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愛郷心、愛国心について [雲井龍雄]

伴野さんが前回の記事に次のようなコメントを寄せられました。

> 愛郷心、愛国心というパラダイムが、副島先生のお説によって(おいおい、誤解するなと、もしかしたら、副島先生は仰られるかもしれませんが)、私の中では、今崩れつつあるところです。

雲井龍雄に関連して次のように書いたことがありました。
http://blog.so-net.ne.jp/oshosina/2006-03-29

(転載はじめ)

●2005年04月06日 00時32分

雲井龍雄について知るほどに辛いのは、彼が決して明治政府に楯突いたがゆえに処せられたのではなく、龍雄を慕って集まってくる不平不満の徒輩を、なんとかまっとうな職に就かせるべく必死の思いで新政府にかけあったにもかかわらず、その努力がかえって仇となって新政府に謀殺されたと思われることなのです。「いったいなぜ雲井龍雄に惹かれるのか」について、20日ほど前、ある掲示板に書いた文章を転載してみます。


   *   *   *   *   *
ここ2ヶ月ほど、ネットで知り合った雲井ファンの女性とメールのやりとりをしています。彼女がつぎのように書いてきました。

>西郷や大久保といった薩長の主たる者達にとって戊辰の戦争で最も手に入れた
>かったものが「正義」だったのではないでしょうか。
>彼らにとって「正義」、それは誰にも文句が言えないという事。
>そして彼らのまやかしの「正義」を早くから見抜いていたのが雲井さんを初め、
>三計塾の方達だったと思います。

安井一門の人たちがいちばん拠り所にしていたのはなんだったのか。安井息軒の肖像画http://www.miyazaki-catv.ne.jp/~kiyokan/rekishi/
から伝わってくる彼の人柄を思うと、雲井龍雄が「この人にならとことんついていってもいい」と思ったであろうその思いがよくわかる気がするのです。その安井息軒という人を介してかもし出されていた共感の世界、それこそがかけがえのない、いわば「真実」というにふさわしいものだったのではなかろうか。それを完膚なきまでにずたずたにしてしまったのが、戊辰の激動、そしてそれ以後の明治政府確立のプロセスだった。雲井龍雄にひかれるのは、決して「正義漢」としての彼というようなものではなく、安井息軒という師を通してつくられていた共感の体系の中でとことんそれを信じて生き貫いていたところにあるように思えてくるようになっています。とすると、明治政府がふみにじったのはそこのところということになりそうです。日本の近代はそうして出発したのです。そして今の日本です。

(転載おわり)

雲井龍雄を「正義」という言葉でわかったつもりにはなりたくない、そういう思いで書いたものでした。「共感の体系」というのは私なりの発見でもありました。「自我以前の共感の世界こそが人間の意識にとっての根源である」とするメルロ―・ポンティ哲学
http://blog.so-net.ne.jp/oshosina/2006-03-21
に通ずる理解でもありました。私にとっての「愛郷心、愛国心」はこの理解の線上にあります。「各個人の自由を最大限尊重し、絶対的自由を損なう国家を廃止またはその機能を最小限化することを主張する」リバータリアニズム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
とは根本において違和があります。
田下先生の「真っ当な日本人の育て方」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106035669/qid%3D1151658387/250-117674-4997816 の帯のコピーは「『他人に迷惑をかけない人になれ』は大間違い!」です。田下先生にはじめてこの言葉をお聞きした時には大きくうなづいたものでした。引用しておきます。

(引用はじめ)

