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徳田虎雄「生命だけは平等だ」の思想的意義(2) [徳田虎雄]

●戦後精神を支えた基本法

◇憲法前文第一段落
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

◇憲法第13条〔個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重〕
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利につい
ては、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

◇教育基本法第1条〔教育の目的〕
教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。

戦後日本は「個」を原理とする社会を目指し、そのことによって、「共同体」の意義は次第に薄れることになった。それは、生きてゆく上での「安心」の喪失を意味する。このことを「安心社会から信頼社会へ」というキーワードで積極的にとらえなおそうという考え方がある。

山岸俊男「安心社会から信頼社会へ」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121014790/250-1439627-9601047#product-details

しかしながら、「しあわせ」の視点から考えた時、人間の自然と逆の方向に進んでいるのではないかという疑問も生まれてくる。

 

●山岸俊男氏と糸井重里氏の対談から
http://www.1101.com/marugoto4/index.html

《山岸》島国だからというよりも、日本的な集団主義的な生き方というのは、人類に共通のものではないでしょうか? おそらく、500万年の人類の歴史において、99%以上の社会がそのような生活だったでしょう。
 私は研究をしている中で、日本とアメリカや西欧を比べてつくづく思ったことがあるんです。普通は、発想としては、「西洋がスタンダード、日本が特殊」と、思いますよね。でもそれはたぶん、完全に逆なんですよ。
《糸井》 おもしろいなあ、それ。
《山岸》 日本的な集団主義的な社会の作り方は、放っておいても出てくる集団のあり方なんです。何にも手を加えなくても、大勢が集まってその中でうまくやっていこうとするのならば、外部の人間を寄せ付けないようにしたり、差別することによって集団を強めたり・・・これは、猿も行います。
 むしろ非常に不思議なのは、「どうして西洋的な普遍主義が出てくるか?」ということのほうなんですね。集団の境界を重視しないやり方が、どうして出てき得たかを考えるほうが、私にとっては、おもしろい。
《山岸》 たぶん、集団を作って、その中だけで生きていくのは、すごく簡単な生き方なんですよね。西洋が、なぜそういうやり方をしないで集団の境界を弱めて、効率をよくしようとするか?・・・そこに興味があるんです。
 その原因としては、基本的には商業的な考え方から、来ると思います。集団の中に、ある限界を定めて、その中で人々を支配する人にとっては、集団主義はむしろ都合のいいシステムなのですが、そうやって集団の境界を定めてしまうやり方は、商業にとっては、完全に「敵」になりますから。
 そういう意味では、支配層の中に「商業的な人がどれだけ入っていたのか」が、とても重要なことになってくるでしょう。例えばベネチアの貴族はみんな商人ですよね。
 しかし、商業が普遍主義を作ったのだとしたら、なぜ中国にはそういうものが興らなかったのか?そこが、すごく不思議なんですよ。貨幣経済の程度が違うからかな?というような気もするのですが、そこのところは詳しくはわかりません。
《糸井》 そうすると、信頼という概念は簡単には生み出せなくて、必然性がないと信頼というのは、もともと発生しないのですか?
《山岸》 それはそうだと思います。それが私の研究の基本的な発想です。

《山岸》私が以前「信頼の構造」に書いた社会は、色々な制約がなくて、かなり自由に好きなことができるわけですから、今の我々からは望ましい社会かもしれません。ところが、これが本当に、人間にとって幸せな社会なのかどうかということに対しては、私は、ものすごく強い疑問を持っています・・・。つまり、人間の脳は、そういう環境で幸せになるようには、たぶん、できていないと思うんですよ。
《糸井》 それ、おもしろいなあ。おもしろいし、怖いなぁ。
《山岸》そこのところは、私自身が抱えている、ものすごいジレンマです。つまり、たぶん人間は500万年の歴史の中でたぶん99.9%位は集団主義の社会だったわけで、人間は、そういう集団主義の社会の中で行動していると幸せになるように作られている。
 だけども、その昔のままの仕組みでは、今の社会の運営はできなくなって、そこで、今の社会を運営させる仕組みがあるだろうと・・・そう考えてみると、妥当なのが、ある種の知性を働かせて、信頼を生み出していくような社会で・・・。
だけど、ほんとうにそういうところで人にとって幸せな社会になるかどうかは、まったくわからない。

