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宮内の歴史(5)長井(大江)氏(164年)→伊達氏(211年)→蒲生氏(8年) [宮内の歴史]

1219年?(承久元年)大江広元の次男時広、長井庄の地頭に。長井氏初代。1383年(永徳3年)伊達氏に滅ぼされるまで置賜を支配(164年間)

27 大江匡房t11e.jpg

《大江氏/平安時代、大江氏には優れた歌人や学者が多く、朝廷に重く用いられた。中古三十六歌仙と呼ばれる和歌の名人三十六撰に、大江氏から大江千里、大江匡衡、大江嘉言、女性では和泉式部、赤染衛門らが選出されている。大江匡衡の孫に、平安時代屈指の学者であると共に河内源氏の源義家(八幡太郎)に兵法を教えたとされる大江匡房がいる。鎌倉時代、河内源氏の棟梁の源頼朝に仕えた大江広元は大江匡房の孫であり、頼朝の覇業を内政面で支える。頼朝が鎌倉幕府を開くと広元は幕府の中枢を昇りつめ、広大な所領を得る。広元は子らに領地を分配したことから武家の大江氏として毛利氏をはじめとする武家の祖となる。1221年(承久3年)承久の乱において京都守護の広元嫡男大江親広(寒河江荘地頭)が失脚し、また1247年(宝治元年)に広元四男の毛利季光が、宝治合戦で三浦泰村に味方したために討たれるが、広元次男長井時広の子孫(長井氏)は鎌倉幕府の評定衆、引付衆などの要職を務め、鎌倉幕府滅亡後も足利尊氏側近として室町幕府中枢にあり、14世紀に伊達氏に出羽国置賜郡長井荘を奪われるまで勢力を保った。http://ja.wikipedia.org/wiki/大江氏

30 北条時政2ae73bd731363d51eee8f27c6ff326ac.jpg


1250年(建長2年)大江泰秀 熊野宮修造。保食宮(義家公)、金剛見(景政公)造営、末社とする(一山古今日記)

1254年(建長6年)大江泰秀(時秀?) 粟野東昌寺覚仏入道に命じて再興(一山古今日記)

《粟野東昌寺覚仏入道は粟野次郎義広といい、伊達氏第二代伊達宗村の第二子である。伊達氏の始祖の朝宗は、配流ののち道を関東にむけた親鸞上人を迎えて長く庇護し、上人に帰依して念西と号した。上人は伊達家に長く逗留し、布教のかたわら理論構成の期間でもあった。許されたのちも伊達家にとどまって、暫く帰らなかったほどである。伊達氏と親鸞上人は深い因縁でむすばれ、二代宗村の念山の号もこの思想によって命名され、伊達氏代々は仏教帰依者であった。》(宮内熊野大社史)

32  佐野家DSCF8162.jpg

1273年(文永10年)北条郷支配の宮内南善院開創北条相模坊清篇(北条時政実子)死す


《乍恐以書付拙寺由緒中上候事 拙寺先祖之義ハ佐野源左衛門弟同苗源右衛門ト申士ニ御座候、鎌倉北条四郎時政妾腹之子相模坊ト申修験、当所三十三ケ村被拝領、四百餘之同行修験之大先達相勤被居候、依之当所領地北条郷と今以唱来候、相模坊当国江下向之勅、右源右衛門家老職として罷下り、附添政事向取扱候寺柄二御座候、相模坊当山江産神鶴岡八幡宮を勧請いたし被致尊崇候、只今当山之地主神社ニ御座候、其後星霜押移り、乱世之折柄、武家二領地を押領せられ国衆いたし候砌、仙台領之時、小松村館主原田甲斐、相模坊相招候、則小松江引越中候、只今之南善院二御座候、其砌拙寺先祖小松村二引移り不申、当所二住居いたし、熊野山衆徒職相勤、且亦北条郷中同行修験支配いたし罷在候、赤湯之右京ト同役二而相勤申候、慶長年中蒲生領之時、神社仏閣廃山之刻、隠居候処、慶長三年当御領主様御入国以来、神社仏閣復古再興いたし候様、難有茂被仰渡、別而当熊野山ハ、御城内より東北二而鬼門之鎮守と被遊御尊崇候間、別当・衆徒・社家抽丹誠、天下泰平・御武運長久・万民豊楽之御祈祷無怠慢勤行仕候内、従往古永年十二月大晦日より熊野山江山籠、一山惣出仕、朝夕之御祈祷、五日暁御印判を村之大津左右之進江相渡し、七日惣門心経会幣帛を切り、六月朔日鳥井榊木立、幣帛切、一山惣出仕御祈祷、同十三日、児之幣帛を切り、児壱人差出し、十四日同様御神事後、御獅子本堂より拙寺並社家大津両人罷越、御獅子を差出し、則学頭代台林院之道場へ備置申候、十五日朝飯後、学頭代台林院江罷越、御獅子之幣帛を切、外二献備御供之切方、其後拙寺ト社家大津同道二而学頭代より罷越、御獅子を差出し、獅子頭善四郎江相渡候、学頭代台林院、拙寺、大津三人立並、御獅子之神事相勤メ、其後本社江拙寺、大津両人二而御獅子を相備申候、其後拝殿二而学頭代始一山惣御祈祷、任先例仕来之通勤行仕候