私たち人間は、赤ちゃんとして生まれた時、自分の身体を自分で移動させることすらできません。これは人に世話をしてもらわなければ生きてはいけないということで、しかもその後もずうっと、子供はいろんな人たちの援助を受けて成長していきます。
 手助けをしてくれたほうの人たちは、別段迷惑だとは思わず、親切と好意で育ててくれます。これを私たちは 「世話になる」と言うのです。そうして世話になった分は、その子が成長しでから世の中 (社会) に返せばいいのです。また返さなくてはなりません。
 人間は一人で生きてはいけません。みんなで助け合って生きていくものです。この助け合って生きていく仲間は、親であり、兄弟であり、友人であり、夫婦であり、親戚であり、村であり、町であり、国であるのですが、これらを「他人」 という言葉で表現するのは不適当です。だから子供に世間との付き合い方を教える時、「他人に迷惑をかけない人になれ」と教えるのは間違いです。それによって「迷惑をかけなければ何をしてもいい」という誤解を生じ、実態は、わがままそのものになります。したがってこの言葉を子育ての指標にしていたら、子供をわがままにするだけです。
 この「他人」と「世間」、「個人」と「社会」、「私」と「公」についての言葉の混乱は、もとを正せばアメリカ教育使節団の報告書にたどり着くのです。すなわちデューイの思想の延長線上にある「児童中心主義」に原因があり、その行き着いた結果が、現在世の中に氾濫している「自己実現」「自己決定」「自分らしく」などという、反省が欠落している上に責任も伴っていない自己中心的なだけの勝手な言い分なのです。

(引用おわり)

無理に「リバータリアニズム」に惹かれようとしなくてもいいと思います。「人柄の良さ」は世の中にとって十分価値あるものなのですから。


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伴野 謙

めい様、良い刺激を頂いております。ありがとうございます。

>西郷や大久保といった薩長の主たる者達にとって戊辰の戦争で最も手に入れた
>かったものが「正義」だったのではないでしょうか。
>彼らにとって「正義」、それは誰にも文句が言えないという事。
>そして彼らのまやかしの「正義」を早くから見抜いていたのが雲井さんを初め、
>三計塾の方達だったと思います。

つい最近のことですけれど、副島先生と船井先生の対談本第1弾、「日本壊死」を私に譲ってくれた友人と、「正しさより優しさ、楽しさが大事」というような話をメールでしましたところです。私の友はどう解しているのか、確認はできておりませんが、多分、「楽しさ」とは、ファニーの意味ではなく、「興味深くて面白い」という意味であるように思います。

副島先生が良しとされるリバータリアニズムってどんなものなのだろう、というのは、私の素朴な関心(=楽しみ)から発するものです。副島先生は、権力の理不尽な(弱い者イジメ的な)行使を、嫌っているだけだと思います。先日、映画「不撓不屈」を見て参りました。「親方日の丸だと言って、笠に着る(国税庁の)態度」こそ、副島先生はお嫌いなのだと思います。それが、「各個人の自由を最大限尊重し、絶対的自由を損なう国家を廃止またはその機能を最小限化することを主張する」リバータリアニズムを、副島先生が好しとする所以では、などと思うのですが・・・いかがでしょうか。

小林よしのり氏は、「戦争論」で“国際関係に神の視座はない”と仰っていたように思います。ですから公の最大範囲は国であると・・・。でも、故郷をもたない、ごく少人数の金融ユダヤ人が、(つくる会のものも含めて)教科書に載っているような歴史を、裏から操って来たということですよね・・・。私は“中国ロック本”他、副島先生の本を少し読みまして(只今4冊目です)、神の視座はあるじゃないか、副島先生が、現在の世界皇帝はロックフェラーだと仰っているけど!?・・・と思いました。それで、小林氏や、つくる会、「正論」誌などのお説によって親しんで参りました、愛郷心、愛国心、というパラダイムが崩れて来たように感じておりますのです。何となれば、そのような愛郷心、愛国心が、真の《支配者達》に利用されつつある・・・ということは、めい様も、よくご存知のところかと思います。

> 「自我以前の共感の世界こそが人間の意識にとっての根源である」

これこそ、私自身にとって分かり易い言葉で言い換えますと、「正しさより優しさが大事」、となるように思います。めい様や、懐かしいono様から、私の心に蒔かれた“副島種”が、遅まきながら、やっと私の中で芽を出したようにも思っておりますところです。めい様もono様も、別に種を蒔いたつもりなどないのでしょうけれども、掲示板等で意見・関心事等を書き込むことは、結果的に、そういうことにもなるのではないかなぁ、と思っております。

