ですから「木内鶴彦」の本体は肉体にいるのではなく、意識の中にいます [思想]
思いがけない三羽のうさぎの発見から、「無私であることにおいて、個は究極的に輝く」(若松英輔)という言葉との出会いがあり、その後、読む本出会う文章なぜかことごとくその流れだったのだが、さっき木内鶴彦さんの「『臨死体験』が教えてくれた宇宙の仕組み」を読んでいて、どうしても記録しておきたくなってOCRで読み込んだ。
そもそも月は1万5000年ぐらい前に出現したものだと言う。大量の水を含んだ巨大彗星が太陽に接近して莫大な水蒸気を発生し、その水蒸気が地球の引力によって地球に降り注いで地球の水分は一挙に倍増、一方、水分を抜き取られた巨大彗星は軽石のようになって地球の周りを廻るようになった、それが月。水を得て地球の質量アップ、その結果自転速度は25時間が24時間になった。生物の体内時計が25時間であるのは月のなかった時代の名残り。あの図体の恐竜が今の重力下で時速60キロで駆け回れるはずがない。女性の生理が一ヶ月周期になったのは月ができてから。それまでは年1回。重力の変化が身体に変調をきたし、その不安が子孫を残そうとする本能に働きかけて女性の生理になる。人間だけでなく、サンゴも満月の後に産卵し、ネコのサカリも満月や新月のとき。地震や火山爆発もそう。「このように月の出現は、地球上の生き物や人間、そして地球にも大きな影響をもたらしたのです。」として、次の、ほんとうになるほどと思えた文章が出てきたのです。
◉人間は自らテレパシーの回線を遮断した
月の出現というインパクトによって地球の環境はダイナミックに変わってしまいました。月の重力によって地軸が傾き、地球の一日は二五時間から二四時間になりました。地球の三分の二は海に覆われてしまい、地球の重力も変化しました。
さらに大洪水により、多くの生命が絶滅し、高度な文明を築いていた人間もほとんど死んでしまいました。残された生き物は人間も含めて少なくなった食べ物をめぐって殺し合いを始めます。弱肉強食の時代が始まったのです。
このとき人間が失ったのはテレパシーの能力です。私は大洪水の前までは人間もお互いのミトコンドリアを通じて、情報を伝達し合えたと思います。私が見た古代人たちは文字や言葉がなくても、一瞬で思いを共有し、正確に情報を伝え合っていました。彼らが高度な文明を築けたのも、一つにはテレパシーのおかげがあったと思います。
しかし食べ物が少なくなると、自分だけが知っている食べ物の情報や隠し場所をほかの人に知られては困ります。そこで意図的に意識の回線を遮断し、情報の共有を避けたのが、いまの人間たちではないでしょうか。
その代償として、人間は厄介な「自我」を抱え込むことになります。自分さえよければいい、自分を守りたいという「自我」は、損得の世界へと人間を追いやり、お互いに疑い合い、殺し合う殺伐とした世界をまねいてしまいました。テレパシーの能力を自ら捨てた人間の代償といえましょう。
テレパシーを失った人間は互いの情報を伝え合うために、言語や文字を発明します。しかし一瞬にしてわかり合えるテレパシーと違って、言葉や文字では思いを伝えきれません。
人間は自分でも御しきれない厄介な「自我」と、思いを伝えきれない孤独の中で、恐怖や不安、ねたみや猜疑心と戦いながら、生きていかなければならなくなったのです。
しかし生まれたばかりの赤ちゃんや幼い幼児はまだテレパシーの回線が遮断されていません。「自我」を持っていないのです。この状態だと、さまざまなものと情報共有している可能性があります。
幼児が花や鳥と。会話・しているように見えたら、それは本当にそうなのかもしれません。『お花が話している」とか「お星さまがしゃべった」などと子どもがいったら、その通りに受け止めてあげるべきなのです。
ところが多くの親たちは「嘘をついちゃいけません」とか「お花が話すわけはないでしょ」などと否定してしまいます。なかには「気味が悪い子だね」とわが子を排除する親もいます。子どもにとって親は絶対ですから、親に気に入られるために自らテレパシーの回線を閉じてしまうでしょう。そして「自我」に目覚めてしまうのです。
なかにはテレパシーの能力を持ったまま大人になった人もいます。私たちはそんな人たちを特殊能力を持った人たちだと思いますが、彼らが特別なのではありません。私たちがその能力を失ってしまっただけなのです。
私たちが失った代償はあまりに大きかったといわざるを得ません。
◉私たちはもうすでに未来に行っているI
しかし私たちにも希望がないわけではありません。私たちの本質が肉体ではなく「意識」だということに気がつけぱいいのです。そうすれば私たちの中で覚醒してくるものがあるはずです。
