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「置賜発アジア主義」(8)宮島誠一郎と宮島大八(詠士) [アジア主義]

宮島大八生家.jpg


宮島家(猪苗代片町/西大通り2丁目 善行寺南隣)


宮島誠一郎と宮島大八(詠士)


明治5年宮島家.jpg 宮島誠一郎は、米沢藩の名誉を挽回し明治国家の中で生き残っていく道を模索しつつ、進んで新政府に合流し国家的見地に立って左院・修史館・参事院・宮内省 に奉職、後進の道を切り開きました。米沢からの数多の海軍登用は、実弟小森沢長政(1843-1917)の功はさりながら、勝海舟以来の誠一郎の力あってのことでした。明治29年には貴族院議員に勅撰されています。また明治5年左院少議官時代に、「国憲を立つるの議」(「立国憲議」)を提出して憲法制定の必要を説き、「日本民主政治の先駆け」との評価もあります。宮内省御用掛として明治天皇に親しく仕え、帝室典範制定の中心的役割を担います。明治天皇の厚い信頼について詠士門下の平貞蔵が記しています。 《宮島誠一郎は東亜の情勢に通暁していた。東亜問題に関する知識と識見のほどは、重要な問題の発生した折、「そのことに就て宮島の意見を聞いたか」と、度々明 治天皇から係りの者に御下問あったことによって知られよう。政治的意見の対立がある時、有力な政治家の間に立ってしばしば調停役をはたしたことも文書や書 翰が伝えている。》(『宮島詠士先生遺墨選』)


 誠一郎は、嘉永3年(1850)から明治41年 (1908)までの詳細な日記のほか多くの貴重な文書を残しました。それらは、早稲田大学、国立国会図書館、上杉博物館 に「宮島誠一郎文書」として所蔵され、近年になってようやくその研究の成果が論文、著書として次々発表されるようになってきました。私には、宮島誠一郎こ そ大河ドラマに取り上げるにふさわしい人物に思えます。日本の近代の出発を、「白河以北」の立場も加えた視点から見直すことになるだけでなく、誠一郎を軸 に「雲井龍雄→曽根俊虎→宮島大八」の生き方、思いを追うことで、アジアユーラシア世界の明るい未来ビジョンが拓けてくるような気がします。

 宮島誠一郎研究の第一人者友田昌宏氏の【研究紹介】に《宮島誠一郎(18381911)は、幕末、米沢藩の周旋方として情報収集や他藩との折衝に当たり、維新後は「朝敵藩」出身であるにもかかわらず明治政府に登用された。明治5(1872)に 宮島が起草した「立国憲議」は先駆的な立憲政体論として知られる。戊辰戦争は彼にとっていかなる意味を持つ経験だったのか。敗戦を経て、いかにその国家構 想を紡いだのか。ここに宮島を追う私の旅がはじまった。また、ロシアへ警戒心を抱き続けた宮島は、清国公使と交わりを深め日清両国の融和にも尽力した。両 国の対立に翻弄される宮島の姿は、激動の東アジア情勢を映し出す。》とし、宮島は1920世紀の東アジアへと私を誘おうとしている。》と記しています。今後の研究に注目されます。

留学前.jpg 誠一郎のアジアへの思いを継承したのが息子大八(詠士)でした。幼少の頃、父母とともに上京、11歳で勝海舟の門に入ります。20歳 で渡清して清末の碩学張裕釗(廉卿)に師事して書法を究め、7年の滞在を経て中国を去るに際しては、同門から「中国の書東す。」(中国の書道、日本に移 る)といって惜しまれたといわれます。帰国後大八は、日中交流を担う次世代の教育のために、後々使い継がれる数々の中国語教科書を編纂、中国語塾善隣書院 を経営して多くの人材を育てました。

大正81919)年のパリ講和会議において、日本代表の牧野伸顕が、国際会議では最初となる人種的差別撤廃を提案しました。そして実は、この提案を牧野に入れ知恵したのが宮島詠士でした。平貞蔵が記しています。

