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宮内七夕の復興(3) 宮内七夕復興への気運 [熊野大社]

宮内七夕復興への気運

 

 まだ出来て四年目、「宮内の歴史を語る会」(会長 粟野収吉)という十数人の会がある。六十代から七十代、酒を酌み交わしながら昔話をしようという気楽な会として出発したのだが、その腰の軽さ、足回りの良さから今秋「『山形学』地域連携講座」として「安部右馬助から未来へ」というワークショップを主催するにまでなった。年に四回ほどの例会をもつ。五月の例会で宮内七夕復興を話題に出したところが、予想を超えた盛り上がりとなった。幼少年期の記憶が一挙に蘇った風だった。「獅子頭は百は軽くある!」の声もあった。応援団体のトップに名を連ねることになった。

 特に神道を奉ずる(葬儀を神道で行なう)熊野大社氏子で組織する「熊野大社神道会」(会長 安部嘉一)の総会があった。北野宮司も一員であり、経緯について、その意義について詳しく話された。異議のあろうはずもなく積極的取組みが確認された。中に御獅子を所蔵するメンバー何人かあり、ぜひ出したいという意向も確認された。 

 江戸期以来、熊野大社例大祭における獅子冠行事及び神輿渡御を取り仕切る「獅子冠事務所」(頭取 齊藤喜一)。神社組織とは切り離された民間組織で、熊野大社古来の祭りの様式が現在まで護り伝えられたのはこの組織の存在があったからである。十年程前から、夏まつりの七月二十四、五日の夏まつり当日、町内にある十体ほどの獅子頭を獅子冠事務所前にお飾りして道行く人の参拝を受けていた。今思えば、宮内七夕の記憶が背景にあってのことだった。その流れでの宮内七夕復活である。

 宮内歴史を語る会、熊野大社神道会、獅子冠事務所の強力な支持を得て熊野大社の若いスタッフたちの実行に向けた動きが始まった。当初は日曜にあたるということで七月七日を考えていた。明治六年以来の新暦の導入によって、日本古来の行事と季節感とのつながりがごちゃごちゃになってしまっている。旧暦、一月遅れ、新暦の混在する。七夕をあらためて復興するにあたり、いつがいいのか。旧暦は考えないとして、月遅れか、新暦か。新暦で行なわれる夏越の大祓(六月三十日)につづく行事と考えれば七月六、七日となるが、旧暦時代の六月十五日から新暦に替わって七月二十五日に替わった熊野大社例大祭を終えた後の解放感や、真夏にふさわしい七日早朝の水浴び、そして盆へのつながりをを考えると月遅れの八月六、七日となる。宮内七夕の「復興」ということであれば、月遅れが妥当ということで八月七日の開催が採られた。

 

 

宮内七夕チラシ表.jpg

 今年は、七夕がなくなってからというもの蔵の中や棚の奥に眠ったままの御獅子たちに、まずは熊野大社へ御出動願い、一堂に会してお祭りすることを第一義とした。七夕復活を告知するチラシがつくられ、地元幼稚園、小学校に呼びかけられた。宮内地区には回覧板によって周知された。以下、そのよびかけの文。

 

 宮内の遠い記憶が今よみがえります。

 暑い夏の真っ盛り、多くの家々に所蔵する御獅子を中心に宮内のあちこちで楽しい七夕の行事が行われていました。

 86日、夏休みの一日、朝から近所の子ども達が集まって準備が始まります。よしずをめぐらした祭壇をつくります。前もって切り出してきた青竹に飾り付けをします。短冊には川の名前が書かれました。家の中では女衆が集って夜のご馳走の準備です。

 華やかに飾られた祭壇に、年に一度蔵から出された御獅子が安置されます。どこの御獅子もついこの前、おくまんさまのお祭りに拝んだ熊野の御獅子様に似ています。宮内の七夕は熊野の夏祭りの民家版、地域版でもあったのです。

