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遠藤三郎中将のこと [遠藤三郎]

藤岡信勝先生がご自身のブログhttp://blog.so-net.ne.jp/fujioka-nobukatsu/2006-04-20で、
≪憲法九条は「自虐史観」と表裏一体である。≫と書かれた。そうだろうか。遠藤三郎中将のことを書かねばと思い、正気煥発板の過去ログから掘り起こしてみました。自らの戦争体験を反省し、かつての同僚からも白い眼で見られながら、生涯を護憲運動に捧げた方です。藤岡先生の奥様の父上(船山謙次元北海道教育大学長)のご出身と同じ山形県川西町の出身です。


(転載はじめ)
 

投稿日 : 2005/06/11(Sat) 14:10
投稿者 : めい
タイトル : 遠藤三郎『日中十五年戦争と私―国賊・赤の将軍と人はいう』

先日仕事で行った先で隣町出身の陸軍中将遠藤三郎という人についてのお話をうかがってきました。戦後、巣鴨での一年近くの拘留生活を経た後不起訴処分となり、片山哲、茅誠司という人達と共に護憲運動に取り組まれたとのこと。遠藤中将は明治37年(11歳)から昭和59年91歳で亡くなる1ヶ月前まで、発表を前提にしない、それゆえ本音で綴られた膨大な日記を残しておられます。うかつにも、地元出身でこういう方がおられたとは全く知りませんでした。

その話をして下さったその方は昭和30年代の初め、高校を出てすぐ、戦後埼玉県で農業を営む遠藤元中将のもとで働いて来られたのだそうです。

遠藤三郎という人は、明治26年川西町(旧小松町。ちなみに高橋正二先生http://www.geocities.co.jp/NeverLand/8947/syoji.htmは現川西町旧大塚村のご出身)に生まれ、仙台幼年学校、陸軍士官学校を経て陸軍大学校を優等
で卒業(34期http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/general/school/classtop.html)、野戦重砲第五連隊長、参謀本部第一課長、関東軍参謀副長、陸軍士官学校長等を経て、航空兵器総局長官を務められました。

実は、戦犯を免れて戦後護憲運動に取り組んだとの話をうかがった時、何か裏があったのではないかと疑いました。早速、『将軍の遺言―遠藤三郎日記』(宮武剛著 毎日新聞社 昭和61年)、『日中十五年戦争と私』(遠藤三郎著 日中書林 昭和49年)を手に入れて、いま目を通しているのですが、全くそういう人ではなかったことがわかりました。そして、忘れ去られているのかもしれないこういう方を、いまぜひここで紹介しておかねばならないという思いが湧きあがり、『日中十五年戦争と私』の本文に先立つ、著者による「内容のあらまし」を打ち込みました。(文字読取りのOCRが今手元になくなっているので、文の重みを感じながら手打ちでやりました)ご感想、ご意見をお聞かせいただけたらと思います。

   *   *   *   *   *

『日中十五年戦争と私―国賊・赤の将軍と人はいう』

<内容のあらまし>

大正の末期、私が参謀本部の作戦課に勤務いたし、海軍軍令部の参謀も兼ねて国軍全般の作戦計画を担当させられた時、前任者から引き継いだ年度作戦計画(天皇の御裁可を受けたもの)は日本の仮想敵国、米、ソ、支の三国に対する個々の計画であり、各作戦に充当する兵団が重複したものが多くありました。

当時日本陸軍の兵力は平時二十一個師団であり、戦時は約四十個師団近くまで動員されることになっておりましたから、もし戦争が仮想敵国と個々に行われその一国のみで終始し得るものならばまずまず自信の持てる計画もできましょうが、私は実際戦争が開始されたならば複雑な国際関係上とても対一国作戦のみで終始することは不可能であり、戦争の経過中、敵国が複数となることも予想せねばならず、したがって各作戦に充当する兵団の重複使用は危険と思い主要兵団の重複使用を避けましたので、著しく兵力の不足を感じたのでありました。

しかし当時が経済不況のどん底にあり、海軍は華府(ワシントン)の軍縮会議で米、英、日、仏、伊の間でその主力艦を制限した直後であったにも拘らず、なおかつ日本の軍事費は国家総予算の約二分の一を占め、国民は重税に苦しんでおった時でありましたから、陸軍兵力の増強など思いもよりません。したがって私の立案した作戦計画は、どうにか辻褄を合せて上奏御裁可を仰いだものの、とても自信を持てる様なしろものではなく、私は心中ひたすら戦争の起らないことを念じ、仮想敵国から戦争を仕掛けられたら止むを得ないが日本から進んで戦争を開始するが如きことは、絶対にあってはならぬという考えが強く私の頭を支配しておったのでありました。

昭和の初め、私が仏国留学中クーデンフォーフ・カレルギー氏の連邦理論を学び、おぼろげながら世界連邦こそ戦争を避け得る道と信じ、上司に報告し研究を進められる様進言しましたがその実現の目途は立ちません。たまたま昭和二年寿府(ジュネーブ)で海軍補助艦艇の軍縮会議が開かれ、私もそれに列席致し、爾来軍縮会議に関し真剣に研究を重ねてまいりました。昭和四年末仏国から帰国後、国際連盟で行われる予定の全般軍縮会議の準備委員を命ぜられ、平等逓減方式による全世界の軍備全廃を提案しましたが容れられず、そうこうしているうちに昭和六年秋満州事変が勃発したのであります。

ひとたび軍隊が戦争に動き出しますとなかなか停止するものではありません。それが戦争と軍隊の特質であります。次から次と戦争がエスカレートして行ったことは衆知のとおりであります。

私はその間各種の職域でこの戦争に参加致しました。あるいは止め男として中央から現地軍に派遣され、あるいは作戦軍の指導のため戦場の軍と行動を共にし、あるいは戦場の軍の作戦参謀として、あるいは第一線の部隊長として直接砲火を交え、あるいは陸大、航支校、航空総監部、大本営等にあって幕僚や将校生徒の養成、全動員部隊の教育等に任じ、あるいは軍需省に航空兵器総局長官として陸海両軍の航空兵器の生産を担当するなどずいぶん多彩な職務に従事致しました。そしていつも全力投球、何とか有利な条件で戦争を終結する様努力したのでありましたが、力及ばず結果は御承知の通りの完敗で、惨めな全面降伏となったのでありました。

