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徳田虎雄「生命だけは平等だ」の思想的意義(1) [徳田虎雄]

私にとってある面での「原点」ともいえる徳田虎雄思想について考えたときのメモです。

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 先の見えない時代にはまず「原理」に立ち返って考えることが肝要。

●「人権」の根拠――西洋思想における「生命だけは平等だ」

≪いったい「人権」とは、本当に「自明のもの」なのだろうか?多くの場合、人が何かをことさらに「自明のもの」と言いたてるのは、そこに何か探るとボロが出るような事柄がひそんでいるときである。≫( 長谷川三千子『民主主義とは何なのか』文春新書 平13)

デカルト(1596~1650 仏)の「われ思う、ゆえにわれあり」を原理とし、キリスト教の神や歴史伝統や共同社会からも切り離された「自由なわれ」から全てを構築しようという近代合理思想。この「自由なわれ」から出発して、人間の社会や国家というものをどう考えればいいかについて考えたのがトーマス・ホッブズ(1588-1679 英)。

・このレベルで考える人間の社会は「各人の各人に対する戦争状態」である。
・この状態では、「勤労の余地はない」。なぜなら、働いてもその結果を得ることができる保証は何もないのだから
・ここでは、人は生まれつき平等である。しかしそれは反面、人間は誰でも人を殺しうるし、誰でも殺されうるということにおいて平等なのである。

*この状態は「弱肉強食」ですらない。なぜなら、「弱者」は「弱者」なりのたくらみによって「強者」を殺す自由があるのだから。従ってこの状態は、「すべての人間」にとって悲惨である。

 

◎「生命」こそ「自然権」の根拠
・各人がその行使を主張すれば主張するほど、「自然権」は「苛酷な相互破壊の原理」とならざるをえない。
・本来「生命」とは、「自己を保持するために他者をむさぼり喰う不断の営み」に他ならない.。
・「自然権」とは、それとして取り出したとたんに激しく自己崩壊を繰り返して、周囲のものを破壊つくしたあげく、自らもたちまち消滅してしまう「放射性元素」のようなものである。

◎「自然法」とは、「自然権」を放棄するための法
・このままではみなダメになるとの理性の発露の結果、「法」を発見(発明)させることになる。
・「自然権」を捨て去るプロセスが「社会契約」である。
・各人がこの「権利」を「権利として」主張しつづける限りは、人間が群れをつくって暮らしてゆくことは不可能である。各人が人間の傲慢の愚かしさに気づき、自らの傲慢を和らげて「自然権」を放棄するとき、はじめて人間の「社会生活」は可能となる。

*しかるに、ひとたび「個人」を原理とするという禁断の実の味を知った人間は、その傲慢さを自覚できぬまま、ひたすら「人間関係の成り立たぬ限界点」に向ってひた走りつづけているかのようである。その先に見えてくるのは、家族、地域共同体、国家の崩壊である。

●デカルト批判
 あれこれ理屈をこねまわす以前に、身体を持ってすでに現実に生きている「生活世界」を出発点に据えたのが、フッサール(1859-1938)を中心とする現象学の流れである。デカルトを批判したメルロー・ポンティ(1908-1961 仏)は、観念の中に閉じこもった意識以前の、身体と不可分の「行動」こそが出発点であり、意識のはじまりは、デカルトの「われ思う」ではなく「われなし能う」であることを明らかにした。閉じこもった「考える私」が根源なのではない。他者と共に身体を曝しあって生きている世界こそが根源なのである。

* 哲学的にはデカルトに始まる個人主義的主知主義的近代合理思想は克服されているにもかかわらず、世界はその呪縛から逃れることができずにいる。西洋的神観念のないところに植え付けられた外来の占領政策をそのまま引きずる戦後日本の教育において、その弊はとりわけ大きい。

●徳田虎雄『直言』 「生命だけは平等だ」(平成13年11月26日「徳洲新聞」)

