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イエスの実在について(2) [イエス]

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投稿日 20020708 0130

投稿者 アル中流・乱暴

タイトル Re: Re: Re: Re: Re: キリストの幕屋への期待と疑問

 

管理人様。とりあえずのお答えを申し上げます。

 

>>そもそも、キリスト教徒の言う、"New Testament"が事実を記したものだとでも仰るのですか。整合性も見られないというのに。

 

>「それを言っちゃあおしまいだよ」のように思えました。聖書の記述が2000年の歴史の中でどのような変遷をたどったかはわかりませんが、整合性は欠けていたとしても、おのずから浮かび上がるイエス像はあるわけです。それは知識で理解するものではない、またできるものではない、あたりまえの人間としての気持ちに訴えかけてくるものがある。その「あたりまえの人間としての気持ち」は、「知識」にとってはいい加減なものに思えるかもしれませんが、それが「知識」に先だつ「生きられた世界」の地平と思います。

 

「それを言っちゃあおしまいだよ」ではなく、『聖書』と呼ばれる宗教団体の教典をどう読むべきかについてのの考察は、まさに、この点からスタートする訳です。「聖書の記述が2000年の歴史の中でどのような変遷をたどった」かということが問題であるのではなく、『聖書』と題された文書は誰が、どんな意図を持って、どのようにして作ったものなのかを問わねばならないと思います。ヨーロッパで近代になって生まれたこの種の探求は、現在では、歴史に真剣に関わろうとする者にとっては、かつてキリスト教に支配された欧米においてさえ、いや寧ろ欧米においてこそ、避けては通れない問題になっています。そうしたことについての情報から遮断され、呑気な牧師さんの話などから『聖書』の読み方を教えられて、たわいもないイエス像を思い描く、素朴な、そして知的怠慢の譏りを免れ得ない人々─――欧米によりも、今では寧ろ日本に多いかも知れない人々は、今後ますます多くのアナクロニズム抱え込んでいくことになるであろうと推測致します。

 

御意見を伺って思い出しましたのは、アインシュタインのことです。彼はユダヤ人でしたが、7歳の頃、初等教育をカソリックが経営する学校で受けました。彼が属したクラスには彼の他にユダヤ人はいませんでした。受けたキリスト教の教育は不愉快ではなかったとのことです。但し、カソリックの司祭であった教師が、一つの大きな釘を示しながら、「キリストがユダヤ人によって磔にされた釘というのはこういうものだった」と語った(但し、「ユダヤ人」とは言わなかったとする異説もあります)ときだけは別だったと言っています。『聖書』なるものが伝えようとしているメッセージの中には、キリスト教を支えてきた危険なイデオロギーも幾つか含まれておりますので、「おのずから浮かび上がるイエス像」があるなどいうような無邪気な姿勢で接して良いものではありません。何が事実であったのかということが、またそれだけが、この文書の正しい読み方を教えてくれると思います。今日、ローマ帝国支配下における当時のユダヤの事情から推測すると、仮にイエスの磔があったとしても、その責任はピラトが負うべきものであって、『福音書』を書いた初期キリスト教徒は、生き残りを賭けたプロパガンダを目的として嘘("the longest lie")をついているとする説得力のある議論もあります(カソリックの研究者、John Dominic Crossan)。また、古代地中海世界には神人オシリス=ディオニソスが磔によって死に、神となって甦るというmythがあったのみならず、イエスの磔の像の最も古いものが5世紀のものであるのに、3世紀頃のオシリス=ディオニソスの十字架磔の像が発見されていることなどから考えて、イエスの磔は事実ではなく、神話の翻案だとする推測もあります(Timothy Freke & Peter Gandy, "The Jesus Mysteries", Thorsons, 1999)。『聖書』に書かれていることを単純に信じるのは、迂闊なだけではなく、アブナイことであろうと思います。

 

しかし、そのアインシュタインも、数々の伝記を手がけて人気があった作家、Emil Ludwigの問題作であるキリストの伝記が世に出た翌年、インタビューで次のように語っています。

 

