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上杉鷹山公と徳洲会精神 [徳田虎雄]

7年前の徳洲新聞の直言で上杉鷹山公を詳しく紹介していたのをいま見つけました。なんとこのたびキャロライン・ケネディ大使からのメッセージに引用された大統領就任演説の言葉も冒頭に出ています。上杉鷹山公、ケネディ大統領、徳田虎雄前理事長が見事ドッキングの記事です。次の言葉で締めくくられています。

新たなことを行う時は、鷹山の藩政改革同様、「前例にない」として反発を受けますが、前例にないことをすることから改革の第一歩が始まるのです。
 徳洲会の歴史も、まさにその繰り返しでした。
 今後も、医療変革の火種となり、愛と思いやりを持って新しい火を熾し、世界中に燃え広がるように皆で頑張りましょう。》

選挙違反に関しては潔くその罪を認め、毅議員の辞職によって、徳洲会バッシングの嵐も過ぎ去ったようです。肝心要の医療そのものについては本来なんの瑕疵もないのです。そこにまで立ち入ってなんだかんだ言うのは「ためにする」議論でしかない、そう思えて仕方ありませんでした。そんな動きには決して屈することなく、「改革の第一歩は前例にないことをするから」の鷹山公精神に通ずるトラオ魂でさらに前進あらんことを切に祈ります。七人の御子息たちも、かえって、新たなスタート台に立ったような清新な気持ちでおられるような気がします。(「子孫に美田を残さず、この思いは変わらない」徳田虎雄 

以下、今日あらためて発見した「直言」全文です。

   *   *   *   *   *

徳洲新聞2007年(平成19年)3/5 月曜日 NO.559直言
“生命だけは平等だ”を理念に“患者中心の医療”を世界中に
~政治の原点は福祉、福祉の原点は医療、医療の原点は救急にある~ 

ケネディ元米大統領は就任演説で 「国家が貴方に何をしてくれるかではなく、貴方が国家のために何ができるか」と説いたが「日本で最も尊敬する政治家は」との問いに「上杉鷹山」と答えたと。
 上杉鷹山は、1751年、日向(宮崎県)高鍋藩主の次男として生まれ、米沢藩主の養子となり、17歳で藩主となりました。
 上杉家は、上杉謙信の越後250万石を誇ったが、豊臣時代に会津120万石へ移封され、徳川時代に米沢30万石に、さらに15万石に減らされた。
 収入は減ったにも関わらず、格式を踏襲し出費も削減せず深刻な財政危機に陥り、重税を課し藩士は減俸され逃亡者が増え、人口が約14万人から9万人余に激減しました。
 鷹山は藩政改革を決意、徳川幕府の改革の失敗の理由を①改革の目的が不明。②推進者が一部の官僚に限られた。③改革の目的や方法が国民に知らされず。④改革が進み逆に増税をした。⑤官僚は、部下に命令して押し付けたと。「幕政改革の失敗は、全て民に対する愛情の欠如だ」と考えました。
「藩政改革の基本理念は、愛と思いやりが必要」とし、目的を「民富」におき、特に「身体障害者・病人・老人・妊婦・子供など弱者を労わる政治を実現する」とその実現は「愛と信頼で行う」とした。
 この決意を「受け継ぎて国の司の身となれば忘るまじきは民の父母」と詠み、二つの誓詞を神前に誓いました。一つは「文学・武術を怠らぬ事。民の父母である心構えを第一にする事。質素倹約を忘れぬ事。言行が整なかったり賞罰に不正がない様にする事」、又「年々国家が衰微し人々が困窮しているが大倹約により必ず中興したい」と、もしその決意を怠る様であれば神罰を蒙ってもよいと。
 鷹山は、改革の基本が緊縮政策だけでは、藩士領民が萎縮すると考え、「改革推進には、まず藩士領民がよく理解し納得して、自発的に協力する状況づくりが必要だ。それには改革の目的が、民富であるべき」と。そこで江戸の藩邸の藩士を平侍まで全員集めると、家老は驚いて「そういう事は前例がありません」と。
 すると鷹山は微笑み「例にない事をするのが、私の改革の第一歩である」と、大倹約を発令しました。
 鷹山も、藩主の生活費を千五百両から二百九両へ圧縮し、食事は一汁一菜、衣服は綿衣とし、50人いた奥女中も9人に減らし、自ら率先して植樹を行って、帰農を奨励しました。しかし永年特権の上に胡坐をかいてきた藩士の大部分は、鷹山の発想の中に武士階級否定の革命的なものを感じ、反発が相次ぎました。そこで本国の重臣達や藩士達に改革の趣旨や目的を説明する為、1769年、米沢に初入国。道中、米沢藩内の惨状を見て、「米沢の国はこの灰皿の灰と同じだ」と呟き、灰皿に小さな残り火を見つけ、新しい炭に移そうと息を吹きかけた。それを見ていた家臣団に、「この残った火が火種になり、新しい火をおこし、さらに新しい火をおこす。その火種はお前達だ。新しい炭とは、藩士藩民の事である。中には濡れて湿っている炭や火のつくのを待ちかねている炭もあろう。その中に必ず一つや二つ火をつけてくれる炭があろう。その為にまずお前達が火種となり、各持ち場で待っている藩士の胸に火をつけて欲しい」と。 