 一、慶長三年御入国以来、直江山城守殿祈願所明鏡院、米沢同行修験取扱申候節、拙院ハ相模坊より之由緒之寺柄を以、本山羽黒山より御執成之上、難有茂御奉書之通、三十四ケ村之稲初尾受納いたし候様、被仰付候、其後元禄年中十八先達新規二御立置之節、金山・荻・小滝・中山村之先達江右四ケ村分相譲り申候、則四ケ村之証文有之候、然処元禄年中御奉書御書替之節、卅ケ村ト御改メ披成下置候、于今所持罷在候、依之毎年右稲初尾受納仕候間、天下泰平・万民豊楽之御祈祷奉抽丹誠候

一、往古より勢州御師筋向橋縫殿手代宿坊として手許江罷越、北条郷三拾三ケ村御祓配当仕申候、拙寺ニおゐて御祓さし立、御祈祷之上、右村方江配当仕来申候、神前之儀者先年より拙寺座敷をしつらい、金幣・御鏡・御神木・御備仕候而筋向橋手代、年々下向之上、御国家安全、随而北条郷祓下、氏子繁昌之御祈祷仕来申候、右拙寺相模坊家老職相勤候故、北条郷支配いたし候続を以、勢州御師より得頼、宿坊相勤罷在候ト申伝候

一、屋敷境内壱反四畝拾弐歩、石高壱石四斗四升、従御領主様御引地二披成下置候

右系図家譜記録等有之候処、当地蒲生領之時紛失社候ト申伝候、只先祖佐野源右衛門之守刀、千手院之短刀有之候而已二御座候、言伝之信書上申処如斯二御座候、

右之趣宜敷御執成之程奉願存候 以上》(蓮蔵院由緒手控)

《御当領宮内村二住居仕リ、熊野ノ別当仕罷在り申候 其頃御当国二年事職ノ者四人罷在リ、上永居二二位、下永居二南蔵坊、八代郷二伊予坊、北条相模坊、右四人ノ者共何レモ霞ヲ分ケ、七大社参詣ノ者引導仕り罷在り申候

相模坊ト申スハ拙寺中興清篇法印ヨリ相模坊ト名乗り申シ候右相模坊父ハ鎌倉北条遠江守平時政、母ハ沼田氏妾腹ノ子也 生得武ヲ嫌ヒ、沼田ノ家二罷在り歳十三二シテ清誉憎正ノ御弟子ト成リ、僧名ヲ臨空ト申ス 後年師二暇ヲ乞ヒ、佐野何某ト申ス者一人道連レ諸山巡拝シ、羽州羽黒山二来り数日山篭ノ後、何連レノ故御領内宮内二来リテ年行事ノ寺跡ヲ継ギ、是ヨリ相模坊ト名乗り三十三郷ノ霞支配仕り罷在り候処、北条ノ子ナル事ヲ知り時ノ人口々二北条相模坊ト唱へ、夫ヨリ自然ト三十三村ノ郷名ト相成り自今北条郷ト唱ヒ申シ候》(南善院由緒書)

《北条郷の名は、熊野信仰者の誰からともなく唱えられた熊野信徒系の私称であり、文献としては地方史にだけその名をとどめている。粟野郷は領主系の私称であり、粟野郷と北条郷は時代的には重複する。》(宮内熊野大社史)

「北条郷」の由来

 《昭和42年、宮内町、赤湯町、和郷村が合併して南陽市になりました。南陽市の範囲は、時代によっての多少に異同はあるものの、ほとんどそのままそっくり「北条郷」に重なります。

  北条郷の名は、13世紀頃熊野信仰者の誰からともなく唱えられた呼び名であり、地方史文献にその名をとどめていますが 公的なものではありません。その少し前には、宮内は粟野郷とよばれていたこともありました。

 宮町佐野家に伝わる文書( 蓮蔵院由緒手控)や小松の「南善院由緒書 」によると、北条時政〈保延元年(1138)ー建保3年(1215)〉の妾腹の子北条相模坊臨空が、この地33ヵ村を400人からの羽黒修験者の大先達として仕切るようになっていつしか時政の子であることが知られ、だれからともなくこの地を「北条郷」とよぶようになったといわれます。

