SSブログ

「次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた」を読む(2) [副島隆彦]

「次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた」を読む(1)
http://blog.so-net.ne.jp/oshosina/2006-06-24に機械計算課長こと松井康雄さんからコメントをいただきました。冒頭「馬野周二か・・・・なつかしい名前です。」とあって、「日本人としてのアイデンティティ」をめぐっての課長さんとのやりとりを思い出しました。「次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた」が提起しているのは私にとってとどのつまり、日本人はどうすればいいかの問題です。課長さんとのやりとりはその問題に関わることだったので転載しておきます。

(転載はじめ)


投稿日 : 2002年03月11日 01時 3分
投稿者 : 管理人
タイトル : 「荒唐無稽」も覚悟の上で

 

>少し徳治について述べてみましょうか。
>徳治という言葉は儒教論理の体系から切り取った言葉であって、天は徳のある人間を選んで皇帝にするという必然論から生まれたのでしょう。ちょうど西洋の予定調和説に対応する必然論思想であって、本来は中国型皇帝の制度、天命が与えられた皇帝が政治も宗教も法律もすべて握って、それを官僚によって世界を支配するという思想のもとで生まれたものです。日本ではこれがまったく政治制度として受容されず、すでに聖徳太子の時代に中国から制度を導入しましたが、その時点で政治権力と祭祀権の分離が行われています。
>
>日本で受容されたのは「徳」という理念上の言葉だけではないでしょうか。
>
>というのは儒教の思想によれば、もともと徳がある人間だから天が天命によってその人間を皇帝に位置づけるのが必然なわけです。これを一人の人間でやるのは無理ですから皇帝の下に巨大な官僚機構を作って政(まつりごと)を計画し実行するわけです。官僚制度がないのに徳治というのは発生語源的には意味がおかしいのです。日本では徳治とは、「徳をもって政を治める」という意味ですから、判断の仕方、組織的訓練や標準化や自己の肉体的鍛錬や役割分担や責任範囲などなどの諸要素よりリーダーの心持ち、精神の在り方、それも徳による面が強調されます。機能組織のリーダーが宗教的徳治位置に存在するということは非常に悲惨な結果を生みます。

学問の王道からはかけ離れた浅学の身で、だれへの気兼ねもあるわけでなく自分勝手な関心の向くまま、自分なりの「納得」を求めてこれまで歩んできましたが、その中で、ややもすると「トンデモ系」に括られがちな馬野周二氏は、私が以前からそのお考えに関心を持ちつづけてきた先生です。その馬野氏が「孔・老思想の淵源は日本にあった」との説を唱えておられます。(「人類文明の秘宝『日本』」徳間書店 1991)
「秀真伝講解巻二」の「古代史の謎(54)儒教・仏教 日本化の様態」で、次の文章を見つけました。http://www.joy.hi-ho.ne.jp/s-umano/00102copy.html

   *   *   *   *   *

 日本における教学の独創性とは、外来の教学に泥んで二義、三義の瑣末に顛倒した思考を清算し、神代の本源に帰ることである。人類高度精神の淵源は日本神代にのみある。それは日本でもっとも古く文明が創始されたからだ。人間精神の根本に関わるかぎり、東西を問わず後世の独創なるものは到底あり得ないのだ。人間本然の高度精神は遠古代日本のある時点において完結していたのであって、支那、印度、西洋はそれぞれ教学を<独創>したらしく見えるが、その文明観照は誤った視点からの幻像に過ぎない。長大な歴史のスパンで事態を静かに眺めれば、こころ(注意・頭ではない!)は人類発生以来変わったとは思われぬ。ダーウィン、ラマルクの進化論は頭で考えた空中楼閣であることを思わねばなるまい。「人間進化という科学」についてはいずれ考えるところを述べよう。古い宗教がどれも進化の観念を持たないことを注意したい。西南アジアに初発した文明についてはさらに特別の考察を必要とする。これについては本稿では述べない。一神教の思想は日本の心の反極に位置する。何故ならばそれは宇宙的原郷を異にするからだ。
 
 仏教は伝来後六〇〇年にして日本的消化が始まった。中世以後の日本仏教は印度仏教とはもちろん支那仏教ともまったく違ったものになっている。儒教についてはどうだろうか。これにはもとも宗教に必ずあるべき霊性を欠く。したがって宗「教」ではない。それは怪力乱神を排した孔子が整理し紹介した先王、尭・舜・禹の事跡に基づく心情と理性の「道」である。むしろこれは儒「道」と言ったほうが良いのではないか。
一神教は日本の「こころ」からもっとも遠い。それに比べれば仏教はなにがしか近い。儒教はもっともわれわれの心性に近いのだ。その由来は日、支の距離的近さにある。私は一部で古くから伝えられているように、伏犠、神農は日本に実際に関係があったと考える者だ。儒教は「考と忠」を貴ぶ。この風儀はまさしく日本から渡ったものである。日本の精神的源泉は<情と意>であり、それは必然的に忠孝の行動に繋がる。それにたいして一神教の原郷は「知と理」である。これは詐謀、支配に到る。この辺りについてもいずれまた述べたい。
 孔子の言説から発した儒教の根幹の思想は、あきらかに遠古日本の風儀に基づく。したがって儒教は日本人に仏教よりもはるかに馴染みが良い。われわれの個人と社会の風儀は儒教の訓えと殆ど一致する。われわれはなにも意識しないで儒教徒なのだ。したがって飛鳥時代以来の仏教という教学は日本人が羽織る着物くらいのものだ。あるいは皮膚に彫った刺青か。着物なら脱ぐことができるが、刺青となると厄介でこれは終生取れない。
 
