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第27回農村文化ゼミナール「人を神に祀ること」(2)「神になった上杉謙信と鷹山」 [上杉鷹山]

第27回農村文化ゼミナール米沢日報.jpg米沢日報 26年8月15日


角屋由美子上杉博物館学芸員による「神になった上杉謙信と鷹山」のつづきです。私にはたいへん貴重な内容でした。

 

近代になって神社が創建される以前、謙信と鷹山を祭神にすることについては、全然問題なかったと思うんですけれども、その具体的なところはもうちょっと調べればわかってくると思いますが、今回はタイムリミットでそこまでいかなかったので、この地域の人たちにとって謙信や鷹山という人がどういう存在であったかについてお話ししたいと思います。


上杉謙信という人は、越後で生まれ越後で亡くなった人でこの地域の人ではないんですけれども、跡を継いだ景勝が国替えをされて会津から米沢へとやってくるんですが、米沢の本丸に向って左側の小高い丘に御堂というかたちで遺骸が納められていました。明治4年に御堂が改められて上杉神社が創建されることになりました。その時の祭神は謙信と鷹山の二柱だったのですが、別格官幣社に昇格する際に一柱だけにということで、鷹山の名が外れてしまった。ただこの地域の人にとっては、鷹山を祀らないではいられないという思いがありまして、大正元年に鷹山を祭神とする松岬神社が創建されております。その後初代藩主の上杉景勝が合祀され(大正12年)、昭和になって、景勝の重臣直江兼続、鷹山の学問の師細井平洲、鷹山の改革の両腕となった竹股当綱と莅戸善政が合祀されておりまして、松岬神社にはたくさんの神々がいらっしゃるということになるのですが、もとより謙信と鷹山はともかく、その家族とか臣下もまた祀ろうという意識はどこからくるんだろうかということを考えるのも意味のあるかなと、今回思ったところです。


謙信の神格化ということについてですが、その遺骸の取り扱いということがそもそも伝説的であったわけです。英雄とか高貴な身分に上り詰める女性とかは、出生のエピソードというのがついてまわりますけれども、謙信の死についてもいろいろございます。ひとつには、米沢藩の正史である歴代年譜という、後世に編纂されているので史実とは違う部分もあるかと思いますが、その中に、甲冑を着せた謙信の遺骸を瓶の中に納めたという記述があります。その後の『北越軍談』には、遺骸を瓶に入れ塩をもって詰めたと書いてあるんですけれども、現在は漆固めにして瓶に納められたと語られる方が多い。しかしこの出典については確認ができていなくて、英雄はこういうふうにどんどん話がついてくるんだろうなあと思います。伊達政宗の墓は戦後再建される時に分析されて、血液型もわかるようになっておりまして、謙信についてもそういうふうに調べたいと言う声もあがったことがありますけれども、御子孫の上杉様は「先祖についてそういうことはしない」とお話しになっており、科学的に分析することは意味のあることかもしれませんが、静かにお祀りするという思いもまたそれはそれで受け入れられるものかなという思いもございますので、ますます触れてはいけない存在になってゆくのかなあと思います。


上杉景勝の国替えに伴って、謙信の遺骸が会津若松に移るわけです。会津の城内に移る時もいろいろ歴史的には事情があるのですが、今日はこのことは割愛させていただいて、会津若松から米沢城へと、御堂に仮安置されたということになります。御堂の建設がどういったことでなされたかということですが、慶長6年に関ケ原の戦いの敗者として上杉家が米沢に移ってくることになりますが、御堂の建設は慶長14年頃から取組み、完成したのが17年で、けっこう仮安置の時代が長いんですけれども、これは他の家臣団も含めて、上杉藩はまた越後に戻るんじゃあないかという思いがあったようで、上杉景勝も、重臣の直江兼続もなかなか町づくりをしなかったんですね。それで、いよいよどうもこの地に落ち着くようだということで本格的に町づくりに取組みはじめたのが慶長156年ということで、この町づくりのひとつとして御堂建設も行われたのだと思われます。


米沢城には石垣もありませんし、天守閣もありません。しかし、謙信の遺骸があって、しかも二の丸には21もの御堂を守る真言宗寺院があったという全国でもまれな城郭なのです。いまその場所には「祠堂跡」と書かれていますが、単なる祠(ほこら)と思われては困りますので「御堂(みどう)」と言っていただきたい施設でした。本壇に上杉謙信の遺骸を納め、左壇に毘沙門天像、右壇に善光寺三尊像が配置されておりまして、その図面は国宝上杉家文書の中に残っておりますので、当時の様子はよくわかるわけであります。(《遺骸を納めたカメの高さは三尺一寸、非常時には後板が剥がされるような細工も施され、穴蔵の準備もあった。以後、歴代藩主の位牌壇も設けられ、米沢藩において最も神聖な場所として、藩主・家臣たちの支柱となったのである。》)