 父北条時政は、平治の乱で敗れて伊豆に流された源頼朝を、平家の立場で監視する役でしたが、娘政子が頼朝と恋仲になったことから、以後頼朝の後援者として鎌倉幕府成立に尽力、頼朝の死後は初代執権として北条16代鎌倉幕府執権政治の緒(いとぐち)をつけた武将でした。

 相模坊臨空は武を好まなかったことから13歳で僧門に入り、その後家老職佐野源右衛門と共に諸山巡拝、羽黒山を経て宮内にたどり着き、三十三郷の霞(なわばり)を支配するようになったのでした。その後小松村館主原田甲斐の招きで小松南善院に入りますが、佐野家は代々宮内にあって連蔵院として修験道の立場から熊野宮を支えてきました。

 なお、能「鉢木」の主人公の名が佐野源左衛門であり、源右衛門との関係が問われることもあります。》(「宮内よもやま歴史絵巻」平成26年度版)

 

【余談】

能「鉢木」のシテ佐野源左衛門と北条相模坊臨空に従った佐野源右衛門は兄弟であるとする伝承もあります(先日佐野家当主の憲一さんにうかがったところ、このことに関する文書等は特にないとのことでしたが)。「鉢木」のあらすじは次のようなものです。ここには「もてなしの心」の極みがあります。この心映えがこの地にいささかなりとも関わりをもつとしたらうれしいことです。

33 鉢木 photo04-b.jpg

【物語】上野国佐野に住む貧しい武士、佐野源左衛門常世(つねよ)の家に、ある雪の夜、旅僧が一夜の宿を貸して欲しいと言います。常世は見苦しい我が家に泊めるのが心苦しく、一旦は断りますが、大雪の中を立ち去る旅僧を気の毒に思い呼び戻します。常世は旅僧に粟飯をすすめ、粟で命をつないでいるわが身を嘆くのでした。夜も更けてくると寒さが増し、薪にも事欠く常世は、秘蔵の鉢の木である梅、松、桜を切り、火をくべて旅僧をもてなします。旅僧が常世の身の上を尋ねると、常世は一族の横領により今の通り落ちぶれてしまったことを話しました。旅僧がなぜ鎌倉幕府に訴えないのかと尋ねると、最明寺殿(前執権・北条時頼、実は目の前にいる旅僧)が修行に出られているから仕方がないと言いながら、落ちぶれてはいても鎌倉に大事があれば一番に馳せ参じる覚悟だと語ります。その後、鎌倉に軍勢の召集がかかり、常世も痩せ馬に跨り駆けつけました。時頼は常世に、大雪の晩に宿を借りた僧が自分だと明かします。そして、その忠誠心を称えて、秘蔵の梅、松、桜の鉢の木で暖をとらせたもてなしの返礼に加賀の梅田、上野の松枝、越中の桜井の領土を常世に与えたのでした。

現在もてはやされているホスピタリティ(もてなし)の精神、そして衰退しつつあるロイヤリティ(忠誠心)の精神を映し出した傑作です。http://www.meg-net.com/meg/oh_noh/ohnou-05.html

 

↓相生の松から西を望むと正面、高台になったリンゴ畑 が宮沢城址

34 宮沢城址を相生の松からDSCF0142.jpg

1380年(天授6年)伊達8代宗遠、長井氏攻略。置賜初代領主となる。以後伊達氏10211年間置賜支配。伊達の重臣大津氏、戦功により宮沢城主となる。その後財をたくわえ、置賜地方きっての大土豪となる。知行3000石。

1406年(応永13年)遠藤因幡守盛房羽州南方奉行人として宮内村に。幕府に反抗的な九代政宗の監視役。北館は遠藤氏の館。延徳2年(1490)白石内親山へ。484年間宮沢在住。

1443年(嘉吉3年)熊野宮炎上

《此時本宮末社残らず並びに御朱印縁起宝物焼亡す唯御太刀壱振獅子一頭漸く大津美作守これを出し奉る》(熊野神社縁起)

1490年( 延徳2年 )懸田俊宗、北条郷代官に。実際の北条郷差配は大津氏

36 銅造鰐口 明応7年 1498.jpg

1498年(明応7年)粟野美濃守政国、出羽国長井北条庄宮内熊野山社殿再建。銅造鰐口奉納。金石文に「宮内」の地名初出

38 長谷観音全体像.jpg

1514年(永正11年)伊達稙宗、長谷堂を落とす。この際、長谷の観音堂の仏像を持ち出して宮内長谷観音堂に安置との伝えあり(慶長五年説もある)

○1590年(天正18年)伊達政宗、熊野證誠寺へ法師柳の仏供田を安堵

○1591年(天正19年)伊達政宗、秀吉の命により陸奥岩出山に転封に伴い、宮内城主大津土佐守も従う。南陽市域はほぼ中山城主蒲生左文郷可の支配(つづく)




















伊達政宗安堵状(市報).jpg












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