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宮内の歴史(2)BC3000〜AD800 [宮内の歴史]

歴史の流れに沿って

 

紀元前3000年頃(縄文中期)久保遺跡、熊野大社敷地内遺跡、宮内小学校敷地内遺跡、双松公園敷地内遺跡等があり、一帯が大きな縄文むらであった

5 久保遺跡発掘 昭和57年.jpg

《久保遺跡は、宮沢川が吉野川扇状地に入るところで、高日向山・山王山の二つの丘陵の先端が近距離にあるところでもある。縄文時代中期の遺跡立地条件の良いところである。この周辺に大集落が発達してもおかしくない。》(「南陽市史 考古資料篇」)











6 宮内扇状地の稲作のはじまり.jpg

紀元前100年頃(弥生中期)宮内扇状地内では稲作が盛んに行われるようになり、低地にはいくつかのむらができていた(南陽市史)



















7 置賜の統一王墓の出現.jpg

300年頃(古墳時代)宮内扇状地内の稲荷森古墳のような大型古墳をつくることのできる大きな地域集団が成立していた(南陽市史)


















【余談】

1.条里制における正方形の一辺は1町(109.09m)。1町は360尺で60間。36町で1里。宮内熊野大社と屋代三山の一つである竹森山の距離がほぼ2里(7854.48m)。どういうわけか、二つの地点が2里の関係をいくつも見出すことができる。その一部。

10 熊野大社と竹森山の距離.jpg

2.金山龍の口明神と置賜三大古墳の位置関係の不思議

・「龍の口明神ー戸塚山古墳ー西吾妻山頂」が一直瀬

・「大朝日岳山頂ー龍の口明神ー天神森古墳」が直角

・「飯豊山神社ー龍の口明神ー稲荷森古墳」がちょうど60度

ちなみに、上記三大古墳はほぼ正三角形であることを佐藤鎮雄先生がはやくから注目しておられた。

12 龍の口明神相関図.jpg11 龍の口明神.jpg

 

8 DSCF7254吾妻方向白龍湖.jpg

689年(持統天皇三年)置賜が優曇(うきたむ)郡としてはじめて歴史に登場する(日本書紀)

《「広い、葦の生えている谷地」を意味するアイヌ語「u・ki・tomam」に由来するといわれます。盆地全体が白龍湖とその周辺のような様子であったのでしょうか。置賜は湿原のような状態から「まほろば(真に住みよい所)」「アジアのアルカディア(桃源郷)」へと長い時間をかけて進化を遂げてきたのです。「うきたむ」はロマンあふれる置賜の原郷を示す言葉です。
 


700年代(奈良時代) 盆地周辺には多くの古墳がつくられ、平地では条里制による農地開発が行われた

《昭和36年になって柏倉亮吉は、南陽市宮内に東西10町南北12(1=60=360=109m 1=36町)にわたる条理遺構の存在を推定した。場所は、フラワー長井線宮内駅の正面入口付近から国道113号線を越えて矢の目集落の北までの水田一帯にあたる。・・・昭和23年の空中写真によると、水田が同じ大きさの方形に区切られて、整然と並んでいることがわかる。並ぶ方向は、同じように南北の線であり、それにほぼ直交するほぼ東西の線である。しかもその南北の線は、磁北方向の南北線でなく、それより7度ほど東に向く、真北の方向なのである。》(南陽市史)


741年(天平13年)聖武天皇の勅命によって全国に国分寺、国分尼寺建立。熊野大社は国分寺として創建されたとの説もある

《当社はもと国分寺として発足し、後に證誠寺となり六十六部の霊場となったということは、これを考察すると当時熊野の勢力が天下を風磨し、この辺土にも紀州本山を模して雄大な構想で計画が進められたものと考えられる。まずこの地形を見て音無川を宮沢川に見立て、本宮の地を国分寺のほとりに定められ、或はすでに祀られてあったのかも知れない。そして吉野川・池川の合流地点の矢ノ目を新宮の所在地とし、置賜湖を望む景勝の地である二色根に那智宮を創設されたと想像される。これはまた熊野三山の弥陀・薬師・観音の三尊仏が揃うことにもなるし、地形的にも多くの類似点を見出すことが出来るからである。

 矢ノ目の三堀観音はもといまの西の畑地にあって、いまに東寺町、西寺町の地名が残って居る。矢ノ目長瀞への道をガランドウと呼び、これは観音道の訛ではあるまいか。紀州長瀞にならって長瀞の名が付けられ、ここから新宮の観音堂に詣り、矢ノ目街道を追って大清水(オオシズ)で身を清め、本宮すなわちいまの大社に詣ったのではあるまいか。三堀の地に東寺町、西寺町の地名が残っていることを考えれば、一時は相当の宿坊が栄えた時代のあったことが考えられる。

 また二色根の薬師堂は、その地形が那智山にまことによく似て居る。いまは奥羽線にさえぎられて昔のおもむきは見る由もないが、往昔はここから置賜湖を越して吾妻の山々を見た眺めは本当にすばらしかったと思う。これと同じような例が宮城県にも残って居る。有名な陸前名取郡の熊野神社で、当社とは稚児舞で深い関係のあった御社である。いまも三社があって本宮は石宮ながらその名を残して居る。このように当地に再現しようとした出羽の熊野三山は、その規模があまりにも宏大であったため、経済上からも長続きがせず、各自が分離独立したものと思われる。また吉野川の名も伝説は伝説としても吉野熊野にゆかりある名であり、当地方に鈴木姓の多いことも紀州熊野に関連のあったのではあるまいか。

 次に参道から考察して見よう。当社の参道は全国の昔からあった他の参道にくらべて非常に立派なことである。京洛奈良のそれは別とし、高野山日光には及ばないが、その距離の長いこと、道巾が広く堂々として居ることでは全国的にも珍らしい。この参道が何時ごろに出来たものか、これを証するものは明治五年の大火で焼失した参道の入口大鳥居の両側にあった大杉である。大鳥居の東側にあった大杉の切株には畳が十二枚、西側の大杉には九枚が敷かれたと伝えられている。この十二畳敷きの大杉が植えられた昔にこの参道は完成して居りこの大杉の年輪すなはち樹齢により参道の出来た年代が想像されよう。そのかみを思えば、あの堂々たる参道の両側にうっそうと古杉が続き、宿坊が立ち並び、木の間をもれてくる熊野の晩鐘に昔の静寂の霊境を想像出来るではないか。》(北野猛 往古の熊野大社》

14 国分寺想定図.jpg

《国分寺趾は、南門は現在宮内の旭町と本町の内側、中門は新町と鳥居場T字路内側、北門は熊野大社裏とし、一里を六町とする旧尺貫法を以てすれば、 南大門から鳥居場まで一里、更にここから北門まで一里、北門から頂上まで一里、丁度三里に一里の三方里に当り、偶然とは言えない旧法隆寺の影を宿しており、ここを出羽国分寺の地趾と考えたい。》(三原善太郎「出羽国分寺・国分尼寺考」) (つづく)


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