 儒教の日本化は、思想的にすでに大江匡房(一〇四一-一一一一)の『闘戦経』によって、そのもっとも根本において発想されていた。しかしその後永い間儒教は休眠状態であった。鎌倉時代の日本仏教の盛況にたいしてきわめて対照的であったのだ。この理由については私はまだよく考えていない。仏教の広布はおそらく鎌倉、室町、戦国における戦闘の日常化と社会の不安定から、上下を問わず心の救済を求めたからではないだろうか。この時代はまさしく非日本の穢土であった。そこでこれから厭離する手だてとしてく求められたのだろう。この時代には儒教の出番はなかったのだ。いまひとつ民衆仏教の盛大化は社会底辺の差別された人たちに関係があるのではないだろうか。一向一揆とはそのような性格のものだ。

 儒教に為政者が立ち戻ったのは家康が天下を統一して以後である。鎌倉、室町の政治首班は、儒教の存在は殆ど忘れ仏教にのみ傾斜していた。仏教寺院とその信徒の俗世的パワーも強大であった。幕府官頒は仏教勢力と持ちつ持たれつの関係を持したのである。鎌倉幕府はなお政権の歴史・政治的正当性が薄弱で、精神的に京都朝廷と対等の心理は持てなかった。一方朝廷は外来仏教の上にその権威の多くを拠っていたのである。だがその朝廷仏教も外縁から侵食され、すでに見たように鎌倉時代には多くの日本化した新宗派が立ち現れてきた。この日本化はすなわち大衆化ということであり、これは社会の必然として大衆的仏教権力が出現することになる。縄文的日本は衆庶心を一にする社会で、これに絶対的、超越的階級性を持ち込んだのは外国人である。特権階級は外来教学の上に成立した。飛鳥時代以来の上層階級の仏教が鎌倉時代以後大衆化するのは日本人の本家帰りが始まったということなのである。
 
仏教は曲がりなりにも日本化して一応は土着した。ところが日本の古代思想にもっとも近い儒教は奈良時代には殆ど表面に出ず、わずかに平安時代に菅、江両家によって細々と伝えられていたのみだった。その根本には仏教の根底を掘り崩すべき理念と信念が育っていなかったことがある。人間精神にとって自己の持つものから遠いものほど強烈な作用をする。自己に近いものはえてしてなおざりにされるものだ。仏教は「異国」から来た「宗教」で、いずれも本来の日本人のまったく知らないものだった。それだけに日本人の心を強く捉えたのである。これが外来人が仏教を光背として異国である日本の政治・学道の中枢をかくも永く横領できた理由だ。

