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宮内熊野に探る「祭り」の意味 (7) [熊野大社]

十八、招魂祭

6 招魂碑-DSCF9265.jpg《大戦末期の戦局が苛烈となり金属回収が強行され、神社では青銅鉋金併せて九百八十貫が回収に応じて献納した。・・・このとき双松公園の郡招魂碑二基も応召することになり、その除魂式が行なわれた。岡井宮内町長はじめ各町長と各町村の事務職など大勢参列し、浄暗のなかで神霊は神璽に移された。・・・それから例年の大祭はこの神璽を奉持して旧忠魂碑に祭壇を作り、盛大な郡招魂祭が行なわれていた。のち神璽は熊野社内に移され奉安されていた。

 終戦後マッカーサーの神道指令が発令されて政教分離となり、護国の英霊の祭祀も容易でなかった。このとき熊野大社は神璽を社内にお祀りしてある責任上、また英霊の忠誠とその功績を憶い、社内に新しく招魂殿が建立された。・・・爾来九月二十三日を例祭日と定め、郡祭招魂祭の当日、神前で郡神職司祭の神祭が行なわれてから、当社の神璽を郡祭の祭場に奉持し、神霊は永久に神鎮りますのである。》

招魂社IMG_0028.jpg

 昭和三十年代までは東置賜郡の招魂祭が、秋のお彼岸中日の九月二十三日に、双松公園の招魂碑の前で盛大に行われていました。私の中学時代、椅子を会場まで運ばされたものでした。招魂碑は芳武茂介さんのデザインにとるもので、おそらく全国でもあのようにモダンな招魂碑はここだけではないでしょうか。誇っていい招魂碑と思います。昔の招魂碑に記された文字は宮内郷土資料館「時代(とき)の忘れ物」に保存されてます。それが戦時中の金属回収で供出されたことがわかりました。神社からだけで4トン近い量の金属が供出されたわけです。神社の洪鐘も供出されかかったのですが、下におろしたものの運びようなくてそのままになったと聞いております。現在の招魂祭は境内招魂社で毎年九月二十三日に行われています。

 

十九、神明祭

皇大神社.jpg

《十月十七日が大祭で、前日に前夜祭が行われる。昔は必ず草角力の奉納があった。》

 飯山から勧請された皇大神社のお祭りです。今回踏み込まなかった「九、参宮と太々神楽」の中に、そもそも宮内熊野大社を「東北の伊勢」と言うようになったのは、この皇大神社があったからだと記されています。この神社があったから参宮が発案され、皇學館大学同窓の縁で猛宮司が太々神楽をお伊勢様からいただいことによる、と。これまで「なぜ熊野神社が東北の伊勢か」と不思議に思っていたのですが、これで得心がいったところです。

 

二十、雑祭


 《大正祭祀令によって国祭日には全部小祭として祭典が行われることになり、今日でも簡略ながら厳かに執り行われている。》

 祝祭日に国旗を掲揚する家庭は宮内でもわずかになっていますが、獅子冠事務所頭取の斎藤喜一さんが境内入口に国旗掲揚の設備をして、国民の祝日に欠かさず日の丸を掲げられるようになって、六、七年になります。

 

1-74-大銀杏.jpg

二十一、菊参宮


 《秋の宮内は馥郁たる菊の香がただよい、熊野の大銀杏は鮮な黄葉に彩られ目にしみる様に美しい。昭和二十七年宮内駅長に助川一良という人が来任された。氏は春参宮の盛況と秋の菊祭りの豪華さに注目され、菊祭りにも春参宮のような団体を誘致したいと考えられた。・・・客は累年激増の一途を辿り、新潟方面の初詣団体は全面的に菊参宮に肩替わりして、数年を待たずに二十数本の臨時列車が運行されるに至った。秋朗の一日、太々神楽を神に捧げ、菊花香る宮内町はリンゴを買う人、焼麩を持つ人で賑うなごやかな風景が見られるようになった。》

 菊まつりで賑わった宮内、思えば涙が出るほど懐かしい当時の情景が思い起こされます。

 