肉体ではなく意識だと気づくことをわかりやすく説明しましょう。「木内鶴彦」の本体はここにいる木内鶴彦の顔と体を持った肉体ではありません。肉体とは無関係に「木内鶴彦」が存在していることは、私の臨死体験で明らかです。ですから「木内鶴彦」の本体は肉体にいるのではなく、意識の中にいます。
私たちは肉体の中に意識があると思っていますが、違います。意識と肉体は別々にあるのです。自分=意識であることがわかれば、意識は時間や空間を超えていけるので、私たちも容易に時間と空間を超えていくことができます。
そんなことはあり得ない、と思うのは、私たちがいま三次元の世界にいて、その殼の中にがんじがらめに閉じ込められているからです。
でもくり返しますが、私たちは「意識」ですから、たとえ三次元の世界にいても、時間を超えることができます。その証拠をお見せしましょう。
私たちは水を飲もうとコップを取ります。取ろうと思うからコップを取るのであって、取ろうと思わないうちにコップを取ったらおかしいことになります。
つまりコップを取るという動作の一瞬前に意識がそこに飛んでいるから、コップを取る動作ができるわけです。秒数にしたら、一億分の一秒の未来かもしれません。でもその未来に意識が存在しないと、自分の体は動かせないのですから、意識は間違いなく、一億分の一秒未来にあるのです。
私たちが体を動かす前に、必ず意識は一億分の一秒だけ未来に飛んでいます。それを一億分の一秒から少しずつ伸ばしていったらどうなるでしょう。この訓練をしていくと、時間のコントロールができるようになると思います。
これができるようになると、過去にも未来にも行けるので、予知や予言が当たり前にできるようになります。また動物や植物と意思の疎通ができたり、よその国の人と言葉に関係なく会話ができるでしょう。つまりテレパシーの能力が復活できます。
私が中国の病院で臨死状態になったとき、中国の人たちが中国語を話しているのに、日本語と同じように理解できたのも、臨死状態になり、意識が肉体を離れたからです。
いまの私たちは三次元の尺度と一体化してしまっているので、せいぜい一億分の一秒先の未来にしか行けないわけです。でもその思い込みをはずしてやると、もしかしたら五感に続く第六感といわれるところが開けて、過去や未来と往き来できるだけでなく、さまざまな能力が開花する可能性があります。
たとえばユリ・ゲラーさんは物質(スプーン)を意識によって曲げることができます。私たちが曲げられないのは「曲がらない」と思っているからに過ぎません。脳の中、つまり肉体にとらわれた意識の状態で「曲がらない」という暗示にかかっているから曲がらないのです。
しかし肉体を離れた意識が「これは曲がる」と思えば曲げることができます。物質は三次元の世界のものですが、意識は五次元にありますから、三次元のものを動かすことなど簡単にできるはずです。私たちが三次元にとらわれていて、「できない」と思い込んでいるのに過ぎないのです。
◉自分を「気配」に変えると第六感が覚醒する
意識は肉体の外にあるということを認識すること。そしていまは肉体に閉じ込められている意識を肉体の枠からはずす訓練をすること。そうすれば、意識本来の力が発揮できます。三次元の世界でいうところの第六感が覚醒するのです。
しかしいうのは簡単ですが、実行するのは容易ではありません。私も臨死の状態のときだけしか、意識を肉体から切り離すことができませんでした。
訓練のヒントになるのが、自分を「無」にすることです。私は一人、真っ暗闇の山中で星の観測をしているとき、よく「空気玉」を見ることがあります。
空気玉とは寒気の塊です。たとえばマイナス10度くらいの山中で観測をしているときに、マイナス30度くらいの寒気がやってきたとします。寒気は塊になって飛んできますが、ふつうは空気ですから見えません。でも、自分が「無」の状態にあると、空気玉がやってくるのがはっきり見えます。
そこだけ空間の屈折率が変わって、塊のようなゆがみが空中を次々と移動していくのがわかります。それが空気玉です。大きいものから小さいものまで、いろいろな空気玉が空中を飛んでくるのがわかります。
じつは新しい星を発見するのは、こういうときです。うまく表現できないのですが、気配が研ぎ澄まされるのではなく、自分自身が「無」になって、気配と同化してしまう。だから空気玉も見えるわけです。空気や風や空と同化して「無」になってしまったときに、第六感が覚醒し、新しい星の存在に気づくのだと思います。
自分を「無」にするというと、座禅を連想する人がいます。でも座禅によってもたらされる「無」の境地は、私がいう「無」とはまったく違うものです。
座禅がいう「無」はたいていの人の場合、脳の中で考えられた観念的な「無」に過ぎません。「無になろう、無になろう」と脳で命令して、脳の中で意識を「無」にしようとするのが座禅の「無」です。