 暑さもおさまった頃、楽しい宴が始まります。太鼓の音に誘われて近所の人たちが参拝にやってきます。たくさんのお供えがあがります。子どもたちのはしゃぎ声がにぎやかです。仕事を終えた男衆も入ります。御神酒(おみき)がふるまわれます。

 こんな光景が宮内のいたるところでで繰り広げられました。

 翌朝はやく、子どもたちは斎竹(いみだけ)を持って吉野川に向かいます。川の側に小屋掛けして一晩過ごすことありました。暗いうちに竹を川に流し、川に飛び込んで身を清めます。7日の朝は川に薬水が流れてくるので、体を水に浸けると一年間病気をしないとも言われていました。

 この日、お墓の草刈りです。御先祖の御霊(みたま)をお迎えする準備が七夕とともに始まったのです。

 古来日本では、一年を冬と夏の二期に分け、身を清めて新たな魂を身につける神祭りの風習が大切にされてきました。お正月とお盆です。七夕祭は、御先祖をはじめとする御魂をお迎えするために、半年の間に溜まった罪穢れを祓う重要な行事でした。宮内ではそのとき、熊野の御獅子の御力をお借りしたのです。

 五十年ぐらい前までは、宮内の七夕は子供会の行事として残っていました。でも今はもうすっかり途絶えてしまっています。熊野の御神体御獅子様の御分身でもある数多くの御獅子が、暗いところでいつ出してもらえるかと息をひそめています。そんな御獅子たちの思いを受け、今年八月七日、はじめて熊野大社で一堂に会していただくことにいたしました。熊野大社の御獅子様(先代)にも御出動いただきます。御獅子たちの喜びを思うとぞくぞくするではありませんか。初対面の御獅子たち同士の語らいは、きっと私たちのこれからの大きな力になってくれるにちがいありません。ぜひご参集ください。

 

 


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めい

《自分の時間を奪われてしまった現代人。その元は、暦から来ているのです。》
マドモアゼル愛さんの「愛の日記」http://www.love-ai.com/diary/diary.cgiからです。


   *   *   *   *   *

■ 暦を征するもの 2014年01月16日(THU)

 歴代の権力者の中でも小粒もいれば大粒も。その目安としてもっとも信頼できるものがあるとしたら、それは暦を征したかどうか。

天皇は自分の時代を昭和とか平成とか名づけられるのですから、かなり上位ランクですし、徳川も一時代を築いたわけで、自分の名前が時代そのものなので、これもかなり上位ランクでしょう。

時代とは時の流れそのもの。すなわち、本当の権力者は時を征したものであり、自分の暦を持てた人が本物の上位者と言えます。

上位者だから何だということはないのですが、暦を作ることで、時代に対する強制力を発揮できるのです。

大体は、どんなに権力者であろうとも、天の運行をはずした形での暦づくりなどもってのほかであり、王様と言えども、天にお伺いを立てた上で、その存在が許される、、、という立場でした。

王権神授説がヨーロッパにあるように、エジプトでもヨーロッパでも、権力者と言えども、天に唾することはできなかったので、暦も天体の運行が基準となるものとして用いられたわけです。

そうした蒔く時も刈る時も天体の運行による暦によって決められていたのに、今使われている現代の暦はそれとは異なる地点にあります。

一般に現代の暦は太陽暦と言われますが、確かに太陽の運行に従って一年は進行はするものの、起点が春分でも立春でも夏至でも秋分でも冬至でもなく、それらの日は年によってかわったりします。

要するに、そんなことは無視。一月一日から始まる、、、それだけでよい。というのが現代の暦。平均律にそっくりです。

一月一日スタートにおける天体との因果関係は見事なほどありません。冬至がおおよそ10日ほど前で、冬至はやぎ座の0度。それから約9日から10日なので、大体、やぎ座の9度くらいが毎年の元旦になります。

やぎ座の9度とか10度、、そこにはそのデグリー自体が持つ意味はもちろんありますが、何か大きな恒星があるわけでも、黄道上の重要な地点である、春分や立春とも一切関係ない。

