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イエスの実在について(1) [イエス]

 イエスの実在について考えさせられる機会があり、正気煥発板での議論を思い起こし、ピラト文書を掘り出してきました。私ごときではとても消化しきれないアル中流さんの食いつきに辟易させられた思いが残っています。もったいないのでここに残しておきます。

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 投稿日 20020627 0120

投稿者 管理人

タイトル キリストの幕屋への期待と疑問

 

純也さんにご紹介いただいた「幕屋」のHPに行ってみました。「原始福音」について説かれていました。

 

≪ 原始福音とは、キリスト教の本質であり、キリストの生命の現象への呼称であって、キリスト教のアルパにしてオメガなるもの、これ原始福音であるといってよい。信仰は原始福音に学んで出発し、原始福音に終わるだけで充分である。もしキリスト教から原始福音を取り去れば、キリスト教たる所以(ゆえん)のものを失い、キリスト教は死物のミイラに化してしまうのである。原始福音はキリスト教の一派ではない、キリストの宗教そのものである。

 

たまたま手元に「イエスに会ったビラトの報告書」を抜粋したもののコピーがあったのを見つけました。2000年の歴史の中で神秘化され、程遠くわけのわからないイメージになっていたイエスという存在がにわかに身近に感ぜられました。また「原始福音」の目指すところもなんとなく理解できたようにも思いました。あまり出回っていないものかもしれませんのでコピーしておきます。

 

   *   *   *   *   *

 

 以下は、JE・コナー著『キリストはユダヤ人ではなかった―異邦人への手紙』(一九三二年初版)の付録に載っている資料である。同著によれば、ガリラヤ地方はローマ帝国の統治下にあったが、住民はギリシャ語を用いていた。この文書はギリシャ語に堪能なコナーが英訳したものと思われるが、イエス処刑時の総督ビラトは、ギリシャ語読みではビラトゥスになるが、慣例の読みに従った。

 

●ポンティウス・ピラトの報告からの抜粋

 

イエス・キリスト時代の公的文書から(ワシントン・DCの国会図書館所蔵文書)。この同時代証人ポンティウス・ビラトは、イエスがユダヤ人のようには見えず、考えず、行動しなかったことを証言している。

 

「ローマ皇帝ティベリウス・カエサル陛下

「高貴なる元首に御挨拶を送ります。

「・・・本官の耳に入るさまざまの風評の中、格別に本官の関心を惹起ずるものがありました。ガリラヤに、神より遣わされたと称し、新たなる律法を説く聖油を塗った若者のことであります。当初、本官は、その若者の説くところはローマ人に対して人民を撹乱するものと不穏を覚えましたが、やがてそれは杞憂に終りました。ナザレのイエスは、ユダヤ人よりもローマ人の友として語っております.過日、シロエを通過しましたところ、一大群集が群がり、その中央に樹木によりかかり、多数の聴衆に物静かに語りかける若者を目撃いたしましたところ、それがイエスであるとのことでした。その若者と彼の話に聴き入る群集との間には、あまりにも大いなる差違があることに疑いを禁じえませでした。金色の髪と髭をたくわえたその若者は、神を思わせる風貌でありました。年の頃は三十代ぐらいでありましょうか。本官はこれほど甘美、あるいは静謐温和な容貌を絶えて見たことがありません。彼と比べるに、黒い髭と黄褐色の顔色をした聴衆とは、あまりにも好対照だったのであります.

「・・・イエスが説くところに比肩しうる言説は本官が読んだ哲学者たちの著作には全く見たことがありません。エルサレムに数多く居る不穏なるユダヤ人の一人がイエスに、カエサルに讃辞を送ることはイエスが説く法に適っているかと問いましたところ、彼は『カエサルに属するものはカエサルに返せ、神のものは神に返せ』と答えました。

「・・・本官はイエスに公邸において会見したき旨、書面で申し入れました。彼は来訪いたしました。御存知のとおり本官の血にはローマ人の血が混っているスペイン人の名が流れております―軟弱な感情はもとより恐怖というものを持ち合せておりません。が、そのナザレ人の姿が目に入った際、本官はバシリカ(公会堂)を歩いておりましたが、足は鉄の手で捕まれたるごとく重く、あたかも犯罪人のごとく四肢が痙攣いたしました。ナザレ人は、全く何事も気付かぬようでありましたが。彼が私のすぐ近くまで来て立ち止った際、彼は一言も発しませんでしたが、無言のうちに『私はここにいる』と挨拶を送っているようでした。暫時、本官はこの驚くべき人物を―すべての神や英雄たちに形態や姿態を与えたあまたの画集たちといえども出会ったことのない人物―尊敬と畏敬の念をもって凝視いたしました。

