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直江兼続公の実母について [直江兼続]

10月25日、息子が山形での「天地人」シンポジウムに行って加来耕三氏の講演を聴いてきた。加来氏曰く「NHKに は教養部門とドラマ部門は全く別のセクションで、歴史を題材にする際、教養部門は事実かどうかのウラをとるが、ドラマ部門では事実かどうかは問題にならな い。山形はまじめな人が多いので、直江兼続について歴史的事実と異なるということが問題にならないかと心配だ」とのこと。実は、兼続公の実母問題はまさに 加来氏が心配するところのそれなのだ。実母の実家である泉氏尾崎家に連なる尾崎哲雄氏(85歳)は「これまで何度もNHKに 史料や手紙を送ったが無しのつぶて。その挙句、兼続公の母は直江景綱の妹としてお藤という名前で登場させるという。われわれ尾崎に関わりあるものにとって は人権蹂躙、できれば一冊の本にまとめるなどしてなんとか世の中に真実を訴えたい。是非協力して欲しい」ということで、問題はこちらにふりかかってきた。 そんなわけで、「私にできることはインターネットに乗せることことぐらい」とその場を辞してきたので、どれだけの足しになるかはわからないけれども、私の わかる範囲での事実を紹介しておきます。

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平成20年4月 発刊の花ヶ前盛明著『直江兼続』(新潟日報事業社)に「兼続の母について、与板城主直江景綱の妹とする説があるが、これは誤りである。・・・兼続の母は信 州武将泉弥七郎重歳の娘であった。」と、明確に記された。このことによって、南陽市宮内宮沢城の最後の城主尾崎重誉の曽祖父泉弥七郎重歳が兼続の実母の父 であることが定説として認知されたといっていい。(ただし、花ヶ前氏の著作では「重蔵」となっているが、尾崎文書等により「重歳」が正しい。後述の渡邊三 省著『正伝・直江兼続』も「重蔵」となっている。)尾崎家は信州の名家泉氏の総本家で、重歳は泉家17代、重誉は20代。宮内熊野大社末社の和光神社は、泉氏代々の先祖を祀る神社です。秀吉の命による国替えに際し、兼続らとともに尾崎家一統が信州飯山から当地に移って400年にあたる平成10年には熊野大社において、尾崎家本家の仙台在住尾崎翠ご夫妻にもおいでいただき、長野県飯山市尾崎地区の方々とともに400年奉告祭を斉行したことがある。
 
兼続の実母が泉氏の出であることは、渡邊三省著『正伝・直江兼続』(恒文社 1999)に記されてある。関係するところをそっくりコピーさせていただきます。渡邊三省氏は明治39年(1906)生まれで102歳、今もご健在。新潟県小千谷市ご在住。『正伝・直江兼続』は94歳のときの著作。じっくり味わいたくて手打ちでコピーしました。「重蔵」は「重歳」に直しました。
 