「個」を原理とする社会に積極的価値を観ようとする山岸氏自身のジレンマが語られていて興味深い。

「個」を原理とすることになった、近代思想の出発点に立ち返って考えてみる。

●ホッブズ (1588-1679 英)の自然法

《自然》は人間の身心の諸能力において平等につくった。

すべての能力を総合して考えれば、個人差はわずかであり、ある人が要求できない利益を他の人が要求できるほど大きなものではない。

能力の平等から、目的達成に際しての希望の平等が生じる。それゆえ、もしも二人の者が同一の物を欲求し、それが同時に享受できないものであれば、彼らはお互いに敵となり、その目的(主として自己保存であるがときには快楽のみ)にいたる途上において、互いに相手を滅ぼすか、屈服させようと努める。

人間の本性には、争いについての主要な原因が三つあり、いずれも暴力を用いることになる。
1.競争・・・獲物を得るため――他人の人格、妻、子ども、家畜の主人となる
2.不信・・・安全を得るため――自分の防衛
3.自負・・・名声を得るため――自己に関わる過小評価を避ける

個の集合体を畏怖せしめる共通の権力のないあいだは、人間は戦争と呼ばれる状態、各人の各人に対する戦争状態にある。

戦争状態とは戦闘行為が行われている状態のみをいうのではない。争おうとする意志が示されていれば、それは戦争状態といえる。すなわち、戦争の本質は、《平和》へと向かう意志のない状態にある。それは、悪天候とは一度や二度の土砂降りを指すのではなく、雨の降りそうな日が幾日も続く状態をいうのと同じである。

各人の各人に対する戦争状態においては、正邪とか正義不正義の観念はそこには存在しない。共通の権力が存在しないところには法はなく、法が存在しないところには不正はない。力と欺瞞は戦争状態における二つの主要な美徳である。

戦争状態においては、各人が自分で獲得し得る物だけがその人の物であり、しかもそれは、それを保持しうる間だけに限られる。

人間がこうした状態から脱することができるのは、「死の恐怖」「快適な生活を求めようとする意欲」「勤労に懸ける希望」に支えられて平和を求めようとする《情念》と、お互いの同意を求め合う《理性》による。この二つによって、平和のための手続きを考え出す。そうして考え出されたものが《自然法》である。

各人が自分自身の自然すなわち生命を維持するためには、自分自身の判断と理性に基づいて最も適当と考えるどんな手段を用いてもいいという自由をもつ。これを《自然権》という。

人間の理性は、自己の生命を維持するために、その自由意志によって、《自然法》という戒律(一般法則)を発見する。

1.各人は、可能な限り平和を求めるべきである。どうしても不可能な場合はじめて戦うことが許される。そうすることでとことん自己を守ることをせよ。
2.自己防衛のために必要ならば、また自己以外もそれに同意するならば、各人の自由を保障する《自然権》は放棄すべし。自由の限度は、他者がおのれに許す範囲にとどめるべし。自らが欲するところを他人に為せ。自らが求めざるところを他人に為さざるべし。
各人のこの権利の相互譲渡が《契約》である。《契約》は相互の理性への信頼があってはじめて可能となる。
3.結ばれた契約は履行しなければならない。契約の不履行が《不正》であり、不正ならざるものが《正》である。
4.他人からの恩恵に対しては、その人の善意を後悔せしむることなきよう努力せよ。(報恩⇔忘恩)
5.自分以外の人々に順応するよう努めよ。(従順、社交的⇔頑固、非社交的、強情、あつかいにくい)
6.過去を悔い、許しを請うものを許してやれ。そうしないのは平和を嫌悪する者のみである。(許容)
7.報復の前に、過去の悪の大きさよりも将来の善の大きさを見よ。将来の利益を考慮しない報復に伴う勝ち誇りは自惚れであり、戦いを招く基となる。(⇔残酷)
8.他人に対して憎悪や軽蔑を表してはならない。(⇔傲慢)
9.他人と自分は対等と心得よ。(⇔高慢)
10.他人が与えようとしないものを要求しようとするな。(謙虚⇔尊大、貪欲)
11.複数の他者を裁くに平等にあつかうべし。(公平⇔えこひいき)
12.公共のものを平等に用いよ。
13.やむを得ざる場合は「くじ」で決せよ。
14.長子相続、最初の占有。
15.仲介者の安全を保障せよ。
16.仲裁に服せ。
17.何人も自己の仲裁者となることはできない。
18.一方に偏する理由のある者を仲裁者に選んではならない。
19.証人援用の必要。

