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宮内熊野に探る「祭り」の意味 [熊野大社]

数年前から南陽市民大学講座の運営委員をしている縁で今日講師を務めて来た。確か4月頃依頼があり、宮内熊野の祭りについてという指定だったので、テーマを「宮内熊野に探る『祭り』の意味」とした。いつもの如く行き当たりばったりで今日まできた。夏まつりと七夕を考えていたのだが、いよいよ資料を作らねばならなくて切羽詰まった10日前ぐらい、「熊野大社年中行事」の紹介を主眼にすることにした。「はしがき」で猛宮司は「幸いにも後世に残り伝えられるならば望外の倖」と言っておられる。猛宮司の思いにいささかなりとも添うことができればと思うとうれしかったし、張りきった。薄くなりかけた小さなガリ刷りから抄出した。楽しい仕事ではあった。私にも記憶のある宮内のかつての情景が心に浮かんでくる。この懐かしさを共に味わっていただけたらと思いながら作った資料、そのまま掲載しておきます。

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宮内熊野に探る「祭り」の意味

○「祭り」の本義

・祭りとは何か。戦後日本人の祭りに対する認識には大きな変化があった。

・昭和十六年(1941)発行『広辞林』では、「祭」は「神に奉仕してその霊威を慰め又は祈祷、祓禳、報賽のために行う儀式の総称」とのみある。

・平成五年(1993)の新明解国語辞典では、「①神霊に奉仕して、霊を慰めたり祈ったりする儀式。また、その時に行う行事。②記念・祝賀などのために行う行事。〔広義では、商店がある時期に行う特売宣伝をも指す〕」。

・戦後、①→②への重点移動   祭り=賑わい

・東日本大震災における「祭り」自粛の本末転倒

《いったいこれはどういうことなのか。この流れにそのまま身を委せていいのだろうか。
 思えば、戦後日本の思想界の主流ともなり、何よりも公教育の現場でわれわれにたたき込まれることになったいわゆるヒューマニズムなるものが祭りの本義とは相容れないものなのではなかったか。/ ヒューマニズムあるいは人間中心主義と言えばややもするときれいごとに彩られて聞こえはいいが、言ってしまえば「今生きている我れが第一」の個人主義思想。まずは「我れ」があっての物種、我れ以外の一切は常に第二義、極論すれば先祖から子孫までをも含めた他者のすべて、さらに自然存在のすべてを我れにとっての手段にまで貶めて恥じることなき、日本古来の感覚からすれば実にうとましくもおぞましきだき唾棄されてしかるべき感性に立脚するところの考え方ではなかったか。他者との、自然との、ひいては神々との心の通じあい、心の融和交流をもって本義とする祭りとは相容れようもなかったのである。
たかだか二、三百年、貨幣経済の伸展に歩調を合わせていまや世界を凌駕しつつある西洋に端を発した外来近代思想に、太古以来万世に及んで脈々と伝えられてきた祭り本来の意義を絡めとられてしまうようなことがあっては決してならないのである。このことは祭りを考える際の基本である。》平成六年(1994)記

○北野猛著『熊野大社年中行事』

  宮内文化史資料別冊として宮内文化史研究会(代表黒江太郎)より、昭和四〇年(1965)発刊。

はしがき
  昭和三十八年(1963)八月、毎年夏に滞在する小国町小玉川飯豊山小屋において、二十一日から三十日までの間に「手元に一冊の参考書も無く、記憶を辿って書きならべたもの」。「幸いにも後世に残り伝えられるならば望外の倖」。

