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白井聡著『永続敗戦論』を読んで(3) 長谷川三千子(本来日本)vs.落合恵子(戦後日本) [神やぶれたまはず]

『永続敗戦論』にこうあった。

《われわれは「戦後」の概念を底の底まで見通すことによって、それを終らせなければならない歴史的瞬間に立っている。》(p.31

まさに白井氏は『神やぶれたまはず』と同じ思いで同じものを見ている、そう思い、「神やぶれたまはず」のカテゴリーに入れることにして『永続敗戦論』の読後記録を書き始めた。そうこうしているうちに、長谷川さんがいわば「戦後」そのもののような集会に単身で乗り込み発言された、貴重なユーチューブの記録に出会った。このところテープからの文字起こしに慣れてきていて、これもぜひしてみたくなって前回の記事。そしてそのつづき。


   *   *   *   *   *


《どうも私は俗受けをねらう悪い癖がありまして、みなさんが安倍がけしからんと言っていると、ついつい安倍応援団を自称してしまうような、そういう悪い癖がありますが、それについては皆さんがご心配の通り、もし私がほんとうに安倍マンセーで、なんでも安倍政権がやることを、これがいいことなんだと、これをNHKの番組にもぜひ反映しなければというような、そういう経営委員だったら、これはもう小林さんのご心配通り、それはまずいだろうということになるわけです。で、実は私、安倍応援団と申しましたのは、決して必ずしも安倍政権のやっている政策が全部いいという風には思っておりません。実は個々の反対、まずいなというものもあって、まずいなと思った時には遠慮なく反対を、まわりの秘書の方々を通じて反対意見を出せるということが、ある意味ほんとうの意味での応援団の役割であろうと思っています。ただそれにしても、なんで応援団なのか、どこに共感が持てるのか、多分皆さんがご覧になっていらっしゃる安倍晋三と、わたしがかつて、もう30年以上前青年局長だった頃からの政治家安倍晋三に見ているものとは、多分だいぶ違うと思います。で、もしかすると、これはもちろん私の勝手な買いかぶりで、この30年間に彼はもしかすると変ってきているかもしれない。ただ、私はこういうところで安倍晋三という政治家に信頼を持っていて、そしてその意味でまた自分が応援団と主張することも実はNHKの経営委員であることと決して矛盾しないと思っています。それはどういうことかと言いますと、ある意味で政治家である以上当然なのでありますが、イデオロギーであるとか、あるいは利権関係とか、そういうことによって物ごとを判断するのではなくて、最終的に長い目で見て、もうその戦争を起こすということは、国にとって最大の最悪ですから、戦争を起こさないこと、そして単に戦争がなければいいだけではなくて、できる限り貧困をなくし、そしてみんながやりがいを感じるような日本にしていくためには、一体どうやったらいいのか、これはほんとに難しい課題ですよね。それをとにかく一生懸命、まちがうことがあるかもしれないけれども、自分の頭で是々非々の判断をしながらしていく政治家、こういう政治家・・・皆さん笑っていらっしゃいますよね、少なくともマスコミに出てくる安倍晋三イメージというのはそれと正反対とお考えかもしれない。その辺りが多分、私とここにいらっしゃるみなさんとの大きな違いだと思うんですが、私自身の問題としては、とにかくそういう日本の公共放送についても、自分自身の考えで、自分の目で見て、そしてこれはおかしいなと、これは変だなと、こういう風にした方がいいなという、是々非々の判断を、偉い人たちがズラーッと経営委員委員会というのは、偉そうな男の方たちがばあーっと反対側に並んでいるんですよね。でもそういうものに臆さずになんとか自分なりの感覚を大事にしながら、先ほども田中三津さんがおっしゃった、「丸坊主、あれ変だよね」という自分自身の感覚を大事にして、そしてできる限りポエム(?)に引きずられずに自分の判断をそこに生かしていきたい。これが私自身の気持ちなんです。で、もしやっぱり安倍晋三、そういう政治家だと思っていたのが私のメガネ違いだとなったら、わたしがそんなこと突きつけたって安倍さん痛くも痒くもないと思いますが、そういう風に私が判断したら、安倍応援団を辞めます。「あなたは私の応援しようと思っていた政治家ではない」と、そういう三行半を突きつけようと思うんです。先ほど申し上げた、「安倍応援団です」という自己紹介の背後には、そういう私自身の自分なりの信条があるということをお伝えしたいと思います。》