要するに、自然法の要諦は「自分自身して欲しくないことを他人に対して行うな」ということにある。自己のエゴイスティックな感情を抑えることこそが肝要。

自然法は、《意欲》のレベルでは絶対であるが、《行為》のレベルでは絶対ではない。なぜなら、自然法を守らない群れの中でそれを守ろうとすることは破滅を意味し、生命という自然の維持を志向する自然法の根本意志に反するからである。

自然法は不変であり、永遠である。戦争が生命を維持し、平和が生命を破壊することはありえないからである。

自然法についての学問こそが、人間の交わりや社会における「善と悪」を追求する唯一の道徳哲学である。

「平和」こそが善であり、したがって、そこへ至る道、手段が「道徳的徳」である。具体的には先の自然法について列挙したところのものである。その逆は「悪徳」である。

以上は、人間の自己保存と防衛のための理性の命令であり、定理である。法とは本来、権利によって他を支配する者の言葉であるが、これらの定理を、あらゆることを命ずる権利をもつ神による言葉としたら、まさにこれは「法」である。

(中央公論社『世界の名著 ホッブズ』「リヴァイアサン」第13~15章)

現代とは、ホッブズが言うところのまさに「戦争状態」そのものと言えるのではないか。
徳田思想をホッブズの系譜において考えてみた時、近代を内在的かつラジカル(根本的)に克服しうる思想としての意義が浮かび上がってくる。
  
(以下一部修正の上、再掲)
                                
●ホッブズと徳田虎雄

・ホッブズにとっても、徳田虎雄にとっても「生命の平等」は人間としての権利の根拠をなす。
・観念から出発するホッブズは、人間の人間たる基本的権利としての「生命の平等」に根拠を置く「自由」をいったん放棄しなければその権利を維持してゆくことができない(平和な社会生活を営めない)という逆説的事態に至る。
・ホッブズは「近代的個人」が行き着くところの凄惨な地獄絵をイメージした。ところが、現代にいたる「民主主義」思想を理論づけたとされるロック(1632-1704 英)は、安易に都合のいいところに「神」をもちだすことで、自然状態を「自由で平等」な良きものとして思い描き、それを奪う絶対的悪玉として「絶対的恣意的権力」を考えた。ここにおいて、社会は善悪に二分されることになる。その結果、ホッブスにはあった「傲慢さの自覚」が姿を消し、自由を奪うものとしての「権力」の糾弾が「人権」の主張と表裏一体化する。ここにおいて「人権思想」は、内面の自覚に基づく自己修錬とは無縁な「革命思想」と手を結ぶことになる。現代日本を覆う「人権思想」は押し並べてこのロック的人権思想である。
・徳田虎雄は、現実社会における強者と弱者の不平等から出発して、「生命だけは平等」という理念でもある真理を目指す。そのために必要なのは「利他」の精神でなければならない。

*17世紀、ホッブズは「生命だけは平等だ」を利己的に主張した果ての「悲惨な社会」を想定し、人間の傲りの抑制を説いたはずだった。然るにロックはホッブズによる規制を解き放ち、その後マルクス(1813~1883)が、おのれを省みることのない嫉妬や怨念に裏打ちされた人間の利己的心情に大義名分を与えた。その結果、時代はホッブズの杞憂を現実のものとしつつある。すなわち、根底において常に争うことを志向する「戦争状態」の日常化である。

*徳田虎雄は「生命だけは平等だ」という真理を現実化するために「行動」する。おのれの欲するままではなくおのれの欲望に抗って。利己主義ではなく利他主義で。争いによってではなく愛を以って。ホッブズの思考実験とは逆の方向からホッブズの出発点を目指す。

●徳田虎雄の思想的意義
1.「利己」から「利他」へ転化することで、デカルトに発する近代個人主義を内在的に克服。
2.「思惟」より「行動」を人間のあり方の根源とすることで、デカルト的主知主義からの脱却。
3.「生命だけは平等だ」というホッブズの出発点を共有することで、中途半端なロック的民主主義思想を相対化。

*世界の思想の流れにおいて考えても、「生命だけは平等だ」を基本に据え、ひたすら「利他」を志向する徳田思想は、現代世界の閉塞状況を打ち破り、21世紀をリードしうる思想たりうる。
                                                (以上再掲)

そしてまた、徳田思想は、西洋近代とは別の流れを形づくってきた日本古来の歴史・伝統・文化との合体をなしうるのではないだろうか。


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