一、元旦祭
《くろずんだ杉の大木が荘厳にそそり立っている。ツメアレといわるる夜来の嵐もすっかり止み、白雪で浄められた社の御庭には庭燎(ニワビ)が赤々と燃えている。輪奐(りんかん)の美を誇る御社が闇にくっきりと浮び、何ともいえない神々しさが辺りを包んでいる。これが熊野大社の元旦の表象だ。》
《昔からの仕来りで火打石をお宮から求めたり、神前に御灯明がともされ参道や神苑に庭火を焚くということなどの昔から続けた行事のなかに、日本民族の清浄さ清潔さをしみじみと考えさせられるのである。》(火打石:吉野川特産)
《昔の元旦詣はまた大変なものであったらしいが、その中で最も記憶に残っているのは裸詣と夏祭りである。裸詣はその名の如く丸っ裸で、紺の前垂れに鉢巻姿の逞しくも凛々しい姿が今でも目に浮ぶ。そのころには夏詣は相当盛んであって、白地の浴衣にワラで作った足高草履をはいて足袋を履かない。背なかにはウチワを差して、猛吹雪でも何処吹く風とすまし込んで御坂を登り下りして居たものだ。》
《年末年始には町役銭という制度があった。町はずれに神社から役人が出張して、町に入ってくる品物から税金の代りに、物が納められていた。薪ものが主であり、橇に積んだ荷のうえに町役銭の薪を別に積んで来たものであった。元旦やお祭りの大道商人からも町役銭と称していささかの金を納めさせていた。夏のお祭りには、大正になってからも社務所の提灯をかかげて募金していたが、時世の変遷で収金も少なくなったので中止してしまった。》

二、天下泰平長日祈祷会
《後白河天皇の勅命によって創設されたもの・・・後白河天皇が御即位の年に当社に勅命があって、即位の年すなわち保元元年(1156)の大晦日から翌二年正月七日までの七日間の大法会が行われた。・・・その当時の長床(ナガドコ 根本中堂)は、二十四間平方の大伽藍であったと伝えられ、大江文書にはそのことが誌されていたと伝えられている。》
《聖旨を戴いて天下泰平長日祈祷講という講中が結成され、聖上と万民の安泰を祈祷し、併せて講員の家内安全業務円満を祈って、一万度の大祓様を授与して民福を祈念した。》(一万度の大祓様:万度の祓をしたという祓串。近世、神職が家々に配り歩いた。)

三、年始日
《正月五日に行なう。・・・社家寺院は早朝から小僧や若者を連れて檀家や祈願所の壇中への初春の廻礼日。・・・廻礼を頂いた檀家や壇中は、御年始として何程かを持って社家寺院を訪れて新年を喜び合ったものである。》(廻礼:新年の祝詞を述べるために、親戚・ 知人・近隣を訪問すること)

四、七草祭
《正月七日、天下泰平祈祷満願の日に行なう。この祭りは御門祭(ミカドマツリ)で、一山の社家坊中諸役人が藁を持って社務所に集まり、シメナワを作り総門にかけてお祭りをする。》
《元旦祭にお供えした大取餅(五升取り二つ重ね)を七草祭の直会に頂く。》
《新しい年の門出を祝いつつ、一山融和のための新春の行事。》

五、壬辰(ミズノエタツ)
《火防のお祭であり、正月初めての壬辰の日に行なう。》
《昔の宮内町は、町内が三つに分かれて自治活動をしていた。本町・新町・粡町の各町には諸締という役職があって自分の町内を治めていた。・・・(次第に仕事が少なくなり)大正末期には熊野大社の神勤と消防団の援護が主な仕事であった。壬辰と初午祭と虫送り、それに大祭もみなこの諸締が世話した。》
《壬辰には三町諸締が従者一名をつれて来社され、昭和の初めごろには各町から二円ずつの御供料があった。祈願祭が終ってから社殿で直会をいただき、各町諸締は従者に手桶を持たせ、祈願した水を各町内にもち帰って「ミズノエタツ火伏せ火伏せ」と大声を出して町内を巡り、町家の屋根に水をかけて回ったものである。翌日神社から壬辰火防の神札が氏子の各戸に配られた。》

