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直江公の実母が捻じ曲げられてしまった理由―米沢藩における「義」の屈折 [直江兼続]

昨年の暮れ、米沢日報の成澤社長から「元旦号に載せたいので『直江兼続と南陽』について書いてくれ」との依頼があった。何とかしなければと書きかけたもののなんともならず年を越してしまった。年が明けてちょっと本気になって取り組んだら思いがけないところにたどり着いてしまった。成澤社長に見せたら文化欄に2回に分けて載せてくれるという。題して「米沢藩における『義』の屈折」。置賜の人にどれだけわかってもらえるだろうか。

   *   *   *   *   *

南陽市宮内熊野大社の北へ三百メートルほど行くと、左手に小高い丘があります。今はりんご畑になっていますが、かつて館があり宮沢城と呼ばれていました。その最後の城主が尾崎三郎左衛門重誉です。重誉は信州飯山城主尾崎重元の子で信州の名家泉氏尾崎家の二十代です。若い頃同志四人と共に諸州を巡る武者修行に出掛けて家康の目にとまり、天正七年(1578)家康の駿河持舟城攻めに参戦して城主向井伊賀守を討ち取って禄を賜わったと「甲陽軍鑑」に記されるほどの人物でした。その後重誉は信州小布施に居を構え飯山城を守る役目を果たしていたのですが、慶長三年(1598)秀吉の命による国替えで、上杉景勝に従って直江兼続と共に置賜へ入り、北条郷宮内の地にまで来たのでした。この尾崎家こそ直江兼続公の実母の実家にあたります。兼続の母すなわち樋口兼豊の妻は、重誉の曾祖父尾崎家十七代泉弥七郎重歳の娘で、名は蘭子、法名は蘭室妙香大姉です。

実はこれまで兼続の母は、兼続の妻となったお船の方の叔母、すなわち与板城主直江景綱の妹であるとの説が一般的でした。大河ドラマ「天地人」もこの説を採って、お藤の方の名で田中美佐子が演じています。
しかしこの説に疑問を呈して独自に調べられたのが、百歳を超えて今も元気に文筆活動をなされている小千谷市在住の渡邊三省氏です。渡邊氏は『正伝・直江兼続』(恒文社 1999)の中で、『文禄定納員数目録』と『上田士籍』とを比較考証して「『文禄目録』中の泉衆・尾崎衆の記事についてはとくに警戒を要するが、その記事が『上田士籍』と一致しているからには、まったく疑問の余地はない。よって兼続の母は、信濃の泉弥七郎重蔵の女であったと断定するものである。」と述べられています。(渡邊氏以来、最近発行された多くの直江関連著作に至るまですべて「重蔵」となっていますが、尾崎家に伝わる文書に拠れば、正しくは「重歳」です。)

さらにこの説を裏付けることになったのが尾崎家文書です。歴史の陰に隠されていた尾崎家文書を公にしたのが錦三郎先生でした。当時南陽市史編集主任の錦先生と尾崎文書との出会いは、昭和53年(1978)、尾崎家の菩提寺である米沢の東源寺の楠行雄住職(平成7年没)による『東源寺五百年史』の発刊がきっかけでした。偶然にも楠住職(南陽市梨郷建高寺より入寺)が錦先生の梨郷小時代の教え子ということもあり、錦先生の旺盛な探究心は隠された歴史の闇を切り裂くことへと繋がっていったようです。当時仙台在住の尾崎家嫡流尾崎翠氏の信頼を得て尾崎文書の解明が進み、『南陽市史編集資料 第10号』の「宮沢城主尾崎氏関係文書」、さらに『南陽市史.中巻』に結実を見ることになります。

一方、尾崎分家筋の御子孫尾崎哲雄氏(尾崎重歳から見れば孫の尾崎家十九代重元の弟才九郎外記の子孫)が高校教員を退職された後、御自分の源流を求めて独自の調べを進められていました。哲雄氏の手元には尾崎家本家尾崎翠氏からの手紙があり、「正徳五年公献故系譜」から写しとられたという翠氏によるペン書きの以下の記載があります。
≪故系譜の中には 泉弥七郎重歳娘
   蘭子―樋口惣衛門兼豊室 天文廿三年十一月婚家為輿守傳士 小市源左エ門   歳長附副遣ス 兼豊後号伊豫守越別直峯城矣兼豊室慶長九年甲辰十二月十九日逝葬徳昌寺 法名 蘭室妙香大姉
   兼續―継直江
   實頼―与七継小国三河与重頼家
   女子―色部與三郎綱長室
   女子―免許直江苗字矣
   景兼―樋口与八後内ゼン 母四十一歳之時天正八年二月十一日生于越後直峯城
                         以上です≫