その経過中特に記憶に残るのは、ノモンハン事件停戦のため関東軍参謀副長として赴任、その在職中日本の対ソ作戦計画が攻勢であったのを防勢に変更しようとして中央と衝突、軍人として最も不名誉な「消極退嬰恐ソ病者」として職を追われ、航空に転じて漢口に遠ざけられたこと、航空兵器総局長の時、兵器産業を営利を目的とする株式会社に委することは不合理と思い、強引にこれを国営として「赤の将軍」のニックネームを附せられたこと、戦争末期戦争指導の拙劣を若人の特攻を以って補おうとし、彼らがまさに死出の旅路に着く直前贈って来た献金により血涙を絞って神風の鉢巻を作った時のことなど数えれば限りがありませんが、終戦の詔勅を拝して冷静に帰った時の私の頭に浮かんで来たものは、「戦争は最大の罪悪」であり「軍隊は危険な存在」であり「真の武は形になく心にあり、威武に屈せず富貴に淫しない心があれば軍隊の必要はないこと」、そして「徳を以って勝つ者は栄え、力を以って勝つ者は滅ぶ」との古訓であり「真の勝利は相手を暴力を以って打ちのめすことではなく、徳を以って相手を友にするにあり、正より強いものはない」という私の四十年に近い軍人生活の結論でありました。このことは消え行く老兵の遺言として次代の世界を担う若人に残したいと思い、ポツダム宣言の受諾により日本の軍備はなくなるわけですが、それは悲しむべきことではなくむしろ日本の黎明であり、日本の将来のため、さらに世界平和のため慶ぶべきであるとの意味を短文に綴って昭和二十年八月二十三日の全国著名新聞全部に一斉に発表したのでありました。

敗戦直後の混乱期でありましたから、どれだけの国民がこれを読みかつ共鳴されたかはわかりませんでしたが、これを読んだ一部の軍人や右翼の人々の中には「軍人の癖に軍備全廃を慶ぶとは何事か」と激昂してきびしく私に迫って来た人もありましたが、幸いにしてその翌年すなわち昭和二十一年制定された日本国憲法に、私の悲願が明文化されておりました。私はこれで思い残すことなしと巣鴨米軍拘置所にも安心して入ることができました。

戦犯容疑者として巣鴨に入所しましたが、起訴もされず僅々1ヵ年で釈放され、出所後は「軍人は各自の家庭に復帰して平和的かつ生産的の生活を営むことを得」とのポツダム宣言の指示に従い、開拓農民として家族と共に貧しくとも静かに余生を送るつもりで入植いたしました。

ところが来れも束の間、昭和二十五年朝鮮動乱勃発以来日本政府は憲法を無視し曲解して再軍備を始め、私どもの犯したあやまちを再び繰り返す恐れが見えてきましたので、私はそれを阻止するため同志と共に日本国憲法の擁護や世界連邦建設の運動を続けて参りました。

また昭和三十年台湾海峡の戦雲あやしくなった時、戦火の広がることを恐れ、中華人民共和国に対し前述の古訓を援用して台湾の武力解放を思い止ませる様進言したことがきっかけとなり、その年の暮れ片山哲氏らと共に招待され、毛沢東主席を始め要路の人々とも会談しかつ広く地方も参観した結果、毛政権の基礎が確立しておるものと認め速やかにこれと国交を結ぶべきことを日本政府ならびに国民に訴えましたが、それを真面目に聴き入れる人はほとんどなく、却って反感を買い中国から買収されたとか、国賊だとか罵倒されるに過ぎませんでした。

以上の様な私の遍歴を書いたのが本書であります。

本書では、大きくわけて、まず最初に戦争中の私の体験を述べ、次いで主として日本国は軍備国防に不適であることを識ってもらうために、降伏以降私のやってきたことを綴り、さらに戦争の主役を演じた軍人・軍隊の特質と現代日本の国防を論じ、終りに雑誌『日中』連載の執筆中に臨機発生した諸問題を取り上げ随想として挿入したものを一まとめにしました。

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投稿日 : 2005年06月11日 19時37分
投稿者 : 松五郎
タイトル : Re: 遠藤三郎『日中十五年戦争と私―国賊・赤の将軍と人はいう』

めいさま

おひさしぶりです。刺激的なテーマをいただきました。おかげで板のレベルが上がります(笑)。戦後直後の高級軍人の身の振り方はおよそ三つのタイプに分かれますね。黙して多くを語らず自決もしくは隠遁した人、GHQにいち早く擦り寄って戦後の地位を確保した人、語弊を承知で書けば「羹に懲りて膾を吹く」ような純な気持ちから日中の架け橋たらんとして利用された人。善意の人・遠藤三郎中将は、黄泉の国から見える軍事大国として東アジアに跳梁している今日の中国をどう思っているのでしょうか。世界連邦やエスペラント語、そしてスイス・・・これらはちょうどわたしたち世代が中学時代に神聖にして冒すべからざる美しい言葉として先生に伝えられていた頃、遠藤三郎氏は輝く?”戦後”をご活躍だったのですね。真珠湾攻撃の攻撃隊の総指揮官だった淵田美津雄中佐の戦後のように軍人の転向としての異色さを感じますが、「十五年戦争」という言葉の中に、戦後思想の傾きに絡みとられた遠藤氏にある種の苦さを感じるのはわたしだけでしょうか。この苦さを別にすれば、中将の「敗戦責任」を凝視している視線が感じられ、貴重な回顧録だと思います。

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投稿日 : 2005年06月13日 02時43分
投稿者 : めい
タイトル : 遠藤中将、終戦直後の発言

松五郎様

早速のご感想に感謝します。
今日あったある会合で川西町の方と同席しましたので遠藤中将のことを話題にしたところ、小学生の頃遠藤中将のご講演を聴かれたことがあるとのこと、いずれゆっくりおうかがいしてお話をお聞きすることにしてきました。

>戦後思想の傾きに絡みとられた遠藤氏にある種の苦さを感じるのはわたしだけでしょうか。

氏はやむにやまれぬ気持ちから昭和34年6月の参院選全国区に70万円のカンパを集めて出馬し、43,376票で落選したことがありました。その際、浅沼書記長の公認申し出も辞退し、河上丈太郎、鈴木茂三郎からの入党の誘いも「私の再軍備反対は社会党の受け売りではなく私自身の体験に基づくので」と断ったのだそうです。戦後思想への傾きに感ずる苦さを凌駕してあまりある戦争遂行側当事者としての自己反省の重みを遠藤三郎という人から受け止めるのです。

終戦直後の混乱に鑑み、8月23日の全国紙すべての朝刊に、就任したばかりの東久邇総理の内諾を得て航空兵器総局長兼航空工業会総裁名で発表した遠藤氏の文章があります。「四十年近い軍人生活の結論であり、次代の日本を担う若人への遺言のつもりで書いた」と後に記しておられます。
その反響は、「軍人の癖に軍隊の無くなるのを悦ぶとは何事か」との少なからぬ抗議はあったものの、「一般大衆は死の恐怖から解放された安心のためか、物資不足による自分自身の目前の生活に追われたためか、国の将来などということには関心を失ったものの如く、私の発表した文章もあまり読まれなかったではないでしょうか。」と無念さを込めて書いておられますので、あらためてここに再録させていただくことにします。