> 「人柄の良さ」は世の中にとって十分価値あるものなのですから。

私もそう思います。ところで、少し脱線をお許しください。森信三を愛する仲間同士では、ハガキ文通を盛んにやっております。「複写ハガキの控え」というのがありまして、薄い紙に罫線が印刷されたものが50枚綴りになっております。そこにカーボンとハガキを挿し込んで、手紙を書くのです。そうしますと、メールの送信控えのように、自分の書いたものが手元に残ります。この「複写ハガキ」を(インターネットが普及する前から)、森信三は奨励されておりまして、私も数えたことはありませんが、多分10人くらいの方と文通させて頂いております。つくる会や、色んな団体の皆様も、真似をされては、と思います。家に帰ってきて、道友からのハガキが届いているのは、とても嬉しく励まされます。文通の続く方は、私にとりまして、良い方ばかりに感じられます。議論まではしなくても、示唆を頂くことは多々ございます。

人様も、それから、たまたま日本国に自分は生まれ落ちましたが、国や故郷も、それが優れているから愛することもありますけれども、それだけでは無くて、自分と縁がある人、事、場所(そして時代)、などでありますから、それらを大切に思い行動して行けば、きっと幸福にも繋がるはずだと、私も思っております。ただ、消防団にしても、シャッターの下りた商店街にしましても、元に戻ることはとても難しいように感じております。めい様が参加をされているお取り組みそのものが、シャッターが下りた商店街への代案で、お取り組みそのものは、活発に取り組まれる限り、活発に生きますでしょうけれども、大手スーパーやコンビニやファミレス、100円ショップで事足りるのが庶民ですから・・・。意味とか価値よりも、楽とか便利とか生得的なことが庶民のニーズで、享楽的に生きたい者は、もうどんどんそちらの方向で行ってしまうのでしょう(勿論私とて、人様のことはとても言えません)・・・。結局は、目覚めた個々が、真剣に、地道に、自覚的に、抵抗すべき事には抵抗しながら、生きて行く他にないような気がしております。
by 伴野 謙 (2006-07-01 01:03) 

伴野 謙

めい様

> この「他人」と「世間」、「個人」と「社会」、「私」と「公」についての言葉の混乱は、もとを正せばアメリカ教育使節団の報告書にたどり着くのです。すなわちデューイの思想の延長線上にある「児童中心主義」に原因があり、その行き着いた結果が、現在世の中に氾濫している「自己実現」「自己決定」「自分らしく」などという、反省が欠落している上に責任も伴っていない自己中心的なだけの勝手な言い分なのです。

私は、私のカンに依るだけでありますし、副島先生が紹介されるリバータリアニズムについて、まだよく存じておりませんが、副島先生が好しとするリバータリアニズムとは、田下先生の仰るようなこととは、また別なのでは?という気がいたします。
by 伴野 謙 (2006-07-01 02:09) 

めい

あがきに過ぎないのではという思いがいつもあります。
しかし、
「千人共働き」という言い方をある故老にうかがったことがありました。その土地に1000人人口があればお互いその中でやりくりしあってなんとか生きてゆけるものだというものです。自給自足的経済の時代の話といってしまえばそれまでですが、やはり根っこはそれのように思っています。私には、グローバリズムに対置されるものとして、産土(うぶすな)信仰がいつもありました。

>副島先生が好しとするリバータリアニズムとは、田下先生の仰るようなこととは、また別なのでは?という気がいたします。

おっしゃる通り、「個」が先か「共感」が先かという原理において対極にあるということになります。
by めい (2006-07-03 07:02) 