――あなたは、どれくらいキリスト教の影響を受けましたか。

「子供だった頃、『バイブル』と『タルムード』(ユダヤの口承されてきた伝承を記録にとどめたもの)の両方の教育を受けました。私はユダヤ人ですが、あのナザレの聡明な人物に魅了されまた」。

――Emil Ludwigがイエスについて書いた本を読みましたか。

Emil Ludwigの『イエス』は浅薄です。イエスはどんなに技を凝らしても美辞麗句で売るペンにとっては大きすぎるのです。誰もキリスト教を名言で処理してしまうことはできません」。

――あなたはイエスが歴史上の人物として実在していたことを認めますか。

「確かだとも。誰も『福音書』をイエスが実際に存在していたという感じを持たずに読むことはできません。彼の個性はあらゆる言葉の中で脈打っています。どんな神話もこのような生命に満たされてはいません」。

(以上は、Max Jammer,"Einstein and Religion", Princeton University Press, 1999によりますが、ネット上にあるサンプル・ヴァージョンに載っているのを見つけました。アドレスはpup.princeton.edu/chapters/s6681.pdf 。)

 

管理人様の御意見を読んでまず思い出したのがこれです。アインシュタインは天才ではありますが、独断の人です。彼が考え出した一般相対性理論について、正しいことに疑いを抱かず、その検証に興味を示さなかったというのは良く知られた伝説です。この場合には検証は彼を助けることにはなりました。しかし、量子力学のEPR逆説や、晩年に取り組んだ統一場の研究では、確かに、最近クローズアップされることになった重要な問題に繋がることを、天才に相応しく提起致しましたが、彼の狙いに自然は必ずしも微笑み以て答えてはいません。

 

『福音書』の歴史的成り立ちについての研究は近年盛んに行われていますが、前世紀に発見された文書を含めても残された資料や、初期キリスト教の実態を示す手掛かりが少なく、大部分はguessworkになるようです。説得力の違いは自ずと生じますが、多くの人にこれだと思わせることができるようなイエス像はまだ得られていないと言うべきだと思います。

 

上に触れたCrossanは豊富な学際的な知識を援用しつつ、イエスを貧しい者の立場に立ってローマの支配に反抗し、ユダヤの伝統を重んじつつ武力蜂起を企てた人物と解釈します。

 

Laurence Gardnerはヨーロッパの王族が秘蔵する古文書を閲読できるという特権を生かしていると言っていて、興味深い解釈を示し、イエスをダヴィデの末裔で、イスラエルの民の王となるべく振る舞った人物とし、その血統はヨーロッパの王族に受け継がれたとしています("Bloodline of Holy Grail", Element Books Limited, 1996 )。ギリシア語に由来する「キリスト」という言葉のもとであるヘブライ語「メシア」は、「油を注がれた者」という意味ですが、油を注ぐというのは古代エジプトに起源を持つ(Gardnerはシュメールまで遡り得ることかもしれないと言っています)王位授与の儀式を指します。Gardnerは『ヨハネによる福音書』、12、のマグダラのマリアがイエスに高価な油ナルドをイエスに注ぐ場面はその儀式に当たると解釈します。このナルドはspikenard、日本で「甘松」と言っていたもので、ヒマラヤが原産です。Gardnerはイエスの妻はマグダラのマリアだとしています。彼女とその子孫が南フランスに逃れたという中世に遡る伝承があることは他の複数の著者からも確認できることです。

 

極彩色で描かれた、マグダラのマリアがイエスに油を注ぐ場面の絵(?)がエジプトのツタンカーメンの墓で発見されています。これを指摘したのはドイツで活動するエジプト人の歴史家 Ahmed Osmanです("Out of Egypt", Arrow Books Limted, 1999)。彼はイエスに関する話をユダヤ人の記憶の焼き直しと見ており、イエスの実在を否定しています。Osmanはマグダラのマリアはツタンカーメンの妃、Ankhsenpa-atenの記憶を甦らせたものと見ています。"magdala"は要塞の見張りの塔を意味するヘブライ語"migdol"に由来するとしています。これはエジプトの要塞となっていた町のことで、エジプトとガザの間にあったということです。

 