「『イエスよ』と、やっと本官は口を開きました。『ナザレのイエスよ、過ぎにし三年、本官は、あなたに語るがままに語らせてきたが、そのことを遺憾には思わぬ。あなたの言葉は聖人の言葉である。あなたがソクラテスやプラトーを読んだことがあるかどうかは知らぬが、このことだけは確実である。あなたの説くところには、かの哲学者たちをはるかに超える偉大なる簡潔さに満ちている。   \

「・・・『あなたの血は流させない!』と、なんとも言えぬ深い思いに衝き動かされて本官は言いました。『ローマ人が許した自由を乱用する不逞不遜なすべてのパリサイ派よりも、あなたの智慧ははるかに貴重であると、本官は考える。パリサイ派は、カエサルに対する陰謀をめぐらし、カエサルは専王であってパリサイ派を亡ぼそうとしているなどの虚妄を言いふらし、カエサルの寛大さを恐怖に変えた。傲慢な卑劣漢め!かれらは、テベレ川の狼はしばしば羊の皮を身にまとってだまし討ちにすることに気が付かない。本官はあなたをかれらから保護しよう。本官の公邸を、昼も夜も聖なる避難所に提供しよう』

「イエスは気のない様子で首を左右に振りました・・・」

「             陛下の忠実なる僕(しもべ)

                  ボンティウス・ピラト」

 

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幕屋の精神は、「聖書に帰れ」と説いた16世紀ドイツの宗教改革者マルティン・ルターの精神にも通ずるのでしょうか。聖書に帰ってイエスという存在そのものに目を向けたとき、イエスが何に抗して自分の主張を述べつづけたのか。ルターは晩年、自らの体験も踏まえて「ユダヤ人と彼らの虚偽について」という著作を残しています。その中で、≪彼ら(ユダヤ人)はイエスのことを「はりつけにあった者」と呼んだことが私に知れた・・・それゆえ、私はユダヤ人とはもう関わりたくない≫と、ユダヤ人のホンネにおいてイエスがむしろ軽侮の対象であったことを知り失望し、ユダヤ人を「悪魔にとり憑かれた者ども」「彼らの救世主は金と銀」「彼らはわれわれの富を使ってわれわれを奴隷にする」と言って憤ります。HPを見ると、キリストの幕屋はユダヤ教一般に対して親和の関係にあるようなのですが、とすると、イエスやルターが戦ったユダヤ(パリサイ派?)は幕屋の中ではどう位置付けられているのかお聞きしたいです。

 

大東亜戦争中に日本で書かれた次の文章がありました。

 

≪世界におけるキリスト教は実はキリスト教の仮面をかぶったユダヤ教である。他民族を呪詛する邪神エホバを信仰の対象とする限りキリスト教はユダヤ教である。イエスの態度はさうでなかったやうである。彼は土俗神エホバの信仰を捨て、純粋の宇宙神たる愛の神に帰正すべきを説いたものの如くであり、それがために猶太族はイエスを恐れ憚り、遂にユダは彼をビラトに渡して十字架につけたのではないか。日本の、東亜共栄圏内のキリスト教徒はイエスの真意を発見して聖書を読み直すべきである。東亜共栄圏内のキリスト教徒は、日本古伝の神観に瞠目し、ユダヤの巧妙を極めた謀略から解放せらるべき時期に到達したのではないか。≫(友清歓眞「戦争と古神道」昭和17年)

 

「2000年前、東洋の一角に起こったイエスの霊的宗教と、その神秘な力は、永い間、理知的な西洋人にゆがめられて伝えられてきたが、アメリカを経て世界一周したキリスト教は極東の日本において、もう一度、昔日の面影を、それに倍する霊的光彩を取り戻さしむべく、キリストは生きて、今この大和島根にはたらき、遺れる民を集めんとて歩きつつあられるのではないでしょうか。」と説き、聖書(福音書、使途行伝)に記された「イエスその人」を志向するキリストの幕屋の教えは、本来基本においてこうした流れに沿うものであるようにも理解するのですが。