それでは意識は肉体のおりを出ることができません。そればかりか、逆に脳の中に押し込められてしまうでしょう。
座禅の「無」が、悟りや哲学、倫理などとつながっていることも、意識が脳から離れていない証明になります。自分が学んだ精一杯の知識を駆使して、脳の中で考え抜いたことが悟りや哲学になるわけです。
本当の「無」は意識が肉体を離れてしまうので、肉体がそこにあっても、あるという気配がありません。つまり自分が気配そのものになっているため、その人がいるという気配がしないのです。
武芸の達人は、敵が攻めてきても、その人に気づかず、敵が通り過ぎてしまうそうです。気配そのものになってしまうので、相手が存在に気づかない。まさに最強の達人です。
私も「無」になって、星を観測しているときは、しばしばキツネやタヌキやクマなど山の動物たちがそばにやってきました。警戒心が強い彼らですら、私の存在に気づかない。それくらい気配がなくなっていたわけです。
しかしこの状態にいつでもなれるのかというと、ひじょうに難しいものがあります。私自身も自分が臨死状態になったときと、山で天体観測をしていて、空気玉を見たり、新しい星を見つけたときくらいしか、肉体から意識が離れる「無」の状態を経験したことがありません。
「無」になれば、素晴らしい能力が覚醒することがわかっているのに、なかなかそうなれないのは残念なことです。でも少なくとも、そういう状態になれる可能性は誰にでもあると思っています。
生まれたときは全員が自我のない「無」の状態でしたし、第六感も開いていました。そこに戻ればいい。できないことはないでしょう。肉体にとらわれた意識の状態を少しずつ変えていけば、私たちにも希望はあると思っています。
マドモアゼル愛さんの「自然原理論」。
《これからは、無からすべてを生みだす発想による社会、科学、学問、世界を作らねばならないときに来ていると思います。》
《個性を生かした社会にしない限り、有を奪い合うことになります。有の奪い合いとは、個性なしの世界ということです。》
《個性とは、ギャップです。作用です。これを埋めて、誰かのようになりたいなどと、血迷いごとを述べて、自身を呪うところに、未来があるわけはありません。》
そして、
《奪い合う余裕は、もう地球には残されていないのです。何事にもキリがあるということで、本当に面白い展開にこれからなっていくと思われます。》
* * * * *
■ 大自然はモーターなどでは動かない New! 2016年05月23日(MON)
http://www.love-ai.com/diary/diary.cgi?date=20160523
形あるもの、、、目に見えるもの、、、それしかないと思えば、なるほど、最終的には奪い合いが始まる。
貴重な地球資源をろくでなしの人間たちに与えるわけにいかないと、人口削減政策まで起こる悲しみの星となるわけです。
唯物信仰は大きな誤解だと思います。宇宙の最小の単位が素粒子であるとか、さらに小さな粒子が発見されたとか言って、まるでこの世の成り立ちを理解したつもりの科学や物理。こだわるのはあくまでも物質。
本当のところ、すでに物質化した物には何の力もない、、などと、誰も思わないで当然なのかもしれませんが、この世の物は意識によってのみ生じると考える物理がこれから出てくると思います。
すでにもともとある計測できない物質のかけらを空と言ってもよいし、無と言ってもよいのです。
すべての形あるものはその集積によってつくられる。物質形成のコンダクターは物理圧、もしくは意識です。
この広大な宇宙は何によって動いているのでしょうか。どこかで誰かが大きなモーターを回しているのでしょうか。
そんなわけはないと思います。宇宙を形成し、それを常に動かす自然があるということです。
それは複雑なものであるわけがありません。シンプルでなければ故障したり途中で止まったり解体したり、壊れたりしてしまうでしょう。
原発程度の小さなものでも人類には制御できなかったのですから。
宇宙に共通する一つの法則があるはずです。どんなに小さな現象にでも、また大宇宙を動かすような大掛かりな現象にでも、そこには共通した一つの法則があるはずです。
一つでなければ宇宙はバラバラになってしまい、おそらく存続することなど不可能でしょう。
単純でシンプルな一つの法則によって、植物も昆虫も私たちも宇宙も生きて、動いているのではないでしょうか。
私たち日本人にも、海外の人にも、宇宙人にさえ、その法則は一つであるはずです。命あるものと、鉱物やプラスチックなど、物の種類によって異なることもない、普遍の一つの法則によって、物もイノチも宇宙も存在しているはずです。
