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青苧フェスティバルと鈴木由紀子さん [青苧]

昨日、大掛かりなものとしては2回目の青苧フェスティバルを終えた。スタート当初当てにしていた助成金が入らないことになったのに加え、本業の繁忙期が重なり、開けるまで本当に心配したのだが、概ね盛況だったといっていい。今朝の山形新聞がカラーの写真入で大きく取上げてくれている。以下山新記事。


(転載はじめ)


青苧文化を復興へ

 南陽 講演会や意見交換


江戸時代に置賜、西村山地方で高級織物の素材として栽培され、紅花と並ぶ本県の特産物だった青苧(あおそ)文化の復興を目指す「青苧フェスティバル」が20日、南陽市交流プラザ「蔵楽」で開かれ、関係者が地域の伝承活動などについて意見交換した。


約百人が参加。菊地和博東北芸術工科大学准教授が「最上川舟運と今に生きる青苧」と題して基調講演、「青苧は江戸時代に最上川を使って奈良などの織物産地に運ばれていたが、越後街道も重要な輸送路で、北陸との経済交流に大きく寄与した」と解説した。


続いて、大江町歴史民俗資料館サポーターの村上弘子さん、朝日町のエコミュージアム協会の長岡信悦理事長と宮森有香理事、南陽市古代織の伝統を守る会の川合ひさ子副会長(青苧工房主宰)と漆山英隆事務局長の5人が「青苧の可能性を探る」をテーマに意見交換。「南陽、朝日、大江の三市町の関係者が連携し、一定期間に共同のまつりを開催してはどうか」「全国の衣料文化を支えた青苧を地域の素材として生かし、全国に発信していこう」などの意見が出された。


米沢市在住の作家鈴木由紀子さんは、「直江兼続とその妻おせん―青苧との関わりの中で」と題して講演。「農業を深く理解していた兼続は『四季農戒書』という農業指導書を残しており、これには青苧のことがたくさん出てくる。米沢でもより大きな収入につながる青苧の織物に取り組もうとしたはずだが、産地だった越後からの妨害があって実現しなかったのでは」との見解を示した。


南陽市古代織の伝統を守る会(小野田信吉会長)が中心となって実行委員会を組織し開催した。

 (転載おわり)

開催趣旨と実施内容は以下の通り。

   *   *   *   *   *

◎ 開催趣旨

平成元年、南陽市青苧製品開発推進協議会を設立して南陽市における青苧復興に向けた取組みが始まりました。以来ちょうど20年の節目にあたる本年、大好評だった平成16年の第一回青苧フェスティバルの経験を土台に20周年記念青苧フェスティバルを開催し、青苧復興に向けたこれまでの取組みの成果を発表するとともに、県内外他市町村とも連携しながら今後の飛躍に向けた方途を探ります。

来年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公直江兼続公と青苧とは切っても切れない関係にあります。そもそも上杉謙信が越後で力をつけた背景には青苧生産があったと言われていますが、そのノウハウを根こそぎ置賜に移植したのが兼続公でした。その結果置賜は品質においても生産高においても日本でも有数青苧生産地になることができました。後に鷹山公が絹織物に着目したのも、すぐれた青苧生産技術が根付いていればこそのことでした。その伝統は明治になって世界最高品質の生糸「羽前エキストラ」を生み出すことにもつながったのでした。この機に青苧に光をあてることで兼続公ブームの一翼を担いたいと考えます。

さらに本年は、山形県挙げて「最上川の文化的景観」を世界遺産に登録しようとする運動を展開中ですが、青苧も最上川舟運との関わりから切り離すことができません。輸送量においては、青苧は紅花をはるかに上回っていたはずです。本イベントは最上川の文化的景観世界遺産登録の運動にも大きく寄与しうるものと考えます。なお、青苧への取組みの趣旨については、4年前のフェスティバルで採択した「青苧ルネッサンス宣言」をご参照いただきたく存じます。