 儒教の本源支那においても隋・唐の時代は彼等にとっても異国直輸入の宗教である仏教が猖獗した。奈良・平安の支那仏教没入はその反射であった。ところが宋・明に入ると儒教に変化が起こる。朱子と王陽明はそれまでの謂わば自然的儒教に理知による論理化を導入した。これが朱熹による朱子学、王陽明による陽明学である。ではなぜ朱子が出、陽明が現れたのだろうか。朱熹は南宋の人である。南末の都杭州には南海を廻ってイスラム商人も多数来ていたし彼等の居留地もあった。それ以前北宋の都開封は古くからユダヤ人が集まっていた。このようにして西南アジアの学術、思想は支那本来の儒教思想に徐々に影響を及ぼしていた。さらに仏教はずっと古くから深く支那の学術、思想、生活に泥んでいた。これらの影響が儒教に及ぶのはまことに当然である。このような状況の下にまず朱熹による朱子学が現れたのである。
 朱子学は応用儒教とも称すべきもので、孔子、孟子の伝統儒教を、国家社会に有用な学問体系として整備したものと私は考える。これは一種の政治学で社会の進歩に合わせ、また西洋渡来の思考と実技を吸収した結果であろう。漢、唐と異なり宋は中華帝国ではなく金国の控制下にあり、ありていは一地方国家にすぎなかった。これはヨーロッパの状態に近い。そこで宋では国家主義思想が現れる。朱子学はその状況に対応する儒教なのである。したがって同じ国家状況にある日本の国家学として適合したのだ。
 藤原惺窩は戦国末期の僧侶転じて儒者となった人物であるが、非常に権高で訓えを乞う大名たちを呼びつけ高額の礼金を求めたなどとされている。ところが徳川家康はさすがに偉く、天下統一後の政治・社会の基準として体系的学問、基幹となる政治哲学が必要であることを見抜き、朱子学者惺窩に適当な人物の推薦を求めた。かくて林羅山が登場し徳川幕政を通して林家が大学頭として朱子学をもって君臨する端緒となった。
 北宋から南宋にかけての時代は経済が高度化し、それに伴って思想、学術も“自由化“し儒教も幅を広げてきた。この傾向は明に到ってますます進み、此処に王陽明が現れる。陽明はそれまでの儒者の範疇に入らない人物で、南京兵部尚書(軍事大臣)も勤めて行政、軍事にも携わり事績を上げている。同時に儒学に時世の変化に対応する新局面を開いた。それは濃厚に開放的な平等主義を含む。時代が変わっていたのである。宋の商工的社会が生んだ儒者であろう。いったい宋儒というのは仏教の影響をうけて寂静主義である。ところが王陽明は反面軍事専門家で積極的活動家である。彼の陽明学が寂静を排し活動を好む日本人を引きつけたのは当然だ。
 朱子学と陽明学はわが一国では極めて対称的な学風を生し、朱子学が幕府権力の排他的官学として維持されたのに比して陽明学は危険思想視された。事実陽明学者の大阪天満与力大塩平八郎は救民のために官倉を破って米を配り、武力をもって幕府権力に反抗した。中庸の徳は消磨した。
 ところで新儒教として朱、陽二教だけが儒学だと思われていた江戸前期、これらの後世儒教を末節として捨象し、孔子の本源に帰る復古儒学を打ち立てた人物が現れた。これが山鹿素行である。次いで伊藤仁斎、物徂徠もまた朱子、陽明に拠らない新儒学を打ち立てた。彼等はいずれも孔子、孟子以後の学者、学説を止揚する新生面を開き古学派と呼ばれる。これは日本の儒学が本場である支那の中世を越えたことを意味する。此処で重要なのは、何に拠らず本場を越えることは殆ど不可能だということである。創造者を越えて創造することは、おそらく、あり得ない。それは周辺状況がまったく違ってしまっていることにもよろう。ところがこれら三人の古学派に限りそのあり得ないことが起こっている。
 宋学すなわち宋代に開かれた新儒教は、支那本来の儒教思想の継承であるよりは、釈迦や老子の思想を入れ新形成されている。孔・孟からは逸れた。ところが仁斎、徂徠はむしろ孟子、荀子を直接に継承している。朱子学とはおおいに異なる。幕府は後にこれらの学を禁忌(寛政異学の禁・一七九〇)としている。幕府存立の基盤を危うくすると見た。こういった復古学派とも言うべき者の最初にして最大の者は山鹿素行である。私の見るところによれば素行はわが国における孔子の思想の芯核をもっとも忠実に継承していると考える。それは何故かといえば孔子の思想はもともと縄文時代深いころ日本列島から伝わったと考えるからである。孔子はあるとき子路に「道が行なわれなければ海に泛鮎んで東に行こう」と言っている。東とは日本列島のことだと私は考える。
 素行は三九歳にしてそれまでの在来儒教を一擲した。それは彼が日本の本質に目覚め、その孔子との関係に喝然大悟したからだと思われる。すでに述べたようにこの境地に達した人物にはさきに大江匡房がいた。私の見るところによれば日本土着の精神を漢文学で表現したのはただこの二人に過ぎない。儒教の祖は孔子である。ところがその孔子が実は日本から出た訓えを敷衍したのだとすれば、日本に入った儒教が永い行路の末、その本国で本来の姿に戻るのは当然とは言えまいか。

   *   *   *   *   *

機械計算課長さんには突拍子もない説かもしれませんが、この際どんな感想を持たれるかぜひお聞きしてみたくてあえて引っ張り出してみました。よろしくおねがいします。

----------------------------------------------------------------------------
投稿日 : 2002年03月11日 19時 8分
投稿者 : 機械計算課長
タイトル : うーむどうしたものか

管理人さんこん**は。
今日の早朝から書き始めたんですが、帰宅して足し前をいれてかいてみました。
馬野周二ですか。
高校生の時ですかね。彼の技術論を貪るようにカッパ文庫で読んだのは。
彼のモデルは日本には古代から揺るぎない精神文化が存在し、その一例が秀真伝だというわけですよね。文明は中国から来たのではなく、日本から世界へ伝搬したという説だったのかな。馬野氏の説を否定も肯定も私はしません。元気付ける目的にはそますが‥‥。どうして意見を保留にしたか、その意味合いについては最後に書いておきます。

さてご提案の問題の趣旨は、どうして儒教が日本人の心に共鳴するのかという話でないかと問題を捉えています。このモデルが作れれば、馬野氏の説を使わないでも、説明できうるわけです。