   *   *   *   *   *

航空兵器総局が新設されましてからここに一年有九ヶ月、その間長官の要職を汚し、不敏非才各位のご期待に副い得ず遂にことここに到りましたことは誠に申し訳なく、衷心よりお詫び申し上げます。しかしながら今日までに於ける各位の業績を顧みますと、極めて困難な事情にもかかわらず、開戦当初飛行機の月産陸海軍を合し僅かに五百機に過ぎなかったものが、昨年六月にはまさに三千機を突破せんとし、本年七月激化した空爆下幾多の被害ありかつ急速に疎開を実施しつつの作業であったにもかかわらずなおかつ千機を越す生産を持続したのであります。これ全く各位の異常なるご努力の結果でありその功績は偉とするに足り必ずや青史に謳わるるものと信じ謹んでお礼を申し上げます。ことに職場に敢闘殉職された幾多の英霊ならびにそのご家族に対しては心から敬弔の誠を捧げるものであります。しかるにそのご努力も水泡に帰し動員の学徒、挺身の女子、応徴の戦士その他従業員諸君もそれぞれ帰郷または転業せられ総局および航空工業会は解散する運命に立ち到ったことは誠に感慨無量であります。

しかしながら静かに考えまするのに国軍の形態は時と共に変化するものと思います。皇軍におきましても陸海軍の形態は日露戦争もしくは前欧州大戦を契機として一応終末を告げ今次の大戦は空軍一本で実施せらるべきものであった様に思われます。しかもその空軍さえもいずれは骨董品たるの存在になる時が来ないと誰が断言し得るでありましょうか。

かく考えて参りますると、軍隊の形は時世の進運に伴い変化すべきは当然でありまして、ただここに絶対不変であるべきは我が国の真姿即ち国民皆兵の神武そのものであります。

国民一人一人の胸の中にしっかりと神武=威武に屈せず富貴に淫せざる心を備えましたならば、必ずしも形の上の軍隊はなくとも宜しいものと思われます。

古語にも『徳を以て勝つ者は栄え力を以て勝つ者は滅ぶ』とあります。したがって今回形の上では、戦敗の結果敵側から強いられて武装を解除する様に見えまして光輝ある我が陸海軍が解消し、飛行機の生産も停止するに至りますことは寔に断腸の思い禁じ得ぬのでありますが、皇国の真姿と世界の将来を考えまするとき、天皇陛下の御命令により全世界に魁けして形の上の武装を解かれますことは、寧ろ我等凡人の解し得ない驚異すべき御先見=神の御告げとさえ拝察せらるるのであります。

近来吾が国の世情はあまりにも神国の姿に遠ざかって来た様に思われます。今こそ大手術を施すべき秋と思われます。先般渙発されました御詔勅こそ国内建て直しの大号令であり世界再建の神の御声であると拝するものであります。

私はかく考えるまでには随分と苦しみましたが、今では全くそう信じ切っております。

我々と最も縁故が深くかつ最も尊敬して居った大西中将も『軽挙は利敵行為なるを思い、聖旨に副い奉り自重忍苦すべき』を死を以て訓えております。(大西中将は八月十六日朝自刃) 我々は今までと全く異った仕事に入るのでありますが、特攻機を作ったその体験は極めて貴いものであります。速かに頭を切り換え深く敗戦の原因を省察し旧陋を去り経験を生かし御詔勅を奉戴し新日本を再建し、しかして神武を基調とする徳を以て世界の勝者たるべく忍苦邁進すべきものと信じます。世界の勝者たるべく忍苦邁進すべきものと信じます。

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投稿日 : 2005年06月13日 07時 9分
投稿者 : 松五郎
タイトル : Re: 遠藤中将、終戦直後の発言

めいさま

>速かに頭を切り換え深く敗戦の原因を省察し旧陋を去り経験を生かし御詔勅を奉戴し新日本を再建し、しかして神武を基調とする徳を以て世界の勝者たるべく忍苦邁進すべきものと信じます。世界の勝者たるべく忍苦邁進すべきものと信じます。

本のタイトルは編集者がつけたのでしょうか。「十五年戦争」という語彙にひきずられたところがありましたが、ご紹介いただいた文章の中に遠藤中将の凝視されていたものが感じられますね。敗戦の真因は日露の勝利の中ですでに胚胎し、大正デモクラシーで花を咲かせ、大東亜戦争敗戦というかたちで結実したといえるのかも知れません。戦後もこの真因は解消されずに世の中にしっかり実を落として根を張り、官僚主義、保身、事なかれ主義となって生き残ってわが国を苛んでいるように思えてなりません。

中将の言葉「絶対不変であるべきは我が国の真姿即ち国民皆兵の神武」にはまさしく同感するものです。

軍の中にあって遠藤中将に見えていたものは、国内維新なき大東亜戦争は「聖戦」にあらずとして、時の東条首相に筆誅を加えて懲罰召集を受けた大東塾の影山正治塾長のそれと同じだったかもしれないと勝手に思っています(笑)。山下奉文(刑死)、本間雅晴(刑死)、谷寿夫(刑死)、栗林忠道(硫黄島玉砕)、牛島満(沖縄玉砕)のような将星も、それぞれの立場から「粛軍」をめざしたため東条英機に睨まれて「左遷」された人たちだと思います。自ら選んだ運命に遭遇したように語られがちですが、今も昔も「出る杭は打たれる」という悲運はつきまとうもののようです。しかし常に「打たれる杭」が立たなければわが国は衰亡していきます。「つくる会」はあちこちで打たれていますが、そのうち打つほうが草臥(くたび)れるのではないでしょうか(笑)。

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投稿日 : 2005年06月14日 05時40分
投稿者 : めい
タイトル : 遠藤中将、終生の念願

松五郎様

>敗戦の真因は日露の勝利の中ですでに胚胎し、大正デモクラシーで花を咲かせ、大東亜戦争敗戦というかたちで結実したといえるのかも知れません。戦後もこの真因は解消されずに世の中にしっかり実を落として根を張り、官僚主義、保身、事なかれ主義となって生き残ってわが国を苛んでいるように思えてなりません。

雲井龍雄的視点に立てば「官僚主義、保身、事なかれ主義」の淵源は明治維新にこそあった、ということになります。視点を変えて原因を探ればどこまでも遡らねばならなくなりそうです。「官僚主義、保身、事なかれ主義」は世の中というものの常に底流をなしているのかもしれません。その中にあって際立った個性が多少流れを変えるのです。しかし底流を変えることはできない。日々の生活そのものが保身であり、事なかれ主義であるからです。それがいちばん心の安定につながるわけですから。良い悪いの問題ではなく、事実の問題として受け止めねばならないように思います。