弱者への愛と思いやりが人心を掴み、大衆を動かす
 鷹山は、 藩政改革を一、自ら助ける「自助」二、近隣社会が互いに助け合う「互助」三、藩政府が手を伸ばす「扶助」の三位一体で行いました。
「自助」の実現には米作一辺倒から漆や桑、紅花等の栽培を奨励し、原料に付加価値を加えて製品化して収益を上げようとする等、殖産興業を奨励。「してみせて、言って聞かせて、させてみる」を原則とし、率先垂範しました。
「互助」としては、「五什組合」を作り、一、五人組は常に睦まじく苦楽を共にし家族の如くなれ。二、十人組は時々親しく家事を聞き親類の如くなれ。三、一村は互いに助け、救いあい朋友の如くなれ。四、組合村は艱難にあって助け、隣村よしむべし。
 そして、老いて子なき者、幼にして父母なき者、傷病者で生活できない者等全ての苦しむ者に対し、相互扶助する事を定めた。
 藩政府による「扶助」は、当時、日常化していた間引きや姥捨て等の悪習根絶の為、六千両の育児資金を養育できない窮民に与え、70歳以上は村で責任を持って世話し、90歳以上には年金を与える等の制度を制定。さらに老人を労わる孝子を褒賞し、自身も敬老を実践。
また、天明の大飢饉の際には、鷹山が陣頭指揮を執り、藩士領民の区別なく、食事は粥とし、酒、酢、菓子など穀物を原料とする品の製造を禁止する等素早く対応した。近隣諸藩では数十万人の餓死者が出たが、米沢藩では一人も出ず、さらに他藩からの難民にも藩民同様の保護を命じた。また、藩校を創立し身分の上下、年齢を問わず教育した。
 鷹山は35歳で隠居し、新藩主に『伝国の辞』として心得三カ条を与えた。一、国家とは先祖から子孫に伝えるべき国家で、私すべきではない。二、人民は国家に属しているので、私すべきではない。三、国家と人民の為に君主があり君主の為に国家や人民があるのではない。
 鷹山は、隠居した6年後に、藩主から請われて藩政改革を指導し、「為せば成る為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」と藩の借金を完済し、1822年、72歳で生涯を終えました。 

権威・権力は、メンツや利益のために変革を嫌う
 2月14日から、 ケンブリッジ大学病院のグッドイヤー最高経営責任者ら幹部が徳洲会ソフィア病院を視察し、協力方法を協議。朝礼で、「欧州一の素晴らしいこの施設を十分に使いこなして下さい。その為にはケンブリッジも全面協力します」と。
 夕食会では「医者も地域との繋がりや、コスト意識を持って医療を展開すべき」と話すと、ある医師が「医師に経営の事を言うのは間違っている」と反論。するとニコニコしながら一言「確かにあなたの様な医師はケンブリッジにもいたよ。1960年代の話だけど」と。
 さらに「今後の医療は、医師や看護師等病院全職員がコスト意識を持った上で、患者中心の医療を基本に教育すべき」と各患者さんに対するコスト管理や、疾患毎に合併症、再発、感染、死亡率など患者さんの満足度の測定方法を教えてくれました。
 また国内では病気腎移植が問題になっていますが、外国では多くの症例が論文掲載されています。
 外国へ臓器を求めたり、移植の待機中に亡くなる人が多い事を考えれば、ドナーとレシピエントの両方の利益をよく考慮した上で、病気腎移植も第三の道として残すべきです。
 病気腎の移植は5年もすれば世界の常識となり、先駆者は世界から賞賛される日がくるはずです。
 福澤諭吉も『文明論の概略』の中で「●古来文明の進歩、その初めは皆所謂異端妄説である。●昔年の異端妄説は今世の通論なり。昨日の奇説は今日の常識なり。●西洋の人は、個人としてみると東洋の人と智力は変わらない。しかし衆議して得る所の結論は見事である。●日本人は委員会など作り、その結論を出す時には、個人の智力に不釣合いな拙い物しか出せない。●文明とは人民を幸福にする事である」と。
 新たなことを行う時は、鷹山の藩政改革同様、「前例にない」として反発を受けますが、前例にないことをすることから改革の第一歩が始まるのです。
 徳洲会の歴史も、まさにその繰り返しでした。
 今後も、医療変革の火種となり、愛と思いやりを持って新しい火を熾し、世界中に燃え広がるように皆で頑張りましょう。

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成田政彦

徳洲会の応援ブログ、どうもありがとうございます。
 確かに徳田虎雄前理事長はすごかったです。
 しかし、残念ながら子供たちは「虎の威を借る」普通の人たちでした。
 単に普通の人であれば(徳田哲先生のような)まだ我々もフォローしていけるのですが、蔀局長を切ったり、能宗氏を貶めたりするような行動を採られるとついて行けません。
 ついていけないなら黙って辞めていけばよいのですが、能宗氏が貶められた状況を見て見ぬふりをするわけにはいきませんでした。
 どれだけ、能宗氏が身を犠牲にして徳田前理事長、徳洲会に尽くしてきたか、間近で見てきた者として。
 とりあえずファミリーを医療法人本体の経営から排除できたことは、今後の徳洲会の運営にとっても、もちろん職員たちにとっても良かったです。
 残念ながら徳田虎雄は二人もいませんでした。
by 成田政彦 (2014-03-20 09:57) 

めい

成田さん、本名でのコメントありがとうございます。

私の知る徳洲会内部の方々を思い浮かべてはその方々の気持ちを忖度しつつ、徳田虎雄前理事長や徳洲会への自分の思いを整理するつもりで書いてきました。

御子息たちについてはほとんど直接は知りません。《七人の御子息たちも、かえって、新たなスタート台に立ったような清新な気持ちでおられるような気がします。》は希望を込めて記しました。

「組織維持」ではなくて「原点回帰」を第一義とする徳洲会でありつづけてほしいと、切に願っています。
by めい (2014-03-20 14:09) 

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