(文化の受容と排除の共鳴理論)
勿論私の考えているモデルも前提があります。それは文化の伝達はすでに存在する文化と同一の部分が強く共鳴して受容し、すでに存在していない文化は無視されやすいという文化の共鳴理論です。このモデルは西洋文化の受容で日本人が文化的な伝統と共鳴する点が多くあったので、西洋文明を受容したが、しかしそれは決して日本が西洋化したわけではない(排除した部分が存在します)という点を強く説明出来ます。
恐らくマルクス主義の受容でも日本的な問題意識で見てマルクス主義を受容したのであって、それはすでに江戸時代に日本人は唯物論的であったし、無神論傾向を持ち、かつ神学の替りに心学を持っていましたから、心学的考察(これは一見すると科学的に見えます)と及び浅見絅斎の予定調和的思想が存在しましたから、マルクス主義を受容したのだと思える点からも、この理論の妥当性が補強できます。

(受容と排除の一例)
日本での特有のものを言うと忠孝という概念です。主君への忠と血縁の目上の者に対する孝行は儒教では一致していません。儒教の原則は血縁原則です。主君が何度も言っても言うことを聞かなかったら、確か五回までだったと思いますが、駄目だったら、主君から涙を流しながら離れろと諭しています。日本でも主君を絶対とする原則は実力主義の戦国時代では確立されていません。これが確立されたのは徳川時代の秩序が武士に要請された時代で、これがさらに大東亜戦争の時に『葉隠』と同様に喧伝され、忠孝の教えとして忠義と孝行が同一水準で見られるようになったわけです。江戸時代でも町人では忠義と孝行の二者選択で、その矛盾故ににっちもさっちも行かなくなって、最後は自殺せざるを得なかった庶民の悲しみを芝居や文楽、文学作品が庶民の涙を絞っています。
これに対して血縁は壊すことが出来ませんから、父から言われた事は絶対です。幾ら反対しても最後は父に従うのが儒教の倫理です。これは社会論理より血縁が重視されるからであって、この伝統は韓国ではいまだに同姓の人間では結婚しない儒教の原則と同様に、目上の者への服従が絶対であるのは今でも続いている儒教の大原則です。
日本はやはり儒教では落第生ですね(爆)。でも落第生で良かった面も大いにあります。知識人の立場で言うとある書物を絶対として、それをすべてにして物事を考えるのがある意味で当り前なのです。だってある智者が考えた物はその人が全人生を掛けて作った体系から出来ており、それを部分的にとって利用するという態度ほど、人をバカにした態度はないでしょう。

なお蛇足ですが、この文化の共鳴理論の欠点は人間の情報伝達の創造性や創造の非連続性をうまく説明できない点で、これも万能の理論ではないと思っています。

(儒教の歴史の乱暴な要約)
一番分かり易いモデルが儒教、それも孔子孟子以前の古儒教に似た考え方が、すでに日本にはあったとするものです。日本の西欧化でもすでに西欧と似て非なる体験を行っていた点は、近代化に大きく寄与したでしょう。それと同様の意味合いがあります。

そこで儒教のまったく乱暴な概念を書いてみましょう。又は日本人の心を重視する習慣と儒教のその部分だけが受容されたと言ってもいいでしょう。

古儒教→孔子(BC551-BC479)→孟子(BC372-BC771)→荀子(BC298-BC771)→色々あって北栄時代に新儒教(栄学)として復活→朱子(1130-1200)→王陽明(1472-1528)といった所でしょうか。徳川家康が征夷大将軍になった1603年には朱子学どころか、その後継者の陽明学も完成の域に達しており、朝鮮へ伝搬して変質していたものを日本が受容したわけです。

古儒教は個人の道徳規範と血縁論理で作られた個人用のシステムです。それが時代を経るに従ってうまく機能しなくなったので、孔子が皇帝の官僚達のノウハウとして礼や忠、孝、勇、義、……を付けて、作ったものです。ここに孔子の説の新しさ、社会をシステムとして見て、国に拡大を図った点に孔子のユニークさがあります。礼一つ見ても、新規にどこの馬の骨とも知られていない人間が実力で皇帝になった時に、その荘厳な儒教の礼式に「ああ俺はやっと皇帝になった。皇帝とはエライ物なのだとわかった」と述べている点が印象的です。日本はこの形式で儒教を受容していません。それを行ったのは明治維新以降のことです。それも西欧の王制の荘厳さを真似た物でしょう。でも一方で天皇の政治性より祭司性や精神性が重視された点は日本的です。また天皇の徳が重視されたのは儒教的です。

孔子は政治を力でなく徳によって行うべきであると論じ、この徳のなかの最大の物が仁で、それは孝という祖先や親への愛や道徳でなされるとしています。
また儒教で一貫しているのは、人間は天からさずかった道徳性を持っているが、これを性とよび、この性は運命によって(天命)によって定められているとしています。また孟子は「人民を幸福にしない皇帝は天命がなくなったのであるから、それを排除してもいい」という革命理論に相当するものを作っています。
孟子はさらに「礼は人間がもともと備えている」という性善説型になり、これはドクマですから必然的に反ドクマの性悪説が生まれます。これが荀子で「強制しないと誰も礼などもたない」と論じ、これは社会の安定には法による規制が必要であるという法家思想に近くなります。