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◎兼続の母
 
 兼続の伝記は幾人かの史家によって試みられたが、その分厚い頁の中で、その母に言及しているのは、いずれもわずか1、2行 に過ぎない。それらはすべて兼続の母は直江家より入嫁したということになっている。あれほど微に入り細にわたって筆を惜しまなかった木村の兼続伝さえも、 このことに関しては、「樋口家略系に従えば、兼続の母は景綱(直江氏)の妹なのであるから、兼続は従姉と結婚して母の生家を相続したことになるが、果たし て景綱の妹なるや否やは正確な史料を欠いている」と自信なげに書いているばかりである。
  このことは兼続の直江家相続があまりにも突然であり、不自然な形なので、これを和らげるための粉飾のような匂いがするのである。果たして直江家より樋口家 に入嫁したとなれば、それは上田長尾氏の健在な時期であるから、両家の家格の不均衡が目立つ。一方は謙信の信頼厚い家老で、政権の柱石的存在であるが、他 方は上田長尾氏の小者に過ぎないということになると、家格において雲泥の差がある。このような両家間に結婚が成立するということは、まずありえないことの ような感じがする。
  筆者は上杉家古文書調査のため、米沢図書館に行った際、この謎を解くため何か手がかりをつかみたいと考えていた。上杉将士のうち、上田出身者を網羅した名 簿『上田士籍』については、すでに第3章に詳述してきた。この記録編纂の正確な年代はわからぬが、城地など検討してみるに、天正年間の御館の乱直後の所属 によって記入されていることは明らかである。略歴の書き込みの中には「文禄の頃」云々という文字も見えるが、これは後年の事実を補入したものである。
  『文禄定納員数目録』と『上田士籍』を比較してみるに、共通の人物の記載事項が、まったく一致している例はほとんど発見できない。すなわちこの両記録の編 纂者が、いずれか一方を参考にして、それを移記したという形跡はまったくない。『上田士籍』は藩の公式記録で、藩の機関により編纂され、藩の書庫に厳重保 管されてきた文書である。『文禄定納員数目録』は16節に詳記したように、文禄の検地の準備作業として、家臣から徴した地行高差出を集計したもので、両者 はこのように性質の異なった文書である。さて『上田士籍』には樋口兼豊について、次のように記入している。
  上田六日町
   新戸城主  後直嶺へ被遣/内膳父/兼長又景兼モト  樋口惣右衛門
   伊予ト云
                         妻信州泉氏娘
 このように兼豊の妻が信州泉氏の出身であることを明記している。
 さて『文禄定納員数目録』には次のように記されている。
  直嶺衆
 五十人小半役  妻泉弥七郎重蔵娘
 一、八百九石一斗  樋口伊予守
  右本地域領隠居モトニ
 両 記録の内容は大きく相違している。前者は兼豊を荒戸城主として、すなわち御館の乱の最中の時点でとらえているのに、後者は彼を直嶺城主として、文禄の状態 で示している。そのほかすべてが共通点がないにもかかわらず、妻が信州泉氏の出身であることだけが一致している。さきに家格の均衡のことに言及したからに は、まず泉衆について検討してみなければなるまい。
 
◎信州泉氏
 
 泉氏は北信濃水内郡泉郷に発祥した豪族で、上倉・尾崎・奈良沢・今清水・上堺・大滝・中曽根の七家に分派した。天文十一年(1542)十二月、高梨正頼は泉六郎次郎に加冠状を与えて、これに政親と命名した。(上杉文書)これは当時泉氏が、高井郡の豪族高梨氏に属していたことを示している。高梨氏は謙信の祖母の実家で上杉の重臣であることはいうまでもない。
 永禄六年(1563)に謙信は、泉弥七郎重蔵ほかの泉衆に対し、飯山城を堅守するよう命じている。同7年8月には泉弥七郎は飯山城の城主として元の如く本丸を守備し、加勢として派遣された桃井伊豆守と加地安芸守は「添侍」として二の丸に置かれたことが、『蔵田文書』に記されている。
  永禄9年3月10日には、将軍足利義昭は、泉弥七郎に対し、じきじき御内書をもって、謙信が上洛して幕府の再興をするように依頼している。この文書は景勝 が謙信の養子になったとき、義昭が景勝に与えた前掲の文書とほとんど同文であるが、いずれにせよ泉衆の実力を証明するものと考えて差し支えない。ようする に泉衆は当時飯山で、最も勢力のある豪族であった。
 長尾政景は謙信の義兄として副将軍的地位にあり、謙信遠征の期間に留守将として、春日山に在勤することが多かった。したがって樋口兼豊もここに勤務することも多かったであろう。
  泉弥七郎重蔵は信濃・越後両国に知行地をもち、将軍から御内書をいただくだけの実力をもっていた。樋口家と泉家を比較すれば、なおかつ後者の方が、かなり 家格が高いように思う。しかし樋口の主家長尾政景の地位を考えるとき、両家の間に結婚が成立しても不自然というほどの開きがあると考えられない。
  『文禄目録』中の泉衆・尾崎衆の記事についてはとくに警戒を要するが、その記事が『上田士籍』と一致しているからには、まったく疑問の余地はない。よって 兼続の母は、信濃の泉弥七郎重蔵の女であったと断定するものである。なおこれについては、本章「幕府の愚民政策」のうち、東源寺に関する部分を参照するな らば、何人もこれを納得しうるだろう。
 