遠藤三郎という人は、明治、大正、昭和の三代にわたり八十年一ヶ月余、一日も欠かさず日記を書きつづけられました。そのわけを「くよくよする悪い癖を直したかった。何でも書いて万事終了。さっぱりして明日を迎えるためだ。」と語っておられます。「日記を書くので悪いことはできなかった。」とも。それが流れに掉さす氏の個性を形づくったのだと思います。ふと、「恬淡(てんたん)」という言葉が浮かんできました。「無欲であっさりしていること。物に執着せず心の安らかなこと。また、そのさま。」だそうです。その遠藤氏が最後までこだわり続けたのが、「軍備の撤廃」でした。軍備があるから戦争がある、このことを軍人として、航空兵器総局長官として、骨の髄まで身に沁みた上での戦後の活動でした。その重さを受け止めねばならないと思います。

『日中十五年戦争と私』は、昭和49年の年賀状で締めくくられています。

   *   *   *   *   *

御挨拶
一九七四年元旦
遠藤三郎

幾度も死線を越えて八十一年を過しました。逆縁の悲しみもなく二曾孫まで儲けましたことは天地の恵み、神仏の加護、皆様のお情けによるものと感謝しております。

前半生は軍人、後半生は農民、功罪は別として随分我武者羅に我が路を歩み続けたものと思います。関東大震災の際は江東方面の警備に当てられ、孤立した数万の罹災者に独断深川の糧秣倉庫の米を分け、鮮人騒ぎの最中数千の鮮支人を習志野廠舎に護送して現地司令官に叱られ、二・二六事件には武力鎮圧に反対して単身反乱将校を訪ねて自首を勧め、自決した野中大尉を弔問して当局ににらまれ、聯隊長の時部下一等兵の所罰問題で軍法会議と争い師団長から「現代の法規を無視し新たに法を作ろうとする悪思想の持主」と烙印を捺され、関東軍副長の時中央の対ソ攻勢作戦に反対して消極退嬰恐ソ病者として職を追われ、飛行団長として中支および東南亜の戦場に出されましたが皮肉にも四回も感状を授けられたことは面映いことでありました。航空兵器総局長官の際は軍需産業を民間の営利事業に委するのを誤りとして国営に移し赤の将軍と呼ばれ、本土決戦に反対して徹底抗戦組から狙われ、敗戦直後軍備の全廃を日本の黎明と新聞に発表して軍人の激怒を買い、巣鴨戦犯拘置所に入れられてはマッカーサー司令官に報復的野蛮の裁判と抗議し、朝鮮動乱の際は「日本の再軍備反対と国際警察部隊設置の提唱」を公にして特審局から箝口令を敷かれ、一九五五年に新中国を視察し速かに中国と国交を結ぶべきを訴えて国賊と罵られるなど思い出は尽きません。

幸いにして日本の非武装は憲法に明示され、時の流れは日中の国交を正常化し、札幌裁判も自衛隊違憲の判決を下し、国連もまた私の主張する「国籍を離れた個人志願による国際警察」とはまだ隔りはありますが、国際監視部隊を紛争地に派遣する様になりました。

先のベトナム戦争も今回の中近東戦争も共に軍隊の価値の限界を示し、日本国憲法の正しさを証明しました。

私も恥なく祖先の許に行けると思います。老化も進みましたので今後御無音に過ぎるかもしれません。失礼の段は何卒御宥恕賜りたく、永い間の御厚誼誠にありがとうございました。

皆様の御多幸を御祈りして御挨拶と致します。

(転載おわり)


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機械計算課長こと松井康雄

めいさんお久しぶりです。西尾先生への投稿を読んでから、前から考えていることを書いてみたくなりました。プログ上で文字の制約があるかもしれませんが、その場合は分割して書きますのでお許しのことを。

私の問題意識は多くの日本人が一種の絶対平和主義になっているように見えるのはなぜなんだろうかという点です。別に私は絶対平和主義を単純に否定するつもりもないしまた無意識に肯定するつもりもないのですが。

私は江戸時代が現代日本人の思想を創ったと考えていますが、遠藤中将の思想にも江戸時代の論語理解の影響があるような印象がします。

江戸時代の庶民思想の特徴は「争うこと自体が悪いことだ」、「誰もが芯から悪い人間はいない、悪いことをするのは病気にかかったからだ」、「話し合いで解決できない問題は何一つない」、「まず自分が悪いと考えてみることが必要だ」、「自分だけ儲けるのは悪いことだ」、「商売は正直」、「仕事をするのは金を儲けるのが目的じゃない、目的は社会に寄与することであって、それがそのまま仏心に適う行動だ」、「嘘をいうのは悪いことだ」、「誰もが平等だ」、「騙されるより騙す人間が悪い」、「言葉は融和の道具だ」、・・・・などが背景にあると考えています。いわば世間の調和や和を平和を大事する文化や考え方があったわけです。

これならば確かに世の中は平和になるでしょう。

これに対する西洋型の思想は「自分たちは神に創造されたエリートだ」、「強いことは正義だ」、「残された資産を強いものが取るのは自然界の原理に沿っている」、「騙すより騙された人間が悪い」、「言葉は論争の道具だ」、「嘘も百篇繰り返せば本当に見えてくる」・・・などでしょうか。

これはおそらく置かれた自然環境がなした条件によって生じたものでしょうけど、文化的にどっちがすぐれているかというと日本人的に見れば猛獣の社会と草食獣の社会の差以上の違いがありそうです。


こういう文化が成立したのは日本の場合は戦国時代を経てからであることは注目をすべき点でしょう。ちょうど日本が近代化=西洋化によっていつのまにか「自分たちは神に創造されたエリートだ」、「強いことは正義だ」、「残された資産を強いものが取るのは自然界の原理に沿っている」、「騙すより騙された人間が悪い」、「言葉は論争の道具だ」、「嘘も百篇繰り返せば本当に見えてくる」という意味で西洋化が行われたのでしょう。そして結果として戦争に負けてしまい本土も荒廃し、表層にあった西洋的なものが破壊され、江戸時代の思想に共感するものが顔を出したように思えるのです。

じゃあどうして日本は西洋のえげつなさまでつけてしまったのかという質問があろうかと思います。これについては私の意見もありますが、長くなるので今回はこれまでにします。
by 機械計算課長こと松井康雄 (2006-04-20 12:11) 

知足

めいさん    遠藤三郎さんの話が昨年6月頃にあったのを思い出しました。未曾有の大敗戦は精神的に色々なことを引き起こしたと思います。

以下のことなども関連ありそうに思いました。

「洗脳されたい」という国民の動機に左は応えた
http://blogs.dion.ne.jp/hirokuri/archives/3038326.html
洗脳されていなければ、北朝鮮による拉致などは起らなかった
http://blogs.dion.ne.jp/hirokuri/archives/3130652.html
洗脳されている日本人の考え方は犯罪被害者に似ている
http://blogs.dion.ne.jp/hirokuri/archives/3051134.html