伴野 謙

めい様、こんばんは。ご返信有難うございます。お邪魔いたします。

私は90年代、ほぼ10年(厳密に言えませんが、大体それくらい)、沖縄に憧れておりました。私は、めい様がお持ちの産土信仰というものを存じませんで、想像に拠るしかありませんのですが、私が憧れた「沖縄」を、産土信仰を想像する、よすがにしております。私は自分自身に、沖縄人(ウチナーンチュ)のような愛郷心、アイデンティティーがあれば、幸せだろうなと思います。でも本当に残念ですけれども、私には、私の地元静岡に対しまして、そういうものは、皆無に近いほどに無いように思います・・・。

ですから正気板の常連であられたHN“よっぱらい”様に、今でも懐かしさと共に羨ましさを感じております。そしてよっぱらい様は、怒っているのにどこか愛嬌があると言いますか(碩学のよっぱらい様に対して失礼でしょうか)、ホッコリとした温かさのある、魅力的な方だと思っておりました。お元気でしょうか。

う~ん・・・それよりも、もっと踏み込んで申しましたら、結局、私たちは「ピグミー」のような暮らしにまで、戻るほか無いのかなぁ、と思います(笑)。

自分さえ良ければそれで良いではなくて、という思いを持たれる方は、ナショナリスト、パトリオティストだけではないように思っております。何となれば、漠然とした故郷しか持たない私のような者にとりましても、それこそ「共感が第一」、と思いますからです。では、実際どのような手をと言いますに、手っ取り早かったのは、まず自分が「師」と仰げる人を、読書から嗅ぎ出すことでした。そして私は、森信三という人を好きになりましたし(高橋史郎先生によるご講演の、テープ起こしがきっかけでした)、そして副島隆彦先生もまた、好きな先生であります。

めい様は、めい様の地元におかれまして、信頼できるお仲間と共に、日々お過ごしでいらっしゃるのかな、と想像しております。向暑の折(山形の夏は、如何ですか?)、どうぞご自愛下さいませ。それではこの辺で失礼いたします。
by 伴野 謙 (2006-07-04 00:39) 

めい

ふと考えてみると、私の知る限りで祖父の代から、母(祖父にとっては嫁)、私と毎月の産土神社詣はつづいています。せっぱ詰まったことがあるときにはそれなりにお願いをすることもありますが、「おまかせします」が基本です。あと、こうして無事お参りに来れたことを感謝してきます。30近くある摂社、末社をずっと巡拝することで得られるさわやかな安心感がなによりのご利益です。他所の土地に泊まったときにはできるだけ朝食前に近くの神社に参拝するよう心がけています。その土地土地に連綿と続く神社の存在は、その土地土地の歴史の結晶体のようなものなのではないでしょうか。伴野さんもぜひ近くの神社にお参りしてみてください。神社とのご縁がその土地への愛着につながるように思えます。
by めい (2006-07-05 07:46) 

伴野 謙

めい様、お邪魔いたします。ご返信ありがとうございます。

お話を伺いますと、めい様も、よっぱらい様と並んで、私が羨ましく思う方のお一人のように、とても感じます。

> せっぱ詰まったことがあるときにはそれなりにお願いをすることもありますが、「おまかせします」が基本です。あと、こうして無事お参りに来れたことを感謝してきます。

共感いたします。私もこの頃、お参りをする時は、まず感謝、と思うようになりました。

近くの神社の事ですが、

> 祖父の代から、母(祖父にとっては嫁)、私と毎月の産土神社詣はつづいています。

でも、私の家には、初めから、そのような継承が、本当に何もありませんのです。。。

> 伴野さんもぜひ近くの神社にお参りしてみてください。神社とのご縁がその土地への愛着につながるように思えます。

縦軸の因縁(そこに継承が含まれるかと思います)が断たれますと、砂粒の個人になってしまって、そして砂粒の個人は、長いものに巻かれながら、ラシオナリスト(合“利”主義者)となって行くのでしょうか・・・。