すべてはイノチのかけら。計測できない、、質量もない、、、振動数も測れない、、、イノチのかけらしかこの世にはない、、、そのイノチのかけらは、もちろん生きており、ある条件によって集合したり、空に戻ったりしている。
私は飯島先生からそのように教わりました。この世にイノチでないものなど一つもないことになります。プラスチックでも、イノチの集積ですので、いつかは消えて空に戻ります。
もっとも長生きする石でさえ、イノチの集積ですから、いずれは空に戻る。
圧が高い方にイノチのかけらは集合し、集積して形となっていく。石が非常に長く形を残せるのは、高い圧によって固まったからでしょう。
周辺圧よりも高いものは、長持ちします。圧が高い方にエネルギー、すなわちイノチのかけらは集合し、集まるからです。
私がMIチューナー発売三周年を記念して作った鏡面仕上げのプレミアムチューナーは、鏡のように光っていますが、アルミ粒子がつぶされて光っています。
すなわち、製造過程で圧がかかっているチューナーになっており、エネルギーを呼び込む力があるのです。とても好評です。
石のブームもうなづけます。石には圧がかかってできていますから、石は人間や動物や植物を元気にさせる働きが間違いなくあります。
圧はわかりやすいと思います。圧が高ければ周辺からイノチのかけら、、、すなわちエネルギーを集めますから、元気になります。なぜ人が家に住まい、空間を限定させるかは、圧の原理にかなっているからです。
天井のない、、壁のない、、、家では、気圧の変化に対応できずにエネルギーが抜けて奪われるケースが多くなるからです。
仲よしの二人が一枚の毛布をかぶってお話しすれば、圧の高い空間ができ、エネルギーに満ちてくるので、二人は元気になるでしょう。子供なんかは、そんな遊びをすると喜ぶかもしれません。
毛布をかぶって、ひそひそ話しをするだけで、二人のギャップが一つの空間内で解消し、無からエネルギーを得られるからです。
素直な子供なら夢中になるでしょうが、大人だって同じです。原理は共通。ただそんなことやらないだけです。
押入れに入って遊べば、大人だって、本当は楽しくなります。ただやらないだけ。私もやりませんが、魅力的な女性ともし押入れに入れたなら、確かに元気になるかもしれません。
少なくとも、脚が痛いとか、どこかが不調だというようなマイナス体感など、すぐに吹っ飛んでしまいそうですね。
このように、圧、そしてギャップの解消は、エネルギーを呼び込む宇宙の統一原理です。地球でもどの星でも同様です。
意識は小さなイノチのかけら以上に小さな動きですから、イノチのかけらに決定的な影響力を持てます。
ですから、圧の中でもっとも高いものが、意識圧なのです。私が魅力的な女性と押入れの中に入ってお話しできたら、たちどころに体の不調など吹き飛びますが、一方の女性の方は、もしかしたら、たちまち体調が悪化するかもしれません。
容易に想像できる、、などと言って欲しくありませんが、確かにそうでしょう。それはなぜか、というと、狭い限定された空間での圧のギャップ解消、周波数のギャップ解消より、意識圧の条件が優位であるため、いくら物理的な条件が整っても、エネルギーは意識圧に従います。
ウッ、なんで私がこんな親父と押入れに入んなくちゃいけないの、、、という意識には、勝てないとなるわけです。
私たちは、つい大がかりな物事に力があると思ってしまいがちです。
何万トンも動かすモーターがあったところで、星の一つも動かすことなどできません。まして、宇宙はどんなモーターでも動かせない。
しかし、この銀河ともう一つの銀河が同一の磁力で引っ張りあっていたとすると、どちらか⒈グラムでも力を入れれば、二つの銀河の方向を変えることができます。
わずか一グラムで二つの銀河を動かすこともできる。物理でさえこうした法則を持っている。
しかし、この法則も実は物理であるように見えて、もしかしたら違うのかもしれません。一つの銀河ともう一つの銀河が、押し合い、停止している状態は、非常に圧がかかっています。
圧が高いから周辺からエネルギーを集積できる。その力によって二つの銀河を一グラムでも動かせるわけです。
掃除する際に、雑巾で床に圧がかかる。床は雑巾に負けないように反発する。その反発の際に、無からエネルギーを得る。エネルギーがあるものは、美しくなるので、床掃除をすると、ピカピカと光だす。
決してゴミが無くなったからとは違うのです。汚れるのは、エネルギーが不足した結果であってゴミとは違う、、、動物もお風呂に入らなくても毛はきれいです。
人間も本当は同様なのですが、意識圧が邪魔しているので、なかなか気づけないのでしょう。
なんでこんな話しをするのかというと、もうこれまでのやり方での地球や人類では、すでに限界に来ているように思えるからです。