戦争末期の残虐行為によって日本人に恐怖心が根づいた
http://www.apa.co.jp/appletown/bigtalk/bt0509.html
by 知足 (2006-04-20 13:29) 

めい

機械計算課長さん,西尾先生の日録でお会いして以来ですね。

私にとっての遠藤三郎中将のすごさ(特異性)は、
1. 80年間「日記を書く」という行為によって培われた倫理性。たとえ発表を前提としないものであっても、「書く」という行為によって自ずから「あるべき自己」が顕現し、そのことによって行動も律せられてゆくという典型としての生き様。
2. ≪航空兵器総局長の時、兵器産業を営利を目的とする株式会社に委することは不合理と思い、強引にこれを国営として「赤の将軍」のニックネームを附せられた≫とあるように、戦争の拡大が兵器産業の利潤追求と表裏の関係であることを体験を通して痛感し、その関係を断ち切るべく主張し行動されたこと。
この二点です。

たまたま隣町のご出身ということでその生涯にふれることになったのでしたが、「郷土の偉傑」を超えた普遍性を感じ紹介させていただいた次第です。

なお、遠藤三郎日記のすべては、戦後の生涯を過ごした埼玉県狭山市に寄託されてある聞きます。なんとか日の目をあてさせたいものです。

知足さん、いつもありがとうございます。
遠藤中将の戦後のもろもろの発言に真摯に耳を傾けなければならないと考えるのは、占領軍による「洗脳」以前の、自らの痛哭の体験から発したものであるからです。大東亜戦争から何を学ぶかを考える時、中将の戦後の言葉そして生き様は、戦争を体験しないわれわれにとってのいわば「原石」のように思えるのです。
by めい (2006-04-21 07:17) 

めい

次の記事を見つけました。
http://nishiha.blog43.fc2.com/blog-date-20061003.html

   *  *  * 

2006-10-03

「日の丸将軍」から「赤い将軍」へ

昨日ご紹介しました「天皇陛下と大福餅」の中で、著者の秋葉洋氏は、当時の航空士官学校校長だった遠藤三郎氏について次のように書いています。

<その人の名は遠藤三郎元陸軍中将、南方派遣空軍司令官、晒木綿に自らの血で日の丸」を描き軍帽の下に鉢巻きをして「日の丸将軍」の異名を博した勇猛な将軍である。>

< 遠藤氏は昭和五十九年亡くなる直前に回顧録を出版しているが、その中で戦時中陸軍中枢部の戦争指導方針を痛烈に批判し、無謀な戦争を強行し続けた責任を厳しく追及している。そして航空土官学校長時代の思い出として「天皇は神でなく人間だと発言した学生がいて問題となり、その処理に苦慮した」とたった数行の文章だが書き残している。勿論対面した事も対話した事もない私の名前は載っていないが遠藤氏にとって忘れられない事件の一つだったのだろう。

  遠藤校長は戦後になって変身したのでなく、校長職に在った昭和十八年頃には既に批判的考えをもち、とくに天皇神格の思想動員に反対の立場にあったから、私を「無罪」としたのである。>

Nさんは「戦時中の陸軍の学校にも、天皇や戦争に疑問をもつ人がいたんですね」と書かれましたが、陸士の生徒だけでなく、校長までもそうだったようです。「天皇は生き神様」という、子供だまし、いやわれわれ当時の子供でも疑問を持つような非科学的な考えは、軍人を含め、本音では信じていた人はいなかったと思います。

遠藤氏は、戦後日中友好に尽力し、、「元軍人訪中団」を率いて、5回にわたる訪中を行い、毛沢東首席や周恩来総理と会談、今度は「赤い将軍」という異名を受けました。「『護憲大会』――遠藤三郎賞のルーツ」というサイトに、遠藤氏の戦前から戦後への思想の遍歴を詳しく紹介していますので、以下引用します。

< 遠藤さんは異色の陸軍軍人でした。陸幼・陸士・陸大を抜群の成績で通過したこのエリート将校は、満州事変にはじまる日中戦争のおおくの期間、軍刀を下げて中国にいました。彼もまた「坂の上の雲」を見上げる典型的な明治人でしたが、政治的な軍人ではありませんでした。「日ソ衝突は将来避け難しとの主観的判断を基礎として一撃を与えんとするが如きは皇国の武士道、大和民族の正義心が許さざる所」と日記に書き(1932年7月17日)、また陸大兵学教時代に「日清戦争で遼東半島や台湾の領土割譲を迫ったのは誤り、と講義して物議を起こした」(自著『日中十五年戦争と私』)ような思考と姿勢をつねに持していました。第三飛行団長時代、抗戦首都・重慶に対する無差別爆撃の軍事作戦を批判し、「重慶爆撃無用論」を参謀本部に具申しています。ふつうの軍人にはとてもなし得ぬ硬骨漢ぶりです。

 何が、遠藤さんの人格をつくったのでしょうか。大尉のときフランス陸軍大学に二年間留学した
体験が原点でしょう。そこでクーデンホーフ・カレルギーの「世界連邦思想」に出会うのです。日本
人を母にもつ政治学者カレルギーの「汎欧州主義」──今日EUとなって実現している──が第一次大戦後の荒廃した光景と重なって遠藤さんの心にしみこみました。ベルダン戦場の視察旅行からは現代戦の惨状がなお生々しくつたわり、若い大尉を慄然とさせました。帰国船上の日記
(1929年11月29日)に「軍備縮小の必要なるを感ず。軍備縮小は理想なり。吾人はこれに向かい努力せざるべからず」と記しています。陸軍省に「汎欧州主義」の概要報告を行い研究の進言をしたが「全く反響はありませんでした」(自著)。

 52歳、陸軍中将で敗戦を迎えた遠藤さんは、「軍隊はなくともいい」と声明を出します。旧知の東久邇首相に面談して「軍隊のなくなることは日本の黎明であり慶ぶべきことである」と訴えました。翌年、日本国憲法が制定され「私の悲願が明文化された」のをみつつ、遠藤さんは軍刀を鍬に持ちかえ開拓農民となり埼玉県入間の旧航空士官学校跡地で家族とともに農業生活にはいりました。「貧乏生活にも楽しい日々」と、そのころの暮らしをつづっています。