 

あちこちからの引用ばかりで長くなってしまいもうしわけありませんが、神奈川板やここでずっと跡を引いているシンポでの野次の問題も、Saphoさんの問題提起によって別な角度から光が当てられたようです。今後の運動を考える上で避けては通れない問題かとも思い、あえて書いてみました。ご理解ください。

 

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投稿日 20020627 0447

投稿者 アル中流・乱暴

タイトル Re: キリストの幕屋への期待と疑問

 

管理人様

 

〉以下は、JE・コナー著『キリストはユダヤ人ではなかった―異邦人への手紙』(一九三二年初版)の付録に載っている資料である。同著によれば、ガリラヤ地方はローマ帝国の統治下にあったが、住民はギリシャ語を用いていた。この文書はギリシャ語に堪能なコナーが英訳したものと思われるが、イエス処刑時の総督ビラトは、ギリシャ語読みではビラトゥスになるが、慣例の読みに従った。

  

 この本は確かに存在していますが、私が調べたところでは、原著の初版は1936年に出ています。著者はキリストはアーリア人だと言っています。時代の背景に照らしてもなるほどと思いますが、ナチズムに近い発想です。現在も、アメリカの反ユダヤ的団体がホームページで肯定的に紹介しています。著者は古代のマルキオン派に近いと評している人もいます。マルキオンは『ユダヤ・バイブル』をキリスト教から切り離そうとした人です。私はこの本を読んではいませんが、キリストがユダヤ人ではないというテーゼには、無理があると思います。私はキリスト教徒ではありませんので、立場に囚われることなく自由に考察できる者なのですが、この種の問題は、歴史の問題として重要、かつ面白いものですから些か関心があります。本格的な議論をここでしようとは思いませんが、成り立たないテーゼだろうと思います。因みに、Webcatで調べたところ、日本ではこの原著を所蔵している大学は見当たりません。なお、西暦紀元前後には、ユダヤ人の多数はコイネ(国際語となったギリシャ語で、古典的なギリシャ語とはことなる、いわゆる「聖書のギリシャ語」です)を使っていたと推定されます。他には、アラム語も使われていたでしょう。しかし、『ユダヤ・バイブル』のヘブライ語は、もはや、日常的にはほとんど使われてはいなかったと推定されています。序でに、ピラトゥスは、ラテン語読みだと思います。

 

私が関心を持ったのは、そのピラトゥスの文書です。というのは、キリストの実在を証立てる、歴史的文書はないというのが、まあ、いわば、定説になっているからです。勿論、"New Testament"を歴史的資料とは見なさないというのが前提です。件の文書について今直ちに調査することはできませんが、いずれ、明らかに致します。前世紀末以来、'historical Jesus'の研究が欧米で盛んですが、この文書を持ち出したものを私は知りません。専門家ではない私の見た範囲は狭いことは言うまでもありませんが。いわずもがなのことですが、西洋古代では捏造文書にこと欠きません。

 

なお、ルターがユダヤ人を貶めた言葉を吐いたことは良く知られておりますが、それをどう評価するかは、ルターが西洋の歴史に大きな影響を与えた人であるという事実を認めることとは全く別の問題です。その後に引用されている日本人の文章は、歴史的資料としては面白いものだとは思いますが、それだけのもので、今日ユダヤやキリスト教を考える上で、何の価値も持ってはいないと申し上げます。

 

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投稿日 20020628 1116

投稿者 管理人

タイトル Re: Re: キリストの幕屋への期待と疑問

 

アル中流様

 

早速お調べいただきありがとうございます。

 

>私が関心を持ったのは、そのピラトゥスの文書です。というのは、キリストの実在を証立てる、歴史的文書はないというのが、まあ、いわば、定説になっているからです。勿論、"New Testament"を歴史的資料とは見なさないというのが前提です。件の文書について今直ちに調査することはできませんが、いずれ、明らかに致します。

 

ぜひよろしくおねがいします。

 

>前世紀末以来、'historical Jesus'の研究が欧米で盛んですが、この文書を持ち出したものを私は知りません。専門家ではない私の見た範囲は狭いことは言うまでもありませんが。いわずもがなのことですが、西洋古代では捏造文書にこと欠きません。