               青苧ルネッサンス宣言 

本日私たちは、青苧のもつ不思議な魔力に魅(ひ)かれて、シンポジウム・劇・民話・コンサーート・食文化体験など、始めての「育苧フェスティパル」を開催いたしました。
 ここに青苧は、江戸時代からタイムスリップして、私たちの前にその奥深い姿を現してくれました。それは、上布(じょうふ)という高級衣料としての姿、蚊帳(かや)などの庶民の生活用具としての姿、民間信仰としての中風除けの神様の姿ばかりではありません。今日はじめてのものとして、食文化をも担う未来の姿も示してくれました。
こんな青苧の多様な姿を、私たちはこれまであまりにも知らないできたのではないでしょうか。 かつて北条郷といわれた南陽市の特産品として地域経済を潤(うるお)し、また全国の衣料文化を創り出す役目を担った歴史的事実に、地元に生きる人間としてもっと誇りを持たなければならないと思います。
幸い平成元年に、青苧をたんに過去のものとしてはならない、と立ち上がった人たちがいました。この人たちの青苧栽培と製品化への苦難の歩みが、本日のフェエスティパル開催へとつながったのです。
このフェエスティバルを、たんに思いつきの単発的イベントとして終わらせてはなりません.南陽市のシンボルとしての青苧文化を、地域発展に結びつける着実な試みを今こそ始めるペきです。地域の人たちが「青苧のうた」をくちずさみ、心を一つにして知恵を出し合えば、それは必ずや実現できると思います。
 本日が青苧ルネサンスの第一歩です。 この記念すペき第一歩を、地域のみなさんとともに力強く踏み出したことを、ここに高らかに宣言いたします。

   平成16年9月26日
                 青苧フェスティバル参加者一同

◎ 実施内容

第1部 最上川と青苧 

10:00 開祭式
10:30 山形青苧サミット 
       基調講演 「最上川舟運と今に生きる青苧」東北芸工大准教授 菊地和博先生
       討   論   「青苧の可能性を探る」 
             コーディネーター 菊地和博先生
             パネラー NPO法人朝日町エコミュージアム協会理事長 長岡信悦さん
                  大江町歴史民俗資料館サポーター 村上弘子さん
                  南陽市古代織の伝統を守る会副会長・青苧工房主宰 川合ひさ子さん 
                  南陽市古代織の伝統を守る会事務局長 漆山英隆さん

    (12:15 昼食  青苧おにぎり・青苧茶・青苧麦きり)

第2部 直江兼続公と青苧

13:00 スライド「直江兼続公と南陽」

13:25 講演 「直江兼続と妻おせん―青苧との関わりの中で」 講師 鈴木由紀子氏 

14:55  青苧の歌コンサート 丹波恵子さんとコールエンジェル

15:15 閉祭式(青苧ルネッサンス宣言、青苧の歌全員合唱)

第3部 南陽市青苧取組み20周年祝賀会 熊野大社證誠殿   

〇展  示 

・ 青苧の衣料展
・ 青苧の食文化体験(青苧おにぎり、青苧麦きり、青苧煎餅、青苧まんじゅう、青苧茶・・・)
・ オリジナル織機「夕鶴」による織物体験
・ 「直江兼続公と南陽」展
・ 青苧製品(織物製品、食品)即売会