六、初午祭
《初午祭といえばお稲荷さんを思い出すが、熊野大社にも昔から初午祭があったことから察すれば、お稲荷さんの専売特許でもない。》
《正月休みも済んだ二月の初午の日に、農家の守護神の保食神(ウケモチノカミ)や五穀に関係ある神を祀った。》
《熊野の神が産霊(ムスビ)の神であり、万物創造育成の親神である。熊野の大神が作神として最も古くから最も広く信仰されて来た。その農耕の守護神である熊野の大神の大前で、初午祭を行なった昔の人の考え方も理の当然であり、わが熊野大社に昔から農民のために初午祭が行なわれて来たことも納得できると思う。》
《熊野の神が神御親神(カムミオヤカミ)と申しあげ、私達の最も遠い親神であり、また造化の神、国土の産みの親神として国を産み島を産み山川草木をも産まれたのである。最も神徳の高い親神であられることからして、熊野信仰が日本では諸社の信仰に先んじて民間の信仰となり、大衆の上に根をおろした。お稲荷さんより先んじて五穀豊穣の作神となり、家庭和楽の神として、所謂熊野信仰となって風靡するに至り、古社ではその数も最も多く祀られている。》
《大正期までは祈願祭として三町諸締が行なって来た。・・・とぼとぼと御灯明がともされ、おごそかに御祷が行なわれた。終ってからあの古めかしい社殿で、灯火をかこんで直会が行なわれ、切身のお肴で神酒を酌み交わし四方山の話をされていたことを憶えている。》

七、火まつり
《旧二月十一日に行なわれる鎮火祭。熊野大社には火防に霊験勝れた宥日御匠に縁ある宋版大般若経六百巻があり、この大般若経を転読して火防を祈る。》
《大正期にはその頃の金で三十円の町費が、宮内町消防団鎮火祭費として予算にもられ、消防団幹部総出で厳重に執り行われて来た。》
《このお祭りの神酒や煮染など祭りに要する物資は、すべて神社の切符によって賄われて来た。神酒や煮染はもとより、ゴマ塩味噌漬など一切が一枚の切符で氏子がすすんで奉納して来たことは、まことに珍しい慶事である。また昔は沢山の赤飯をつくって小供達に振舞ったものである。》

八、山ノ神祭  付三石祀
《青麻神社、山神、大宮子易神社は妹神堂から明治初年に移されたもの。敷石のつきあたりにあった土社(不動尊)の東に祀られてあったのを大正十一年に現在のところに移された。》

青麻神社
《中風(中症)の神として信仰》

山ノ神
《祭日は二月十七日。初山としてこれから山で働くことになる。》
《農家や樵さん達は、ワラであんだシメ飾りに餅やスルメや木炭などを組み合わせ、お宮のかたわらの樹木の枝に下げ、お明りをともして一生懸命に今年の無事安全を祈願するのである。》

大宮子易神社
《お産の神さまとして信仰。昔は白い木綿でつくった小さい枕が納められた。この枕をお借りして産婦の枕元に置いて産婦の安産を祈った。》

逆烏(サカサガラス)
《御烏さまという特殊な御守札。日本三熊野(紀州三熊野・軽井沢熊野・羽州熊野)のみが、昔から頒布しているものであって他所にはない。安産御守。産婦が産気づいたとき、産婦が産気づいたとき、逆さになった烏を切り取って水に入れて飲ませると安産疑いなしという信仰による。》

(註)いもがみ堂
妹神堂は、室町時代以前に熊野大社の規模が壮大であったころ、奥の院が山王山であり、山王権現は天台守護の神として祀られた。ここが奥の院であった頃の正参道のもっとも景勝の地にあり、当時はお宮のお堂が立ち並んでいた。今も旧社家寺院の古い墓地も沢山残っている。

九、参宮と大々神楽
《参宮の歴史は新しいが、春の初参宮と秋の菊参宮は、神社の年中行事から忘れてはならない大きな行事となっている。》
(略)