 しかし、朝鮮戦争を機に警察予備隊が創設され再軍備への動きがあらわになると、遠藤さんは
居ても立ってもいられなくなってきました。主張に共鳴する人たちや団体からの執筆、講演依頼も舞い込むようになりました。鍬をおいて全国行脚するうち片山哲氏や有田八郎氏と語り合い、ともに「憲法擁護国民連合」の結成(1954年)に参画、理事、代表委員に就任しました。その発会式でのあいさつで、こう述べました。「今後日本の国防は、あるかないか分かりもしない外国軍隊の侵略に対し、軍隊をもって国を守るのではなく、必然的に来る台風や地震、その他の災害に対し国民の安全を守ることを第一に考えるべきである」。いまでも、いや、今だからこそより切実に聞こえる一節ではないでしょうか。片山代表委員が「本式の平和主義者だ。あれでよく軍人が勤まった」と書いていますが、まったくそのとおりでした。

 遠藤さんの信念は旧軍人や右翼による迫害の的となり、陸士同期生会から除名されましたが、動じることはありませんでした。軍備不要の環境を「日中不戦」によって現実化するため、55年から72年にかけ5回にわたる訪中を行い毛沢東首席や周恩来総理と会談しました。毛首席に「左翼だけでなく右翼も」といわれ遠藤さんは、「元軍人訪中団」を組織し、それはやがて「日中友好元軍人の会」へと発展しました。会則第1条は「過去の戦争に対する反省に立脚し、戦争準備の動きを防止し、平和と日中友好に貢献」とさだめています。82年護憲連合議長となり84年亡くなりますが、遠藤さんの精神はいまも新しい。

 本稿執筆にあたって、遠藤三郎著『日中一五年戦争と私 国賊・赤の将軍と人はいう』(日中書林1974年)および宮武剛著『将軍の遺言 遠藤三郎日記』(毎日新聞社1986年)を参照しました。>
by めい (2012-07-27 04:26) 

めい

毎日新聞が光を当ててくれています。
http://mainichi.jp/area/yamagata/news/20150823ddlk06070052000c.html

   *   *   *   *   *

コラム@やまがた:非軍事分野でも議論を /山形
毎日新聞 2015年08月23日 地方版

 東京本社に勤務していた20代の頃、亡くなった先輩記者が「新聞記者の最大の使命は戦争防止」と言ったのを覚えている。そして私も一昨年から地方記者になった。

 地方を取材していて、戦争と平和の問題に直面することは少ないが、国会では安全保障関連法案の議論が行われている。テレビを見ていて感じる疑問は、軍事的対処を論じる前に、非軍事の分野で何ができるのかをなぜもっと議論しないのかという点だ。政府は、安保法案で十分な時間を取って議論するというが、非軍事で平和を構築する方法について、時間を十分に取って議論してほしい。

 日本は技術立国だ。技術開発は得意分野のはず。国を挙げて平和構築の技術を磨くべきだと思う。医療や教育、インフラ支援、そして外交。国と民間が協力してやれることはたくさんあるはずだ。

 川西町出身の元陸軍中将、故遠藤三郎氏の生涯を調べた。戦後に軍備全廃を訴えた。その信念を支えた思想は単純だった。「隣国と戦争にならないためには友人になること」。実にシンプルで傾聴すべき意見だと思う。【佐藤良一】

by めい (2015-08-29 05:32) 

めい

中国敵視の産経的発想だと、遠藤中将は「(日中友好の)工作の内幕モノを著す曰く付き将軍」になってしまっています。
http://www.sankeibiz.jp/express/news/130915/exd1309150021000-n1.htm

   *   *   *   *   *

【軍事情勢】逃げなかった昭和の軍人と逃げたマッカーサー (1/5ページ)
2013.9.15 09:00

 8月の北京発時事電は、関係者の著書や研究者の論文で明らか。新味はない。

 即ち-。中国の初代国家主席・毛沢東(1893~1976年)が1956から57年にかけ関係正常化を求め、大日本帝國の元帥陸軍大将・畑俊六(1879~1962年)ら大物軍人に工作を仕掛けた。畑は東京裁判で、所謂「A級戦犯」になり服役した。靖國神社参拝・合祀の政治問題化を謀る中国は「A級戦犯」の来中を当時、むしろ大歓迎していたのである。日本人左翼の限界を見抜き、保守政権に影響力を持つ旧敵「右派」との接触で、わが邦と米国・台湾との間にクサビを打ち込もうとしたのだった。その頃、鳩山某や小沢某といった中国にとり使い勝手の良い有力者がいたら、仲介した陸軍中将・遠藤三郎(1893~1984年)らも苦労せずに済んだろう。

■毛沢東が大物軍人に工作

 畑に加え陸軍大将・東久邇宮稔彦王殿下(1887~1990年/後に首相)に断られても、遠藤らは執拗に他の陸軍大将4人に働き掛ける。遠藤は戦後反戦・護憲運動に邁進、《日中十五年戦争と私-国賊・赤の将軍と人はいう=日中書林》なる工作の内幕モノを著す曰く付き将軍。最終的には6人の陸軍大将全てに断られた。従って、2回の訪中は陸海軍の中将以下となる。

 陸軍大将6人は各々聯合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥(1880~1964年)と絡む。時代と立場を考えれば当然だが、誇り高いマッカーサーを感嘆させた大将もいて、痛快この上ない。

 今村均(1886~1968年)。「戦犯」の汚名を着せられ、豪州軍により軍事法廷に立たされた。終戦時の軍職・第8方面軍司令官の担任地域は南太平洋の一角。豪州の植民地や、第一次世界大戦(1914~18年)で豪州軍がドイツ軍と交戦、血と引き換えに国際連盟の委任統治領として預かった島が少なくない。故に豪州軍の攻勢は激烈で、死亡した将兵は数字の採り方に因っては、ドイツなどと戦った欧州戦線の2倍以上に達する。

 豪政府の怨嗟は深く、捜査した豪陸軍少将が「問うべき証拠なし」と報告しても納得せず。何としても死刑にしたかった。ところが、今村の占領地における善政は敵味方を問わず語り草で、前職の第16軍(インドネシアの一部を担任)司令官時代を扱ったオランダ軍による「報復裁判」では無罪だった。

 結局禁錮10年。今村を慕う現地住民の蜂起を恐れたともいわれる。蘭軍の裁判時も、スカルノ(1901~70年/後のインドネシア初代大統領)率いる独立派ゲリラは奪回作戦を計画。今村は丁重に断っている。

■今村均に見た武士道

 今村は巣鴨拘置所に送られたが1950年、劣悪な環境の南方で服役する部下を想うと「東京にいることはできぬ」とマッカーサーに訴えた。徹頭徹尾部下をかばい続けた裁判を知るマッカーサーは「真の武士道に触れた思いだった。すぐに許可するよう命じた」と漏らしている。

 第8方面軍はラバウルに、延べ370キロもの地下要塞を築城。一人200坪もの田畑まで開墾し、自給自足体制を完成させた。結果、損害を恐れた当時のマッカーサー聯合軍南西太平洋方面最高司令官は迂回を決める。元々、今村に対する武将としての評価は高かった。

