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宥明上人(2) [宥明上人]

宥明上人について書かれた「神通力の発現―宥明上人と長南年恵の神変の数々」(山本健造監修・山本貴美子著 たま書房 昭和60年)からコピーしておきます。

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○木原裸院師の上人故地探訪記       木原裸院記

 現代宥明上人を知っている人は誠に少ない。また聞いている人も少ない。たとえ会った人があり話したことがあるとしても、見れども見えず聞けども聞こえず、食えどもその味を知らぬ者が多かったのではあるまいか。「人を知らざるを患ふ」という孔子の言は、誠に千斤の重さが感ぜられる。「人不知而不温(ヒトシラズシテアタタカラズ)」 という孔子の言葉は、上人の無垢なその言動にまばゆきまでに光っている。天女の降らせし天華は、ちっとも衣に付着していない。その種々相から見ても遍神通を云々し、宿命通を云々するは叩く撞木の撞き手をかえり見ない音の聞き方であって、鐘の咎とは誰か言い得よう。鳴呼、仙か菩薩か阿羅漢か。                    裸院百拝。

 大橋氏が初めて上人に会われたときは、二十四の青年将校であった。宥明上人四十一歳のときである。大橋氏に上人を紹介した佐藤軍曹は佐藤権平衛と申され、十六歳のとき近隣にて上人の噂を聞き、父の病気につき祈願を依頼せんとし、上人を請待したのを初めとして、前生の仏縁に依るものか親交があった。同氏村長在職中、生家に隣せる長寿庵に上人を請じ、晩年この庵にて病まれ、生家に帰って示寂せられたのであった。左記に録するところは多く、佐藤氏より聞いたもので、年代によらずまた場所人名の明瞭を欠くのもあるも寛容せられたい。佐藤氏は現在大原氏を襲がれ、大原権兵衛と言っている。

  宥明上人の戸籍
 父 高橋荘衛門  文政三年正月三日生
 四男 道四郎 (宥明上人)   安政五年十一月九日生
    大正三年旧三月二十四日  示寂行年五十七歳
 仙縁 明治二十二年秋 (上人三十二歳)
                     法臘 二十五年