十、祈年祭
《大正祭祀令によって始められた祭。トシゴヒノミマツリという。稲の豊作をお祈りする農業祭。商工祭も兼ねる。当社では三月二十四日が祭日。往時は歴代町長が衣冠に身を正して随員をしたがえ、朱傘をかざして美々たる行列が社頭に参向されたものであった。今は五月一日花祭りと同日に行なわれている。》
(大正祭祀令:神宮祭祀令(大正3年1月26日勅令)は、戦前における伊勢神宮の祭祀に関する勅令。祈年祭を大祭とする。)

十一、花祭
《康平年中鎮守府将軍源義家が、後三年の役に戦勝を熊野の神前に祈願した。戦火のおさまった康平六年(1063)に神恩を感謝し酬恩のまことを捧げんと景政を紀州熊野に遣わし、熊野大権現を当社に再遷宮し、このとき大刀三振、御鏡三面、金幣三本、獅子頭一頭を移し、武功戦死の者十二体を木彫にしてその冥福を祈り、三百貫文を御朱印として付し置かれ、祭式は日本第一霊権現と称号し花を挿し大鼓を打ち笛を吹き旗を立て歌舞して是を祭り、神輿渡御は天皇の御幸と同じであったと伝えられている。これが恒例となり、例年春爛漫の花の候に一山をあげて行なわれ、花まつりとよばれて社人は花をかざして舞をまい、旗を立てて天下泰平五穀の豊穣を祈ったものだ。舞は熊野舞といい、歌笛の伴奏があり凱旋を祝うにふさわしい快的なリズムであったというが、今は歌詞さえ伝わっていない。
 終戦後に神社経済の逼迫から、祈年祭と鎮火祭とを吸収して五月一日に行なわれ、今は人長舞春日舞などの曲に楽人が花をかざして舞い、天下泰平五穀豊穣と商工業の繁昌と安全を祈ることになっている。》
(大津家に伝わる縁起によれば、宮内熊野大社は「大同元年諸国一般神社仏閣建立ノ官許有リテ、紀州熊野郡有馬村峯ノ神社ヲ遷シ玉フ」となっている。その有馬村にあるのが、花の窟神社で日本書紀にいう伊弉冉尊が葬られた神社。やはり「花の時には亦花を以て祭る」ならわし。両社に共に今に伝わる花祭は、宮内熊野大社と紀州有馬を結ぶ証しといえるのではないか。)

十二、七夕祭
《 諸々の年中行事は社頭で行なわれるが、七夕祭のみは氏子の民家で行なわれる。特に熊野の氏子すなわち宮内町で行なわれる七夕祭り、熊野の大社を御神体としてお迎えして行なわれるところに特異性があり、今でも獅子を御神体として祭壇に安置され仰信されている。》
《日本にはお盆の御霊祭りと新春の神詣りとがあって、共に最大の年中行事として国民の間に深く根をおろしている。今の一年は昔の二年であったこと、これは我々の先祖が熱帯から亜熱帯の米が二度取れる、暖国から渡来した民族であり、黒潮に乗り或は颱風によって漂着した民族が永く政治を支配してきたことに依って残されてきた貴重な民俗である。すなわち盆や新春の行事を考えると、盆は上半期の一年の越年の行事であり、この七夕には青竹を立て、この竹を流して早朝水浴する。これは明らかに身滌の行事であり年末の大祓の神事である。これに大陸文化が色づけして牽牛織女の物語を取入れて今日の七夕祭ができたものと思われる。》
《宮内の七夕祭に青竹を立て色々の川の名を書いた端尺を下げるのは、諸々の川で何遍も清い流れに身を清める大祓である。祭壇を築いて氏神熊野の大神をお祭りするのも納得出来る。昔の人はお獅子さまが熊野の神と信じていたことも事実であるし、それで熊野の神の獅子をかならず祭壇に飾ってお祭りするしきたりになってきたことも諾かれることであろう。・・・年末年始の行事は、神の常住する神社で行なわれるのに対し、お盆の年末年始の行事というべき諸々の行事は各自の家々で行なわれる民家の祭りとなった。特に宮内の七夕祭にそのおもかげを留めていることは嬉しい限りである。》
《日本のタナバタが大陸のタナバタと習合して本来の意義を忘れ、斉竹は飾り竹として用いられ涼を呼ぶ真夏のお飾り品と化し観光用にも重用されている。また祭壇も魂祭の本来の意義を失いこの祭りの中心のお飾りとして発達したものと思われる。
 宮内の七夕祭も今では別に個性をもった特異な行事として発達し、祭壇の有する七夕祭として全国でも珍しい行事となった、七夕祭が本来の意義を失った今日、宮内の七夕祭がばらばらになって伝わって来たとしても、宮内の七夕祭はともかく本来の姿をのこし、熊野大社の氏子によって永く守り続けて来たことは、誠に尊い事であり、心してこれが保存の施策を講ずべきであると思う。》

