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直江兼続公と南陽 [直江兼続]

スライドをつくりました。

 「直江兼続公と南陽」

 生まれながらに上杉景勝の側にあって、上杉謙信、豊臣秀吉、徳川家康、あるいは伊達政宗、石田三成と深く関わりながら、戦国の時代から江戸の時代へ、日本の歴史のど真ん中を駆け抜けた直江兼続公。公はまた、わが南陽の礎を築いた人でもありました。直江兼続公と南陽との関わりを探ってみることにしましょう。

直江兼続は、信長が桶狭間で今川義元を破った永禄3年、西暦では1560年、現在の新潟県南魚沼市、旧六日町市の坂戸に、樋口兼豊の嫡男として生まれました。彼の聡明さは、上杉謙信の姉で上杉景勝の母仙桃院の目にとまるところとなり、幼少の頃より景勝の側に仕え、さらに景勝が叔父謙信の養子となったことで、謙信公にも身近に仕えたのでした。

 天正6年の1578年、謙信が亡くなると、謙信の二人の養子の間で家督を巡る争い、御館の乱が起こりました。この争いで、謙信の実の甥で養子となっていた景勝は、北条氏康の7男で人質として養子になっていた景虎を斥けて上杉家を継ぐこととなりました。

景勝が家督を継いで間もない天正9年の1581年、上杉の重臣直江信綱が、刃傷ざた沙汰に巻き込まれて死亡します。越後与板の名家直江家の断絶を惜しんだ景勝は、兼続を信綱の未亡人おせんに目合わせ直江家を継がせたのでした。兼続22才、おせん25才の時のことでした。「直江兼続」の誕生です。

天正14年の1586年、景勝と共に京に上った兼続は秀吉に会います。その後、豊臣の姓をもらい、さらに秀吉の推薦で山城守に任じられる程気に入られるようにもなっていくのです。秀吉は「直江兼続には天下の政治を安心して任せられる」と言ったといわれます。兼続は景勝と共に最前線で秀吉の天下統一事業を担うのです。

また兼続と同い年の石田三成とも親しく交わるようになり、後の関が原の戦いへとつながります。 文禄元年の1592年からの、文禄の役では、景勝と共に朝鮮出兵。この戦が、無益なものと知っていた兼続は、財貨の略奪などを厳しく戒める一方、貴重な書物が戦火に焼かれるのを惜しみ、その収集に奔走したのでした。兼続が集めた貴重な書籍の数々は米沢興譲館の源流をなす禅林文庫を経て今も米沢に大切に伝えられています。

 慶長3年の1598年の早々、上杉景勝は秀吉により会津転封を命じられました。このとき6万石を与えられ置賜を治めることになったのが直江兼続です。

宮内には兼続とはたいへん縁深い二人が入りました。熊野大社の裏手にある宮沢城主になったのは、兼続の実母の実家である元信州飯山城主尾崎家第二十代の重誉でした。

また熊野大社から東北へ約1キロにある金山城には、兼続の妹を妻にしている越後平林城主色部光長が入りました。半年後、重誉は福島へ移ったのですが、家臣の多くはこの地に残り、その後は、色部光長が宮内を知行することになりました。宮内の町づくりは、おおいに兼続の影響を受けながら行われたと考えられます。

 新しい町ができる前は、宮内と言えば宮沢城を中心にした熊野大社の北側でした。新しい町づくりは、まず吉野川の水を利用するために金山に堰をつくって水を引くことから始められました。当時はまだ戦の余韻が残っている時代でした。道路は、もし敵が攻めてきた場合を考えてまっすぐに見通せない、敵が攻めにくい造りになっています。また、町の南に広がる田んぼには、町を通ることで暖められた水が入ってくるようになっており、寒い夏でもその影響を最小限に食い止めることができました。

さらに、「北に丘陵、南に沃野、東に清流、西に街道」、すなわち玄武、朱雀、青龍、白虎の四神を配する風水思想を意識した町づくりでもありました。兼続は、慶長9年の1604年、熊野大社おみや御宮建立の大壇那であったとの文書が残っています。古くからの聖地熊野大社を戴く宮内は、兼続の都市構想の実現に格好の好地であったにちがいありません。