「ナザレのイエス」と言われていることについて、Gardnerは、その当時ナザレという町があったという記録はどこにもなく、"Nazarene"もしくは"Nazarite"はセクトの名称であり、これは"Nazarie ha-Brit(契約の守護者)"に由来し、当時は、『死海文書』が発見された、クムランに住んでいたエッセネ派を意味したとします。この見解を取る者は最近では少なくはありません。

 

序でに触れさせて貰いますが、Gardnerの「ヤーヴェ」の解釈は注目に値します。もともとヘブライ語はアラビア語と同じく母音は表記しないので、「ヤーヴェ」はもとは、ローマ字で表せば、子音"YHWH"の4文字、英語に言う"Tetragrammaton"です。Gardnerによれば、これは「天なる家族」を表したもので、最初のYは(神々の)父、El、次のHは母、AsherahWは「彼」、すなわち息子、次のHは娘、Anathを指します。女神Asheranはカナーンでは女神Ashtorethにあたり、メソポタミアの愛(生殖)と戦の女神Ishtar(シュメールでは、Inanna、勿論これは、ギリシアのアフロディテ、ローマのヴェヌスに繋がっている神格です)と同定されます。ソロモンの神殿の至聖所はAshtorethの子宮を表すとされ、紀元前6世紀まではAshtorethはユダヤ人の間でも崇拝されていたということです。AsherahAnathとは後に合体され、Shekinah、またはMatronitと呼ばれたヤーヴェの妻となりました。カバラでは神の両性具備の考えが定着しましたが、他のセクトではShekinah、またはMatronitが神性の女性的性格を表すものとみなされ、崇拝されていました。しかし、(バビロニアに)ソロモンの神殿が破壊された後、Shekinah、またはMatronitは地を彷徨うこととなり、ヤーヴェの男性的側面だけが天を支配することになったというのです。

 

レバノンの歴史家Kamal Salibiは通暁しているセム系言語の知識を生かして、ユダヤ人に関して興味深い幾多の見解を述べていますが、イエス(Jeshu)はアラビア半島南西部に住んでいたユダヤ人の出自であるが、パウロが紀元前5世紀末から4世紀初めの人であるイッサ(Issa)と混同したと言います。どちらもギリシア語では"Iesous" と綴られるとのことです("Who was Jesus?", I.B.Tauris & Co Ltd, 1998)

 

私の専門ではありませんので、Historical Jesusの最近の研究を網羅している訳でもありませんし、バランスの取れた紹介をしている訳でもありません。しかし、以上のような見解が最近現れていることは事実です。ということは、研究する者の間では、欧米が伝統的に伝えようとしていたイエス像は、pace Einstein, and pace 'Kanrinin'、疾うに崩壊しているのです。

 

私の現在の見解を申し上げれば、『福音書』がモデルに、もしくは『福音書』をモデルにした歴史上の人物は存在した可能性はありますが、『福音書』が描いたようなイエスは実在しておりません。『福音書』はキリスト教の神話であり、この神話は過去の様々な神話を利用して編集し、破綻はしていますが、一見、見事に作り上げられたものに過ぎません。

 

紀元1世紀頃の、キリスト教徒ではない人の現存する著作でキリスト教について言及しているものには、歴史家、タキトゥス、スウェトニウス、そして行政官、小プリニウスがいます。しかし、3者とも、キリスト・カルトを"superstitio"として扱っています。"supersutitio"とは、"excessive fear of the gods, unreasonable religious belief, supersutition"Lewis and Shorter, "A Latin Dictionary")です。でも、イエスへの言及は全くありません。

 

キリスト教の護教論が持ち出すことができる唯一の文献は、英語で"The Testimonium Falavianum"と言われているヨセフス(Flavius Josephus, 37-105?)の"Antiquities"の記述です。ヨゼフスはユダヤ軍のの司令官としてローマ・ユダヤ戦争を戦いましたが、無惨なユダヤの敗北の後、皇帝となった敵将ヴェスパニアウスの庇護のもと、ユダヤの歴史について著作しました。現存する彼の『ユダヤ古代誌(Antiquitates Judaicae 』には次の一節があります。(あえて和訳するまでもないと思い、英訳で紹介致します。)

 

Now there was about this time Jesus, a wise man, if it be lawful to call him a man; for he was a doer of wonderful works, a teacher of such men as receive the truth with pleasure. He drew over to him both many of the Jews and many of the Gentiles. He was [the] Christ . And when Pilate, at the suggestion of the principal men amongst us, had condemned him to the cross, those that loved him at the first did not forsake him; for he appeared to them alive again the third day; as the divine prophets had foretold these and ten thousand other wonderful things concerning him. And the tribe of Christians, so named from him, are not extinct at this day.

