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足立アヤコ先生のこと [幼稚園]

「市道整備完成」の記事にアヤコ先生の訃報について触れましたが、なかなか書けなくていたお悔やみの手紙を出して間もなく、守先生から教会で行われたお別れ会の栞が送られてきました。守先生らしい気持ちが込められています。写真が添えられていました。

アヤコ先生1.jpg足立両先生.jpg

   ご挨拶
                  足 立  守
 ご多忙の中おいで下さいまして本当に有難う御座います。
 妻アヤコは皆さま方のご支援によりまして長らく幼児教育のために働かせて頂きましたが、そのスタートは、隣人のため生きるということでした。
 召された日月14日は日時から教会の会合に出席、帰宅後夕食後まで楽しく過ごしておりましたが入浴時に倒れて、救急処置をして頂きましたが、約1時間後9時28分心停止いたしました。
 若き日、ストーン先生との出会いが、死後の体を医学生のため生かされる決意となり、そのことがこの度の献体となりました。
 福岡と、東京と、山形と、そして出雲で、多くの方々からお交わりとご支援頂きまして有難う御座いました。
 今後もどうぞ宜しくお願い致します。

  アヤコの生育
 福岡市警固町に辻 徳一、ハマの三女として1926年(大正15年)3月28日 誕生、弟三人の六人兄弟、父は家具製作を業とした。尋常高等科1年のとき、同市呉服町に転居、1940年(昭和15年)大阪市西淀川区佃に転居、父は技術 を買われて太平洋戦争中、グライダー製作のため、福田前田航空研株式会社に勤務、アヤコは日本生命本社経理課に勤務したが、昭和18年父と、同じく福田前 田航空研KK設計室に勤務した。
 戦争末期19年、会社は福岡市西区に移転し、父とともに同航空研設計室に勤務。終戦とともに退社、一家はオー ダーメイドの家具工場を経営、後に別府市に移転するが、アヤコは前原町ドレスメーカー洋裁学校で研究科まで(3年)学び、その頃キリスト教に入信して、喜 びを人々に伝えたいとの希望に燃え1950年(昭和25年)上京、農村伝道神学校に進むが、突然の発熱検査の結果、右腎が結核のため機能停止摘出手術の処 置、当時学校長のストーン先生がアメリカ駐留軍病院からストレプトマイシンを譲り受けて下さった。まだ国内の病院ではほとんど入手出来ない頃のことである。
 その命の恩人ストーン先生は、1954年9月26日青函連絡船洞爺丸転覆遭難事故の時、多くの方たちに、防潮着を着せて助け、助かった方だちか、先生の姿を探したが見つけることか出来なかった。本人は北の海に眠られたままであり、農村伝道神学校にストーンメモリアル校舎が出来ている。
 入院休学静養。1955年復学した年、その年の入学者の中に守はいた。

  足立アヤコ略歴
 1940年  日本生命本社経理課
 1943年  福田前田航空研株式会社
 1953年〜1956年  原町田幼稚園
 1955年5月 足立 守と結婚
 1956年  白百合学園〈知能障害児通園施設〉
 1959年〜1998年  宮内幼稚園
 2006年  出雲市大津町に転居
 2018年12月14日 死去

  好きな聖句
「あなたの父と母を敬え」出エジプト20章
 

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コメント 1

寺嶋

ブログ拝見いたしました。
アヤコ先生、お亡くなりになられたのですね。お悔やみ申し上げます。
私1994年生まれで、宮内幼稚園では恐らくアヤコ先生には最後に世話になったのを記憶しております。
当時は宮内幼稚園の中のひよこ組でした。
一度数人でアヤコ先生の宮内のご自宅にご招待していただきまして、一日遊んでいただいたことを思い出します。そこで一番思い入れが強いことといえば、アヤコ先生のご自宅に足で踏む古いミシンがあり、そこの針に糸を通したらマフラーを編んであげるよと言われ、熱心に糸を通したことを思い出します。
マフラーはいつできあがるのか、今か今かと待っていたのを記憶しております。
話はそれてしまいましたが、足立守先生は今もご健在でいらっしゃるのでしょうか?
もしご存知でしたらこちらのコメント欄で結構ですので教えていただければと存じます。
よろしくお願いいたします。

by 寺嶋 (2019-09-26 23:11) 

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