            青苧ルネサンス宣言

 本日私たちは、南陽市において「青苧フェスティバル」を開催することができました。平成16年に第1回目が開催されましたが、大々的に行なうのはこれで2回目です。今年は平成元年に南陽市が青苧事業に取り組み始めてから20年が経過した記念すべき節目の年でもあります。
 この20年間の歩みは、けっして平坦なものではありませんでした。特に南陽市の支援をいただいて結成された青苧製品開発推進協議会が平成8年に解散して以降は大変でした。しかし、青苧を愛する地域の人々が困難に負けてはならないと踏ん張り、平成14年に「南陽古代織りの伝統を守る会」が設立されました。ここに民間独自の青苧事業の取り組みが改めてスタートしたのです。このような経過のなかで、平成16年には第1回フェスティバルが開催されたのでした。
 このたびのフェスティバルは、第1回にはなかった取り組みがなされました。それは、青苧の事業に取り組む仲間が集う「山形青苧サミット」が行なわれたことです。これは大江町と朝日町の青苧に取り組む方々の参加と協力をいただいて実現しました。このことは大変画期的なことであり、これから山形県の青苧ルネサンス(復興)運動を展開するうえで力強い第一歩となることでしょう。互いが切磋琢磨しながら共に青苧文化を興隆させていくために手を組めば、きっと相乗効果は生まれるはずだと思います。本日の三市町によるサミットの連帯気運を、これからぜひ具体的成果に結びつけていきたいものです。
 本日開催された「青苧フェステバル」を文化的産業的な地域活性化の一環としてとらえ、紅花文化に並ぶ山形県が誇る「青苧文化」が地域発展のエネルギーとなるよう取り組みをいっそう強化していきたいと思います。今日も子供たちと一緒に「青苧のうた」を歌いました。この「青苧のうた」を機会を見つけては口ずさみ、みんなが心を一つして青苧ルネサンス運動に取り組んでいくことをここに誓います。
 
 平成20年7月 20日
                青苧フェステバル実行委員会

   *   *   *   *   *

成功の鍵は鈴木由紀子さんにあった。用意した200席はほぼ満席だった。

実はちょうどこの日、「義にあらず―吉良上野介の妻」を読み終えたところだった。これほど辛い思いで本を閉じた経験はかつてなかった。元禄14年は1701年だから307年前、当時の権力による情報操作が、さらに輪を掛けた形で今も生きている。吉良上野介義央という人は実は名君であったという話は聞いていた。刃傷に及んだ浅野内匠守長矩、そしてその後の討ち入り、それに対する世論の動き、それら諸々のの理不尽さ。そして母の出自の負い目のゆえか直ならざる心性をもった綱吉の暴政に対する不満の捌け口として、いわば吉良家を生贄として利用した当時の権力。それにまんまと嵌められて今に至る。

義央の妻富子は米沢藩上杉家二代藩主定勝の四女。景勝の孫になる。富子の兄三代藩主綱勝の急逝に伴い、実家の断絶を免れるため上杉に養子に差し出した、吉良家にとっても大切な一人息子(当時)が上杉4代藩主となった綱勝。吉良家はその後男児を得るが早逝。ために富子にとっては孫にあたる綱憲の二男義周を義央の養子とした。

米沢では「忠臣蔵」の映画や舞台はご法度と聞いていた。なんとなく米沢人の了見の狭さ風にも受け止めていたところがある。しかし、この本を読んだことでご法度は当然と理解した。この事件は、謙信公以来の米沢藩の「義」の精神にどのような影を落としたのだろうか。そこを辿ってみたいと思った。

講師紹介に乗じて、「置賜人必読の書」と訴えた。

 


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めい

吉良上野介は殿中で一方的に斬りつけられ暗殺に怯えて暮らし、挙句集団で襲われ殺されてお家断絶って理不尽すぎではないですか?
https://jp.quora.com/%E5%90%89%E8%89%AF%E4%B8%8A%E9%87%8E%E4%BB%8B%E3%81%AF%E6%AE%BF%E4%B8%AD%E3%81%A7%E4%B8%80%E6%96%B9%E7%9A%84%E3%81%AB%E6%96%AC%E3%82%8A%E3%81%A4%E3%81%91%E3%82%89%E3%82%8C%E6%9A%97%E6%AE%BA%E3%81%AB%E6%80%AF

元禄十四年に千代田城本丸松乃大廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に脇差で斬りつけた刃傷事件は現代の傷害事件ではありません。関ヶ原の戦いから約百年、大坂夏の陣から86年、島原の乱から63年経った元禄の世、天下は泰平に見えましたが、将軍家も大名家も人殺しをして生き残って領地を拡大してきた暴力団の世襲親分みたいな連中ですから、殺人を家業とする武士の社会には武士の「掟」があり、それは現代の社会規範とはかけ離れたものでした。したがって吉良上野介の死後、養子の義周(上野介の実子の上杉綱憲の子なので実は孫)が領地没収の上信州諏訪家預かりの処分を受けたのにはそれなりの「理屈」があったのです。