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  兼続は関が原戦を通じ、石田三成とともに徳川に反抗した一方の旗頭であった。勝者のなしたことはすべて善であり、あるいは容認されるが、すべての罪は敗者 が負わねばならぬ戦国の掟の下において、兼続の罪はまさに死罪に価するものであった。しかし家康はその罪を問わなかった。それは何故か。
  この期間において上杉のとった行動は、その裏面に陰険な策謀や、虚偽不審の陰がなく、すべて真正面より正々堂々と武士の本道を貫くものだった。これに反し て家康は秀吉にたいし面従腹背の意志をもって、秀吉の死の翌日よりその遺孤を滅亡せしめようと、理不尽の限りをもって戦を挑発したのであるから、内心恥じ 入るものが合ったに相違ない。よって彼には上杉を問責する資格はなかった。
  会津120万石を一手に掌握していてこそ上杉氏は、あるいは兼続は、大きな脅威であった。しかしいま30万石に力を削がれたとき、もはや徳川にとって何ら の脅威でもありえない。家康は最初より兼続を憎んでおらず、その人物を高く評価していた。ことがすべて決したとき、さすが天下人、兼続の大才を深く惜しん だのである。
  兼続もまた180度転回して、あらゆる誠意を示して幕府の期待に応えた。したがってその間になんのわだかまりもなく、親密な関係が続いた。兼続と景勝、家 康と秀忠いずれも一流の人物である。一流の人物は、お互いに腹の内が分かる。秀忠はやや見劣りがするが、家康の影響が脈々と生きていた時代であった。
  幕府営中にあっては、老中職にあるものは、諸藩の家老が伏拝するのにたいし、兼続は手もつかず名前も呼び捨てにした。幕府第一の権臣土井利勝でさえも、兼 続に対しては手をついて慇懃に礼をし、山城守殿と呼んだ。老中安藤帯刀・成瀬隼人らも、手をつき山城守殿と敬称をもって呼ぶのに、兼続は帯刀・隼人と名前 を呼び捨てにするのが常であった。兼続は悪びれるどころか、往年の鷲のような雄気を失わず、明朗闊達な態度で、藩政あるいは幕政に尽くしていたのである。
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 ◎幕府の愚民政策

  島原の乱は江戸時代を通じての最大事件の一であり、これを契機として、幕府の政治路線が決定的な統制強化による保守反動・愚民政策へと転じたのである。家 康・秀忠やその側近の政治的力量により、諸大名を圧伏・統制した時代は終わり、組織としての幕府の権威確立を、すべてに優先させねばならぬ時期であった。 したがって老中など台閣の首脳は、幕府の威信ということについて神経過敏にならざるを得なかった。このような情勢下に、極端に幕府の威信を傷つける直江状 なるものが、巷間に伝わっているということは、幕府にとって不快にして迷惑千万なことであった。ここでたとえ死後であったとしても、兼続の処分を再検討す るという儀が、どのような形式であったか分からぬが、台閣の話題になったに相違ない。

  このことが米沢藩に伝わったのだ。幕府と上杉家・直江家の斡旋役として働いた本田正信はすでに死し、その子正純は失脚してお家改易となり、もはや斡旋を頼 むべき人はなくなっていた。そこで藩では幕府の意向を和らげるために、贖罪の意味を示す何らかの明白な事実を打ち出さねばならなかった。
  直江の菩提寺徳昌寺の破却はこのような事情の犠牲になったものである。・・・・・これは藩の禁忌に属する事柄であるから、絶対に記録に残すことはできない が、破却という事実、人々の衝撃、特にこの寺を菩提寺としていた与板組将士の憤懣は消し去ることはできない。そして口から口へと伝えられてきたのである。 藩主定勝としては深い親愛の念を抱いていた直江後室の墓を、ここに葬ってわずか5年後に破却してしまうことは、ずいぶん辛いことであったろうが、この事件 は上杉家の踏絵に他ならなかった。
 与板組は彼らの菩提寺を林泉寺に移すことを好まず、一時的に位牌を真福寺に移したが、わずか数年にして、北寺町東源寺と師檀の関係を結んだ。・・・・・
 東源寺は信濃泉衆の尾崎一家の菩提寺で、もと同国飯山地方の外様村にあった・・・・・
  要するに直江家の菩提寺が破却の憂き目にあったので、兼続の位牌を母方の泉衆尾崎家の菩提寺に移すとともに、与板衆がみなこの寺の檀家となったのである。 当時尾崎氏は衰微していたので、東源寺は「小庵」であったのだが、与板衆の力によって直ちに建築資金200両が寄進され、その後も篤く取り立てられて、寺 域広大な大寺になったのである。このことは、この章の初めに述べた兼続の母の出自と関係がなければ、とうてい解釈できない事実であり、したがってもっとも 確実なる傍証である。
 