十三、お盆詣り
 神道による祖先の祭祀をしている家が、先祖霊璽が奉安される神社《御霊殿(オミタマ)に御供料をそなえ、霊魂をお迎えして各家庭の祭壇にお祭りする。・・・十五日には御霊をお送りして、社務所の御霊殿にお詣りして帰られることは仏教とあまり変りない。》

十四、四万八千日
 境内末社の中で一番大きい幸神社は《猿田彦鈿女の命を祀り、方角や家相の神さまである。この宮は神仏分離前は馬頭観音をお祀りしてあった。馬の守護神であり、昔は着飾った馬の参拝が行なわれたものだ。
 仏説に旧七月十日に観音様にお詣りする人は四万八千日の御利益を授けられるという信仰によって行なわれたものである。ま夏の日の暑さに一日を過ごした人々は、夕の涼風を求めて集まり、境内は夏大祭をしのぐ人出で賑ったものだ。赤いカンテラの火が燃えて黒い油煙が流れる。冷たい氷水を売る店、熱いゆでコンニャクからはあのコンニャク特有の香りが参拝者の食欲をそそる。糸の宮内と唄われた当時、若い女工さん、あんちゃん、ばんちゃんで店頭はごった返したものである。このお祭りも、戦争末期に新旧暦のさだかならぬうつりかわりの時、やれ新暦だ、俺は旧暦だという雑音と、大戦のためあの行き詰まった社会情勢の中に自然とその影を失ってしまい、今では明治をなつかしむ人たちによってわずかにその命脈を保っている。》
《置賜三十三カ所霊場巡りの御詠歌に、十九番宮内馬頭観世音
   幾たびかまいる心はみ熊野の熊野の山の馬頭観音
 と唄われ、おゆずり姿の巡礼が無心に誦するご詠歌のこえが、鈴の音とともに老杉のなかから聞こえて来た昔は懐しい。》

十五、雨乞い
 年中行事ではないが、神社にとってたいせつな大行事。
 熊野大社の雨乞いは、お獅子さまを大清水にお迎えして祈る習わしとなっていた。大正十年は稀にみる旱魃で、枯死寸前の稲田をながめていた農民達はただ歎息するのみであった。このとき町の識者から雨乞いの話が出され、それがたちまち町の与論となって地主に相談が持ちこまれ衆議一決し、いよいよ獅子をお出し申し上げることになった。夏のお祭りがすんでまだ間もないのに、又の御出ましにやるせない心をときめかして人々はみな喜び勇んでお迎えすることになった。

