宮内七夕の復興(2) 宮内七夕の記憶 [熊野大社]
宮内七夕の記憶
古来宮内において旧暦七月六日の夕から七日の朝にかけて七夕祭が行われてきた。明治以降新暦に変わってからは新暦八月六日、七日となった。
宮内地区の多くの旧家に、熊野大社の御神体である御獅子様を模した獅子頭が伝わる。その獅子頭を正面に安置し、その両脇に川の名前を書いた短冊を下げた青竹を飾る。「南陽市史 民俗編」に「七月七日 なのかび」と題して次のようにある。
前日六日の午後に、青竹をとってきて、色紙に「天の川」「最上川」などと川の名前を墨で書いて短冊にして結び、川原に近いところでは、子ども達が小屋を建てて、馬鈴薯やら塩くじら、野菜を大鍋に煮て食べ、一晩泊まる。真っ暗になってから、七夕飾りを川に流し、トランプなどをしたり、試胆会などをやることもあった。七日の朝は暗いうちに川に飛び込んで水泳ぎをしたが、七日の朝は川に薬水が流れてくるので、体を水に浸けると一年間病気をしないというので、われ先に川に飛び込んだものである。(p.228)
そのあと、「盆箸とり」がつづく。
盆の準備も七日から始まる。七日の朝に墓場への道の草刈りをし、各家々で自分の家の墓のまわりの草を取り清掃する。その帰途に川原などを通って、盆箸にする柳の枝をとってきて、皮をむいて柱などに縛って、真直ぐなままに乾くようにしておく。・・・宮内粡町では、七月六日に家の前に棚を作り、「お獅子さま」と称して、庭で竹に短冊を飾り、棚の上段に、家々で持っている獅子頭を上げ、太鼓を持っている家では、それを叩くという行事があった。多分に熊野大社の祭礼と関係を持つ行事なのではなかったろうか。(p.229)
宮内本町の旧家村上ヒロさん宅に当時の貴重な写真が残されていた。中央に写るヒロさんが昭和六年生れなので、昭和十年を少し過ぎた頃と思われる。昭和の初頭、私の家でも庭に飾って賑やかだったと大正十年生れの叔母が懐かしく振り返る。戦後はいつの頃からか子供会行事に遷っていった。昭和三十年代はじめの夏休み、舞台掛けして演芸会をやったり、七夕飾りの前に一同が会してちらし寿司やら五目ご飯を食べたものだった。しかしその記憶もわれわれ年代まで、おそらくここ半世紀、すっかり絶えていた。
『宮内文化史資料』第二十集に、三須良助氏が大正末頃の子ども時代の七夕を思い起こして書いた記録がある。当時の様子が生き生きと目に浮かぶ。以下抄出。
・・・嵐田壁屋の若衆が三人、大八車に沢山の青かややよしず囲するすだれ天幕、それに紅白のくじら幕だの二十本程の杭、それに新しい筵、御獅子様に御幣、それから三段山形のローソク立てまで持って来た。
若衆は先ず家の内玄関の戸をはずし、六畳の二の間の回りに紅白のくじら幕をはり、玄関近くに家の三段になっている植木台を置き、母が蔵から出して来た赤いケットを掛け祭壇を作り、一番上に御獅子様を安置し、一段下った左右に本式の梵天を立て、その前に三段山形のローソク立てを置き、まるで熊野神社のお祭の時の北野様に安置される御獅子様の小さくした様な何からかにまで本式の立派なものだ。玄関入口の両側には小さな竹に短冊をつけたものを結びつけそこからかぎなりに青がやで垣根を作り、垣根の裏に天幕を張りまわりをよしず張で囲いまわりにくじら幕を張り、新しい筵六枚ほど敷き、子供達の控え場所を作ってくれた。通りの門口には短冊をつけた大竹が右左に立てられ、その下に私の書いた七夕祭と書いた行燈を左右につけ、佐野様の側に二間おき位に杭を打ちタナバタ物語と書いた行燈から順々に物語に従って行燈を提げ、御獅子様を安置している内玄関まで行燈を提げた。
お昼過ぎまでかかり、すっかり出来上がると、お祖母ちゃんとお母ちゃんが出て来て、
「ホウホウ、立派だごど、本式だコレァー」
「たなばた様に何上げだらよかんべナー」
と言って、お祖母ちゃんが倉の方に行かれた。私は今年のたなばた様があまり最初の予定より大げさになって恥かしい様な自分には不相応の様な心地がし困った様な心地がしてきた。殊に自分の書いた行燈の画がみんなに見られるかと思うと今更ながら気まり悪いような心地がして来て、書かなければよかったと軽い後悔さえわいて来た。》
こうして飾り付けが終ると、嵐田壁屋の親方から酒が届く。それを見てお祖母ちゃんが母ちゃんに、
「何だべ先ず、熊次郎はお獅子様に上げでごやえナテ、子供のたなばたに酒持って来て・・・ハアーショウヤーコレアーきかず野郎の栄ッ(親方の息子)も喜んではまっているもんだからソレアー嬉しェぐなってお獅子様に上げどごヤェでなくて我れエダ飲みだェどごだべソレァ―、おせえ仕方ネんだがら何か箸をさェでも作って親方と若衆呼ばって飲ませんだー。」