 

それに対して、努めてにこやかに語られる長谷川さんとは対照的に、再度小林緑さんだろうか、ずいぶんイラだって発言。

《・・・(?)あのさあ、・・・(?)と思ったんですよ。ていうのも何も安倍応援団って言わなくたっていいんですよ、この人自分の意見言うのに。だってそれを言ったらどんなに反感食らうかわかってるじゃない。そういうなんかマゾ的な人ならともかく。あの、でも自分の立場を明らかにした上で、でも私にとっても反戦平和が大事なんだっていう風に言って、これひっくるめてこの人の手なんだよという疑り深い人もいるんでしょうけれども、・・・(?)こういう人がいると私ね、こういう方の話を聞くと、もうちょっと私も安倍政権の攻め方が少し(?)と思って、ぜひこういう人には適正な距離をもってつきあっていきたいなという風に私なんか逆に思うし、今日この集会に来て、また退屈するだろうな、だいたいみんなが語ることなんて聞かなくたってわかるわけですよ。今日来てよかったなと思うのは、こういうおもしろい人んだと思うわけですよ。正しさばっかりが溢れている集会なんかこれ以上伸びないよ。・・・(?)あらおもしろいじゃん、ということがないとね、集まっている意味がないじゃん、と思いません?・・・最初から解り切っていることでシャンシャン大会やるんだったらこういうことやったってムダだし、私たち、最初から負けてるわよ。》

(?)のところは、会場の共感の声やら笑い声やらでかなりにぎやかになっており聞き取れない。長谷川さんを頭から異分子と決めつけて排斥するようなこうした雰囲気とイジメを生む環境とはおそらく共通のものに思える。13年もかけて書かれた『神やぶれたまはず』も、あえてこうした場に足を踏み入れての発言も、戦後日本に巣食う、こうした雰囲気を生み出してしまわざるを得ない思想風土をなんとかしなければならないという思いがあってのことだと私などは思ってしまうのだが。

 

つづいて福島みずほ議員。

《そしたら長谷川さん、もし私たち、イメージの問題で言っているのではなく、秘密保護法を成立させるとか、そういう法律の客観的なもので思ってるんですよ。私自身は、(?)でなく、集団自衛権の行使と解釈改憲する安倍政権にはぜひ長谷川さんも戦争反対(?) がんばっていきましょう。よろしくお願いします。》

 

最後に落合恵子司会者がしめくくりへ。

《そろそろ話が出尽くしたところなので。そのうち長谷川三千子さん、安倍晋三解剖講座というのを私たちと一緒にやらせて下さい。》

長谷川さん、それに答えて、《どうぞ、どうぞ》の声。

落合さん、

《はい、お声かけさせて下さい。ありがとうございます。・・・正しいことはつまらないとおっしゃった方もありますが、私たちは直球を投げ続けるしかない。投げ続けて、投げ続けて、ダメだったらしょうがないじゃないか。でも、絶望することないです。ずーっとがんばってがんばって投げ続けるしかないんじゃないかなと、今日、長谷川三千子さんの思わぬ発言にちょっと元気になっちゃった、そんな感じもありますけれども、元気にいきましょう。お寒い中お集まりいただいてありがとうございます。》

それにしても寒いのか、落合さん左手をポケットに突っ込んだまま話されるのにはなんとも違和感を感じてしまいます。「あんなまねしちゃあいけないよ」とこれからの子どもたちには言っておかねばなりません。


   *   *   *   *   *

 

以上、テープ起こし。

ところでこの記事の冒頭部に「『戦後』そのもののような集会」と書いた。小林緑氏(多分)の二度目の発言のイラだちぶり、落合恵子氏の態度挙措、あれは戦前日本では考えられなかったことなのではないか。これまで異和を感じつつもありふれた光景になってしまっていた二人の所作が、長谷川氏の悠揚迫らず終始にこやかに語られる様によってはからずも「問題にされるべきこと」として、私には浮かび上がってきたのだった。(つづく)


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