 古来丑年には弘法大師湯殿山に参詣せられ、この地方を巡錫せらるという伝説あり。何時も丑年には幾多の霊異変あり。上人の仙縁も丑年であったという。

○投筆について
             
昔弘法大師が入唐せられ慧果尊者について修道せられつつあったとき、勅令を受けて壁に五行の詩が霊筆され、残りの墨汁を壁面に向かってうちかけられたら、樹の字が現われ、五筆和尚の号を下されたという。
それから弘法大師が閑庭を散歩しておられたとき、一筆が出てきて、流れる小川の水の上に文字を書かれんことを頼んだとき、大師さっそく流れる水の上に書かれたが、文字は流れに従って流れ去った。それを雪が見て、「吾も書いてみようか」と言いつつ龍の字を書いた。すると水は流れたが文字は流れず、時に龍の字の点のないのを問われたら、童子「忘れた」と言って点を打つとその一点が白煙となり「龍」の字が龍となり昇天した、とある。
 これらは現代の常識ではとても思慮の及ぶところではないが、ここに宥明上人投筆の事実によってこれに思いおよぶならばどうであろうか。その宗派の人々ですら「大師は手品はなさらぬ」とか、公然とこの事柄を暗に認めかねている知識ぶった人の多いのは、つぶさに宥明上人投筆の事実につき探究すべきではあるまいか。
 晴天門の額といい、高雄神護寺の谷を隔てて投筆されたという記録、それから一遍上人の一念で千枚刷り名号といい、ただわけなく信ずるということ理性の許さぬ現代人にとって、この宥明上人の筆がどれだけこれら高僧の実績の実証として我々に示されるものか計り難い。
大橋氏によると、初めの頃は数度の後、投筆できたが、後ほどは一度で投筆ができ上がったとのお話でしたが、大橋氏が初めて上人に会われたという明治三十一年に先立つ五、六年前、明治二十五年頃の投筆には一度で書かれた事実をたびたび聞きました。希望者の意図のいかんにより、数度の投筆によりできることもできないこともあるようで、当人の心が乱れていたら文字ができそこなったという例もあるから、上人の熟不熟でなく、望む者の信、不信によって、一度でできたり、数度を要するものと考えられます。
 なお、投筆についての不思議なことは、筆の先に含ませた墨汁はほんのちょっとで、投げられた縁側とか畳の上とかにはその幾層倍の墨汁がそのあたりに落ち散ってつくということで、しかも空間をへだてて置かれている巻いた紙には、墨 痕凛々と紙の大小に応じそれぞれ、あるいは太く大字に、あるいは細く小字に、同時に異なったところの紙にそれぞれ梵字その他が善かれているのであります。
 なおその上に不思議なことは、墨を用意しないで一度書いた字を見つめていて左手を拈起されたら面前に掛けられた紙幅の上に手印が墨黒々と現われたと言いますから、これらの思慮を絶した事実をまじめに考えて深く思いを致すならば、確かに菩提に近づくたよりとなり得ると考えられます。じつに百尺竿頭一歩を進めたところの生きた事実であります。
 因縁により大原氏からもらいました龍の投筆を日々眺めこんで拈香礼拝していましたら墨痕の上にさらに神字と認められる文字が書かれてありましたのが現われて参りました。この龍の投筆は故あって京の某地に埋めました。本人の心がけから投筆の文字が消えたり、あるいは知らぬ間に横線を引かれたりしたことが山形あたりにあると聞きましたが、この神事の現われから察しましても、こういうことは確かにあるであろうと考えられます。

○御宝が来る紐について

上人が念ずると、御宝という珠の入った紐が来るといいます。
 その珠の入った紐は立ちどころに消えさりますが、その一端を切りとり日露出征の前に大橋氏に与えられたものは消え去らずにあるので拝見しましたが、結構な青地の錦で幅六分くらいの紐状で桐と鳳風が白地紋りとなり、丸き雷紋様が紫地に織りなされた結構な切れ地と拝見しました。
 これら御宝の入った紐は、上人の霊的な用が済めばすぐ消え去るということで、また次の瞬間にすぐ呼び出されたときは、異なった切れ地の紐となって現われて来るということです。赤いモミ布のときもあり、白の羽二重のときがあったり、また紙のときもあった、と大原氏は申されました。
その中の珠は決して人には見せられないとのことで、紐ぐるみ手に載せて人の目の前に出し、他の人がちょっと触ろうとして手を出すと、フツと消え去ったといいます。
 大橋氏に与えられたものはこの青地の錦を一寸ばかり切りとり、内に白紙の幅五分、長さ一寸八分のものに梵字六字が墨で書かれてありました。
 これを大橋氏に与えられたときの上人の態度は、じつに厳正そのもののようであって、平素の心安だてのお互い同志の気持ちはさらになく謹んで襟を正したとのことでした。
 これは明治三十七年二月末、山形市の県庁横の大橋氏下宿で出征に際し、特に授けられたものといいます。
 これ以前、明治三十二年五月初めに常用消災のお守りとして大橋氏に与えられたものは、白紙幅八寸、長さ二寸五分のもので、梵字が二行になって十五、六字墨書してありました。日本紙の外包の封じ目に梵字二字認めてありました。その表題の「御守」の二字は上人の代筆として佐藤権兵衛氏の筆になっておりました。
     
