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宮内熊野に探る「祭り」の意味 (2) [熊野大社]

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北野猛宮司著『熊野大社年中行事』


これは宮内文化資料別冊として宮内文化史研究会(代表 黒江太郎)より発刊されました。宮内文化資料と言うのは三〇冊、その他に別冊が四冊あります。それは見事なガリ版印刷で、そのガリ切の仕事をなさったのは牧野房先生のご主人故牧野昭雄先生で、そのガリ切で命を縮めたという話を聞いたことがあります。若くして亡くなられたんで改めて今回写しながらそのご苦労を思ったところでした。今日房先生がおいでになっておられるのであらためて、感謝しながら勉強させていただければならないなと思ったところです。


中を見てみますと、最初、はしがきがあります。はしがきに「昭和三十八年八月毎年夏に滞在する小国町小玉川飯豊山小屋において、二十一日から三十日までに、手元に一冊の参考書も無く、記憶を辿って書きならべたもの」。「幸いにも後世に残り伝えられるならば望外の倖」ということで、今日私にこういう機会を与えられたということを北野猛宮司も喜んでいやっぺなと思いながら書き写しました。一冊の参考資料もなしに書かれたとのことで、それだけにその時々のイメージがわいてくる、そういう内容になっています。


1-熊野大社年中行事 表紙.jpg

一、元旦祭


まず、元旦祭から始まります。

《くろずんだ杉の大木が荘厳にそそり立っている。ツメアレといわるる夜来の嵐もすっかり止み、白雪で浄められた社の御庭には庭燎(ニワビ)が赤々と燃えている。輪奐の美を誇る御社が闇にくっきりと浮び、何ともいえない神々しさが辺りを包んでいる。これが熊野大社の元旦の表象だ。》

《昔からの仕来りで火打石をお宮から求めたり、神前に御灯明がともされ参道や神苑に庭火を焚くということなどの昔から続けた行事のなかに、日本民族の清浄さ清潔さをしみじみと考えさせられるのである。》

火打石って確かに周りに小さい時からごくふつうにゴロゴロしてあったんですけれども、これが吉野川の特産としてここで、神社で売られていたとこの度知りました。

《昔の元旦詣はまた大変なものであったらしいが、その中で最も記憶に残っているのは裸詣と夏祭りである。裸詣はその名の如く丸っ裸で、紺の前垂れに鉢巻姿の逞しくも凛々しい姿が今でも目に浮ぶ。そのころには夏詣は相当盛んであって、白地の浴衣にワラで作った足高草履をはいて足袋を履かない背なかにはウチワを差して、猛吹雪でも何処吹く風とすまし込んで御坂を登り下りして居たものだ。》

七夕祭りのところにこの話もう一回出てきて、日本の一年というのは二回に分かれているんだと、本来、稲は南国から来たもので、南の方では稲は年に二回穫れることから一年は二つに区切られているんだというこで、夏の暖かいところにあった時の一年の名残として正月に裸詣するんだと、後で北野猛宮司が言っておられます。

《年末年始には町役銭という制度があった。町はずれに神社から役人が出張して、町に入ってくる品物から税金の代りに、物が納められていた。薪ものが主であり、橇に積んだ荷のうえに町役銭の薪を別に積んで来たものであった。元旦やお祭りの大道商人からも町役銭と称していささかの金を納めさせていた。夏のお祭りには、大正になってからも社務所の提灯をかかげて募金していたが、時世の変遷で収金も少なくなったので中止してしまった。》

当時の神社経営についての貴重な記録と思います。

 

二、天下泰平長日祈祷会


暮れから正月七日までの神社の大事な行事としてあったのが「天下泰平長日祈祷会(きとうえ)」です。

《後白河天皇の勅命によって創設されたもの・・・後白河天皇が御即位の年に当社に勅命があって、即位の年すなわち保元元年(1156)の大晦日から翌二年正月七日までの七日間の大法会が行われた。・・・その当時の長床(ナガドコ 根本中堂)は、二十四間平方の大伽藍であったと伝えられ、大江文書にはそのことが誌されていたと伝えられている。》