 《先生は、父誠一郎と牧野の父大久保利通とが友人だったので牧野とは早くから交り親しかった。牧野は出発に先立って「出発準備に忙殺され自分でお訪ねする 時間がない。失礼だが小村欣一(小村寿太郎の息)をお伺いさせるから、会議でどういう提案主張をしたら宜しいものか、お考えをきかせてほしい」と電話を先生にかけてよこし た。先生は大事なことと思って色々思案したが良い考えが浮ばない。そこで、「師の勝海舟先生なら、こういう場合にどういうことを主張されただらうか」と考 え、頭をしぼった。そして人種平等ということに思いついた。小村を通じて牧野にそれを述べたのである。今でこそ当然のこととされるが、当時このことに思い 至ったのは偉とせねばならない。人種平等案はヴェルサイユ会議では採択されなかったが、黒人は牧野を神のように尊敬し、大きな希望を与えられるに至った。 日露戦争における日本の勝利がトルコ以東の諸民族の覚醒を促したのに類する事件だったわけである。》(『宮島詠士先生遺墨選』)

 しかし詠士は一切このことを公にしようとはしませんでした。書院の老小使に話したことを平が伝え聞き、不審に思ってあとで先生に確かめたことだそうです。

平貞蔵 横.jpg 平貞蔵(1894-1978) も 「置賜発アジア主義」の潮流におかねばなりません。長井市伊佐沢に生れ、米沢中学から三高を経て東大へ。左派学生が集まる新人会で労働運動に関わり、浅沼 稲次郎、野坂参三らとも知り合います。恩師吉野作造の勧めで中国を旅し、孫文とも会っています。命懸けの秘密工作にも関わり、満鉄調査部へ。昭和12年(1937) 日中戦争がはじまると、戦線拡大を停めるべく内地に戻って内閣直属の企画院に。「天皇陛下の力で戦争収拾を」と画策するもかなわず、その後は人材育成を通 して軍に歯止めをかけるべく、近衛文麿率いる新体制運動に力を向けることになります。学生時代より門下生として宮島大八に親しく接し、貞蔵が遺した大八に ついての記録は貴重です。戦後は東京電機大学教授の傍ら、郷里山形県と米沢市の開発計画策定に関わり30年近く主導、八幡原工業団地、栗子ハイウェー、米沢総合卸売団地センター、旧市街地の再開発等の功績を残しました。米沢市名誉市民になっています。(つづく)