江戸時代の初期、ご紹介のあった伊藤仁斎は儒教のうちでも、古学派と分類されていますが、実際には孔子・孟子をベースで教えています。なお参考に申し上げると鎌倉時代に武士が朝廷に反乱を起こしたときにすでに朱子学の論理を断片的に使って、朝廷に乱を起こすのがいいか悪いかを議論しています。ということは鎌倉時代にすでに「あらえびす」であった東国の武士でも知識人は朱子学を日常会話で使う程度には知っていたわけです。

儒教というのは非常に長い伝統を持ち、相反するドクマを数多く内蔵している教えです。本来公理とかドクマと言われる物は、必ずその逆が存在します。マルクス主義のドクマにはその逆が存在するようなものです。さらに孔子は相手によって言い方を変えていますから、幾らでも違った論説を唱える事が可能です。さらに宗教と言うよりどうやって生きるかを書いてあるもので、その点での心を重視してきた日本人への影響が大きいと思います。

(儒教が与えた影響の大きさ)
あるマルクス経済学をやっている日本人学者が「儒教は人間が人生を如何に生きていったらいいかを教えるものであって、これは明治維新以降の日本の教育でスッカリ抜けている点である。江戸時代の武士や豪商は如何に生きるかを儒教の丸暗記で体得した。それが明治以降になって、その伝統をすっかり失念し、断片しか残らないようにしてしまった。これで本当にいいのだろうか」と書いてあるのを読んだことがあります。実際には儒教はそんなものだけでないのは中華や朝鮮の例を見ればわかります。この学者も実際は日本人の関心に沿って受容をしているわけです。

(問題の結論部)
すでに何百年以上も神道型で心の重視を唱え、儒教で如何に生きるかを覚え、それで精神を磨いてきた伝統が、明治維新ですっかり忘れ果てたわけだという訳です。西洋の科学が客観性を尊ぶあまり、心に向かっていません。その上で日本人の関心が心にあり、かつそれを儒教の補強により強化してきたのが、明治以降の新教育システムで伝承が断片でしか出来ず、見かけしか残らなかったという意味なんでしょう。

(肯定的命令と禁止型命令)
もう一つ重ねますが、西欧型の規範は「禁止則命令型」です。何々をしてはいけません(それ以外はすべて個人の責任でやっていいです)というパターンです。日本は伝統的には人間はどう生きるべきか、集団での合意をどうとるべきかという「肯定的命令型」です。ここで「肯定的命令」というものの一翼は儒教であり、もう一方の軸が神道の心を純化する行為でした。現代日本社会はどっちが存在するでしょうか。禁止型命令もなく、肯定的命令もない状態では、日本人は禽獣になるしかありません。私は馬野氏の論説を深く考察するより、当面のこの問題を解決するのが先だと思っています。

(以下まったく雑談モード)

この馬野氏のモデルはそれなりに整合性が取れているので、困ります。というか実証が出来ないことがモデルを廃棄する根拠にならない古い時代ですから、どんなモデルでも整合性が取れて、かつ仮説の数が少なければ、そのモデルを否定する理由はなくなるわけです。縄文時代以前にさかのぼらないといけないので、その時代は日本のように地震や四季の変動が毎年来る島国では、実証の証拠がないが故に、色々なモデルが想定できるかもしれません。仮に文字がない世界でも豊かな精神性は存在するでしょうし(音楽や絵画、彫刻等芸術の世界)、書き文字でなくても思想を表現することは可能です。例えば絵画で言うとゲル二カはそうなんでしょう。

(インカ民族の末裔説)
馬野氏の説を日本中心説とすると、日本民族はインカ民族の末裔であるというこの馬野氏の逆の末裔説もあるんですよね。書き始めた人は誰か忘れましたが、中南米に存在した大インカ文明が拡散して、南米大陸の端には日本人と同じ顔をした人間が存在し、北米方面へ拡散した人間がインディアンとなり、エスキモーとなり、ベーリング陸橋を通って、当時は陸続きであった日本へたどり着いたという説です。現代の定説の日本人シベリア起源説とまったく違う説です。この説もインカの太陽神信仰、平和を好む性向などや縄文文化の優れた精神性とその文化の交流が北海道から九州まで続いている点の説明、恐らく同一の宗教で、同一の話し言葉を中心とした言語空間を持っていた理由が説明できるわけです。

(右脳の話)
トンデモ説でいうと、日本人と西洋人の脳の機能が違うんじゃないかという説もありますね。人間の脳は右脳がアナログデータ処理、左脳がデジタルデータ処理を司り、右脳は情感、総合判断、創造性を司り、左脳は論理、データ管理システムを司るという説です。所が日本人は右脳で考えているふしが見られる。それに気付いた西洋の人間が日本人に嫉妬しているというモデルです。理解できない事による不安による誤解ではなくて、理解した上での嫉妬なので問題解決につながらないというわけです。