 最後の陸軍大臣・下村定(1887~1968年)。当初は大臣就任を固辞したが、先帝陛下=昭和天皇から「(反乱を抑え)陸軍の輝く終わりを全うするように指導してもらいたい」との御聖旨を賜り感激し就任。外地に250万もいた将兵を2カ月で復員させ、マッカーサーは舌を巻く。

 支那派遣軍総司令官・岡村寧次(1884~1966年)の復員は1949年1月。数カ月後、国共内戦中にも拘わらず岡村の許へ中華民国初代総統・蒋介石(1887~1975年)の密使が訪れる。戦況は共産党軍が圧倒しており、国民党軍は拠点を移し始めた台湾に潰走寸前。密使は反攻協力を求めた。かつて戈を交え精強振りを痛い程知る蒋の起死回生の秘策だった。

 105万将兵復員と100万国民引揚げを、帝國陸軍主導で認めた国民党に恩義を感じる岡村は承諾。共産主義拡散への危機感もあり、陸海軍人から成る《白団》を結成する。早くも10月、白団が潜む船は台湾を目指した。以来20年、83人が中華民国軍将校に戦術や兵棋=図上演習、情報通信、教練などの課目を教育した。

 密航について、国会で追及された吉田茂首相(1878~1967年)はじめ公安当局も空惚けた。以前よりマッカーサーが黙認したとの見方はあったが2010年、GHQ=聯合国軍総司令部参謀2部(情報機関)部長チャールズ・ウイロビー少将(1892~1972年)の配下が、岡村から聴取した記録が発見された。

■ 意地を通した敗軍の将

 東久邇宮殿下は公式に絡む。マッカーサーに面談した宮は仰せられた。

 「米国は封建的遺風打倒を叫ぶが、私は封建的遺物の皇族。もし不適当とみられるなら、明日にも首相を辞める」

 マッカーサーは「貴殿の思想・言行が非民主主義とは思わない」と応じた。だのに宮は1945年10月、内閣総辞職を断行する。内務省をめぐるGHQの「内政干渉」は「不承知」と、ささやかな抵抗意志を示したのだ。ただ、意地を通した敗軍の将=宮に、マッカーサーは好意を抱いたと思っている。

 マッカーサーは中尉時代、古武士然とした威厳を備える元帥陸軍大将・大山巌(1842~1916年)や陸軍大将・乃木希典(1849~1912年)らに会い、圧倒された。「鉄の如く強靱な性格と不動の信念」を備えた《明治の軍人》を生涯敬った。来日3日後の45年9月2日、米戦艦ミズーリ艦上での降伏調印式を終え、武門の神を祀る鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)に礼式に従い参拝してもいる。

 《明治の軍人》の強烈な風格が青年将校マッカーサーを痺れさせ、心密かに士道を亀鑑としていたのだろう。一方で《昭和の軍人》に大敗を喫し、フィリピン戦線から《逃げた》。生涯唯一といえる軍歴の傷も手伝い、日本憎悪や日本人蔑視を歴史に刻んだ。しかし、縷縷述べてきた如く《昭和の軍人》にも士道を感じていた。

 全てとは言わぬが、戦場と法廷で《逃げず》に戦った《昭和の軍人》たちが、マッカーサーには眩しかったに違いない。(政治部専門委員 野口裕之)

by めい (2015-08-29 05:47) 

めい

《1956年に訪中した遠藤三郎元陸軍中将との会談で「私たちは日本の天皇制を尊重している」と言明した。》
http://news.livedoor.com/article/detail/10125404/

   *   *   *   *   *

反日を謳う中国共産党政権が日本の天皇に矛先を向けない理由

2015年5月18日 16時0分 NEWSポストセブン
 あれだけ反日を謳う中国共産党政権が、絶対に矛先を向けない唯一の存在が、天皇である。天皇の持つ歴史や権威が中国にとってそれだけ特別なのはなぜか。産経新聞中国総局(北京)特派員の矢板明夫氏が解説する。

 * * *
 天皇皇后両陛下が4月、戦没者を慰霊するためにパラオを訪問したことを国営新華社通信などの中国の官製メディアが報じたが、日本絡みのニュースを伝える際によく使う批判的な表現はなく、「平和を祈念」「不戦を誓う」といった見出しで好意的に伝えている。

 対日姿勢が厳しい習近平政権が2012年11月に発足して以降、メディアを総動員して反日キャンペーンを展開している。

 安倍晋三首相は「右翼分子」と決め付けられ、何をしても批判された。これまで終戦の日や広島原爆投下の日などの際、安倍首相は陛下と同じように「平和への誓い」を述べたが、「本音を隠している」「戦争への反省が足りない」などと揶揄された。

 習近平政権が日本に対して厳しい態度を取る理由は、国内で自身の権力基盤を固めたい思惑があると言われる。反腐敗の名目で党内の政敵を次々と失脚させ、国内の政局が不安定な状態が続いている。そこで、あえて日本と対決する姿勢を強め、緊張関係をつくることで、国民の注意を外に向けさせようとしていると言われる。

 しかし一方、習政権による日本叩きのターゲットは安倍首相など政府要人に絞られ、皇室に対しては意図的に批判を避けている。それだけではなく、中国メディアはよく陛下の「平和への思い」などを紹介している。天皇は軍国主義を復活させようとしている安倍首相と距離を置いていることを意図的に国民に印象づけようとしているようにみえる。

 中国はよく歴史問題で日本を批判するが、天皇の戦争責任に言及しているのはほとんど歴史の学術書だけで、メディアの報道では、歴史問題と関連づけて天皇を批判することは全くない。中国メディアのこうした姿勢が共産党宣伝部の方針であることは言うまでもない。天皇を政治利用して日本の世論を分断したい思惑があると指摘される。

 また、毛沢東、トウ小平から習近平までの中国歴代最高指導者はみな天皇を大事にしている。本来ならば、労働者を結束させて革命を起こした共産党が、世襲の君主制に対し批判的な立場をとるはずだが、天皇に限って、中国共産党の指導者たちはそのそぶりを全く見せなかった。長い伝統をもつ日本の皇室に対する中国の指導者の憧れやコンプレックスといった複雑な感情が背景にあるかもしれない。

 中国側の外交記録などによれば、中国建国の父、毛沢東が1950年代から1970年代にかけて、訪中した多くの日本人と会談したが、別れ際に「天皇陛下によろしくお伝え下さい」とよく口にしていた。

 1956年に訪中した遠藤三郎元陸軍中将との会談で「私たちは日本の天皇制を尊重している」と言明した。また、1972年に日中国交回復の交渉のために訪中した田中角栄首相と会談した際も、毛から天皇の話題を切り出し、「唐の時代の高宗皇帝も『天皇』の称号を用いた」などと語り、天皇への関心の高さを示した。