御堂跡の説明板

御堂跡掲示板DSCF1979.jpg

御堂跡から松が岬神社方向を望む

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御堂跡から「伝国の杜」上杉博物館方向を望む

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御堂跡に建つ招魂碑。雲井龍雄屋代警備時代の上司であった斎藤篤信の書でした。

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招魂碑説明DSCF1980.jpg

なぜ謙信の墓を城の中に置いたのかということですが、それには複雑な上杉家の相続と家臣団構成の事情があったのではと考えています。上杉謙信には妻子がありませんでしたので、姉の子供の景勝と北条氏からやってきた景虎のふたりの養子がありました。謙信はどちらの養子も大切にしまして、景勝に与えた謙信手書きの手本や、戦場の謙信を思いやる景勝の手紙とかが残っておりまして、二人の関係はとても良好で、景勝が謙信を敬っていたということは文献的にも非常にわかるところです。景虎の方は北条氏から人質としてやってきて養子になったのですが、やはり謙信から大切にされていたのですが、謙信はどちらを跡継ぎにするかを定めないまま亡くなってしまいます。謙信的には北条氏との関わりから関東管領の職で景虎に上杉家の家督をと考えていたようでありますけれども、明らかにされないまま死去したので、その後御館の乱という家督相続の争いが起こっております。景勝は家督を相続するのにこの戦いを自ら勝ち取ったという形になります。そのために、家督を奪取したというのではなく自分が正統な跡継ぎであることをまわりに証明させる必要があったと思われます。ひとつには上杉家印章ということで重要文化財になっておりますが、その中の4つが確実に謙信と景勝が共に使ったということが残存する資料からわかっております。印章を継承するということは、後継者であることを意味することと思われます。その他、刀剣とか装束とかやはり謙信のものを大切にして引き継いだということが各処に見られるわけです。


一方で、上杉の家臣団はたいへん複雑でした。もともと謙信の旗本というのが馬廻組としていたわけですが、家督を相続したのが景勝でしたので、景勝の家臣団もいます。それと会津120万石のときすごく国が大きくなったので新参を求めました。この新参の多くは直江の組に入って与板組とよばれます。その他、謙信や景勝が領国を大きくしてゆく時に、かつて一国一城の主だった、武田家に属していた家臣団も上杉家の家臣団に組み込まれてゆくという、外様で米沢藩の中では上級武士に位置づけられる人もいます。これらは、上杉家が勢いを増してゆく時はいいんですが、関ケ原で敗れて小さくなった時には、やはりうまくゆかないわけなんですね。上杉の旗本にしてみれば、景勝・直江の方が重んじられるという中でも争い事が起きるわけです。そういう状況の中で、家臣団をひとつにする方策として、この御堂というものが非常に大切なものではなかったか。謙信を崇めて謙信の下にひとつになるということを景勝・直江が進めたのではないかと考えています。


その後、この御堂は歴代藩主に非常に大切にされるスポットとなってゆきます。それは景勝・直江兼続の意図を超えていたかもしれません。謙信の命日である313日の法要は特別なものであり、後に鷹山の改革の立役者であった竹俣当綱が失脚したのも、この謙信の命日に酒宴をしていたことが直接の原因とされています。その他、歴代藩主の参勤交代の折には必ず出発前と帰城時に挨拶するということがありますし、鷹山も旱魃や長雨で藩政改革が行き詰まった時は必ず御堂に籠り断食をするなどして、御堂の存在は絶大なるものでした。ですから近代になってこれが神社になるのはすんなりいけたものだと考えています。


つぎに鷹山の場合ですが、謙信とは時代も状況もちがうということで、二つほど考えてみました。一つは、鷹山の帝王学は儒学によるもので、それを実践に生かそうという藩主でしたのですべてそれを実行しております。荒廃した農村を復興するために豊かな実りを期して「籍田の礼」(中国の天子が田を耕すことに因む)を始めています。その他に領内の寺社に詣で、たびたび巡検を行うことで人々の暮らしを視察しています。そうした中で、秋の収穫時、にわか雨で稲の取入れに困っているおばあさんを手助けし、おばあさんが後日餅をつくって御礼に行くと、そこは米沢城であり、手伝ってくれたのは鷹山であったことがわかったというエピソードも残っています。また、水利事業としての黒井堰が完成しますと、この時は隠居していたのですが、10代藩主上杉治広と共に現場に出向き、工事に関わった人を慰労しております。こういった姿を領民たちが目にすることは、藩主が領民たちにとって身近であり、暮らしを考えてくれる領主として受け入れられていったものと思われます。こうしたことから鷹山は、力づくで命じてくる「権力者」でなく、崇め慕う「権威者」足り得たのだと思います。権力でもって押さえつけるのではなくて自ら崇められる存在になったと考えたところです。