言語を論理的なものとみると左脳の機能を重視し、言語をアナログデータ処理として見ると右脳の機能を重視することになります。

日本人は右脳で考えているケースが多く、つい話が感情的になるのかもしれません。日本語のように絵画のように言葉を使うと言うことは現在の言語学からはまったくかけ離れた概念で、現代の西洋主体のデジタル論理主体の言語学からは解明され得ないでしょう。コンピュータの情報処理のアナロジーで言語の処理が考察されていますが、正確な情報伝達では「A」の概念は「A」にしかならないのですが、これが「a」になったり、「エイ」になったり、「あ」になったり、「アルファベットの先頭文字」になったり、抽象記号になったりするから、面白いのです。そうでないと百年一律のイスラム教の様な世界になってしまいます。

日本語と英語を並べてみると分かりますが、日本語は語順はどうでもいいのです。言葉の末尾に意味づけを付けて強制的に文脈上の意味を生じさせる特質があります。「日本語と英語を並べてみると分かりますが」でも「分かります。並べてみると、日本語と英語を」でも話は通じます。まるで言葉を絵の具をパレットに散りばめたような書き方をしても情感は十分以上に通じます。日本語は曖昧な点、すなわち基本的にアナログデータ処理系なんで、感情の共有は有効でしょうが、厳密な論理上では間違いは起こりやすい筈です。

実際には脳の機能を幾ら分解しても心の機能がどこで生じるか解明されていませんし、創造性についてもまったくわかっていないのと同じですから、この脳の場合も、実際の是非の判断は保留するしかないと思います。

----------------------------------------------------------------------------投稿日 : 2002年03月12日 08時 2分
投稿者 : 管理人
タイトル : 「禽獣への道」からどう脱け出るか

ありがとうございます。
次々に展開される知識の広がりの中で、自分なりの「納得」をどう位置付けてゆくか、得がたい体験をしています。

>彼のモデルは日本には古代から揺るぎない精神文化が存在し、その一例が秀真伝だというわけですよね。文明は中国から来たのではなく、日本から世界へ伝搬したという説だったのかな。馬野氏の説を否定も肯定も私はしません。元気付ける目的にはそますが‥‥。どうして意見を保留にしたか、その意味合いについては最後に書いておきます。

「諸君!」3月号の123ページに、
「東北は日本の母――『古事記』『日本書紀』はなぜ編修されたか」(鏑邦男著 日本古代文化研究所℡019-663-8370 fax019-651-2167 税込1575円)の広告が載っていました。別スレッドの書いた「東北学」を考える上でも読んでみなければと思いつつ注文せずにいました。「秀真伝」には以前から関心を払ってきました。以前この板で紹介した事がありましたが、一年ぐらい前読んだ「実在した人間 天照大神――その民衆愛と平和の思想―」は説得力がありました。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4812701333/qid%3D1151152127/249-4212797-7760343

>さてご提案の問題の趣旨は、どうして儒教が日本人の心に共鳴するのかという話でないかと問題を捉えています。

3年前、南京事件について山形で講演された石山貴英氏(台湾大学出身)が、「中国人を一言で表すれば『歪』、その中国人は日本人を『直』と言って馬鹿にする」と言われました。別スレッドでの正直についての議論を読みながら、このことを思っておりました。
かりに「歪」が事実として、それがいつからかなど抜きにして、石山氏の言葉を、理念系として儒教的なものを取り入れる事でバランスを図ったのかと、馬野説と合わせて納得していました。

>このモデルが作れれば、馬野氏の説を使わないでも、説明できうるわけです。

馬野氏の、あるいは思い込みの強さゆえ毀誉褒貶分かれるかと思いますが、私は、氏は説明のために「秀真伝」を援用するのではなく、「秀真伝」に沈潜した結果、いろいろ説明がつくようになったものと受けとめています。

>(肯定的命令と禁止型命令)
>もう一つ重ねますが、西欧型の規範は「禁止則命令型」です。何々をしてはいけません(それ以外はすべて個人の責任でやっていいです)というパターンです。日本は伝統的には人間はどう生きるべきか、集団での合意をどうとるべきかという「肯定的命令型」です。ここで「肯定的命令」というものの一翼は儒教であり、もう一方の軸が神道の心を純化する行為でした。現代日本社会はどっちが存在するでしょうか。禁止型命令もなく、肯定的命令もない状態では、日本人は禽獣になるしかありません。私は馬野氏の論説を深く考察するより、当面のこの問題を解決するのが先だと思っています。

まさに「当面」する問題です。
私の回りでは、田下先生による問題提起
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Ivory/4291/adv.htmをきっかけに、「戦後の育児の常識」再点検の気運が生まれています。

(転載おわり)