相手の立場に立って考え仕事をするのが愛
エゴを捨て患者さんに愛の手を

○衣食住は異なっても「生命だけは平等」強い者には弱い者を守る義務がある

 歴史をひもとくと、これからどう進み、自分は何をすべきかが見えてきます。たとえば人類は、最初のうちは平等でした。ところが権力を持つ者が政治を行うようになると、強い者が弱い者を支配する構造ができ上がります。邪馬台国やローマ帝国などがそれです。
 日本では江戸時代に、士農工商という身分制度ができ、武士は身分が下の者に対して、「切り捨てご免」という特権を持っていました。明治維新になって、こうした身分制度は廃止されましたが、男性が女性よりも強くて上位にあるという考え方は変わりませんでした。だから男性には参政権があっても、女性にはなかったのです。
 そして戦後、男女差別がなくなり、強い者と弱い者が平等になりました。一見すると、歴史は進んでいると思えますが、官僚たちの「官尊民卑」という考え方は変わっていません。つまり、官僚が威張っているわけです。しかし、医者も官僚と同じではないでしょうか?
 医者のほうが、患者さんより強くて上であるというのは、官尊民卑と何ら構図は変わりません。当然、それではいけない。だから歴史をもっと進めるべきなのです。私たちは、「医療は患者さんのためにある」と考え、「贈り物はミカン一個さえもらわない」を実行しています。なぜミカン一個さえもらわないかというと、贈り物というのは貢ぎ物と同じだからです。

○歴史や文明が進んだ先では「弱きを助け悪しきを挫く」
 
人はそれぞれ衣食住が異なっていますが、「生命だけは平等」です。これは私の最大の願いであり、これまで実践してきました。強い者は弱い者に対して、わがままを言ったり、抑えつけてはダメなのです。
 歴史、あるいは文明は、平等に向けて進んできました。それがさらに進むと、「弱きを助け悪しきを挫く」になると思います。これこそが、人間の基本であると私は考えているのです。
 昔は会社の社長が、社員が出勤してから出社するのが当たり前。今は、社員が出勤する何時間も前に会社に出てくる社長が増えています。その理由は、社長がリーダーだからでサ。私は年中無休で弱い人のために働きたい。それこそが、リーダーのあるべき姿だと思います。
 ところで人の能力というものは、生き方や考え方によって異なってきます。自分さえよければと考える人は、自分のためだけに頑張る。これを、利己主義と呼びます。

○他人に費やす時間はリーダーほど多い!

 利己主義者は、普通の人。楽をしたいと考え、美味しいものを食べたいと思う人たちです。しかし私たちは利他主義者ですから、他人のために頑張ります。人が勉強をすれば、必ず利他主義になるはずです。
 おそらく皆さんは、一日二十四時間のうち、利己の時間を十人時間、利他の時間を六時間使っていると思います。六時間というのは、一日八時間労働として、平均するとそれくらいになるはずです。
 だからこそ、年に二千時間ほどは、他人のために働いて欲しいのです。
 もっとも私は、自分に八時間、他人に十六時間を使っていますが、他人に使う時間の多い人がリーダーで、世の中の体や心の弱っている人のために働きます。悪い奴が、弱い者いじめをする
ことから助けるのです。
 弱っている人を助けるのは、人として当然のことです。医療に従事する者として、弱っている患者さんを何とかしてあげたい。だから言葉遣いにも、十分に注意して欲しいのです。
 職場で仕事をよくする人は、自宅に戻っても家族の方から、「お父さんのように頑張らなければ」と思われるに違いありません。
せめて仕事をしている時間だけは患者さんのために頑張って欲しい
 病院には弱い人、つまり患者さんが大勢来られます。そういう人たちに対して、せめて勤務時間中だけは助けてあげてほしいのです。    
 「お腹が痛くて参っています」と言う患者さんに、「どうしました!」ときつく言うのでは困ります(笑)。他にも、「ちょっと待ってください⊥とか「もっと早く来てください」とも言う。
 とにかく、患者さんに対しては覿切であって欲しい。一日平均六時間のことなのですから、何とかこの時間だけは頑張って働いて欲しいと思います。これは、私からのお願いです。
今日はソバを食べたいと思うのは、エゴです。だから私は、ソバを食べたいと思った自分に対し、利己を捨てるべきであると反省します。
 今週の月曜日のことですが、私は名瀬徳洲会病院で朝礼を行いました。いつも私は、心から話すことを心がけています。自分のレベルで話すほうがよほど楽なのですが、相手のレベルに合わせて話します。しかし名瀬の朝礼では、自分のことを考えている人がいたのです。
 どうして分かったかというと、きちんと私の目を見ていなかったからです。私が全力投球で話しているのですから、相手も全力投球で聞くべきなのに、それをしないのはマナーに反すると思います。