 

これは、確かにイエスに言及しています。しかし、ヨセフスはキリスト教徒ではなく、〈……〉の部分は後日のキリスト教徒による挿入であるというのが今日の通説です。キリスト教がローマ帝国の支配者達から嫌われていた時代に、今日、キリスト教で「教父」と呼ばれている人々はイエスが神の子として実在したことを証立てることに必死でしたが、ユスティノスも、イレナイオスも、テルトゥリアヌスも、アレクサンドリアのクレメンスも、オリゲネスも、キプリアヌスもヨセフスの著作を知っているはずなのに、この部分には言及していません。これを初めて持ち出したのは、キリスト教の擁護に回ったコンスタンティヌス大帝と組んでいたエウセビウス(c.269-c.339)です。ではこの明らかな挿入部分を除けば、これはヨセフスが書いていたことなのでしょうか。文脈から考えるとそうではないということを、カナダの研究者、Earl Dohertyが論じています("The Jesus Puzzle", Canadian Humanist Publications, 1999)。Dohertyはイエスの実在を否定しており、ヨセフスの著作について詳しく論じています。イエスが実在したか否かについて関心を持つ者にとっては彼の著作は必読書だと思います。ホームページでもパズルの一端を公開しています。

  http://pages.ca.inter.net/~oblio/home.htm

 

『福音書』が過去の記憶、もしくは神話から生まれた新しい神話であるということは、Dehertyのみならず、上に触れたTimothy Freke & Peter GandyKamal Salibiに共通している見解です。因みに、前者の著書は、イギリスでベストセラーになっています。

 

Einsteinや管理人様が共感を覚えて、イエスの人物像を実在と取り違えているのは、古い神話に基づいているからであり、また、大変巧妙な作家がいたということであろうと思います。

 

コナーの本は、幸い、アメリカの古書店で売りに出ていましたので買いましたがまだ届いておりません。ピラトの書簡は捏造文書であるという見解を、"Cathoric Encyclopedia"は取っています。

 

    http://www.newadvent.org/cathen/01601a.htm#III2

 

しかし、コナーが付録に収めているという書簡は通常言及されるものではない、アメリカ国会図書館にある "Archoko Volume"に含まれているもののようで、これについて触れている人は稀です。私が見てまず疑問に思ったところは"You know that in my veins flows the Spanish mixed with Roman blood"と言っているところです。彼の名"Pontius Pilate"は彼がイタリア中部にあった国SamniumPontii族の一員であったことを表していますが、Samniumとスペインとの関係は考えにくいのです。当時イベリア半島の南東部には現在歴史家が"Iberian"と呼んでいる、インド・ヨーロッパ語族とは異なる人々が棲んでおり、北西部にはケルト人が住んでおりました。「スペイン」は欠乏を表すギリシア語から生まれていますが、スペインを指す言葉として英語で用いられているのは13世紀以降にしか見られないようです。英訳ではなく、原文を分析しなければ確かなことは言えませんが、大いに怪しい文書だという感じがします。

 

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投稿日 20020708 0830

投稿者 管理人

タイトル 新しい世界です

 

ありがとうございます。

 

新しい世界を垣間見せていただきました。ただ私には正直言って消化し切れません。最近私の町の小さなプロテスタント系教会に学究肌の牧師さんが着任されました(先日ピラト文書を差し上げた牧師さんとは別の方)。その方に一連の議論を読んでいただこうかと考えております。そこで話をうかがって私なりに考えてみたいと思います。しばらくお時間をいただきたく思います。


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