田下先生とは「つくる会」の評議員会で隣り合わせたのがご縁で山形にお出でいただき、「心ゆくまで抱いてあげよう!」をテーマにご講演いただいたのでした。折りしも先生の「真っ当な日本人の育て方」http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106035669/qid=1151154669/sr=1-2/ref=sr_1_8_2/249-4212797-7760343が出版されたところです。明後日(26日)、先生の地元旭川で「出版を祝う会」が開かれます。(発起人代表は、あの旭山動物園園長小菅正夫氏です) ご案内いただいたので、「微力ながら山形で宣伝に努めさせていただきます」とご返事申し上げました。まだ手にとっていませんが、きっと子育てを考える上での教科書のように読み継がれていって欲しい本にちがいありません。子どもをもつ親御さんのみならず、おじいちゃん、おばあちゃんもぜひご一読を。おじいちゃん、おばあちゃんの役割の大切さにも触れられているはずです。転載した最後に思いがけず田下先生が登場したので、ちょっと宣伝させていただきました。


nice!(0)  コメント(7)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 7

伴野 謙

高岡 亮一様

お邪魔いたします。

> 学問の王道からはかけ離れた浅学の身で、だれへの気兼ねもあるわけでなく自分勝手な関心の向くまま、自分なりの「納得」を求めてこれまで歩んできましたが、

私も、やはり自分の興味・関心を満たしてくれる読書だけが楽しいのだと思います。映画「華氏911」を覆っていたベールがきれいに剥がされて、その意味では、実にスッキリした気分になりました。勿論、非常に恐ろしい話ではありますが。

私がつくる会から離れました理由は、仕事があるため具体的な活動がなかなかしにくいのと、それから、政治的なことに関心を持ってみても、それは日常生活では役に立たないという思いがつのっていたからと思います。ですから、高岡様は田下昌明先生をご紹介ですが、私の場合はここ一年くらい、森信三先生に夢中になっておりました。それが一段落してたまたま読み始めたのが“中国ロック本”で、読んでいく途中、私が副島先生に興味を持っていることを知った友人が、自分が読み終えた「日本壊死」を私に譲ってくれたりして、それで副島ワールドへのドアが、初めて開かれたという、目下そのようなところです。「日本壊死」は、初めて副島先生の本を読むのに、とても良いのではと思い、既に三人の方に差し上げています。そのうち二人はつくる会の方ですが、ちゃんと読んで下さって、面白かったと言って下さいました。もう一人の方も、時間をつくって読んでみますと言って下さいました。

“中国ロック本”の下巻の最後にある副島先生の解説で、われわれは何も出来なくても、ひそひそと話すことくらいは出来るではないか、というようなことを仰ってます。私はそれを読んで、ああ、やっぱり何も出来ないのか、こんな大変なことが起きて来たというのに、と少し残念に思いました(そして、森信三を読んでいて良かったとも思います)。

> 「次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた」が提起しているのは私にとってとどのつまり、日本人はどうすればいいかの問題です。

高岡様は、為政者としてどうすればいいか、という視点までをも、真剣にお持ちであるように、感じております(いかがでしょうか)。
by 伴野 謙 (2006-06-25 10:00) 

めい

>高岡様は、為政者としてどうすればいいか、という視点までをも、真剣にお持ちであるように、感じております(いかがでしょうか)。

十年間故郷を離れて暮し、帰ってきて最初に入れられたのが消防団でした。次の年には商工会青年部に所属することになりました。地域活力の低下に反比例して商工会青年部の活動は危機感を伴って活発化していました。私にとって地域とのかかわりの元をたどるとその当時の活動です。以来いろんな形で仲間と共に地域と関わってきました。伴野さんからの指摘であらためて30年間を振り返させられました。しかし、それで一体何の成果をあげてきたのだろうかと思うと実に心もとなく恥ずかしい限りなのです。副島先生に言われた「廊下ひばり」が身に応えるゆえんです。
by めい (2006-06-27 07:55) 

伴野 謙

めい様、ご返信ありがとうございます。

> 地域活力の低下に反比例して商工会青年部の活動は危機感を伴って活発化していました。

私も消防団に十一年おりましたが、今年の春に退団させて頂きました。入る人が少なく、入ってもすぐ幽霊になってしまう状況で、辞めにくかったですが・・・。実際そのことで、私のところの分団も、大もめにもめておりまして、十一年という半端な在籍年数も、辞めるとは言いにくい状況下で、プラス一年が付いてしまいました。

地域活力の低下、原因は色々あるかと思いますが、景気が悪いのが最も根本的なところでしょうか(?)。私は、酸素ボンベをお届けする仕事で、ある団地内のお宅へ、週2回伺うのですが、その団地に昔からあった商店は、ほとんどシャッターが下りていて、半分以上が空き店舗です。よくある光景でして、今更申し上げることでもございませんが・・・。一方団地の入り口には、スーパーマーケットが出来てしまいました。