○利他の人はボケていても記憶が戻ることがある

 先日、福岡で五十歳代の医師たちと会食した時の話をしましょう。ボケがきた七十五歳以上の人とそれ以下の人を比較すると、七十五歳以上の人のほうがボケから戻る確率が高いそうです。
「戦争に負けた時、あなたはどこにいましたか?」とボケのきた七十五歳以上患者さんに訊くと、「私はインパール作戦に参加して…」と明確に答えるそうです。それは訊かれたからであり、求められた、答えることが必要と感じたなどの理由づけはできますが、その人たちは利他で教育された世代なのです。七十五歳以下の人に同じ質問をしても、答は芳しくないと言います。
 七十五歳以上の人たちは、良い悪いは別にして天皇のために、あるいは国家のためにと教えられて育ちました。
 それとは違って、「自分のために勉強しなさい⊥と言われて育った七十五歳以下の世代は、利己的でわがまま。だから、ボケから戻り切れないのかもしれません。

○わがままには常に反省  利権を主張してはダメ

 先日、二カ月ぶりに家内に会つたら、「あなたって、若く見えるわネ」と言われてしまいました。しかし、これは当然のことなのです。毎日利他のためにから、神経が研ぎ澄まされている。一方、利己の人は顔が緩んできますから、私などとはアドレナリンなどホルモンの出も違つてきます。
 利己はエゴ、利他は愛なのです。八時間働いて家に帰ればいいというのでは、脳細胞が錆び付いてしまいます。もう少し仕事をしてから家に帰ろうという人に比べれば、明らかにわがままでありエゴで、利権だけを主張することになる。そういう人は、私たちとは住む世界が違うのです。
 どうか病院にいる時だけは、患者さんに注目して欲しい。仕事の仕方も、「あとからしよう」では、どんどん先送りすることになって、自民党の政治と同じことになってしまいます。そうではなく、「今が勝負」と考えて、全力投球をしていただきたい。
 相手の立場に立って考え、仕事をする。それが愛であり、ダメという前に愛を習慣づけていただきたいものです。

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●ホッブズと徳田虎雄

・ホッブズにとっても、徳田虎雄にとっても「生命の平等」は人間としての権利の根拠をなす。
・観念から出発するホッブズは、人間の人間たる基本的権利としての「生命の平等」をいったん放棄しなければその権利を維持してゆくことができない(平和な社会生活を営めない)という逆説的事態に至り、「生命の平等」は空無に化す。
・ホッブズは「近代的個人」が行き着くところの凄惨な地獄絵を直視した。ところが、現代にいたる「民主主義」思想を理論づけたとされるロック(1632-1704 英)は、安易に都合のいいところに「神」をもちだすことで、自然状態を「自由で平等」な良きものとして思い描き、それを奪う絶対的悪玉として「絶対的恣意的権力」を考えた。ここにおいて、社会は善悪に二分されることになる。その結果、ホッブズにはあった「傲慢さの自覚」が姿を消し、自由を奪うものとしての「権力」の糾弾が「人権」の主張と表裏一体化する。ここにおいて「人権思想」は、内面の自覚に基づく自己修錬とは無縁な「革命思想」と手を結ぶことになる。現代日本を覆う「人権思想」は押し並べてこのロック的人権思想である。
・徳田虎雄は、現実社会における強者と弱者の不平等から出発して、「生命だけは平等」という理念でもある真理を目指す。そのために必要なのは「利他」の精神でなければならない。

*17世紀、ホッブズは「生命だけは平等だ」を利己的に主張した果ての「悲惨な社会」を想定し、人間の傲りの抑制を説いたはずだった。然るにロックはホッブズによる規制を解き放ち、マルクス(1813~1883)が、おのれを省みることのない嫉妬や怨念に裏打ちされた人間の利己的心情に大義名分を与えた。その結果、時代はホッブズの杞憂を現実のものとしつつある。

*徳田虎雄は「生命だけは平等だ」という真理を現実化するために「行動」する。おのれの欲するままではなくおのれの欲望に抗って。利己主義ではなく利他主義で。争いによってではなく愛を以って。ホッブズの思考実験とは逆の方向から逆の精神によってホッブズの出発点を目指す。

●徳田虎雄の思想的意義

1.「利己」から「利他」へ転化することで、デカルトに発する近代個人主義を内在的に克服。
2.「思惟」より「行動」を人間のあり方の根源とすることで、デカルト的主知主義からの脱却。
3.「生命だけは平等だ」というホッブズの出発点を共有することで、中途半端なロック的民主主義思想を相対化。

*世界の思想の流れにおいて考えても、「生命だけは平等だ」を基本にする徳田思想は、現代世界の閉塞状況を打ち破り、21世紀をリードしうる思想たりうる。


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