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mespesadoさんによる1億人のための経済談義(65)「新しい金融理論」(3)  [mespesadoさんによる1億人のための経済講]

管理通貨制度の下、「日銀の借用証に過ぎない紙きれ(不換紙幣)」をなぜ人は安心して「取引」に使っているその本当の理由は何か? その答えのひとつが、「通貨の価値を裏付けるものは、租税を徴収する国家権力である」という「租税貨幣論」。それに対してmespesadoさんの考察の行き着いたところは、絶え間なく事実によって強化され続ける「円を店に持っていけば、その金額に見合った価値の商品と取り換えてもらえるはずだ」という「信仰」こそが、「円」という「不換紙幣」が現実に通用している根拠になっている〉という「貨幣信仰論」。要するに、みんなそう思ってるからそうしているしそうなっている、それ以上でも以下でもない。そこでmesさん、この「貨幣信仰論」ですが、「租税貨幣論」のような理論と質的にどこか「次元が違う」ような気がしませんか?》。持ち出されたのが「死刑囚のパズル」。「計算」で成り立つ「論理」の世界と、「忖度」で成り立つ「現実」の世界、その「次元の違い」があぶり出されます。計量経済学者の視野が狭いのは、この「計算」という狭い世界に閉じこもっていることがその根本原因であるように思えてなりません。》「もっともらしい数式自体ほとんど何の意味もない」という「新しい金融理論」(1) の結論と同じ。mespesadoさんによって、学者世界がことごとく相対化されつつある様が見えてきます。

新しい「令和」の時代が始まろうとしています。「権威」からも「先入観」からも自由になって、「自灯明」明石原人さん)に照らされつつ新たな「ほんとうの世界」を切り拓いてゆくこと。——あらためて、飯山師が遺された「放知技精神」のように思えたところです。

*   *   *   *   *

431:mespesado:
2019/04/29 (Mon) 01:10:15

>>422 「新しい金融理論」の続きです。

 前回の最後に、管理通貨制度の下で、日本銀行券という名の「日銀の借用証」に過ぎない紙きれをなぜ人は安心して「取引」に使っているのか、という謎を解決するための仮説として「租税貨幣論」というものがある、という話をしました。
 今回は、この「租税貨幣論」とは何かということと、その仮説は本当に正しいのか、について論じようと思います。
 まず、この「租税貨幣論」の論評がいわゆる“藁人形論法”にならないように、信頼のおける中野剛志さんの著書『奇跡の経済教室【基礎知識編】』の106~107頁から、この「租税貨幣論」について定義している部分を引用しておきましょう↓
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 ところで、現代の現金通貨は、貴金属との交換が保証されない「不換通貨」です。では、その現金通貨は、なぜ通貨として流通しているのでしょうか。お札は、どうして単なる紙切れではなく、「お金」として使われているのでしょうか。
 これについては諸説ありますが、私が最も有力だと思うのは、「通貨は、納税の手段となることで、その価値を担保している」という説です。この説を採用する経済理論は「現代貨幣理論」と呼ばれています。
 この「現代貨幣理論」の貨幣理解のポイントは、次のようなものです。
   まず、国家は、国民に対して納税義務を課し、「通貨」を納税手段として法令で定める。
   こうして国民は、国家に通貨を支払うことで、納税義務を履行できるようになる。
   その結果、通貨は「国家に課せられた納税義務を解消することができる」という価値をもつこととなる。
   その価値ゆえに、通貨は国民に受け入れられ、財・サービスの取引や貯蓄など、納税以外の目的でも広く使用されることとなる。

 このように、「現代貨幣理論」は、「通貨の価値を裏付けるものは、租税を徴収する国家権力である」と唱えるのです。

 もっとも、歴史をひもとけば、国家が納税手段として法定していないものでも、貨幣として流通した例はあります。確かに、国家が納税手段として法定していないものが、貨幣として使われることは、あり得るかもしれません。しかし、そのことは「現代貨幣理論」を否定するものではありません。
 というのも、「現代貨幣理論」は、国家の徴税権力は貨幣の「必要条件」ではないが、「十分条件」ではあると考えているのです。
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 中野さんは、この一仮説にすぎない「租税貨幣論」を、「現代貨幣理論」すなわちMMTの一部を構成する仮説であるとまで主張しているわけですが、これはいささかMMTを拡大解釈し過ぎではないでしょうか?
 これでは、もしこの「租税貨幣論」を批判しきってしまうとMMTまでが否定されたことになってしまいます。
 さて、この「租税貨幣論」そのものについてですが、中野さんは上記引用文の後半で「必要条件ではなく十分条件である」と逃げを打っていますが、我々にとって一番関心があるのは、我々の通貨である日本「円」が通用する理由が果たして「租税貨幣論」によるものであるかどうかです。
 私は直感的にこの説は「取って付けた屁理屈」にしか思えません。そう思って検索を掛けると、やはり「租税貨幣論」に疑いを持つ人はいるようで、
例えば「うずらのブログ」というサイトの記事↓
租税貨幣論のウソ〜税がなくなれば人々はもっとお金を使うようになる
http://kobuta1205.hatenablog.com/entry/2019/02/14/050004
でも、