 

もしこれが捏造されたものとして、だれが、どのような意図を持ってということが問題かと思います。

 

>その後に引用されている日本人の文章は、歴史的資料としては面白いものだとは思いますが、それだけのもので、今日ユダヤやキリスト教を考える上で、何の価値も持ってはいないと申し上げます。

 

友清歓眞という方については、大部の全集が発行されています(神道天行居と八幡書店。他に代表的著作のみ参玄社から独文学者小野浩 元東北大・明治大教授による注釈付で)。

日本のいわゆる「霊学」史上、あるいはヨーロッパにおけるシュタイナーに比肩しうる方と思います。三島由紀夫の『英霊の声』は、氏の「帰神法」に依っています。最近では鎌田東二氏がしばしば言及しておられます(『異界のフォノロジ―』所収の「音霊―耳のカオス・耳のコスモス」など)。「霊学」の「学」たるゆえんはその審神(サニワ)性の如何に関わるわけで、友清歓眞という方が他の宗教者と一線を画しているとしたら、審神の重要性をとことん突き詰めておられることによると思います。(霊学、審神については、鎌田東二著『宗教と霊性』(角川書店)の中の「審神者とソクラテス」「審神者と霊学」が、だれにもよくわかるように書いてありました)

 

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投稿日 20020701 0042

投稿者 アル中流・乱暴

タイトル Re: Re: Re: キリストの幕屋への期待と疑問

 

>>前世紀末以来、'historical Jesus'の研究が欧米で盛んですが、この文書を持ち出したものを私は知りません。専門家ではない私の見た範囲は狭いことは言うまでもありませんが。いわずもがなのことですが、西洋古代では捏造文書にこと欠きません。

 

>もしこれが捏造されたものとして、だれが、どのような意図を持ってということが問題かと思います。

 

そんなことは、敢えて言うまでもありません。キリスト教はパウロの宗教としてヨーロッパに布教活動を進め、その権力を拡大していくプロセスの中で、自分達に都合の悪い文献を破壊したために、西洋の古代文献はほんの僅かしか残っておりません。かつてアレクサンドリアのムセイオンは膨大な文献を納めていたと言われますが、異教、異端を実力で排除したビザンツ帝国によって、無惨にも破壊されました。

 

ローマ時代の教養ある人士達の文献も余り残ってはおりおません。キリスト教という新興宗教を、理性を欠くものとして批判していたからです。

 

一方で、言うまでもないことなのですが、権力闘争の中で、捏造文書が蔓延ったのです。そもそも、キリスト教徒の言う、"New Testament"が事実を記したものだとでも仰るのですか。整合性も見られないというのに。日本では余り紹介されてはいませんが、最近の欧米における"higher criticism" の様々な文献を御覧になれば、キリスト教徒が工夫を凝らして、色々な文書を作り出してきたことは当たり前のこととして理解されるであろうと思います。

 

歴史上、最も良く知られている捏造文書は『コンスタンティヌスの寄進状』です。でも、おかしなことです。それは氷山の一角に過ぎないことと思われますので。

 

友清歓眞という人物の意見については前に述べた通り、特別な関心は持ちません。古今東西の歴史を見渡せば、時々、霊性について独自の意見を吐く人が見られることは周知の事実です。それはそれ。しかし、ユダヤや、キリスト教を歴史的にどう見るべきかということは全く別の問題です。二、三の問題を指摘させて貰えば、まず、ユダヤの起源の問題があります。フロイトはヨーロッパに同化したユダヤ人でしたが、晩年己が負っている伝統を問題とし、モーセはエジプト人であったという説を展開致しました。この理論の当否をはっきり断言することは難しいだろうと思っていますが、ユダヤとは何かという問題に対して一石投じたことは疑いもなく、「他民族を呪詛する邪神エホバを信仰の対象とする」ユダヤという程度の発想では、話にならないとしか言えません。第二に、仮に、イエスが実在したとすれば、彼はユダヤ人であったに違いなく、彼はユダヤの伝統から大きく離れたなどということは、ヨーロピアナイズされた後世のキリスト教徒がどう考えるにせよ、考えられないことです。第三に、ヨーロピアナイズされたキリスト教でさえ、『ユダヤ・バイブル』(キリスト教徒の『旧約聖書』)を排除しようとしたマルキオンを排斥しました。それは、いわゆる「原始キリスト教徒」のかなりの部分がユダヤ人であったといことのみならず、『ユダヤ・バイブル』の権威なしにはこの新興宗教が生き延びられなかったこを言外に語っていると見るべきではないかということです。キリスト教において19世紀頃までは大きな意味を持っていた"Typology"というのはその名残というべきものでしょう。