傷害犯として現行犯逮捕された浅野内匠頭の言い分は「遺恨有之」ですから、あくまでも遺恨をはらす意趣討・意趣斬です。場所が悪かった(刃傷沙汰などもってのほかの将軍様の殿中であるぞ!)ので五代将軍綱吉が怒って内匠頭は昨日切腹(実質斬首)となりましたが、適切な時と場所でさえあれば「いざ尋常に勝負せよ!」(逃げ隠れするなど見苦しい真似をせず、おとなしく?勝負しろ!)ということになるわけで、「お前に個人的な怨みがあるんだよ!」と叫んで斬りかかってきた内匠頭を正々堂々迎え討つ必要があるのです、上野介が武士であるならば。ところが上野介は尋常に勝負しなかったようなんです。

松乃大廊下の刃傷事件の実態はよくわかりませんが、上野介は額と背を斬りつけられて傷を負ったわけですから、背中を見せて逃げたんでしょうね。これは見苦しい。武士は向こう傷を誇りとし、後ろ傷を恥とするのです。仮に内匠頭が乱心して脇差を振り回していたのだとしても、将軍家の藩屏たる旗本の上野介が乱心者に背を向けて逃げてるようじゃ武士ではありません。旗本であればたとえ老齢であっても殿中で刀を振り回す乱心者には自らも脇差を抜刀して立ち向かうのが義務です。上野介はどうやら刀も抜かず内匠頭に背を向けて逃げて背中を斬られたんですから、士道不覚悟と言わざるを得ないのです。

吉良義央の初官位は従四位下、官職は侍従(兼)上野介(上野国は親王任国なので介=次官が実質的に守=長官でした)。その後数え二十二で従四位上に昇叙しています。従四位上といえば陸奥国仙台六十二万石の伊達家や薩摩国鹿児島七十二万九千石の島津家の当主と同格ですから、吉良家は正四位下の加賀国金沢百万石の前田家よりは下ですが、前田家に次ぐ家格・石高の大大名と同じ位階だったのです。ところが、高家の吉良家は大大名などではなく三州吉良四千石の旗本に過ぎませんでした。浅野内匠頭は官位こそ従四位下内匠頭ですが播州赤穂五万石の大名です。ここに刃傷松乃大廊下事件のややこしさがあるのです。

吉良上野介は高家肝煎ですから、殿中行事や礼儀作法には詳しいわけです。そして足利家の分家ということもあり、大大名並みの官位(従四位上上野介)を与えられていましたが、別にいくさ働きの手柄でゲットしたものではありません(現に領地は四千石です)。播州赤穂五万石の浅野家はバリバリの戦国大名で豊臣家の公儀で五奉行を務めた浅野長政の三男が初代です。そんな戦国大名の裔の内匠頭が家柄は良くてもいくさ働きもせず、やれ先例だ作法だとうるさい小禄の老人をどう思うでしょう?内匠頭はヒョロヒョロの経済ヤクザが偉そうな口をきくのでブチ切れて射殺する武闘派ヤクザみたいなものだったんでしょう。

後の八代将軍吉宗の自書と言われる『紀州政事鏡』に刃傷松乃大廊下事件についてこう書かれているそうです(出典はWikipediaの「吉良義央」の項です)。
吉良義央 - Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/吉良義央

「一、先年浅野内匠頭吉良上野介と殿中において、勅使登城の節の喧嘩は所と云い、時節と云い、短慮之致し方と諸人申事に候得共全く左道に不可在候諸大名の見る所にて、高家の小身者に法外の悪口を被り致大名たるもの堪忍は難しく成處誠に武門の道なり……早速、片落の御片付は誠に時の老中方、愚味短知の事なり、吉良は同罪の中に重ねて不調法不可勝計子細は指図致し候はゝ首尾よく相勤済可申處欲心非道の者故段々不法の挨拶にて切掛候得は吉良は重き科に極たり……

