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宮内熊野に探る「祭り」の意味(1) [熊野大社]

置賜の民俗 第21号.jpg
「置賜の民俗」第21号に掲載なったものです。長いので何回かに分けます。これまでここで書いてきたこととあちこち重複します。現時点での集大成ということでご理解下さい。

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宮内熊野に探る「祭り」の意味

はじめに 

南陽市民大学で宮内熊野大社の祭りについて語ることになっていた。熊野大社に対してはいろんな形で関わっており、どのような形で語るか考えていたちょうどその時、『熊野大社年中行事』という冊子が神社でまとまって見つかったということで届けていただいた。この冊子があることは知っていたが、中身について見るのは初めてだった。昭和四十年(1965)に宮内文化史研究会から宮内文化史資料別冊として発刊されたガリ版刷B5判五二ページで、著者は先々代北野猛宮司見ると、宮内の一年間の「おくまんさま」を中心にした行事が非常に事細かに目に浮かぶように書いてある。「祭り」とはいったい何なのかを考えながら、いまから半世紀前まで熊野大社を中心に展開されていた宮内の行事を追ってみることにした。


以下、南陽市民大学事務局で文字に起こしていただいたものを加筆修正させていただきました。


祭りの本義

 

最初に「祭り」とは何かについて、その原点に立ち返って考えてみます。

宮内のお祭りというと、「おくまんさまのお祭り」ということで七月二十四、五日の例大祭を思い浮かべるわけですけれども、本来それだけが祭りでない、神社の中では年中、お祭りをやっている。ところが戦後、祭りの意味が変わってきていることに気づかされます。戦争直前昭和十六年発行の『広辞林』では、「祭り」は「神に奉仕してその霊威を慰め又は祈祷、祓禳、報賽、お礼のために行う儀式の総称」とのみある。しかし、戦後平成五年の新明解国語辞典では、「神霊に奉仕して、霊を慰めたり祈ったりする儀式。また、その時に行う行事。」これは、昭和十六年の広辞林とほぼ同じですが、「記念・祝賀などのために行う行事。広義では、商店がある時期に行う特売宣伝をも指す。」が付け加えられています。今われわれが「お祭り」と言った時にはだいたいこの二番目の意味になってきているんではないでしょうか。「祭りイコール賑わい」というふうな感じになってきて、「神様にまつろう」という本来の意味の祭りというのが、だんだんと遠のいてしまっているんではないだろうか、このことが私の気持ちの中でずっと問題になっています。東日本大震災の時の「祭り自粛」ということが起こった時にそのことをまた痛切に感じたわけです。本来ああいう時にこそ神様にお願いするという意味での祭りが大事なはずなのに「祭りを自粛しよう」と言う、この時の祭りというのは二番目の「祭りイコール賑わい」の祭りだったわけです。そこでは完全に本来の祭りの意味が失われている、それを非常に痛切に感じたわけです。

私が平成六年に書いた文章を読ませていただきます。

《本年の熊野大社例大祭は一、一八八回目であつた。一、一八八年という幾千幾万の祖先のこの土地への思いの深さがこめられている途方もない歴史に対しあたうかぎり謙虚にならねばと思う。目先の損得勘定にばかり振り回されがちな現代のわれわれを圧倒する重さがこの数字にはある。せめて五十年百年ぐらいの単位で物事を考えたいという気持ちが起きてくる。

 祭りとは何か。戦後日本人の祭りに対する認識には大きな変化があった。(中略) ふるさとまつり、健康まつり、さくらまつり、菊まつり・・・これらから「神への奉仕云々」を連想するのはもはや不可能である。祭りから連想されるのは先ずもつて「賑わい」であり、したがって現代における祭りの成否は、ひとえに賑やかさの如何にかかっているといっても言い過ぎではない。そこでは祭りは、かつてそれ自体が目的であつた本来の意味は背景へと押しやられ、国語辞典の広義に挙げられるがごとく、往々にして経済効果を第一義とする手段にまでもおとしめられてしまったのである。すなわち、祖先への敬意もまたそれに連なる神霊への畏敬も、祭りを盛り上げる単なる道具立てのひとつに過ぎないとする本末転倒が時代を制しつつあるかに見える。いずれ将来、辞書においても第一義と第二義との交代がないとも限らない。》

 これを書いたのは、海の日制定に伴い熊野大社のお祭りをこれまでの七月二十四、五日から七月二十日の海の日に変えようというような動きが出てきまして、私たちは「とんでもない、祭りは動かすべきではない」と頑張った時なんです。それと並行して、熊野神社例大祭、そのお祭りの実行委員会の組織を別個に作ろうという動きも出てきたわけです。これもまた私たちにとって非常に不本意なことで、本来神様との関わりで在る祭りを、実行委員会を作って賑やかになればいいというような形になってはうまくないんじゃないかと私なりにその思いを書いた時の文章です。つづけます。

 《いったいこれはどういうことなのか。この流れにそのまま身を委せていいのだろうか。思えば、戦後日本の思想界の主流ともなり、何よりも公教育の現場でわれわれにたたき込まれることになったいわゆるヒューマニズムなるものが祭りの本義とは相容れないものなのではなかったか。

 ヒューマニズムあるいは人間中心主義と言えばややもするときれいごとに彩られて聞こえはいいが、言ってしまえば「今生きている我れが第一」の個人主義思想。まずは「我れ」があっての物種、我れ以外の一切は常に第二義、極論すれば先祖から子孫までをも含めた他者のすべて、さらに自然存在のすべてを我れにとっての手段にまで貶めて恥じることなき、日本古来の感覚からすれば実にうとましくもおぞましき唾棄されてしかるべき感性に立脚するところの考え方ではなかったか。他者との、自然との、ひいては神々との心の通じあい、心の融和交流をもって本義とする祭りとは相容れようもなかったのである。たかだか二、三百年、貨幣経済の伸展に歩調を合わせていまや世界を凌駕しつつある西洋に端を発した外来近代思想に、太古以来万世に及んで脈々と伝えられてきた祭り本来の意義を絡めとられてしまうようなことがあっては決してならないのである。このことは祭りを考える際の基本である。》

 とかなり意気ばった言い方で、今読みながらちょっと恥ずかしい、読むんじゃなかったなと思いながら読んだのですが、ただ、これが私なりに祭りを考える時の根底にある考え方なんで、こうした考えに立って、北野猛宮司が書かれた『熊野大社年中行事』、これが五二頁と結構厚いんですね、その中からピックアップして説明していきたいと思います。(つづく)

 




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