私は、自分自身、そのような人民の子であるような気がいたします。今後、どのように生きるべきなのかなぁ、と思っておりますところです。それで、「リバータリアニズム」も視野に入れながらの、後半人生の出発点に(これもかなり、出遅れた、とも思いますが)今、居るような気がしております。
by 伴野 謙 (2006-07-06 01:10) 

めい

>> せっぱ詰まったことがあるときにはそれなりにお願いをすることもありますが、「おまかせします」が基本です。

と言いつつ、年中せっぱ詰まっていたりするわけです。(苦笑)

>今後、どのように生きるべきなのかなぁ、と思っておりますところです。

たしかに時代はいろんな意味で選択が迫られる局面であることを思います。

ただ、結局はこれまで生きてきたようにしか生きられないものなのかもしれません。せいぜいもぐら叩きのように何とかその場を取り繕いつつ。(それでついつい子どもにやり直しを期待したりするようにもなるわけです。)
by めい (2006-07-06 06:51) 

伴野 謙

めい様、こんばんは。お邪魔いたします。

> ただ、結局はこれまで生きてきたようにしか生きられないものなのかもしれません。

昨日お返事を書きかけたのですが、結局書けませんでした。私は、読書などにより感動をしても、なかなか自分の行動と、結び付けられずにおりましたから、それで、めい様の仰るとおりだと、認めざるを得なかったからかと思います。

楽観や自惚れを自覚し、惨めな現状をありのまま認め、ささやかでも、具体的な目標を持って行動してみたいと思います。明日、明後日は土・日ですので、その事について、出来る限り時間をとって、考えてみようと思っております。
by 伴野 謙 (2006-07-07 22:46) 

めい

「われ思う、ゆえにわれあり」ではなくて、「われなし能う、ゆえにわれあり」だよとメルロー・ポンティが教えてくれました。しかし、そのことを「頭」で理解してわかったつもりになってしまうところに、いまだデカルト的呪縛に絡め取られつづける自分があるという自家撞着。ここから抜け出るには、あれこれ考えずに「行動」あるのみ、というわけです。その「行動」の蓄積のみが「現実」なのです。
by めい (2006-07-08 07:07) 

伴野 謙

めい様、こんばんは。お返事有難うございます。お邪魔いたします。

> その「行動」の蓄積のみが「現実」なのです。

これも仰る通りと思います。つまるところ、「自立」を目指すための「行動」なのだと思いますが、いかがでしょうか。

今読んでいる、船井幸雄氏の「これから5年、いよいよ正念場」の次に、何を読もうかと思いまして、今日本屋さんへ行きました。そして小説家、丸山健二氏の若者へ向けたエッセイ、「生きるなんて」(朝日新聞社)を購入しました。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4022500239/250-8072111-6140251?v=glance&n=465392
私は現在四十一歳ですので、若者などではございませんが(苦笑)。

ところで、丸山思想のキーワードは、「自立」であるように思います。ちなみに、私が丸山健二氏を知りましたのは、私が以前(30歳前後に)、一緒にバンドをやっておりましたメンバーの一人が、丸山氏のファンでありました(多分今も)からです。それで私は、丸山氏を知りました。

「自立」という言葉から私が思いますことは、日常において、自分は喰わせてもらっている身であるから、少々屈辱的な思いをしても仕方が無いという、楽をしたい思いから来る、諦めの境地についてです。日常に於いて、抜け出したいのは、このような「屈辱」が最たるものではと、私は思います。私個人の日常レベルからしても、出来ることなら抜け出したいですし、私たちの祖国日本にとりましても、同じことが言えるのではないかなぁ、と思います。
by 伴野 謙 (2006-07-08 22:24) 

まつりこ

夏目祭子です:私も今日、田下先生のご本を拙ブログでご紹介しましたので、どうぞのぞいてみて下さいね。私も個人的にこの本には多大な感銘を受けました!早くも増刷と聞いてますので、この調子で多くの人に広まるといいですね。
by まつりこ (2006-08-03 19:30) 

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