○仙縁について

 武士峠の大石の所で老翁に会われたことについて、大橋氏の聞かれたところと私の聞いたところと多少違っています。
 上の山へ筵を買いにやられて、図に示すBの道をトボトボと上がって来て龍沢村というほんの三、四軒の前を横切り雑木林の小径を武士山のところまで来ると、左手に大石がありますが、その上に痩せた老人がおられて呼び止められました。
(その所からすぐ石ころ坂という急坂を上る)
 「おれは腹が痛んでならんから、坂の上まで負って行け」と言われました。自分は今延を背負っていると思うと、急に体がかじこまって動けなくなり、平素から至って気の弱い人なので、これはただごとではないと思い、否応なく納得したら、縄がほどけたように楽になり、ヤレヤレと思うと「お前は正直者だ。これを食え」と一、二寸ばかりの細長い白い動いたものを口につきつけられ、いやな気がしたのですが食べてみると甘かったそうです。
 するとまもなくフラフラと気絶してしまいました。そしてまた、ほどなくして気がつきました。老人は目前にニッコリとして立っています。「早く負え」と言われ、そのまま筵を捨て置き老人を負いました。その軽いこと、不思議にもー貫目あるかなしかでありました。
 スタスタと石コロ坂を、落ち葉踏みしめつつ上って行き、頂上に着いたら、老人は 「これでよし下ろせ」と言います。言われたままに下ろすと急に筵のことが気になって来たので、さっそく坂を下って莚を置いた大石の所へ来てみると、こはいかに、置いてあるはずの筵がありません。石の周囲をクルクル回ったがやっぱりありません。この一本の道、今誰も通ったはずがないのに、なくなっているとはじつに不思議な思いがしました。
 うんざりしながら石ころ坂を上って行くと、老人が「莚はなかっただろう」と声をかけたので、思わず「ハイ」と答えて低頭すると、驚いたことに今までなかった筵が厳然として目の前に急に現出しました。
 道四郎、見を絶し聞を絶しました。しばし密語があったでありましょう。別れに臨んで「あなた様はどなた様ですか」と尋ねたら 「弘法々々高野山よ‥…一度尋ね参れ」と言われ、巻物一巻賜り、喜び勇んで莚を負い、坂を下って荻のわが家へ帰って来たのでありました。「俺は今、神様から御宝をもらって来た」 と言いますと、皆の者が寄って来て 「見せろ、見せろ」 と言うのを振りきって、一升徳利片手に、五、六丁ばかりある酒屋へ御神酒買いに走りました。
 以上が宥明上人仙縁当日の光景であります。
 それから夜、寝につくと巻物の梵字の一行一行を夢ともなく現ともなく教えられ、その教えられたとおり昼間にやってみると、教えられたとおりにできたといいます。
 剃髪も幽界の明師の指図によるも打か、宥明として諸国を遍歴せられたのであります。
御宝にしても巻物にしても、必要に応じ時を問わず場所に関らず、いつでも念ずれば飛来したといいます。大橋氏は一巻だけ半分ばかりちょっと見た後は糊つけしたようで開けなかったとのことでした。長寿庵在住のときなど、これを木箱に入れ、ときどき振ってコトコトと音をさせて聞かせ「三巻あるだろう」と言われたといいます。
 大橋大佐の神変記には「仏縁岩より老人を背負って上の山まで戻った」と出ていますが、木原裸院師の文章では「老人を背負い仙縁岩より石ころ坂を登って頂上に達した」というように出ています。
 宥明上人のご親族は「老人を背負って石ころ坂を登った」と言われました。
 今となっては、どちらが本当かわかりませんが、仙縁岩から上の山へ老人を背負ってゆくのも、石ころ坂を老人を背負って登るのも、どちらも極めて大変なことです。