それを新年とし、新春というわけですが、どう考えても、新春というには無理があります。冬至から10日で春はおかしいです。

本当の正月である旧正月を祝いとする習慣や願い、思いをそこに無理やり当てはめているだけで、天体の運行上は、特別な意味はない地点。

しかし、まさに暦を征した者が本当に時代を支配する原則は生きているのです。

この、現代私たちが使っている暦によって、私たちは、ついに天体の運行や自然と切り離されていったのですから、人工的な暦通りの結果に確かになったのです。

恐るべし、暦。意味のない日付に意味を持たせ、自然界と人間活動を見事に切り離した。自然と人間を切り離せば、あとは頭がよいとか、優秀な一部の人間によって、他の全体の人間を支配することができる。

本当にその通りになりました。平均律と同じ発想です。平均律はまったく意味のない周波数をA440Hzとして、あとは一オクターブを、まったく平均に12に分割する。

なので、その音自体には意味などない。ある音域を算数的に分割した音があるだけ。なので、ドレミファソラシドをただ聞いていても、感動はしない。音自体はどうでもいい。その組み合わせによる変化を人間業として捉える。

森に行けば、木はどこにでもいっぱいある。その木をどう使うかは、人間技となる。よい家を建てる大工もいれば大した腕前ではな大工もいる。

要するに、音よりも、木自体よりも、それを扱う人が重要視されていく。平均律ではそれ自体の音が問題ではなく、音の組み合わせの腕前が重視される構造となる。

なので、クラッシクの練習は本当に大変だと思う。自身をサイボーグ化させていかねばならない部分が少なからずある。

それに対して、音自体が自然界と関係する、たとえば古代の音階の私が扱っているソルフェジオなどは、作曲しようとすれば、どんな音でも思いに沿って叩けば、すべてが音楽になっていく。

良い音楽、悪い音楽はなく、どれもその時々を示したり、叩き出す本人を映し出す音楽となってしまう。

プロもアマも関係なくなっていく。しかし平均律ではそうはいかない。一部の優れた天才的な人のみしか扱えない。音自体の魅力ではないのだから、当然そうなる。

さて、暦に話しを戻すと、それと同様の構造をしている。現代の暦は人為的な暦であって、人を自然から切り離すために考案されたものだと思う。

一部の頭の良い人たちが、きっとそうしようと、それによって人と時代を支配しようと考えたのでしょう。

それは見事にうまく進みました。おかげさまで今のようになったのですが、このままでは苦しい、、、という面があまりに強くなってきた。

自然界から切り離された生命は孤独であり、生命力の補給にも限界が出てくる。現代人の苦悩は人間が自然界から、自然のリズムから切り離されて活動を強制されている点にあるのです。

その元となるのが、一月一日から始まる今の暦。本当にうまいやり方です。

中国や東南アジア、台湾などでは、まだまだ旧正月を祝い、自然との連携を本能的に捨ててない文化になっていますが、日本はほぼ捨てきってしまっている。

ただし文化自体の中に自然が色濃く残っているので、日本人はまだ自然と離れずに多少はいられるのでしょうが、そろそろ限界が見えてきたような、、、

今更暦を変えましょうと言っても、誰も聞いてくれないでしょうし、あとは自分の中で自分の暦を作るしかないわけです。

20年ほど前に俵万智さんが衝撃的にデビューしたのですが、サラダ記念日など、あれは自分の暦を取り戻すことで命の手ごたえを得るという面があったと思う。

なので、現代のカレンダーで疲れ切った人々に受け入れられたのでしょう。

今回お届けする立春レポートは失った暦感覚を取り戻そうという試みの一つでもあります。立春はみずがめ座の15度という本当の意味での太陽暦で、天体の運行に即しています。

結局、現代人は自分の時間を奪われてしまったのです。オフィス街での昼食風景は、次の仕事のためのものであって、食事を楽しむ自分時間の中でのスケジュールではありません。、