*   *   *   *   ↑

 
この著作で渡邊氏が拠った史料は『文禄定納員数目録』と『上田士籍』であった。それとは別に尾崎家文書がある。
尾 崎家文書が公になるには錦三郎先生の功績が大きい。尾崎の歴史は上杉の正史から消されていた。当地蓬莱院は、当地で亡くなった重誉の祖母の戒名に由来する にも関わらず、そのことが寺に伝わってはいなかった。飯山から来たことが明らかな善行寺(今は米沢)にも慶長以前の記録はない。また、尾崎の家臣であった はずの当地代官安部右馬助は、その出自を越後安部庄と記す文書が残っているのだが、錦先生が手を尽くしてその場所を探しても、どうしても探すことができな かったという。あえて尾崎の家臣であることを隠さねばならなかったのか。徳昌寺破却と並行するようにして直江との関わりの深い尾崎の歴史を闇に葬ろうとす る動きがあったのだろうか。
当時南陽市史編集主任の錦先生と尾崎文書との出会いは、昭和53年(1978)、尾崎家の菩提寺である米沢の東源寺の楠行雄住職(平成7年没)による『東源寺五百年史』の発刊がきっかけだった。偶然にも楠住職(南陽市梨郷建高寺より入婿)が錦先生の教え子(梨郷小時代)ということもあり、錦先生の旺盛な探究心は隠された歴史の闇を切り裂くことへと繋がってゆく。当時仙台在住の尾崎家嫡流尾崎翠氏の信頼を得て尾崎文書の解明が進み、『南陽市史編集資料 第10号』の「宮沢城主尾崎氏関係文書」、さらに『南陽市史.中巻』に結実を見ることになる。
一方、分家筋の御子孫尾崎哲雄氏(尾崎重歳から見れば孫で重誉の父、尾崎家19代重元の弟で、分家した才九郎外記の子孫)が教員を退職された後、御自分の源流を求めて独自の調べを進められていた。哲雄氏の手元には尾崎家本家尾崎翠氏からの手紙があり、「正徳五年公献故系譜」から写しとられた以下の記載がある。(翠氏によるペン書き)
 
≪故系譜の中には 泉弥七郎重歳娘
   蘭子―樋口惣衛門兼豊室 天文廿三年十一月婚家為輿守傳士 小市源左エ門   歳長附副遣ス 兼豊後号伊豫守越別直峯城矣兼豊室慶長九年甲辰十二月十九日逝葬徳昌寺 法名 蘭室妙香大姉
   兼續―継直江
   實頼―与七継小国三河与重頼家
   女子―色部與三郎綱長室
   女子―免許直江苗字矣
   景兼―樋口与八後内ゼン 母四十一歳之時天正八年二月十一日生于越後直峯城
                         以上です≫

 
 米沢日報の成澤社長がこの原本コピーを求めるべく尾崎翠氏(長崎県大村市在住)に連絡とったところ、原本は長野県の博物館に寄託したので手元にあるコピーのコピーを間もなく送るとの返事をいただいているとのことです。   
 
  尾崎文書については尾崎哲雄氏から花ヶ前盛明氏、渡邊三省氏に伝えられました。花ヶ前氏の近著での断定は尾崎文書による裏付けによってと思われます。地元 の理解もこの方向で改められつつあります。もう少し早く大きな声で言っておれば大河ドラマも「お藤」ではなく「お蘭」であったのにと悔やまれます。なお、 お藤役は田中美佐子とのことです。

【追記 30.12.22】30.12.18の山形新聞。直江兼続公の400回忌の報道。《兼続の実母の本家と関係が深い東源寺》とある。「実母の実家」でなく、なぜ「実母の本家」と書いたのか解せないが、米沢に於いても、直江兼続公の実母が尾崎家の出であることが公式に認められるようになったことに感慨をおぼえる。

直江兼続公400回忌.jpg

 

 


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白髪騎士団

ルーツを探してここに行き着きました。

いろいろお聞きすることもあると思いますがよろしくお願いいたします

白髪騎士団VI from Kawagoe

米沢には2回素通りしています(^。^)
by 白髪騎士団 (2009-02-17 21:26) 

めい

白髪騎士団様

コメントありがとうございました。
今日、東源寺の和尚様の講演を聴いてきました。「直江兼続と東源寺」という演題です。たいへんいい内容でした。数日中に報告記事を書きたいです。
by めい (2009-02-26 23:52) 

めい

直江兼続公400回忌の山形新聞記事を追記しました。
by めい (2018-12-22 09:37) 

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