秀吉にとって国替という政策は、領主と住民の結びつきを弱めることに意味があり、検地や刀狩りによる兵農分離と合わせて、村落と領主とが一体となった実力行使を防ぐという目的がありました。そのため上杉の会津転封の命令も、侍以下奉公人は一人残らず連れてゆくこと、検地で登録された百姓については一切連れて行ってはならないことが条件付けられていました。

山にはまだ雪も残る旧暦の三月、北に向かう旅はとりわけ老人にとっては厳しい旅であったにちがいありません。重誉の祖母は、尾崎の宮内在住半年の間に亡くなり「蓬莱院殿」の法名で現在の蓬莱院の開基とされています。

その他、熊野大社境内の末社のうちの八幡神社、菅原神社、皇大神社、和光神社、また今は米沢にある東源寺、善行寺、養善寺が尾崎の旧領地から移し建てられた寺社です。兼続の位牌は現在、尾崎の菩提寺である東源寺に祀られています。

また保呂羽神社は色部光長と共に越後から遷されたのですが、色部は米沢窪田も知行したことから、色部の菩提寺窪田千眼寺の保呂羽堂となり、裸餅つきで有名になっています。  

上杉謙信、武田信玄という戦国の両雄が戦った川中島合戦は、所領の奪い合いという側面とは別に、善光寺如来の争奪戦でもありました。

阿弥陀三尊である善光寺如来は、そもそもきん欽明天皇十三年の552年、くだら百済の聖明王から送られてきた日本最初の仏像であると伝えられています。善光寺如来は古来秘仏とされ、白い布で厳重に巻かれ住職であってもこれを見ることは許されていません。このことから、ほんとうの善光寺如来の所在について諸説あり、上杉と共に米沢に遷され今は米沢御廟の法音寺にあるとも言われ、今から六十数年前、米沢の館山に善光寺如来を祀る寺社建立の動きが起こったこともありました。

熊野大社には善光寺の銘の入った華蔓とともに、善光寺銘の御輿が残されています。信州飯山から宮内に移った尾崎の一統はまさに善光寺如来争奪戦の最前線にあったはずです。とするとその御輿は、直江兼続を頭に戴く尾崎の一行が信州から置賜へ善光寺如来を御遷しする際にお乗せした御輿にちがいありません。

家康による景勝への上洛要請、それに対する兼続の拒否の返書、世に言う「直江状」が、関が原の戦いに至る大きなポイントでした。東北の関が原と言われた最上長谷堂の戦い、直江兼続軍対最上義光軍、この戦でで小滝口から攻め上り大奮戦したのが北条十八騎とよばれる、兼続の徴募に応えて参戦した宮内を中心にした地侍たちでした。

直江軍は勝ち気運にあったものの、関が原での三成軍敗退の報に退却を余儀なくされ、その後北条十八騎は小滝村で最上軍侵攻を防ぐ役割を担いました。十八騎とは、鈴木孝七、青木安兵衛、羽田平兵衛、遠藤彦總、鈴木与十郎、嶋貫弥一郎、山口半七、竹田源次郎、山口勘七、渡辺忠兵衛、粕川十助、安部源太郎、星源太郎、漆山牛蔵、高橋七兵衛、戸田新兵衛、石岡丹右衛門、松木新右衛門です。その他、尾崎、色部の家臣として宮内に入っていた安部右馬助、板垣作右衛門、嵐田左近、高梨九郎左衛門、手塚新太郎、菅七兵衛らの働きも伝えられています。とりわけ安部右馬助の長谷堂における先陣ぶりは高名です。安部は後に北条郷宮内の代官となって宮内の町を整備し、熊野大社の再興にも力を尽くしました。

 麻布の原料である青苧はごく最近まで身近な植物でした。今でも近くの里山に自生する青苧を見ることができます。江戸時代から戦前まで、青苧はこの地方の重要な換金作物だったのです。そもそも上杉藩が越後で力をつけた背景には青苧生産があったと言われています。