 神社には神官や獅子冠事務所の人や農民達がいっぱい集まってお祈りが捧げられ、事ここに至ったいきさつを世話人は神前に奏した。獅子は事務所の行衣をつけた行者によって御宮をお出ましになった。小勢ながらもエッサヤッサと威勢のよい掛声に乗って、久保粡町横町新町南町を通って大清水に着かれた。その日は沿道には砂を盛られて清められた。大清水の池の上には細木で仮宮が造られ、菊桐の御紋のある木綿の日幕で囲われていた。正面に獅子が飾られ、くさぐさのお供がそなえられ、昼夜を分たぬ熱祷が小止みなく続けられた。祈ってはまた祈り日に十数回も繰り返された。神社の太鼓が持ち出され、雨乞いの声に和してトコドンドンドンと毎日毎日打ちつづけられた。この太鼓は六、七日で両面ともに破られてしまったので、鐘小屋の稲荷さまから借りて来てたたき通した。後で太鼓の皮の張り替えで世話人は大変苦労をされた。今神社にある大太鼓はこの時に米沢で張り替えたものである。

 折角の熱祷も十日目に御験(オシルシ)のお湿りがあったが、十分の雨量をいただけるまで続けるかどうかで話し合が行なわれた。結局御験があったのだからというので中止することに決まり、そのまま神社にお帰りになった。その後一週間ぐらいして大雷雨となり、作柄はどうにか平年作までこぎつけた。


十六、虫送り
《農作に大切な条件であった害虫の駆除も、昔は気候による天然現象としてさけられない宿命的なものとさえされていた。・・・神に祈祷することによって、風や雨や気温などからくる害虫の発生の被害は最小限度に止めることが出来たという安心感と諦念を得た。》
《熊野大社の虫送りは民間行事として、三町諸締によって行なわれて来た。田の草取りもすんで稲はもとばらみし、いざ出穂という大切な時に行なわれた。またこの時季はまず一服という農閑期であったことも忘れてはならない。昔は町内の大勢の農民が参加し、消防団も動員されてこれに加勢し、松明をたいて街中をねり歩いたという。私の記憶に残っているところでは、三町諸締が各若者をつれて夜八時ごろ社殿に集まり、御祈願があって直会が行われ、皆上機嫌になって手に手に何町諸締と書いた弓張提灯をもち、神職が先導して久保粡町横町を通って十文字で改めて御祈祷をすることになっていた。その時分は勿論電灯のない時代時代であったから、店舗は戸をおろしひっそりした街中を、沢山の提灯をつけた若者たちと威儀を正して祭服姿の神官が、涼風に送られ大麻や梵天をかざしてついて行った。この清楚な行列は夏の夜の風物詩として無くてはならないものであった。十文字で祈願が終ると粡町本町方面の人々は本町を下って大曲へ、新町方面の人たちは柳町から別所前へ向い、そこで田圃に梵天やご神符をさして、害虫よさらばといった感じで各自が家に帰ることになっていた。

十七、八幡祭
《九月の十四日に夜祭り、十五日に大祭の祭典が行われる。・・・昔は戊亥の年に生まれた人たちが講を作って氏子に呼びかけ、踊りや福引の余興も行なわれ、なかなかの賑いを見せたものであった。》

十八、招魂祭
《大戦末期の戦局が苛烈となり金属回収が強行され、神社では青銅鉋金併せて九百八十貫が回収に応じて献納した。・・・このとき双松公園の郡招魂碑二基も応召することになり、その除魂式が行なわれた。岡井宮内町長はじめ各町長と各町村の事務職など大勢参列し、浄暗のなかで神霊は神璽に移された。・・・それから例年の大祭はこの神璽を奉持して旧忠魂碑に祭壇を作り、盛大な郡招魂祭が行なわれていた。のち神璽は熊野社内に移され奉安されていた。
 終戦後マッカーサーの神道指令が発令されて政教分離となり、護国の英霊の祭祀も容易でなかった。このとき熊野大社は神璽を社内にお祀りしてある責任上、また英霊の忠誠とその功績を憶い、社内に新しく招魂殿が建立された。・・・爾来九月二十三日を例祭日と定め、郡祭招魂祭の当日、神前で郡神職司祭の神祭が行なわれてから、当社の神璽を郡祭の祭場に奉持し、神霊は永久に神鎮りますのである。》

