繆斌工作が成っていれば原爆投下はなかった [日本の独立]
今朝の朝刊(山形新聞)に下記の記事が載った。
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◎仁科博士、マル秘情報で原爆認識? 終戦決断の流れ加速
広島への原爆投下に関するトルーマン(当時の米大統領)声明を伝えるマル秘扱いの「敵性情報」が投下の翌朝、旧陸軍の原爆研究開発計画を指導していた仁科芳雄博士(1890-1951年)に届いていたことが3日、分かった。 同盟通信(共同通信などの前身)記者が届けたとみられる。仁科博士はこの資料で、広島に投下された爆弾をいち早く原爆と認識、その後の終戦決断に至る流れを速めたきっかけとなった。 この敵性情報は、同盟通信社内の情報局分室がB5判のわら半紙にタイプ印刷したもので、太平洋戦争中に理化学研究所(理研、東京)主任研究員だった仁科博士の部屋(現仁科記念財団)にそのまま保管されていた。 トルーマン声明は「今から16時間前、米国の1航空機は日本の重要陸軍基地、広島に1個の爆弾を投下した。TNT(火薬)2万トンよりも強力で(略)それは原子爆弾である」で始まり、同盟通信が7日未明に受信した。この声明で世界が原爆投下を知った。しかし、大本営は原爆とせず「新型爆弾」と発表した。
http://www.47news.jp/CN/200808/CN2008080301000274.html
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先日、鬼塚英昭著「原爆の秘密(国内編)昭和天皇は知っていた」を読んだばかりだった。今回の記事はこの著作の影響とも考えられる。原爆投下は、投下以前に国内各層どこまで知られていたのか。この記事がきっかけとなって論議を呼ぶかもしれない。
「原爆の秘密」を読み終えて、かねて気になっていた繆斌工作http://tendensha.co.jp/daitoa/dai75.htmlについての本を引っ張り出して読んでいる。繆斌工作が成っていたらどれだけの人命が救われていたことか、ずっとその思いがあった。
野村乙二朗著「石原莞爾」(同成社 1992年)は次のように結論付けている。
≪繆斌工作という一見、奇異に見える和平工作が、それなりの政治工作としてのリアリティをもちながら、実際に第2次世界大戦の終戦外交としての役割を担い得なかったことについては、その原因は、一般に信じられているように、蒋介石とのつながり如何とか繆斌の人格云々ということよりも、国際的には多少リアルな認識を犠牲にしても、国内的なコンセンサスの成立を重要視する木戸幸一に代表される宮中グループの国体護持という至上命題がきわどい外交的選択を許さなかったことが大きいであろう。また米内光政に代表される海軍軍人の中には基本的に陸軍への不信感が強かったと言えるかもしれない。しかも、そうした彼らの判断の前提には、支那派遣軍の思い上がりに代表される閉鎖的な日本社会の世界情勢に対する無知があった。≫(p.188~9)
繆斌工作については、山形県にゆかりある多くが関わっていたことでもあり、いずれまた書けたらと思う。そもそも繆斌工作について初めて知ったのは、「銀行ノ生命ハ信用に在リ―結城豊太郎の生涯」(秋田博著)でだった。
また、「原爆の秘密(国内編)昭和天皇は知っていた」をどう自分の気持ちに納めるか、重い課題だが避けては通れない。「国外編」を昨晩発注したところだった。
繆斌工作がなぜ成らなかったのか。そのことと鬼塚著「原爆の秘密」が明らかにしたこととはどう関わるのだろうか。
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