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玉稿を頂戴しながら、長らく放置した無礼をお詫び申し上げます。ようやく熟読して御礼を差し上げることができます。
御論は端的にナショナリズムとアジア主義の問題に帰結するのではないかと読み取りました。ナショナリズムを定義するのはなかなか骨の折れることですが、日本的ナショナリズムと西洋のナショナリズムでは大きな質の相違があるように思います。
西洋ナショナリズムは、言ってみれば、フランス革命の中で、ローマ教皇からの独立から生まれたもと理解しています。そもそも、ヨーロッパでは、諸国に主権は存在せず、主権は教皇のもとにあったのです。その教皇から主権を奪う過程で生まれたのがナショナリズムであったと、門外漢ですがそのように理解しています。帝国主義の時代、ナショナリズムは富国強兵を担うものとして機能していましたが、大戦後は、逆に植民地の独立の精神的支柱となっています。
言ってみれば、ナショナリズムの歴史は浅く、かなり曖昧なものとして捉えられます。それも当然で、ナショナリズムの大本である国自体が確固として存在した例はさほど多くないように思います。ヨーロッパ自体、国は王朝の領土という意味しかなかったようです。この辺は、かなり曖昧な知識によって書いていますが、中国の場合は少しは確信をもって言うことができます。
そもそも、中国全体は国というよりは、一つの世界といった方が適切です。中国は、他民族によって構成された世界であり、ナショナリズムが生まれる土壌はありませんでした。実際、隋・唐・元・清の歴代王朝は、漢人からみれば異民族が支配する王朝でした。現在は、漢人が中心となった中国共産党が支配していますが、50以上の民族を抱え、このような状態でナショナルアイデンティティが形成されるはずはなく、中国にはナショナリズムは存在しないと断言することができます。それ故、中国人は中国を捨てることに何の痛痒もなく、また逆に他の民族を併呑することに罪悪感もないのです。
日本は、かなり特殊な国であるといえます。歴史が始まった以来、私たちの住む所は国であり、渡来人等を含めた日本人の国として、固いナショナルアイデンティティの絆で結ばれた国として存在してきました。摂関政治の時代でも、武家政治の時代でも、幕藩時代でも、明治以降の近代国家でも、このナショナルアイデンティティは疑いもなく維持されてきたのです。
私たちのナショナリズムは、こうしたナショナルアイデンティティに基づくものでなければなりません。ナショナルアイデンティティは遠い祖先から現代までに徐々に育まれてきたものですから、ナショナリズムは現代人だけのものであっていいはずがありません。いわば先祖の知恵の総体とも言うべきものを基礎においたものでなければならないはずです。そこに私たち保守のよって立つ基盤があります。
こうしたナショナリズムは、急進的な思考に対抗します。共産主義を含む左右の全体主義に鋭く対峙するはずのものです。
戦前の右翼を国粋主義者とみる薄っぺらな思考には言いようのない違和感を抱いてきました。彼らの多くは疑いもなくアジア主義者であったのはご存じの通りです。私が関心を持っていた大川周明は、イギリス人のインド人に対する迫害に激怒し、インド解放のために立ち上がった人でしたし、北一輝は中国の革命に一身を投げ出しました。内田良平は、朝鮮の一新会とともに近代朝鮮の確立に一命を投げ出したといっていいでしょう。そうしたアジア主義者に宮島大八・曽根俊虎がいることを知ったのは収穫でした。
「戊申雪冤」とは戊辰戦争で敗退した士族の薩長門閥政治家への反感を言い表したものでしょう。実は、私は自由民権運動家には今でも違和感を抱いています。彼らは不満士族とみるのが適切であるという思いはやはり拭うことはできません。時として彼らの言説が過激になったのはそのせいであったのではないかと、やはり思うのです。雲井龍雄は、そうした運動とは切り離したいと思います。

by お名前(必須) (2019-04-18 16:29) 

めい

お名前(必須)様

拙稿「置賜発アジア主義」についての丁寧な御感想をいただいていたことをmespesado さんによって知りました。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16675542/390/
お名前(必須)さんのナショナリズム論と、mesさんが打ち出された「通婚可能性の観点から見た愛国論」とはお互い補強し合って、mesさんはこう結論づけられます。
《日本「だけ」が真に「国内全体で通婚可能性を感じている」国家であると思うのです。》
さらにこの議論は亀さんによって「霊性」をめぐる展開に発展しつつあります。いよいよ死後の世界にも関心が及ぶようになった今、じっくり腰を据えて考えねばならない切実な問題です。あらためてお名前(必須)さんのお考えも聞きたいところです。(mesさんも亀さんも5月18日の東北一郎会においでになります。お名前(必須)さんもぜひ御参加お願いします。)

お名前(必須)さんの《雲井龍雄は、そうした運動(不満士族による自由民権運動)とは切り離したいと思います。》は、「置賜発アジア主義」(7)宮島誠一郎と雲井龍雄」https://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2019-02-21-1のの最後のところ、《龍雄にしても新しく変わった世を生きていれば、「民」への全権委任を求める自由民権運動よりも、誠一郎の「君民同治」論を支持していたと思えます。》に呼応します。われわれが戦後教育の中で叩き込まれた「民主主義」を相対化するための重要な議論につながる問題です。「置賜発アジア主義」を書きつつ考えるようになった、私にとって極めて大切な問題です。これからの日本のあり方を考える上でも重要です。このことについてはあらためてまとめてみたいと思っています。

「置賜発アジア主義」は、間もなく発刊される御堀端史蹟保存会の『懐風』誌に掲載され、米沢の主だった方々の目に触れふれることになります。どんな風に読んでいただけるか楽しみにしているところです。
by めい (2019-04-26 05:19) 

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