十九、神明祭
《十月十七日が大祭で、前日に前夜祭が行われる。昔は必ず草角力の奉納があった。》

二十、雑祭
《大正祭祀令によって国祭日には全部小祭として祭典が行われることになり、今日でも簡略ながら厳かに執り行われている。》

二十一、菊参宮
《秋の宮内は馥郁たる菊の香がただよい、熊野の大銀杏は鮮な黄葉に彩られ目にしみる様に美しい。昭和二十七年宮内駅長に助川一良という人が来任された。氏は春参宮の盛況と秋の菊祭りの豪華さに注目され、菊祭りにも春参宮のような団体を誘致したいと考えられた。・・・客は累年激増の一途を辿り、新潟方面の初詣団体は全面的に菊参宮に肩替わりして、数年を待たずに二十数本の臨時列車が運行されるに至った。秋朗の一日、太々神楽を神に捧げ、菊花香る宮内町はリンゴを買う人、焼麩を持つ人で賑うなごやかな風景が見られるようになった。》

二十二、お稲荷さまのお年越し
《境内には正一位高平稲荷大明神が祀られている。髙橋平両氏の信仰によって創設されたと伝えられる石祀である。・・・東京の高貴のさる霊験者が去る昭和三十四年に来宮され、神社の写真をみられて境内に狐霊の多いのにおどろかれて早速神社を参拝されて霊威に感歎されたと聞いている。
 この稲荷社には古くから高平講が組織され、各人平等の立場で品々を持ち寄り、餅をついてお祭りする慣例となっていて、この祭りをお稲荷さまのお年越しといった。・・・報恩感謝のお祭りである。》

二十三、新嘗祭
《十一月二十三日に国祭日として全国一斉に行なわれた。春の祈年祭に対し神恩感謝の心をささげる報賽のための祭りである。・・・この案内状には、あらかじめ氏子会長から神酒や神饌品や直会用の煮染やモチ米を寄進するように書き添えてある。特に神社のお祭りには従来男子のみが参列し、お祭りは男子のみの祭りの感のあったことを遺憾として、女子の参加を呼びかけているので、今日では相当数の御婦人が参加されるようになった。》

二十四、取子祭
《取り子とは特に大切な子供が産まれたとき、子供の発育が思わしくないとき、病身の人、危険な職場で働く人、又無病息災を願わん人たちが、その身柄を神にあずけて、特別の神の思愛守護により、神の子として無事息災にお守りいただくように神に祈誓することで、その祭りを取子祭という。・・・十月十七日に行なわれていたが、秋の最大行事菊祭りがはじまってからは新嘗祭十一月二十三日の午後に行なわれている。》

二十五、つめの〆縄飾り
《例年年末の大祓の日に、全社殿全建造物の神座に〆が張られ、お宮ごとに門松が飾られる。》
《年末に神社や家庭に〆ナワが張られたことは、その年の無事災難を払い清めて幸ある新しい年を迎えるためである。門松を立て〆ナワを張ることはあら玉(新魂)の神を迎えた我が家を神の御在りかとして、榊を立て〆を張った名残りである。心を新たにして我家を祝福する日本民族伝来の厳粛な行事であった。近来その本来の意義が忘れられて、ただ正月の飾りものとして慣行されて、日本民族の意義深い尊い神事もおろそかになった。生活改善のかけ声によって軽々しく全廃されるような事があってはならないと思う。》

