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藤森平司先生講演メモ「見守る保育―主体性を育てる」(1) [幼稚園]

昨日、幼稚園の初出式で1時間程講話をと言われていたので、この機会に昨年6月に仙台で聴いた藤森平司先生の講演のテープを起こしてまとめてみました。これまでもっぱら幼稚園の立場から見ていた幼児教育でしたが、保育園の立場から見るとこうなんだ、ということで目からウロコの講演でした。ミラーニューロンを知ったのもこの講演会でした。そんなわけで、いつかまとめてみなければ、と思ってそのままになっていたのでした。あらためてじっくり聴くとほんとうに値打ちのある講演でした。昨日はまとめたものをずらーっと説明したのでしたが、それなりにインパクトがあったようです。藤森先生が8年半にわたって毎日2000字書き続けてきたブログ「臥竜塾」を参照しながらまとめたものです。その引用などは飛ばして話したので、帰ってから必ず読み直してみて下さいとお願いしました。これからの乳幼児教育をどう考えていったらいいかの基本が見えてくるお話でした。特に幼稚園関係者に読んでいただきたいです。時代は大きく変わってきているようです。

 

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「見守る保育―主体性を育てる」   2013.6.5  仙台

藤森平司先生

保育環境研究所ギビングツリー 代表
せいがの森保育園 園長 

大学で建築を学ぶ。他大学で小学校教諭の資格を得、小学校へ勤務、主に低学年を担任。昭和54年、八王子市に省我(せいが)保育園開園。平成9年、多摩ニュータウン(八王子市)にせいがの森保育園(子育て支援センターわくわく併設)を開園。平成147月、保育環境研究所ギビングツリー代表、才能開発財団評議委員も勤める。インターネットブログ「臥竜塾」をはじめ、グッドデザイン賞を2度も受賞するなどその活動範囲は幅広い。園での確かな実践の傍ら、全国からの見学や研修の受け入れ指導を行い、合間を見て、全国に新しい保育を広めるために駆けずり回っている。


まえおき

ブログ「臥竜塾 将来天に駆け上がるために今は伏せている竜のごとく、子供たちはたくさんのもの を秘めています。そんなものを引き出すための手がかりが見つかればと思います

 8年半毎日欠かさず2000文字「自分でもすごいと思う」

   ※以下斜体は「臥竜塾」からの引用です。

保育に取組む姿勢の基本は、「親にとって」ではなく「子供にとって』の視点

古来日本では子供本位であった

 (民俗学者の)宮本常一は、(社会教育家/喜多方生まれ)蓮沼門三氏の自伝から、農家の生活を考察しています。彼の父親が行方不明になり、母親は、貧しい家へ再婚し、苦労して彼を育てます。その貧しい中にあって、彼の義理の祖父は町へ出ていったとき、あるいはまつりの日などに、嫁のつれ子のためにしきりに絵本などを買って与えていることが述べられています。宮本さんは、「これによって当時(明治中期)、この地方(会津盆地)にも子供の見る絵本が商品として店で売られていることがわかるのだが、小作百姓の貧しい農家にも、そういうものを買うものがあったということは、われわれにいろいろのことを考えさせる。とにかく、まずしい家でも、子供はたいせつにしていたのである。」と書いています。

 宮本さんは、子供本位家族呼称でわかると言います。「日本の村落社会では、人をよぶのに、その姓や屋号をいうこともあり、また名をよぶこともあるが、それ以外にその家の小さい子供を中心にしてよぶ呼び方がある。たとえば幸一という子どもができるとすると、その父は、それまではただの名前だけでよばれるか、名字のみをよばれていたのが、「幸一のお父さん」と一般に呼ばれるようになる。同様にその母は、「幸一のお母さん」で村中通用する。祖父母も「幸一のおじいさん」「幸一のおばあさん」とよばれる。また、家の中でも子供ができると、その両親は、「お父さん」「お母さん」祖父母は「おじいさん」「おばあさん」とよぶようになる。戸主に子のある場合は、戸主がその父を呼ぶ場合でも「おじいさん」という。つまり子どもを中心にして人をよぶ呼び方だ、家庭の中にも外にもあるわけである。」

 たしかに、私の息子と娘に昨年孫が生まれた途端、今年の私へのよび方は、子どもたちからも、妻からも「じーじ」に変わりました。(2013.6.8

 

享保の飢饉 餓死するのは大人、子供は助かっている。子供には食べさせていた。子供は宝。子供を見ること―未来を感じる 夢を感じる。 ほったらかしにしていても、親の目はたえず子供にそそがれていた

 宮本常一著の「日本の子供たち」に中にも「まつりと子供」の章があり、こう書かれてあります。

「・・・もともと子どもが神聖視され、尊ばれたものであることは、子供とまつり行事の関係を見てゆくと明らかになる。・・・
民間には、多くのまつりが、それぞれ一定の日におこなわれている。そうしたまつりは、もともとは為政者がきめたものではなく、いつのころからか、民間におこなわれていたものが多い。そしてその起源もきわめて古いものが多いのだが、そうした行事に、子どもの参加することが少なくない。これはもともと、子どもが神聖視されていたためでもあると思う。そして子供が参加しないと、神のまつりのおこなえないという事態もあった。」

 このように、子どもの存在は、しきたりとして、また伝承としても大切にされていたようです。それは、次世代を担うという明確な意識ではなく、子どもに未来を感じていたのでしょう。だからと言って、大人はいつも子どもと関わっていたわけではないのです。こう書かれてあります。「働いている親たちは、そのいそがしさから子供のめんどうが見られず、ほったらかしにしているのであるけれども、親の目はたえず子供にそそがれており、子供を大切にする気持ちは強かった。」この距離感が、私は日本に伝統的に行われてきた「見守っている」ということだと思っています。「常に目は子どもに注がれている」ということなのです。そして、いざとなれば、全身で子どもを守るのです。それは、こんな記録でわかると宮本さんは言います。「享保17年の飢饉は、西日本では陰惨をきわめたものだが、当時の惨状を知るために、寺の過去帳をしらべてみると、死者は子供に比して大人がだんぜん多い。このときの飢饉は、疫病がともなわなかったから、ほんとの餓死であったが、親たちは自分がたべなくても、子供だけは食べさせたことがよくわかる。そして、“子は宝”という考え方は、日本のすみずみまでゆきわたっていたようである。」(2013.6.7)    (つづく)


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