朝はもちろん、朝食抜きで仕事時間に合わせる人も多いでしょう。夕食でさえ、残業の合間にちょこっと食べる、、、というような人も多いはず。

トイレの中でも大忙し、、、トイレなど意味ない時間になってしまう。人の作った時間で生きていると。

自分の時間でトイレにいけない、、、何か悪いことをするかのようにトイレに行かねばならない、、、自分時間でないから。人の作った時間で生きているから。

それが習慣になってしまうと、自由時間がたとえできても、もう自分の時間になれない。何をしても手ごたえがない、、、何をしていいかがわからない、、、

自分の時間を奪われてしまった現代人。その元は、暦から来ているのです。

自分の時間を取り戻すにはどうしたらいいのか、、、
俵万智さん的な世界を持つことも大事でしょうし、自然と直につながる面を強めることも大事でしょうし、歳時記などを見て、自然界と人間との長い付き合いを知ることも大事でしょう。

都会でも、何月何日には、影があのビルのあそこまでかかる、、、というような自然界の分析ができるだけでも私たちは自然とつながることができます。

時間だけを聞いて、今が何月何日である、、、と、もしわかるようになれれば、それは素晴らしいことですし、雲の状態を見て、あさってから強風がやってくるなどと、観天望気に詳しくなるのも面白いことでしょう。

植物は自然界と大体はつながっていますから、植物を栽培するのももちろん自然とつながる方法の一つでしょう。

自分をうしなってしまい、本調子にない人が多い現代。暦を取り戻すことです。自分の時間を取り戻して、これまでとやっていることは同じでも、それが自分の時間で行われているのか、人の時間の中でやらされているのかを、きちんと分析し、対応した方がいい。

人の決めた時間でトイレに行き、食事し、寝ているのは、実は奴隷ということなのです。

私も真面目なのでつい奴隷体質になる時があるので、これは注意深く見ていなければならない。

それだけ巧みに暦は浸透し、現代を形づくっています。しかし、自然界からしかエネルギーはやってきません。

そろそろ私たちの人為的な暦も限界に達しています。コマーシャルを打っても売れない、、、宣伝してもダメ、、、あるルートにのりさえすればいいはずなのに、ダメ、、、という人為構造が限界となりつつある。

間違いなく個の時代が始まるのです。どんな個も支えてくれるのは自然です。自然と直結した自分の暦を作りましょう。自分の時間で生きる習慣に変えましょう。

会社にいかされているのではないのです。あなたが会社を選んで行ってるのです。

仕事をやらされているのでは危険です。貴方がやる仕事以外もう必要ありません。やらされながら三年も無理したら、殺されてしまうかもしれません、

平均律音階を自由に扱うことはできなくても、自分の音楽を作ることはできます。風の音と自分の声を合わせて歌を歌ってみてください。子供がソバにいたら、きっと喜んでくれます。

今年は時間を取り戻す観点から、立春、春分、夏至などを重視して行きたいと思います。

立春レポートのご案内のつもりがまた長くなってしまい、申し訳ありません。ともかく、立春に私が易占をしまして、その模様などを動画に収めブログにアップする、、そしてその解説をメルマガにしてお送りする、、、そんな形を今のところ考えております。

愛先生が易占、、、というと驚かれる方も多いと思いますが、自分流で結構長く、30年以上の経験があるのです。ただし自分流ですが、384卦ほとんど頭に入っています。今は亡き紅亜里先生の影響で覚えたものです。

占星術師は意外と易占の好きな人が多いです。もちろん占星術からも立春についてコメントさせていだきます。

ただ、また12星座ごとにわけると長編になってしまうので、春分図から見た今年については前回の2014年を占う、、、を基本にしていただき、あとはもう少し、個別な視点から今年の特徴を見ていきたいと思っています。今しばらくお待ちください。

立春レポートのお届けは、立春に易占をして、その模様をまず動画アップし、その後、文章を起こしてからの配信となりますので、時期的に言いますと、2月10日くらいの配信になると思います。春の訪れを感じるタイミングで立春レポートをお送りする予定です。


by めい (2014-01-21 07:22) 

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