二番目は、蚕神となった鷹山ということで、『上杉鷹山のすべて』(新人物往来社)と民俗研究者の奥村幸雄先生が報告された二つの事例がありまして、ひとつは白鷹町高玉の円福寺にある「治憲大権現」として鷹山を祀っている事例、それから白鷹山菖蒲地区の女子衆による養蚕講の事例です。これは鷹山の肖像画を掲げて「大和大聖人上杉鷹山公」と33回唱えるものです。白鷹町は米沢藩領なのですが、米とか蚕とかの生産性を要求された地域でして、非常に養蚕が盛んで、それを奨励した鷹山を崇め、さらに祀ることでその養蚕業の興隆を祈願したと考えられます。この二つの事例は、上からお祀りしなさいと言われたものではなくて、領民が自発的に行ったものとして紹介させていただきました。

鷹山公騎馬像(円福寺/江口儀雄氏撮影)

鷹山公馬上像CIMG1692-1.jpg

午歳の今年、「伝国の辞」碑をつくる会の年賀状に使わせていただきました。

伝国の辞 年賀はがき.jpg

最後に、上杉家は明治まで続いて伯爵となるんですけれども、それから第二次世界大戦後に伯爵とかの特権はなくなりまして、文化財を売り払うということが起きてまいります。その時に多分、鷹山と謙信のものを最後まで残したという風なところが見受けられます。すべてではございませんが、これは私が仕事をしていく中で、今回甲冑展をやっていますけれども、歴代藩主のものはほとんど残っていなくて、その中で鷹山のものが3領も残っていたんです。それは、これだけは売ってはいけないというのが米沢の人たちの間というか、宝物を守っている人たちの中にあったのではないかと考えるところです。また、私は上杉家文書についての仕事をしているんですが、その文書の残り方にもそういったところが反映されているのではないかと考えているところです。また、私は米沢出身なんですが、米沢市内の小中学校の体育館の正面にはどこにも謙信・鷹山の肖像画が掲げられています。それが普通にある土地柄、そして現代の川中島、川中島は長野県なのに、最上川の河川敷を八幡原に見立ててお祭りをしているという不思議な町だなあと、そこらへんに人々の謙信なしではいられないという思いがあるのではないかと考えているところです。


私はこの博物館建設に携わっているのですが、何度も会議を繰り返して、米沢は歴史が古いのでいろんな題材があるので、全部を盛り込めないから引き算をしなくてはならない。その中で外部委員の先生を喚んだとき、大学の先生方なんですが、「博物館は地域の顔なんだから謙信は関係ないんじゃあないか。謙信は新潟の人でしょ、米沢には関係ないんだ、これは省くべきですよ、盛り込むこといっぱいあるんだから謙信は省きなさい。」でも、「それは外せません。」と言うわけです。では全体の流れの中で採用するかという時に、「洛中洛外屏風」を信長からもらったというところのコーナーに謙信を武田信玄との戦いをまじえながら紹介するという形で、それしか展示場では取り上げられなかったので、情報ライブラリーというところで越後時代の謙信を取り上げた映像をつくって保管するような形にしています。


最後に、課題的なことですが、鷹山は、謙信は何の神さまなのか。謙信は軍神と言われることもあるのですが、たしかに越後流軍学の中でそう祀られたこともあるんですが、また鷹山を蚕神ということで祀られているということもありますが、そこらへんは明確ではなくて、米沢藩歴代藩主にとっては偉大なる先祖、尊敬する先祖ということになるかと思いますし、この地に住む現代人にすれば「私は違う」という方があればぜひ後でお話しいただくことにして、私的に考えるとすると、町づくりの要となって豊かな町づくりに尽くした恩人、地域の誇りとなる存在というような形での神ではないかと思いますけれども、具体的に何神というようなことができるのかどうかということは今後の課題にしておきたいと思います。


当日配布された資料です。角屋さんが語られた内容が文章になっています。あわせてお読み下さい。


神になった謙信と鷹山1 のコピー.jpg


神になった謙信と鷹山2.jpg

 

神になった謙信と鷹山.jpg


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