○ 風貌について

写真は何とかして一度見たいと思っておりました。
 大橋氏が写真機で「写すよ」と上人に言うと「なに、写るものか」と言う。
 「いや、機械だよ、光線だから写らずにおくものか」と言うと「なに、写るものか」と言って押し問答したときなどは、どうしても写りませんでした。
 後に一枚だけ写したものがあったのですが、移転のとき原板を壊したということでした。つい最近満恵さんのところに一枚あったのを複製してもらったわけであります。
 写真にも写っているように、まったくボンヤリしていて大きな口を締りなく開け、手も宙ブラリンとして見えますので、外見上からはなかなかその真相を見出すことは難しいことと思います。
 この度はずれした風貌は、仙人の散歩を思い出させます。普通の人が散歩するときはある所まで、という目的があります。仙道の散歩はほんとうの散歩で、プラリッと門を出たら、どこというめあてなどさらさらなく、身の向いた方向へ足が宙浮きになってブラリンとしたままフラフラとフラツキながら歩いて行くと聞かされたことがあります。
 宥明さんの日常も、その風貌もその内容もまったく仙道にいう坐忘の境の顕現であったと見られます。
 こういうふうであるからこそ、道を通っていて県庁の商人溜りの炉辺に小児が火に落ちたのが知れたのではなかろうかと思われます。
 他人の言う言葉が何の色彩も加えられず、そのまま空谷のこだまのごとく当人の口から反響して来る、その明朗さその無垢さなどは、度はずれのした清浄義でありましょう。
 これらは上人の姿、言葉だけについて申すのではありません。形を離れた物の真相いっさい、時いっさい、所に於て看取する事物の当体に触れるということは、なかなか大仕事というべきで、誰もが自分自身の持っているものをとおして見ていることに気がつかず、何だかんだと他を評しさってそしらぬ顔でいる、誠に菩薩の波羅夷罪(最極の重罪)ばかりの人生と申しましても過言でない気が致します。

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「神通力の発現―宥明上人と長南年恵の神変の数々」は、置賜タイムス社が1万円近い値でネット上の古書店から購入したのを一昨日借りてきたものです。

斉藤喜一氏にこの話をしたところ、斉藤氏は、宥明上人の出身地吉野の歴史に関する第一人者加藤次郎右衛門先生(90歳近い高齢)を訪ねて、南陽市歴史を語る会の平成9年8月9日の例会資料「宥明上人の仙縁と生涯」のコピーを持ってきてくれました。内容的にはほとんど「神通力の発現―宥明上人と長南年恵の神変の数々」の範囲内ですが、次郎右衛門先生はこの本の存在はご存じなかったとのことです。

下記、コピーしておきます。

≪吉野文化史研究会では、昭和53年、石碑のこと、その後上人の生家高橋家に、上人について書かれたパンフレット的な冊子「高橋宥明上人神変記」あることからこの本を借用、昭和57年文化史資料に抜粋紹介した。地元では反響をよび口伝えに広まった。

その後ポツリポツリの問あわせ つい数年前か、西置賜の白鷹町、横浜から来たという若い(30代)男は「宥明上人について本を書きたいから」といって半日ほど聞き、その後赤山の碑、さらに上人の実家(現上山市)へ。その後出版についてはまだ音信なし。南陽市の総務課経由で「仙縁石」在所問合せ。他にこの「仙縁石」へ調査に来ているという知らせもある。≫

 

  


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横浜から来たという若い(30代)男

私の事まで口伝になっていますか。

出版の話はありましたが
きちんとした形で
山本氏の研究の総まとめをするときに
書くつもりです。
by 横浜から来たという若い(30代)男 (2008-06-24 15:41) 

めい

このブログがきっかけとなって、山本貴美子さんご一行が当地においでになりました。そしてまた新たなご縁が生まれたようです。
今年11月9日、宥明上人生誕150年になります。置賜タイムスの加藤社長と、何かイベントをしなければと語り合っているところです。
加藤次郎右衛門先生は今もご健在でがんばっておられます。yokohamaさんのことをお伝えしておきます。喜ばれると思います。
目先のせわしさに追われ行き届きませんが、今後ともよろしくお願い申し上げます。

by めい (2008-06-28 13:06) 

横浜から来たという若い(30代)男

ありがとうございます。
当時、地元の元教員の郷土史家であった
加藤先生が、上人のお墓の写しを
ガリ版印刷でお持ちでした。

お墓は、墓石ごとパイパス沿いの寺に移動されていました。飛騨では上人の写真のコピーが無くなったとの事でしたが、そのときにコピーしたと思います。

お返事ありがとうございます。
by 横浜から来たという若い(30代)男 (2008-06-28 22:57) 

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