なぜ兼続の母が尾崎の出であることが今までわからなかったのか。実は尾崎の米沢以前の歴史が意図的に消されていたふしがあります。宮内のいわゆる「上の寺」蓬莱院は、信州から宮内に移ってまもなく亡くなった重誉の祖母の戒名に由来するにも関わらず、そのことが寺に伝わってはいませんでした。尾崎文書や重誉と行動を共にした板垣兼定の子孫が書き残した「瑞蓮記」等で飯山から重誉らと共に来たことが明らかな善行寺(今は米沢市西大通2丁目)にも慶長以前の記録はありません。また、尾崎の家臣であったはずの宮内代官安部右馬助は、その出自を越後安部庄と記す文書が残っているのですが、錦先生が手を尽くしてその場所を探しても、どうしても探すことができませんでした。どうも出自を偽ってまで尾崎の家臣であることを隠さねばならなかったように思えるのです。

この問題は、兼続の菩提寺である徳昌寺が破却された問題とも関わりそうです。渡邊三省氏は、兼続は関が原での敗北の後も家康からは一目も二目もおかれる存在であったといいます。兼続が「義の武将」と言われるゆえんも含めてこう書いておられます。
「兼続は関が原戦を通じ、石田三成とともに徳川に反抗した一方の旗頭であった。勝者のなしたことはすべて善であり、あるいは容認されるが、すべての罪は敗者が負わねばならぬ戦国の掟の下において、兼続の罪はまさに死罪に価するものであった。しかし家康はその罪を問わなかった。それは何故か。
この期間において上杉のとった行動は、その裏面に陰険な策謀や、虚偽不審の陰がなく、すべて真正面より正々堂々と武士の本道を貫くものだった。これに反して家康は秀吉にたいし面従腹背の意志をもって、秀吉の死の翌日よりその遺孤を滅亡せしめようと、理不尽の限りをもって戦を挑発したのであるから、内心恥じ入るものがあったに相違ない。よって彼には上杉を問責する資格はなかった。」(『正伝・直江兼続』)

しかし、兼続が元和5年(1619)60歳の生涯を閉じ、兼続を直に知る人もなくなった後、寛永14年(1637)に起こった島原の乱は、徳川幕府の方針を組織の締め付けによる統制強化へと大きく変えました。世に言う直江状によって家康の威信を著しく傷つけていた兼続は、それが筋が通っているだけに尚更排斥されるべきだったにちがいありません。兼続の菩提寺が取り潰しに合うのはその流れの中の出来事だったのです。そして兼続の位牌は、母の実家尾崎家の菩提寺である東源寺へ遷されることになり現在にいたっています。蓬莱院や善行寺や安部右馬助が自らの歴史の中から国替え以前の歴史を消したのもこのような時代の流れの中での出来事だったのではないでしょうか。「筋を通す」ということが義の義たるゆえんと思うのですが、この一連の出来事は、謙信公の「義」が米沢においては次第に屈折を余儀なくされ、ついには雲井龍雄をして悲憤慷慨血涙を流さしめた、戊辰の戦における会津、庄内への裏切りへの一里塚だったと言えるのかもしれません。

直江兼続公の大河ドラマがいよいよ始まり、謙信公以来の義がクローズアップされようとしています。しかし、われわれ置賜人として自らの歴史を省みつつ学び思い起こすべきことは、決して格好の好いきれいごとではなく、むしろ藩祖以来の義にすがりつつ義を貫き得なかった敗者の辛さ、痛み、格好悪さなのではないだろうか。そして置賜人がそのことを深く認識するようになってはじめて、置賜は置賜として誇るべき置賜へのきっかけを掴むことになるし、またそうであってはじめて、天恵ともいうべき今年のブームを一過性に終わらせることなく次代へと繋いで行くことができるのではないだろうか、そう思いはじめているところです。

 

 


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