《私達は早目の夕食にみんなでソーメンを食べていると壁屋の親方と弟の留三と昼に来た若衆三人が庭に入って来た。親方が若衆が持って来た縄と紅提燈十五、六を解きながら、若衆に家の門口から内玄関まで稲妻形に縄を張らせ、それに酸漿提燈を所々に十五、六個もつけ、
「これでよし、これでよし。」
と、まるで自分の家のたなばた祭の様に喜んで眺めていると、お祖母ちゃんが出て来て、
「サェ―みんな家さ上って何んにも無ェげんと一杯あがってオゴヤェ先ず、今日ハァ―みんなに何からかにまで作って貰っては子供達も大喜びだぜェ―セエ早くあがって一口上ッテオゴヤェ先ず。」》
子供達は庭の子供控えの場所に寄って太鼓を叩いていると、八郎君がその頃まだ珍しい高級な活動写真機械と白い幕を持って来て映写会の準備。その頃行燈、提燈に灯が入り、行燈に画いた絵に感心して見入る製糸工場の女工さんもいる。
《次から次からと、ぞろぞろ来る見物人はみなお獅子様を参拝してから隣の八郎君が映す漫画の活動写真を黒山の様にたかり活動写真を見て笑っていた。すると、
「アラ、アラ、にぎやかなたなばた様だごどオラ。」
と言って団子屋の母ちゃん(壁屋の親方の妻)が大皿に団子山積に持って入って来た。
「アラ、アラ、おもどサ、ソゲ心配スナエドゴヤエ先ず、サア上ってオゴヤエ。」
と、母ちゃんが言っておられる。壁屋の親方が、
「アラ、アラ、ニシャまで来たごど、先ず。」
と言って大笑いしていた。》
《上段ではお祖母ちゃんはじめ、母ちゃん、団子屋の母ちゃん、姉さんに車屋のかがさ、女中のお冬など、今持って来てくださった団子で茶を飲んでおられる様子。お祭は増々華にたけなわになって来た。私達が庭の控所で西瓜やまくわ瓜を食べ、サイダー等を飲んでいると、門口から稲妻形につるされた紅提燈のローソクももう終ったのか所々ぼつぼつ消えてきた。》
「サア、ソロソロ九時になったし、明日は四時起きして川原に行って薬水をあびに行がネバナンネエがら終りにした方がよかんべハー・・・」と親方の声がけでみんなが引けてゆく。
《今夜は乙次君、栄ッ、勝三の三人は家に泊ることになり、明日午前三時半に起き川原に行くと言うので、茶の間に床を敷き揃べみんな床についたので、いつも二の間に寝ている私の床も今夜は茶の間にお冬に運ばせ、みんなの側に引いてもらい目覚時計を三時半にかけて床についた。》
そして翌朝、
《私が一眠りしたかと思うと乙次君が目を覚し、
「秀松ッア、早く起きて行くべー」
と言うので、時計を見るとまだ三時なので、
「まだ少し早いぜー」
と言うと、
「早く行ってきれいな薬水アビンベー」
と言うので、それもそうだと思いみんなを起こし、栄ッと勝三に短冊の付いた竹をかつがせ、私と乙次君はガンドーをつけて通りに出た。外は真暗で全く人通りがなく真黒の通りを私達の持つガンドーの光がサーチライトの様に通りを照した。私はなんだか赤穂浪士が仇討に行く様な昔の盗賊の蜂須賀小六が勢揃いして歩いている様な心地がし、粡町から内腹川原に行く田圃道にかかると川原に行く子供達が大人にまじって提燈をつけて行く者、ガンドーを照らして行く者達がまるで狐の嫁入りの行列の様にぼっぼっと黒い人の影と燈が見える。川原の方を見るともう水あびしているのか処々で赤々と焼火をしているのか何か戦争の時ののろしを所々で上げている様に見えた。私達が内原橋の側まで行くと、一段と盛んに焼火をしている火のまわりに嵐田壁屋の若衆が五、六人がふんどし一つの裸で火にあたっていたが、私達を見つけると「アッ来た来た、コッチダゾー」と大声を出し、又一段と火を焼やしながら「先ず水あびてこい。」と言うので、私達も裸になり竹の短冊のついた竹の小枝をめいめい持ち川の中程迄入り「ねぶたが流れろ、流れろ、流れろ」と言って流してやった。
私達は思う存分水あびし家の前の総門の前でみんなと別れて私一人家に帰ると、女中のお冬が、
「乙次ッア小便ムグステ行っタゼ オラ。」
と、こぼしながら布団の仕末をしていたが、今朝乙次君が早く目を覚し早く行こう行こうと言った理が解った。
と、見事(?)オチがついて、三須良助氏の宮内七夕の思い出話は終っている。当時の七夕の様子がくっきりとイメージ化されるのではなかろうか。宮内のあちこちでこうした光景がくり広げられていたにちがいない。
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