二十六、六月大祓と十二月大祓
《上古から諸社で行なわれて来た日本民族に即した神道のもっとも大切な行事である。・・・この大祓は半歳の罪穢を祓い清めて、人間本来の神性の清浄な姿に帰り、明日からの新しい生活に入る心構えを造るための行事である。
 当社では六月三十日、十二月は三十一日の夕日のくだちに、氏子を代表して町名誉職や氏子惣代が氏子に替わって社殿に参集して行なわれる。まず祢宜が大祓詞をを朗唱し大麻切り麻(キリヌサ)の行事に移り、次いで各自が人形をとって、この人形に托して半歳の罪穢を洗い清める。なおも残りし罪穢を祓い清めんと祓物(ハライツモノ)に托して大川路に持ち出て祓いやり、かくして身も心も誠の姿に立ち返って明日の幸福を祈念するのである。》

○「熊野大社年中行事」を通して考える「祭り」の意味(「祭り」を考える原点)

神とのかかわり
・人知を超えた大いなる威力をもつ神の存在を前提に「祭り」は行われる。
・神と人とをつなぐ役割を果たすのが「神社」であり、そこに奉仕する「神主」の仕事。
・神と通じ合うことが「祭り」の本義。
・通じ合う=波長が合う。一体感。神懸り。 
・神と通じ合えるための必須条件が清浄さ。そのための禊祓い。精進潔斎。

人同士のかかわり
・共通意思が前提となって「祭り」はある。また「祭り」によって地域共同体の共通意思が確認される。おのずからなる分度分限をわきまえた秩序感覚。
・(しかしその一方で)利害打算とは別次元の「祭り」。蕩尽の場。肩書なしの平等感覚。なんでもありの自由奔放なエネルギーの解放。
・分度分限をわきまえた秩序感覚と自由・平等的感覚のバランスを担保する神の存在。
・「祭り」を通して「社会(世間)」を学ぶ。「祭り」には「社会」の典型がある。

ひとりの人として
・それ自体で完結する「祭り」。ひたすらな神への奉仕(奉祀)。「なにもかもかむながら・ますみのむすび・どうすることもいらぬ」。「ますみのむすび」顕現の場としての「祭り」。

ついてまわる「経済的腐心」

○最後に、「政教分離」への疑義

政教分離もほどほどに.jpg


祭りの根底、出発点にあらねばならないのはまずもって何よりも、神と通じ合うということなのである。しかるに、そのいちばん肝腎なところが見えなくなってしまっているのが今の日本なのではないか。このことについて指摘したのが葦津珍彦氏だった。

《古典によれば、古代人は禊祓によって、身を淨め、鎮魂につとめ、神々に接して、神意をきくのにつとめたのではなかったか。それこそが古神道の根幹なのではなかったか。》

《神懸りの神の啓示によって、一大事を決するのが古神道だった。だが奈良平安のころから段々とそれが乏しくなり、近世にはそれがなくなったとすれば、古神道の本質は、すでに十世紀も前に亡び去っているしまっているのではないか。神の意思のままに信じ、その信によって大事を決するのが神道ではないか。それなのに、神懸りなどはないものと決めて、神前では、人知のみによって思想しつづけ、ただ人間の側から神々に対して一方通行で祈っているとすれば、それは、ただ独りよがりの合理的人間主義で、本来の神道ではあるまい。》

《古神道にとって、この神懸りの神秘は、必須の大切なものだったはずである。その神懸りが権威を失った近世の神道は、古神道の生命を失って形骸を存するのみとも云い得るのではあるまいか。それは、神道でなくしてただの人間道なのではあるまいか。》(以上、葦津和彦「古神道と近世国学神道」島津書房『神国の民の心』所収)

そもそも葦津氏の批判は賀茂真淵・本居宣長らによる近世国学に向けられたものであり、根は深い。日本において江戸期すでに神は死んでいた。いや、お隠れになっていたのだ。長い闇の時代を経て、いまようやく岩戸が開かれたのではないかと先に書いた。神と人とが通じ合う世の中、新たな神代のはじまりと受け止めたい。きっと祭りの原点に帰ること、貨幣経済の相対化、これらは軌を一にしているのだろう。    (「新しい神代のはじまり―祭りの原点を問う」ブログ「移ろうままに」2012)


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