 

私は、「イエスの幕屋」について詳しくは知りませんが、「作る会」を支援していることを特に問題だとは思っておりません。それを、宗教に関する浅薄な理解から殊更問題視する人を、アホだと思い、根拠もなく中傷するアホを痴れ者だと言っているのです。

  

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投稿日 20020702 0741

投稿者 管理人

タイトル Re: Re: Re: Re: キリストの幕屋への期待と疑問

 

私は「〇〇染店」の看板を上げて商売をやっていますが、とりわけこういう世の中ですと、昨日と同じことをやっていれば明日も大丈夫というわけではありません。そんな時何が一番のヒントになるかといえば、お客様の思いがけない注文です。「えっ、そんなことできない」とはじめは思ってしまうのですが、考え直して何とかその要望に応えようとすることで、新たな分野が開けてきます。江戸時代から続く仕事ですが、看板は同じでもその中味は時代に合わせてどんどん変化してきているわけです。Saphoさんの問題提起も、私には「思いがけない注文」のひとつでした。

 

>そもそも、キリスト教徒の言う、"New Testament"が事実を記したものだとでも仰るのですか。整合性も見られないというのに。

 

「それを言っちゃあおしまいだよ」のように思えました。聖書の記述が2000年の歴史の中でどのような変遷をたどったかはわかりませんが、整合性は欠けていたとしても、おのずから浮かび上がるイエス像はあるわけです。それは知識で理解するものではない、またできるものではない、あたりまえの人間としての気持ちに訴えかけてくるものがある。その「あたりまえの人間としての気持ち」は、「知識」にとってはいい加減なものに思えるかもしれませんが、それが「知識」に先だつ「生きられた世界」の地平と思います。

 

>日本では余り紹介されてはいませんが、最近の欧米における"higher criticism" の様々な文献を御覧になれば、キリスト教徒が工夫を凝らして、色々な文書を作り出してきたことは当たり前のこととして理解されるであろうと思います。

 

文献にあたって理解しようとすることは到底無理ですので、流れだけでもご紹介いただければと思います。

 

>歴史上、最も良く知られている捏造文書は『コンスタンティヌスの寄進状』です。でも、おかしなことです。それは氷山の一角に過ぎないことと思われますので。

 

ネットで調べてみましたが、これは意図がはっきりしているわけです。

 

昨日たまたま来られたキリスト教の牧師さんに例の「ピラト文書」をお見せしたところ、「キリストがユダヤ人でなかったというのはどうかと思うが、ピラトが書いたものであるというのはよくわかる。捏造とは考えられない」と言われて、コピーしたものを大切に持って帰られました。ちなみにその牧師さんの「キリストはユダヤ人である」の根拠は、新約聖書冒頭の系図でした。

 

>私は、「イエスの幕屋」について詳しくは知りませんが、「作る会」を支援していることを特に問題だとは思っておりません。それを、宗教に関する浅薄な理解から殊更問題視する人を、アホだと思い、根拠もなく中傷するアホを痴れ者だと言っているのです。

 

私にとって、幕屋の方々はいわば身内です。私が知る限りでの幕屋の方々の善意は疑うべくもありません。人間にとって最も貴いものは「善意」だと思っています。幕屋の方々のだれもが共通して持っておられる「善意」は、今のような世の中にあって、実にかけがえのないものです。その善意のゆえに安心して付き合うことが出来ます。それゆえにこそ、Saphoさんの問題提起を真摯に受け止めたいと考えていることをご理解ください。幕屋の方々おひとりおひとりへの気持ちは何ら変わってはいないことも付け加えておきます。(つづく)

 
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一般法則論者

 イエスの実在は疑うこはできても、イエスの言葉としていまに伝えられていることは、真理そのものです。

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  一般法則論

by 一般法則論者 (2008-04-13 02:27) 

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