二、意趣有りて切掛るを意趣討と云ものなり、是を浅野計片落を被り仰付致候事は吉良へ御荷担同様の御政事なり」

おお、さすが暴れん坊将軍(笑)。要するに吉宗は「高家ごとき小身者に悪口言われて我慢する大名はいない、これを斬るのは武門の道で、急いで内匠頭だけ処分した当時の老中たちはバカで浅はかだ」と綱吉政権を徹底批判しているのです。綱吉と老中の拙速で一方的な処分を良しとしない異見は元禄十四年当時もあったでしょう。遺恨討・遺恨斬なら立ち合うのが武士で、武士の私闘は「喧嘩両成敗」がルールです。そういう武士の規範が世間にも共有されていたからこそ元禄十五年十二月十四日の赤穂浪士の吉良邸討ち入りも拍手をもって迎えられたのです。

老中も討入後の輿論を受けて上野介の殿中での士道不覚悟と義周自身の親子二代(祖父と孫ですが)の士道不覚悟(義父を守れず赤穂浪士に斬られて気絶していたって、命が惜しくて狸寝入り・死んだふりしていた可能性があります)を咎めて領地を没収したのでしょう。繰り返しになりますが斬られたら斬り返さないと武士ではないのです。世間が赤穂浪士に喝采を送ったのには上野介が高家の立場を利用して賄賂を受け取って蓄財に励んでいた吝嗇家で嫌われ者だったということもありそうです。徳川将軍家の公式史書の『徳川実紀』には刃傷松乃大廊下事件の背景についてこう書いています。

世に伝ふる所は、吉良上野介義央歴朝当職にありて、積年朝儀にあづかるにより、公武の礼節典故を熟知精練すること、当時その右に出るものなし。よって名門大家の族もみな曲折してかれに阿順し、毎事その教を受たり。されば賄賂をむさぼり、其家巨万をかさねしとぞ。長矩は阿諛せす、こたび館伴奉りても、義央に財貨をあたへざりしかば、義央ひそかにこれをにくみて、何事も長矩にはつげしらせざりしほどに、長矩時刻を過ち礼節を失ふ事多かりしほどに、これをうらみ、かゝることに及びしとぞ

ボロカスですやん(笑)

四千石の小身者が五万石の大身の大名に対して礼を失した態度を取ることは、身分制の江戸時代には大罪です。ややこしいのは官位は上野介のほうが格上だということですが、こういうねじれたケースではお互いが敬意を払えば良いだけです。ところが高家肝煎として大名からも阿諛追従されていた上野介は勘違いしちゃっていたんでしょうね。ところが、人間にはプライドと感情があるのです。ましてや人を殺してナンボの武士ですから、殿中だろうが勅使がいようが、メンツを潰されたら斬るのが武士です。これは無礼討と呼ばれ、江戸時代は武士が耐え難い無礼を受けた時は斬っても処罰されないとされていたのです。

江戸時代の、特に武士社会の規範は現代のわれわれの考える規範とは大きく異なるのです。

刀を抜くべきときに抜かないのは武士にあらず
意趣討・意趣斬には正々堂々立ち合え
向こう傷は誇り、後ろ傷は末代までの恥
小身者が大身者に失礼な態度を取ってはならない
大身者が小身者に失礼な態度を取られたら斬り捨てるのが武士の道

このような武士社会の規範があって、刃傷松乃大廊下事件の当初の一方的な処分(内匠頭は切腹で播州赤穂家はお取り潰し、上野介と吉良家にはお咎めなし)は誤りで、正しい処分は四千石の旗本であるにもかかわらず武士として正しい行動ができなかった上野介は武士失格なので領地没収が妥当で、殺された先代の義央が領地を没収されるべきだったので養子の義周にもその領地を相続する正統性がないのでボッシュートとしたのでしょう。どうですか?納得できませんか?でも、元禄の武士の社会とはそういうものだったのです。繰り返しになりますが歴史上の出来事を現代のわれわれの道徳の物差しで測ることはできないのです。

by めい (2021-11-01 05:00) 

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