私の両親が始めまして、そして今年10月から、兄と共に継ぐことになります私の勤める小さな会社ですが、やはりバブルの崩壊とともに経営が厳しくなりました。それまでは、朝も10時くらいからで、終わるのも午後の4時くらいでした。今は、私は朝7時~8時(曜日によって異なります)に始めて、夜9時に終わせて貰ってますが、兄は多分、日にもよるでしょうけれども、だいたいいつも、午前2時くらいまで、やっているだろうと思います。これでアメリカ発の恐慌が起きたら、どうなるのでしょう・・・・・。

何しろ実際景気が悪くて、経営者は何とか生き残るのに必死で、そこに勤める者も、例えば消防団どころでは、なくなって来ているのが、地域活力低下の大きな原因ではないかなぁ、などと思っております。

それから、副島先生がめい様に対して「廊下ひばり」は無いのでは、それじゃ、あんまりだと、めい様と、アル中流・乱暴様、桜子様との、正気板でのお話し合い(のご紹介)を拝読しながら、思っておりました。一貫して紳士的対応であられためい様に、今更ながら感服しております。

森信三のコトバです。
「批評眼は持つべし。されど批評的態度は慎むべし。すべからく他を批判するの眼を自己に返照し来たって、創作実現へと踏み出すべし。他よりの批評に対して、直ちに駁論をなすが如きは、真の一流者の多くはとらざるところなり。」

ついでに・・・長々とすみません。森も、易経のことを、「宇宙の大法」と呼んでおりますし、副島先生も老荘思想に注目されてますよね。また、両先生ともガンジーを尊敬されているようであります。副島先生の新刊(船井幸雄先生との対談二冊目)「昭和史からの警告」最終章に、「老子とリバータリアニズム」という項目がありまして、これもまた、どんなことが書かれているのか、とても楽しみにしながら、今読み進めているところです。
by 伴野 謙 (2006-06-27 23:34) 

伴野 謙

めい様

> 森信三のコトバです。
「批評眼は持つべし。されど批評的態度は慎むべし。すべからく他を批判するの眼を自己に返照し来たって、創作実現へと踏み出すべし。」

私がこれまで、「と学会」に対して抱いていた嫌な感じも、この先師の言葉から、私は救われる気がしております。
by 伴野 謙 (2006-06-28 00:17) 

めい

伴野様

ちょっとこそばゆい気持ちで読ませていただきました。

シャッター通りと化したかつての商店街再生の道はあるのか。今年94回目の菊まつりを商店街活性化に結びつけることができるかどうかに取り組んでいます。http://blog.so-net.ne.jp/oshosina/2006-04-14

「昭和史からの警告」を読みました。あらためて馬野周二氏の「孔老思想の源流は日本にあり」説を思い起こし、「人類文明の秘宝『日本』」http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/419554534X/qid=1151533484/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/250-2817472-7961817を取り出しています。
by めい (2006-06-29 07:26) 

伴野 謙

めい様

小林よしのり氏~新しい歴史教科書をつくる会から影響を受けました、愛郷心、愛国心というパラダイムが、副島先生のお説によって(おいおい、誤解するなと、もしかしたら、副島先生は仰られるかもしれませんが)、私の中では、今崩れつつあるところです。それでリバータリアニズムというのが気になっておりますが、「リバータリアニズム入門」は、散らかった部屋の隅に埋もれてしまっておりまして、それを読むには発掘作業をしなければなりません(本当にお恥ずかしい限りです)。
by 伴野 謙 (2006-06-29 23:27) 

おおども(退職機械計算課長)

今日は延びに延びた定年退職の祝賀昼食会。
私も含めた3名が退職し2名がシニアパートナーで残ります。

銀行から今度本社とシステム担当になった役員がこんなことを言ってました。「貴方の作ったシステムは本当に使いやすく利用者オリエンテッドだ。貴方が退職するに当たり私らも準備したが貴方一人でやってきたことを第三者に置き換えると6名程度の専門家を導入せざるを得ない。金額で言うと従来の6倍の月額6百万以上になる。しかし世間の方向が米国流に向かい日本型SOX法対応を考えると貴方のやり方はやめざるを得ない。おそらくシステムの利便性・利用者の顔を考えたシステムという側面を犠牲にしたシステムにならざるを得ないから利用部門でも大きく人手が必要になるだろう。米国流とは文化の違いを乗り越えた第四の黒船になるのだろう。米国流とは自分の流儀を正義として相手に押し付けて共通のインターフェース化をはかり、結果的に相手の弱体化を図ることなんだろうな。ちょっと考えてみればわかる。一番米国が強いのは通貨政策である。通貨の差額によって利益を剥奪する。それによって剥奪以外に何も産まない。新しい産業が興るわけでもなければ多くの人間が幸福になるわけじゃない。近代化とはこういうものだ」と。
正直がおかしいと思われる世界に明治の人間がしたいとは思っていなかったでしょうけど。
by おおども(退職機械計算課長) (2007-03-30 18:59) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。