に豊受大神はその地に祀られていたことになる。このことからトヨケ神の娘であるイサナミも、その御霊代はふるさと陸奥に帰っていると考えることはできまいか。そしてその地が他ならぬわが熊野大社であると考えることはできまいか。「紀州熊野有馬村峯ノ神社ヲ遷シ玉フ」実にこの一文は、熊野大社が伊奘冉尊の御本霊の鎮まり賜う場所であることを告げているのだ、と。「花祭」についての記述に、ずっと思い続けていた有馬花の窟神社と宮内熊野大社のつながりについてあらためて思い到らせられたのでした。


   *   *   *   *   *


(つづく)



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コメント 12

黄金卿

 とにかく出雲には十神山もあることであるし、古事記の神世世界における、真の起点であることが、神話世界における出雲の存在感の大きさを物語っているものと思われる。
by 黄金卿 (2015-07-18 21:57) 

大刀米子

 十神山とは島根県の安来市にある、オノゴロ島と目される山ですね。
一度観光で行ってみたいです。
by 大刀米子 (2015-08-05 20:29) 

清水寺

 そこから日立金属の巨大な特殊鋼工場が見えますよね。十神山なぎさ公園などは結構穴場っぽいプライベートビーチですね。
by 清水寺 (2015-09-14 08:32) 

広島マツダ

 えげつない名古屋系の特殊鋼よりヤスキハガネのほうがしっくりきます。
by 広島マツダ (2015-12-03 00:30) 

じじぃ

 高合金元年万歳
by じじぃ (2016-01-17 21:37) 

社長失格

 ほんとうに大同特殊鋼の、ああ言えばこう言う的口先の姿勢は歴史が裁定するでしょう。
by 社長失格 (2016-01-28 22:52) 

 低合金元年に思う

 まあ正確に言うと高合金ビジネス元年だが、その理由は今年度大同特殊鋼が電気製鋼をした百年で新たな元年らしいが、とうの昔に日立金属がやってしまった(事実だから仕方が無い)。まず去年の日本鉄鋼協会は百年を宣言するあたり結構苦悩した模様。歴史も見据えた(逆にコンプレックスもある)大同特殊鋼は今年電気製鋼百年を祝いたがった、株主にそれではインパクトはないといわれ
社長が「高合金ビジネス元年」という恥を知りながら放った意味は、情報や宣伝では日立に勝てないぞという社員への訓辞になっている。とにかく鋼の性能を磨け、ブランドマネージメントとかいうしょうがない部門は縮小せよ。プロセステクノロジー既存の材料の零点数パーセント下げるだけのものを偉大だといってきたがそれで許されるのか?われわれは社会勢力の
調整理論で会社を運営してきたが、人々が求める材料を提供するのが真の姿でないかとした。」
by  低合金元年に思う (2016-02-11 21:45) 

世界は歴史が裁定する

 社会にはびこる言いふらし屋がネット社会になって多くなってきましたね。
そうなんです。鉄鋼材料は見ただけでは性能を語らない。黒皮品や銀色に輝く6面フライス品などどれも代わり映えしないのに、鋼種の違いで何倍も価格が変わってしまう。しかし、プロセステクノロジーのみの原価低減は、それこそ零点数パーセントでこれを偉大だとはしゃいでいる。なぜこの世に鉄鋼材料といいながら価格差が何倍にも変わりながら、人々は受け入れるのか?それを大同の社長はよく熟知している。価格差はありながらその価値を認め、使っているエンジニアの思いとはなにかを分かっている、ごく一部の日立金属の研究者のことが脳裏にあったのではと思う。この方、世の中のため新説を発表し某教授にSTAP細胞だとののしられながらも、今年の1月号の素形材の記事に堂々とその理論を発表していたがこれは素晴らしいと思った。こういうやつが大同社員にいないのかという思いが溢れるお話でしたね。
by 世界は歴史が裁定する (2016-02-15 18:20) 

大同日鉄

 うるせえ。大量生産、高炉、連続鋳造、大断面鋳造万歳で、鉄は国家なりだ。
by 大同日鉄 (2016-03-08 21:52) 

めい

いまはじめてここのコメント群に気づきました。私にはよくわかりませんがとりあえずそのままにしておきます。
by めい (2016-03-09 06:15) 

精密工学舎

 不二越倶楽部の会員か?
by 精密工学舎 (2016-06-05 23:22) 

横浜カモメ

 人を超えた存在に対する戦い方はアナポリスで教えていなかったらな。
by 横浜カモメ (2016-10-03 02:30) 

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