兼続はそのノウハウを根こそぎ置賜に移植しました。その結果置賜は品質においても生産高においても日本でも有数青苧生産地になることができました。後に鷹山公が絹織物に着目したのも、すぐれた青苧生産技術が根付いていればこそのことでした。その伝統は明治になって世界最高品質の生糸「羽前エキストラ」を生み出すことにもつながります。

 南陽市では平成元年から青苧復興に取組み、「南陽の古代織伝統を守る会」がその役割を担っています。荻地区には今では珍しい青苧畑もあります。また青苧には抗酸化作用があるポリフェノールが含まれることから、青苧茶、青苧そば、青苧麦きり、青苧まんじゅうといった食品への利用も行われています。

上杉家の祖上杉謙信公。生涯70回以上の合戦でほとんど負けたことがない戦の天才でした。しかし決して私欲からの戦ではありませんでした。公は、戦国乱世の秩序回復を本気で志し、助けを求められれば労を惜しまず駆けつけました。その一方で、争いをなくすために国を豊かにしようと特産品の開発に力を注いで越後を経済大国に押し上げもしたのです。力で天下の覇権を狙う織田信長にとって最大の脅威が謙信でした。

上杉家には謙信公以来代々「家訓十六ヶ条」が伝わっています。 

・心に物なき時は、心廣く體泰(からだ やすらか)なり 

・心に我儘(わがまま)なき時は、愛敬(あいきょう)失はず 

・心に慾(よく)なき時は、義理を行ふ 

・心に私(わたくし)なき時は、疑ふことなし 

・心に驕(おご)りなき時は、人を敬(うやま)ふ 

・心に誤(あやまり)なき時は、人を畏(おそ)れず 

・心に邪見(じゃけん)なき時は、人を育つる 

・心に貪(むさぼ)りなき時は、人に諂(へつら)ふことなし 

・心に怒(いかり)なき時は、言葉和(おだや)かなり 

・心に堪忍(かんにん)ある時は、事を調(ととの)ふ 

・心に曇なき時は、心静(しずか)なり 

・心に勇ある時は、悔(くや)むことなし 

・心賤(いや)しからざる時は、願(ねがい)好まず 

・心に孝行ある時は、忠節厚し 

・心に自慢なき時は、人の善を知り 

・心に迷(まよい)なき時は、人を咎(とが)めず  

天正5年1577年、謙信公が世を去ったとき兼続18歳。その時まで兼続は謙信公の側に仕え、景勝と共に親しく公の薫陶を受けたのです。兼続はまさに謙信公精神の体現者でした。謙信公から受け継いだ、時代を超えて世界に通ずる精神の高さ、それがあったればこそ、兼続は激動日本の真っ只中を正論を以って駆け抜け、そして今なお感動を与えることができるのです。その直江兼続という人との関わりの中で、いま住む私たちの町の礎が形づくられたことをありがたく、また誇らしく思います。

 平成21年、大河ドラマの主人公として兼続公が登場します。兼続公を敬慕してやまない置賜や新潟の人たちの十数年に亘る粘り強い運動が実を結んでのことです。ともすれば金銭のみが物差しになってしまいかねない今の日本、これからの時代はいったいどうなるのか。400年前の戦国の世にあって、あくまで心のありようを見つめながら生きた謙信公、そしてその精神を受け継いだ景勝公、兼続公、大河ドラマ「天地人」は、行く先が見えなくなってしまっている私たちに、あるいは確かなメッセージを与えようとしてくれているのではないでしょうか。彼らの精神に最も身近であるはずの私たち置賜人、心して耳を傾けてみようではありませんか。「新しい時代は置賜から」 その気概を胸に秘めて (終)


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shimanuki

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ご不明な点も多々あるかと存じますので、何なりとご質問頂ければと存じます。
この度は突然の不躾なお願いとなり、大変申し訳ございません。
ご検討の程、何卒宜しくお願い申し上げます。

ご連絡いただける際は下記のメールアドレスまでお願い致します。
r.shimanuki@sprix.jp 

by shimanuki (2018-09-06 10:31) 

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