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吉野川氾濫 [地元のこと]

718日からの豪雨は吉野川沿いのこの地区に多くの被害をもたらしている。吉野川がこんなに恐ろしい川に変貌するなどということは、護岸工事がきっちりなされるようになってからは考えられない事だった。


18日、山形市の県立病院に1030分まで行かねばならなくて、午前915分頃、吉野川沿いの県道から国道348号線に入るべく家を出た。金山に入った頃から猛烈な雨になった。かつて経験した事のない雨だった。ワイパーを最速にしても追いつかない。いつもなら80キロ以上で走る道路だが50キロぐらいがやっと。何カ所か水の中を走った。小滝地区の低い橋はもう冠水寸前。濁流が川岸すれすれまで迫っていた。348号線に入った頃は一段落していたが、いちばん激しい中を突っ切ったのかもしれない。348号線にも冠水箇所があった。


その晩、消防団の出動から戻った息子が「金山の菊地さんの家が流されそうだった」と言う。菊地さんは仕事でお世話になった家。翌朝撮ってきたのが下の写真。すべて金山地区。

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読売新聞社が昼頃上空から撮った写真。小屋はもう流されている。

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南陽市の様子が全国に報道されたので、「大丈夫か」の電話を十数件いただいた。我が家は何事もないが、南陽市全体ではかなりの被害が出ている。災害対策本部が設置された。くぐり滝崩落という話もある。

 

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吉野川が注目を集めるこんな折、吉野川土地改良区の理事を務める知人から、「事務所を整理していてこんな文書を見つけた」と冊子のコピーをいただいた。今から36年前に書かれたもので「水林部落水源地守役の辞職願」とある。江戸初期以来400年近く、吉野川最上流水林地区の水源を管理してきた地区民が、時代の流れに抗しきれずに山を下ることを決意、それに至までの経緯を述べて離村資金を土地改良区に要望する文書だ。ひとつの山村集落の盛衰がよくわかる文章なのでアップしておくことにしました。


水林地区辞職願.jpg

水林部落水源地守役の辞職願


退願の趣旨


吾が部落は現在の水林国有水源涵養保安林内に在り、四方は此の国有林に取り巻れて居り吉野川の上流地なのである。其の歴史参百余年住み付いて来たる今は五戸だけの部落なのであります。


既往の事実は江戸時代の初期の頃に北条郷であった上杉藩の北部に当る金山、宮内、沖郷、赤湯地区の約壱阡余町歩の水田灌漑用水の源流なのであった。故に水源地と設定の上、水林と称し、藩命を以て山守役を小滝村より四人仰付となり之に苗字帯刀を許し一人に付き二人扶持を賜りまして移住したるのが水林部落の創始なりと言ふ。


住民者には特に副産物の採集や製炭が許されて居り又山守の余暇に於いて田畑を開き等して自活の道を立てて来りしが、其の後天和年間に至り、藩政の改革に際し一時扶持米を廃されし事などあり、それが故に山守たちの監守の道義も相廃し、自ら濫伐、盗伐の弊相生じたりと言ふ。之に随伴して水下村々の流水をも涸濁するに至りしとのこと。茲に於いて貞享元年四月藩主再び代官小嶋次左衛門をして特に堅守の制度を立て直し、山守扶持米として六石三斗二升二合を受益村より毎年支給すべきことに改りしものなり。又享保年代に旱害の萬一に備へ水源地に貯水池を築堤されて堤守として三人移住を許され、之れ又小嶋代官御立合にて二石七斗を受益村負担に依り支給米の制度と相成りたる。以後は七戸の部落となって益々自責の念に報じ、水源山の重要性を感じ専心努力なし監守の任務を全うし来たるのであった。


明治となり廃藩の当時、水林部落の経済林の樹立をと思いしなれど之も不可能に終った事は今日尚残念に思って居る次第です。其の後官山となるや、明治十二年小滝村より水林官山の払い下げを三島県令に請願されたのであったが旧来よりの水源山なるが故に却下となる。また明治四十二年日本政府は水林官山を不用林として払下げる事にしたるので、水下関係町村は非常に之を憂い来歴事情を訴へ、当時の農商務大臣大浦兼武、内務大臣平田東助に対し、水下各町村長の連名に於いて払下の中止請願を提出されたので、国会の議事が撤回したると聞いて居り国有水源涵養保安林として存続を見るに至る。此の国有林も明治、昭和と行政の変化に依って五回に亘り払下の目■になったるが、水林部落としては古来よりの山守の名に於いて其の都度幾多の困難を忍び乍ら只防戦に勤めて来たのでありました。


斯くの如き深い歴史を見る水源山も現在では営林署の計画の元で総べてが実行されて居り、旧来より最近までは吾が部落七戸の人民生活の大部分は此の山林に依存されて来たのでありました。吾が部落は前記の如く狭小なる高冷地が故に農産物の収入も乏しく、それが為に製炭を主業として現今まで続けて参ったのですが、最近の燃料の革命は吾が部落にとっては殊更に大打撃を蒙ったのでした。是が過疎化を促し、昭和四十二年此の地を見切り二戸も離村されたのであった。如様に一変したる社会の情勢に習わざるを得ずして青年たちは皆郷土をはなれ他産業へ転職の止むなきに至り、目下老齢者だけが部落に居残り淋しく自然の死を待つような立ち場に置されている現況なので昨年四月、部落相談の上、市御当局に対し過疎移転費用等に付き嘆願書を提出したるのでしたが、最終的に於いて今年十一月を以て水林部落の解散と言ったる破目と相成る次第です。


想へば過去参百余年尊き水源地として守護の任を祖先より引き続がれて、吾れらも之を使命と心得て今日まで実行して来たるのであります。又従来より沖郷地区とは水田面積も最も大なる関係上、吾が部落とは殊の外親密なる交誼がありました。且つて部落の古老者も覚付かぬ時代より、旧小学校時分には高等科一年生、現在中学一年の生徒は毎年五月には水源地視察として部落に一泊の予定にて来村されたる実際の名簿等が山積して居り、今日尚厨川堰土地改良区よりは二石五斗三升九合の米代換金を毎年監守料として部落に与へられて居り、又之に依り役職員の方は春秋の二回は水源地視察として来訪されて居るは事実なのであります。


吾が部落創始以来此の地の監守としての重要性は篤と認識為し今日まで存続し参ったものなのであるが、日新せる社会の変化には、如様な美風をも堅守し難く部落相談の結果、今年十一月を以て水林堅守人の辞職願を提出致します。


之に就いて実に恐縮の至りに存じますが堅守の遂行を慰す可く退職金の型にて幾く何くかの離村資金を切に懇願する次第です。何卒水林部落の実情御諒察下されまして御承認相成り度く連名を以て伏して願上げ奉ります。  頓首


    昭和五十二年七月三十日


南陽市小滝水林  川合安雄

    〃       大場伊蔵

    〃       川合太一

    〃       大場宇吉

    〃       大場宇蔵


南陽市厨川堰土地改良区

理事長 髙橋篤太郎殿


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コメント 2

川合

初めまして。「水林部落水源地守役の辞職願」の写しをいただけないでしょうか?実家になかったので。
by 川合 (2014-03-15 12:03) 

めい

了解しました。
連絡先 oshosina@omn.ne.jp です。
by めい (2014-03-18 09:31) 

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