> 租税貨幣論者は、貨幣と租税とを紐づけたがるが、我が国に貨幣が誕生
> してからしばらくは、税といえば、租(口分田の収穫の約3%の物納)、庸
> (年間10日間の労役or布による物納)、調(特産物の物納)、雑徭(土木工事
> などへの労役)という時代が500年近くも続いていた。

> その後、生産・販売の独占を認める「座」の対価として貨幣による納税
> が一般化したのは、ようやく鎌倉時代に入ってからであったという史実
> を見ても、貨幣の最終需要は税だから、貨幣需要があるのは税という制
> 度のおかげ、つまり、税が貨幣を駆動させるという租税貨幣論は成り立
> たない。

とあり、まこと、ごもっともです。また、外国の事例でも

> 非納税通貨の外国通貨が自国通貨を駆逐するという実態は、人々が、租
> 税と貨幣価値との連関性をまったく意識していないという何よりの証拠
> だ。

> 試しに、エクアドルとか、パナマ辺りのインチキ国家に行き、ダウンタ
> ウンで屯している薬の売人にでも、「アンタが米ドルを欲しがるのは、
> 納税のためかい?」と訊いてみればよい。

 あるいは記事の最後にあるように、

> 租税貨幣論者は、おかしな屁理屈を捏ね繰り回す暇があるのなら、身近
> な人々に貨幣と租税の関係性について尋ねてみるべきだし、実質無税国
> 家に近いドバイ、アブダビ、サウジアラビアで普通に貨幣が使われてい
> る事実をとくと見物してくるがよかろう。

という具合に、「租税貨幣論」への反証はいくらでもできそうです。そう言うと、「租税貨幣論者」は「必要条件でなく十分条件だと言ったろ?」とか言ってきそうですが、実は確かに「租税貨幣論」が成り立つ事例として、彼らは帝国主義の植民地時代に、英国がインドかどこかで貨幣経済が成立していない地域で土着民に英国の通貨で徴税を強いたところ、彼らはその通貨を使用するようになった、という事例を挙げるのですが、むしろこちらの方が「例外」であって、「租税貨幣論」でない方が大多数であり、むしろ「租税貨幣論」の方が例外的に成り立つ場合もある、と考えた方がよさそうです。
 それでは、日本「円」を含む大多数の不換貨幣が「貨幣」として通用する本当の理由は何か?
 私の仮説はこうです:
 まず「円」はもともと兌換紙幣でしたから、「貴金属の引換証」として価値があるとみなされ、実際の取引に使われていました。すると、当時の兌換貨幣であった「円」については次の事実が成立しています:

★ 円を持って実際に店に行けば、その金額に見合った価値の商品と取り換えてもらえる。

 このため、人々の間に「円を店に持っていけば、その金額に見合った価値の商品と取り換えてもらえるはずだ」という確固たる「信仰」が発生します。そして、この「信仰」は、現実に店に「円」を持っていけば実際に商品と取り換えてもらえるので「事実により信仰が裏付けられる」わけです。従って上記の「信仰」は「事実」によってますます「強化」されることになります。
 さて、歴史上のある段階で「円」は兌換紙幣から不換紙幣へと変更されます。しかし相変わらず貨幣の単位は「円」のままであり、似たような「お札」ですから、不換紙幣に変更された直後も、「円を店に持っていけば、その金額に見合った価値の商品と取り換えてもらえるはずだ」という信仰は皆が持ったままです。そして実際に「円」をもって店に行くと、店の人も客と同じく「円を(他の)店に持っていけば、その金額に見合った価値の商品と取り換えてもらえるはずだ」という信仰をまだ持っていますから、店の人が欲しいものを他の店で購入するためには「円」を手に入れる必要がある、と信じています。ところが、今まさにラッキーなことに、目の前で客が欲しい商品と引き換えに客が自分に「円」を手渡そうとしているのですから、店の人は「喜んで」これを受け取ります。すると、客にとっては、今店の人が自分の差し出した「円」を「実際に」受け取って、代わりに自分が指定した商品をくれたわけですから、例の「円を店に持っていけば、その金額に見合った価値の商品と取り換えてもらえるはずだ」という(まだ残っていた)信仰は、このとき事実によって裏付けられることになります。つまり件の「信仰」が(不換紙幣に変更された以降であるにもかかわらず)「事実」によって「強化」されるわけです。
 つまり、「円を店に持っていけば、その金額に見合った価値の商品と取り換えてもらえるはずだ」という「信仰」は、「兌換紙幣」の時代であろうが「不換紙幣」の時代であろうが関係なく必ず「事実」によって「強化」され続けるわけです。そして、この絶え間なく事実によって強化され続ける「円を店に持っていけば、その金額に見合った価値の商品と取り換えてもらえるはずだ」という「信仰」こそが、「円」という「不換紙幣」が現実に通用している根拠になっていると思うわけです。
 私には、上記のような「仮説」こそが不換紙幣の本質であって、「租税貨幣論」などは、何とか現実に通用する根拠を探そうと理屈をこねくり回しただけの「粗雑な仮説」の域を出ていないと思うのです。ですから、せっかくトートロジーとして「事実」であると言い切れるMMTに、このような怪しげな牽強付会に過ぎない「租税貨幣論」を含めることにはとても賛成できません。
 というわけで、しばしばMMTに「もれなく付いてくる」、あるいは論者によっては「MMTの一部である」とさえ考えている「貨幣負債論」も「租税貨幣論」も、あまりできのよくない仮説、というよりもハッキリ言って、「間違った仮説」であることがわかりました。ですから、これら2つの仮説はMMTを人に説明する際はあまり力説しない方がよいのではないかと思います。
 以上でMMTにまつわる「貨幣負債論」と「租税貨幣論」に関する話はおしまいです。また別の話題が見つかり次第その都度記事にしていきたいと思っています。     (続く)

433:mespesado:
2019/04/29 (Mon) 11:25:04

>>431
 「租税貨幣論批判」への補足です(一度「おしまい」と言ってからまたぞろ補足です、とか言って書き足すの、悪い癖ですね。どうかご勘弁を)。
 私が >>431 でこれこそが正しい仮説として提示した、不換貨幣の信用が「円を店に持っていけば、その金額に見合った価値の商品と取り換えてもらえるはずだ」という「信仰」によるものだ、という仮説をここでは取り合えず「貨幣信仰論」と呼んでおくことにしましょう。
 この仮説によれば、単に日本円のような不換貨幣が通用する理由だけでなく、逆にハイパーインフレなどで自国の通貨が使われなくなり米ドルのような信頼できる外国の通貨が使われるような国があることも難なく説明できるので、その話をしておきます。
 ハイパー・インフレというのは、その通貨の価値が暴落するという意味ですが、このような事態が実際に起きるのは、「国内の生産供給力が壊滅的な破壊を受けた」場合とか、「もともと生活必需品を輸入に頼っていたが、その外貨を稼ぐための資源の輸出が何らかの理由で不可能になった」ような場合に生じます。このいずれの場合にも「消費したくても、その商品の供給が圧倒的に不足している」ということは共通しています。
 さて、こんな場合でも国家は相変わらず国民に徴税を続けているハズです(商品の供給に比べて通貨が供給過多なんですから、国家が通貨の回収たる徴税をやめようとするはずがありません)。
 従って「租税貨幣論」がもし正しいと仮定すると、このハイパーインフレになった自国通貨での納税が相変わらず必須ですから、自国通貨は相変わらず使い続けられるハズです。ところが実際はハイパーインフレになった自国通貨は人々の信用を失い、外国の信用できる通貨の方が有難がられるようになるので、この場合は「租税貨幣論」は完全に破綻しています。
 これに対して「貨幣信仰論」ではどうでしょうか?
 このようなハイパーインフレになる前までは、人々の間に例の「自国通貨を店に持っていけば、その金額に見合った価値の商品と取り換えてもらえるはずだ」という「信仰」が存在していたハズです。そして人々はこの信仰に従って、何かモノが欲しくなったときに、自国通貨を持って店に買い出しに行きます。ところがこのとき「消費したくても、その商品の供給が圧倒的に不足している」という事態が発生していますから、店に行っても必ずしも自分が欲しかった商品が置いているとは限りません。というか置いてある方が稀、という事態になっています。すると、店の人は「すんまへんなあ、うち、それ切らしてまんねん」ということになって、客は自国貨幣を持って行っても、欲しい商品を手に入れることができません。すると、この「現実」によって、せっかくの「自国通貨を店に持っていけば、その金額に見合った価値の商品と取り換えてもらえるはずだ」という「信仰」が否定されてしまいます。このようなことが続くのですから、やがてはこの「信仰」は人々の間から消滅してしまいます。つまり自国通貨は何の「信仰」にも支えられない、ただの「紙切れ」になってしまう、つまり「ハイパーインフレ」の状態になってしまいます。これが、「貨幣信仰論」にもとづくハイパーインフレ発生の説明です。
 この例を見ても、「租税貨幣論」より「貨幣信仰論」の方が現実を正しく解明できていることがわかると思います。
 さて、この「貨幣信仰論」ですが、「租税貨幣論」のような理論と質的にどこか「次元が違う」ような気がしませんか?
 実は「貨幣信仰論」って、次のような「死刑囚のパズル」に似ているように見えます:
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《 死刑囚のパズル 》
 某国で、3人の死刑囚が、互いの顔は窓越しに見えるけれども声は聞こえない隣接する3つの独房に収監され、3人の頭には白か黒の帽子が、3人ともに自分の頭にはどの色の帽子が被せられたかわからないようにして被せられた。ここで国王が3人に「①残りの2人が白い帽子を被っているのを見たとき、②自分の帽子の色が黒であることが証明できたとき、のいずれかの場合は釈放してやる」と告げて、実際には3人とも黒の帽子をかぶせた。このとき3人はしばらくにらめっこの状態で時間が過ぎて行ったが、あるところで3人の囚人の中で一番賢い囚人Aが自分の帽子が黒であることの証明に成功して釈放された。彼はいったいどのようにして自分の帽子が黒であることを証明したのか。
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 (↓ 以下正解の解説です。ネタバレが嫌いな人は【解説終わり】のタグまで一旦読み飛ばしてください)