 喜多方の新宮熊野神社に長床が今も残っていますが、それが二十七×十二メートルです。それに対して二十四間四方というのは四十三・二メートル四方ですからはるかに大きい建物です。別の本に證誠寺とありましたので、今の證誠殿の場所であったと考えられます。後白河天皇というのは熊野詣を四十三回もされたという人で、また、宮内の熊野様のお獅子様は後白河天皇のゆかりのあるお獅子様だということもあって、後白河天皇と熊野大社というのは非常にご縁があると思わされます。

《聖旨を戴いて天下泰平長日祈祷講という講中が結成され、聖上と万民の安泰を祈祷し、併せて講員の家内安全業務円満を祈って、一万度の大祓様を授与して民福を祈念した。》

 今はこの祈祷会は無くなっていますが、ずっと熊野大社の伝統として続けられてきたようです。

 

三、年始日


《正月五日に行なう。・・・社家寺院は早朝から小僧や若者を連れて檀家や祈願所の壇中への初春の廻礼日。・・・廻礼を頂いた檀家や壇中は、御年始として何程かを持って社家寺院を訪れて新年を喜び合ったものである。》

廻礼というのは、新年の祝詞を述べるために、親戚・ 知人・近隣を訪問することです。

 

四、七草祭


 これは夏の七夕行事に対応しています。

《正月七日、天下泰平祈祷満願の日に行なう。この祭りは御門祭(ミカドマツリ)で、一山の社家坊中諸役人が藁を持って社務所に集まり、シメナワを作り総門にかけてお祭りをする。》

《元旦祭にお供えした大取餅(五升取り二つ重ね)を七草祭の直会に頂く。》

《新しい年の門出を祝いつつ、一山融和のための新春の行事。》

日本に中国からいわゆる太陽暦が入ってくる前は日本は太陰暦でお月様が基準でした。その時はひと月の始まりは十五日、したがって年の始まりは一月十五日でした。これはもっともな話で、旧暦の一月一日というのは真暗な夜で、その日はひょっとすると二日かもしれないし三十日かもしれない、指折り数えないと定かでないわけですが、十五日というのは一目瞭然、もう誰が見ても今日は満月、多少の誤差はあってもほぼ十五日と誰にでも分かるわけです。その日が月の始まり、年の始まりというのは一番理にかなっているわけで、日本人は本来ずっとそれでやってきた。それが、六〇九年持統天皇の時代に中国から太陽暦が入って非常にややこしくなってきてしまったのです。本来縄文の昔から日本人にとって暦の基準はお月様だった、お月様だと分かり易い、新年も今のように一月一日から始まるのでなくて、一月十五日から始まる。それで小正月というのが今も風習が残っているけれども、本来は小正月こそが一年の始まりだったということです。それでその前の準備としての七草、ここで〆縄を作って総門に飾るということが書いてあったのを見て、あっそうかと、小正月を迎えるための準備としての〆縄、小正月こそが本当の年の始まりだという風習の名残りかなということを思いました。

 

五、壬辰(ミズノエタツ)


《火防のお祭であり、正月初めての壬辰の日に行なう。》

《昔の宮内町は、町内が三つに分かれて自治活動をしていた。本町・新町・粡町の各町には諸締という役職があって自分の町内を治めていた。・・・(次第に仕事が少なくなり)大正末期には熊野大社の神勤と消防団の援護が主な仕事であった。壬辰と初午祭と虫送り、それに大祭もみなこの諸締が世話した。》

《壬辰には三町諸締が従者一名をつれて来社され、昭和の初めごろには各町から二円ずつの御供料があった。祈願祭が終ってから社殿で直会をいただき、各町諸締は従者に手桶を持たせ、祈願した水を各町内にもち帰って「ミズノエタツ火伏せ火伏せ」と大声を出して町内を巡り、町家の屋根に水をかけて回ったものである。翌日神社から壬辰火防の神札が氏子の各戸に配られた。》

 明治二十二年生れの私の祖父たちが熱心にやっていたという話を聞いたことがあります。その伝統があるゆえに、私の地区(粡町)の消防団活動はとりわけ熱心でした。(つづく)

 



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