 清朝最後の皇帝は辛亥革命で退位したが、それまで2000年以上も皇帝が中国に君臨しつづけた。清末生まれで湖南省の農民から新中国の初代主席まで上り詰めた毛沢東がよく自分のことを中国最初の皇帝「始皇帝」に例えていた。毛の心の中に日本の天皇に対する憧れに似た気持ちがあったかもしれない。

※SAPIO2015年6月号
by めい (2015-08-29 05:53) 

めい

しかし、昨日の報道です。
http://www.asyura2.com/15/senkyo191/msg/613.html

   *   *   *   *   *

中国 新華社通信 天皇陛下に謝罪求める記事[NHK]
8月28日 11時58分

中国国営の新華社通信は、このほど、「昭和天皇が侵略戦争の張本人だった」と主張し、皇位を継承した天皇陛下が謝罪すべきとする記事を配信しました。
この記事は、新華社通信が「抗日戦争に関するいくつかの難題についての解釈」という解説シリーズの1つとして、今月25日に配信しました。

記事では「日本が発動した侵略戦争は、軍国主義を育てて支えた天皇、政府、軍、財閥などが力を合わせた結果であり、彼らは責任を逃れられない」としています。
そのうえで、「日本の天皇の権力は明治維新から第2次世界大戦までの間に頂点に達した。昭和天皇が侵略戦争の張本人だった」と主張しています。
さらに、「昭和天皇は死去するまで、被害国とその国民に謝罪の意を示したことがなく、皇位継承者が謝罪で氷をとかし、ざんげで信頼を手に入れるべきだ」としています。

中国の国営メディアが先の戦争について天皇陛下が謝罪すべきだと論じるのは珍しいことです。

岸田外相「中国側に強く抗議」

岸田外務大臣は閣議のあと記者団に対し、「中国国内の報道とはいえ、天皇陛下に対する礼を著しく失しており、これまで表明されてきた中国側の立場と相いれないものだ。外交ルートを通じて中国側に強く抗議した」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150828/k10010207521000.html

========================================
日本の侵略戦争の犯罪行為を謝罪すべきなのは誰か
jp.xinhuanet.com | 発表時間 2015-08-26 15:17:46 | 新華網日本語 | 編集: 王珊寧

【新華社北京8月26日】冤有頭,債有主(悪事を働く者は責任を取るべきで、関係ない人に累を及ぼしてはいけない)。前世紀30~40年代にかけて、日本軍国主義が発動した侵略戦争は、軍国主義の天皇や政府、軍隊、財閥などの主要な勢力による力の合わさりの形成を作り上げ、且つ支えた悪い結末だといえる。彼らは中国やアジア、世界の人民に対し書き尽くせぬほど多くの犯罪を犯し、侵略戦争に対して逃れられない罪を負っている。

日本の政界や軍人社会は、侵略戦争の犯罪行為を反省する上で主要な責任を負っている。天皇裕仁は日本が侵略した被害国と人民に、死ぬまで謝罪の意を表したことはなく、その後継者はブラント元西ドイツ首相の「ドイツの首相が跪くことで、ドイツ民族が立ち上がった」から衝撃を受け、謝罪を以て氷解を得て、懺悔を以て信頼を得て、誠実を以て調和を得るべきだ。

20年前、日本の村山富市元首相は談話を発表し、侵略戦争への「深い反省と心からのお詫び」やすべての被害者に対する「沈痛な哀悼」を公の場で表明した。
今年、村山元首相は再び撰文し、「切実な謝罪をせねばならない」との見解を示した。当時中国侵略戦争に参加した多くの老兵およびその子孫らは勇敢に立ち上がって戦争の犯罪行為を暴露し、殺された中国人に向けて謝罪した。

しかし、日本の自衛隊が尊重を得るには、必ず当時の侵略軍との関係を徹底的に断ち切らねばならない。現代日本の財閥グループが日本の平和発展のために積極的な役割を発揮させるには、二度と民族を破壊する推進者にはなってはならない。昔の人の火遊びは災いの元であるという成語から沈痛な教訓を汲み取ってようやく、同じ過ちの繰り返しを避けることができるのだ。「後人哀之,而不鑑之,亦使後人而復哀後人也(後人これを哀れむも、これを鑑みずんば、また後人をして復た後人を哀れましめん)」。

(新華網日本語)

http://jp.xinhuanet.com/2015-08/26/c_134557257.htm
by めい (2015-08-29 05:56) 

めい

ちょっと古い記事ですが。
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0817&f=politics_0817_009.shtml

   *   *   *   *   *

毛沢東はなぜ「日本の侵略に感謝する」と発言したのか?=中国
Y! 【政治ニュース】 2011/08/17(水) 15:28

  毛沢東はかつて、「日本の侵略に感謝する」と発言し、学術界でも民間でも大いに関心が持たれてきた。中国新聞社は16日、毛沢東の発言の真意を探る記事を掲載した。
■「毛沢東」に関する写真
  毛沢東外交文選には、「毛沢東が日本人に対し何度も、侵略に感謝すると発言した」と記載されている。

  1956年、訪中した遠藤三郎元陸軍中将に対し、「あなた方に感謝する。日本の侵略が中国国民に団結することを教えた」と述べ、同年、日中輸出入組合の南郷三郎理事長(当時)と会見した際にも同様の話をしている。

  また、1961年1月24日、毛沢東は日本社会党の黒田寿男氏らと会見し、「日本軍がかつて中国の大半を占領したために、中国国民は学ぶことができた。もし侵略がなければわれわれはいまだへき地にあり、北京で京劇を見ることもなかっただろう。侵略に対抗するためにわれわれは抗日拠点を作り、それがその後の解放戦争の勝利に有利な条件を整えた。日本の資本や軍閥はわれわれにとっていいことをしてくれた。感謝しろと言われれば私は侵略に感謝しても良い」と述べている。

  これらの発言について、記事は、「中国共産党の指導者としての地位を確立した毛沢東は弁証法や唯物主義的発想から、日本の侵略によって中国国民が目覚め、結果として勝利を獲得したということを風刺的に表現したものと見る者もいる」と紹介したほか、敵に対する感謝を特有のユーモアや風刺で表したものと見る学者もいると紹介した。

  記事は、毛沢東は日本による侵略を肯定しているわけではないとしながらも、「中国にもたらした災難、中国国民の日本帝国主義に対する闘争は必ずしも否定しているわけではない」とした。さらに、「帝国主義が中国の敵であることは確かだが、その反面教師的作用によって、侵略が愛国主義教育の役目を果たし、中国国民を目覚めさせ団結と抗日の意志を持ったことの利点を指摘していると考えられる」と報じた。(編集担当:及川源十郎)

by めい (2015-08-29 06:00) 

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