【正解の解説】
 まずAは「自分の帽子が白であった」と「仮定」する。すると、この仮定の下では、残りの囚人Bも囚人Cも共に「黒」と「白」の帽子を被った囚人を1人ずつ見ていることになる。するとBかCの少なくとも一人は次のように推理するはずだ:「ははーん。もしオレの帽子が白だったとしたら、黒い帽子をかぶった方のヤツは、白』と『白』を見ていることになるから条件①によって釈放されているはずだ。ところが黒い帽子のヤツは一向に出て行かない。ということは、始めに仮定した『オレの帽子は白である』という仮定が誤りだったのだな」。このようにして、BかCの少なくとも一方は容易に自分の帽子が黒であることを証明して出て行ってしまうはずである。ところが実際はBもCも一向に出ていく気配もない。ということは、そもそも最初に自分(A)の帽子が白であると仮定したことが誤りだったことになる。よって自分(A)の帽子は黒である。
【解説終わり】

 つまり、この「死刑囚のパズル」では自分だけでなく、他人がどのように考えているか、という要素も推論の中に組み入れているために解くのが難しくなっているワケです。
 「貨幣信仰論」もそうで、ある人自身が「自国通貨を店に持っていけば、その金額に見合った価値の商品と取り換えてもらえるはずだ」という「信仰」を持っていることだけでなく、実際に店に行ったとき、店の人という「他人」も同じ「信仰」を持っているがゆえに、もとの客にとって、この「信仰」が「現実」になる、というところがミソなわけです。
 これに対して「租税貨幣論」のような“平凡な議論”には、自分について成立することを証明するのに他人について成立していることを利用しなければ証明できないというような、ある種「入れ子」状態の議論はありません。
 これこそが「貨幣信仰論」のようなタイプの仮説が専門家の間でも主流になれない理由なのかな、と思います。
 計量経済学というのは「数式」を用いますが、これは要するに「計算」の世界です。しかし上のような「死刑囚のパズル」は「論理的推論」の世界であり、「計算」を「論理的推論」の一種と捉えることはできますが、「論理的推論」を「計算」の一種と捉えることはできません。計量経済学者の視野が狭いのは、この「計算」という狭い世界に閉じこもっていることがその根本原因であるように思えてなりません。

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