二十二、お稲荷さまのお年越し


高平稲荷IMG_0022.jpg

 《境内には正一位高平稲荷大明神が祀られている。髙橋平両氏の信仰によって創設されたと伝えられる石祀である。・・・東京の高貴のさる霊験者が去る昭和三十四年に来宮され、神社の写真をみられて境内に狐霊の多いのにおどろかれて早速神社を参拝されて霊威に感歎されたと聞いている。

 この稲荷社には古くから高平講が組織され、各人平等の立場で品々を持ち寄り、餅をついてお祭りする慣例となっていて、この祭りをお稲荷さまのお年越しといった。・・・報恩感謝のお祭りである。》

 高平稲荷大明神、「なぜ高平か」とずっと思っていたのですが、髙橋と平さんが勧請されたということを初めて知りました。今も信仰する方は多くて、いつも油揚げやお酒が備えられていて、ちょっと奥まったところですので、狐の霊がいっぱいいたと言われれば確かにそういうふうな感じがする神社です。

 

二十三、新嘗祭


 《十一月二十三日に国祭日として全国一斉に行なわれた。春の祈年祭に対し神恩感謝の心をささげる報賽のための祭りである。・・・この案内状には、あらかじめ氏子会長から神酒や神饌品や直会用の煮染やモチ米を寄進するように書き添えてある。特に神社のお祭りには従来男子のみが参列し、お祭りは男子のみの祭りの感のあったことを遺憾として、女子の参加を呼びかけているので、今日では相当数の御婦人が参加されるようになった。》

 今も収穫を感謝する秋祭りとして行われています。

 

二十四、取子祭


《取子(とりご)とは特に大切な子供が産まれたとき、子供の発育が思わしくないとき、病身の人、危険な職場で働く人、又無病息災を願わん人たちが、その身柄を神にあずけて、特別の神の思愛守護により、神の子として無事息災にお守りいただくように神に祈誓することで、その祭りを取子祭という。・・・十月十七日に行なわれていたが、秋の最大行事菊祭りがはじまってからは新嘗祭十一月二十三日の午後に行なわれている。》

 最近は、取子祭をするという話は聞かなくなっています。

 

二十五、つめのしめ縄飾り


 《例年年末の大祓の日に、全社殿全建造物の神座に〆が張られ、お宮ごとに門松が飾られる。》

 《年末に神社や家庭に〆ナワが張られたことは、その年の無事災難を払い清めて幸ある新しい年を迎えるためである。門松を立て〆ナワを張ることはあら玉(新魂)の神を迎えた我が家を神の御在りかとして、榊を立て〆を張った名残りである。心を新たにして我家を祝福する日本民族伝来の厳粛な行事であった。近来その本来の意義が忘れられて、ただ正月の飾りものとして慣行されて、日本民族の意義深い尊い神事もおろそかになった。生活改善のかけ声によって軽々しく全廃されるような事があってはならないと思う。》

 年の押し詰まった「つめ」に行われる新年に向けての飾り付けです。

 

二十六、六月大祓と十二月大祓


 《上古から諸社で行なわれて来た日本民族に即した神道のもっとも大切な行事である。・・・この大祓は半歳の罪穢を祓い清めて、人間本来の神性の清浄な姿に帰り、明日からの新しい生活に入る心構えを造るための行事である。

 当社では六月三十日、十二月は三十一日の夕日のくだちに、氏子を代表して町名誉職や氏子惣代が氏子に替わって社殿に参集して行なわれる。まず祢宜が大祓詞をを朗唱し大麻切り麻(キリヌサ)の行事に移り、次いで各自が人形をとって、この人形に托して半歳の罪穢を洗い清める。なおも残りし罪穢を祓い清めんと祓物(ハライツモノ)に托して大川路に持ち出て祓いやり、かくして身も心も誠の姿に立ち返って明日の幸福を祈念するのである。》

 ということで、正月を迎えるわけで、これで年中行事一巡り終わったところです。駆け足で一年を巡ってきましたが、私もありがたい機会を与えていただきました。さっと読み流してしまうところをかなりじっくり読むことができてありがたかったです。いずれ全文をデジタルデータにしておかねならない貴重な記録です。(つづく)


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