形あるものは、どうにでも本来は作れるのだから、有を争い合う現在は間違っていること。戦争までして物を奪い合うのは、滑稽ですらあることに、私たちは気づいてよい時間に来たと思います。
理想で言っているのではなくて、間違っているからです。有を奪い合うということは、意識の上から、自身は有限であるという意識を刺激しますので、物の消失と共に自身も失いかねません。
反対に無からすべてを生みだす発想によれば、自身のどのような逆境も恐れることはなくなります。原因が間違っていたから、有に困るだけの話しであり、すでにある都合の悪い有を、どうにかしようなどと焦ったり恐怖など感じる必要はなくなるからです。
癌になると、人は何とかそれを治そうとする。それは当然のことですが、なぜ癌になったのかの洞察に至る人と至らない人がいるように思います。
奇跡的に癌が治る人は、原因に働きかけ、その原因となった行き方を変更した人ではないでしょうか。
しかし多くの人は、運悪く癌になった、、、早く治して、また元の生活に戻りたい、、、となり、色々な治療法を試して、失敗してしまう、、、そういうルートをたどりがちだと思います。
本当は結果はどうでもよく、すでに結果ですので、もう終えているのです。その結果が気にいらなければ、そうした結果を生みださない、もっと違った生き方をすればよいことになります。
それにより、違った原因の世界に意識が入りますので、結果として、癌という状態はふさわしくなくなり、癌は消えていかざるを得なくなるわけです。
意識の変更によってしか、癌も運命も変えられない、、、とも言えるでしょう。
すべてエネルギーの法則ですが、有を奪い合う発想のエネルギー論によって汚染されたしまった世界に私たちは暮らしています。
これからは、無からすべてを生みだす発想による社会、科学、学問、世界を作らねばならないときに来ていると思います。
はじめはやはり農業かもしれません。農は、無が育ててくれる作物を享受する作業ですので、手ごたえがわかりやすく、根幹の産業です。
ここを正さないと、次がおぼつかないでしょう。農薬に頼った農業ではない、無との協力関係を意識した農業は色々な応えを教えてくれる意味でも、これから重要だと思います。
そして何より、個性なんです。個性は本当に一人一人顔が違うように別個のものです。これが、あらゆる人間同士でのギャップを形成する要因になります。
同じ金太郎飴では力がないのです。ギャップを埋め合わせる際に、解消する際に無のエネルギーが注がれるのです。
個性を生かした社会にしない限り、有を奪い合うことになります。有の奪い合いとは、個性なしの世界ということです。
なので、一人のイノチは軽くされ、人工削減策や、優生学というまったく愚かな発想に支配層が行き着いてしまうのです。
ギャップがあるということが、この世と大宇宙が動いている大本の原因なのです。ギャップの埋め合わせによって巨大なエネルギーを得ている宇宙。
私たちはその宇宙に作用を投げかける存在。作用があれば必ず、宇宙は元の状態に戻そうとして、反作用の力を返します。それが無尽蔵のエネルギーとなります。
個性とは、ギャップです。作用です。これを埋めて、誰かのようになりたいなどと、血迷いごとを述べて、自身を呪うところに、未来があるわけはありません。
政治も行き詰まり、経済も金融も行き詰っています。行き詰るようなやり方をしているからです。
奪い合う余裕は、もう地球には残されていないのです。何事にもキリがあるということで、本当に面白い展開にこれからなっていくと思われます。
by めい (2016-05-25 05:15)
月の形成についての最新説。
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月の形成に関する有力説が否定される © Sputnik/ Vladimir Sergeev
http://jp.sputniknews.com/science/20160913/2768301.html
サイエンス 2016年09月13日 17:12(アップデート 2016年09月13日 22:27) 短縮 URL 044810 米国の地球科学者たちは、月の誕生に関する最も一般的な説を否定し、地球と月の起源の共通性を証明した。研究は雑誌Natureに掲載された。 地球と月の岩石のサンプルには、カリウムの3種類の安定同位体がほぼ同じように含まれている。これは地球の標準気圧の約10倍の圧力のもとで月の形成が起こった可能性を示しているという。 またこれは、地球のほぼ全てのマントルがかつて周囲の空間に消えて月がつくられたというシナリオを支持しており、かつて地球が巨大な天体と衝突し、その破片から月が形成されたという1970年代の一般的に受け入れられている説を否定している。
by めい (2016-09-14 05:17)