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「夏の終り」の映画を観た [小田仁二郎]

映画を観たのは何年ぶりか。この前観た映画を思い出せない。夕べ家内と行ってきた。家内と映画に行ったのもいつだったのか。

昭和20年代後半から30年代前半の時代の雰囲気は幾分懐かしくは思えたが、リアリティが薄くただなぞっているだけのように思えた。当然映画の背景にあるはずの寂聴さんと実際の小田仁二郎のイメージとは重ならない。《慎吾は胸におしあてている知子の顔を仰むかせ唇をあててきた。知子の涙が、慎吾のやせた、肋骨のういた胸をしめらせていた。》(新潮文庫「夏の終り」p59)それなのに、小林薫の腕首は異様に太くみえた。山形の病院に入院した慎吾の姪に御見舞いを送るよう知子の家に電話してきた、顔を見せない本妻の声が唯一リアリティを感じさせられたといえばいえる。小田仁二郎が生まれ育った土地に居て、母親も縁戚も同級生もすぐ目に浮かぶ者にとって同等のリアリティを映画の人物に求めようとするのがそもそも無理な話ではあるわけだが、それにしても製作の側の意図がなんにも伝わってこない見終わって物足りない映画ではあった。

ふと思い出して、寂聴さんがこの町で語った、小田仁二郎文学碑除幕記念講演会の記事を引っぱり出してきた。「週刊置賜」に平成4年1月25日から5月2日まで16回にわたって掲載されました。

平成3年10月28日、会場は宮内熊野大社證誠殿です。とりあえず3回目までアップしておきます。
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