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置賜の詩吟(『置賜の民俗』第25号). [詩吟]

置賜の民俗25.jpg『置賜の民俗』第25号が届きました。昨年、吟道岳鷹会60周年記念誌作成の際にいろいろ調べて書いていたのですが、宮内岳鷹会の動き等を付け加えて「会員の研究レポート」ということで載せていただきました。転載しておきます。

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    置賜の詩吟

 はじめに

 

 置賜民俗学会の江田忠初代会長は、置賜の詩吟団体である吟道岳鷹会(公益社団法人日本詩吟学院認可)の創設者でもありました。その岳鷹会が昨年創立六十周年を迎え、記念の大会を開催(第六十回 山形県南吟詠大会 101日)、「創立六十周年記念誌」が発刊されました。その記念誌編集に関わったことから、置賜に於ける詩吟について考える機会がありましたので報告させていただきます。

 

一、上杉謙信と雲井龍雄

 

上杉謙信Uesugi_Kenshin.jpg 詩吟界において置賜は、二人の存在によって特別な土地です。まず、「鞭声粛々夜河を渡る」(「不識庵機山を撃つの図に題す」頼山陽)はいわば詩吟の代名詞、藩祖上杉謙信公はこの詩句によって詩吟のシンボル的存在になっています。さらに、明治から戦前に至るまで広く愛吟された「棄児行」、その作者は置賜が生んだ幕末の志士雲井龍雄とされて名を知られ(現在は米沢藩士原正弘による作というのが定説)、清廉にして反骨の生涯から生まれた詩魂の結晶としての詩篇の数々 は、明治以来多くの心ある青年を鼓舞してやみませんでした。摂政宮当時の御進講役杉浦重剛の薫陶下、昭和天皇もそのおひとりかもしれません。杉浦による音 声が残る”生きては当(まさ)に雄図四海を蓋ふべし”で始まる「釈大俊師を送る」は、杉浦が摂政宮の前で吟じた詩としても知られ、昭和11年法泉寺にその詩碑が建立されています。

雲井龍雄43dc652878e4f5a670f7d60ba9bd1ae8.jpg 名将として誉れ高い謙信公は自ら名詩「九月十三夜」を残しました。その詩魂はこの地において直江公、鷹山公へと引き継がれ、脈々たる置賜詩作の伝統を形づくることになります。藁科松伯、竹股当綱、神保蘭室、莅戸太華(善政)、山田蠖堂 、宮島栗香(誠一郎)、曽根魯庵(俊臣)、甘糟継成、齋藤馬陵(篤信)・・・。かくして雲井龍雄は、錚々たる人脈の中でその詩魂を磨くことができたのです。

 今から40年前、敗戦によって魂が抜かれたかに見える戦後日本を憂いつつ自刃した思想家村上一郎が評価してやまなかったのが雲井龍雄でした。こう記しています。

 《雲井龍雄は、漢詩が日本の青少年教育の中で消えつつあるいま、今日の若者たちには縁遠い人となっている。しかし、それが世の中の進歩、教育の発展であるとは わたしにはまったく考えられない。わたしは心から、この忘却、この抹殺を、雲井龍雄の渺たる一身をこの世から消し去った明治社会の酷薄以上に罪ふかいもの と考える。これは日本の万世に伝うべき詩心を、残忍に葬ってしまう教育の頽廃、文化の堕落の一つのあらわれであると信ずるのだ。》

 雲井龍雄を忘却の彼方に追いやる戦後日本は、雲井龍雄の命を奪った明治政府以上に罪深い、と言うのです。さらにつづけます。

  《雲井龍雄は、藤田東湖や頼山陽とともに、今日日本の近代詩史の序曲の上に復活せねばならぬ大事な一人である。わたしはこれらの人によって日本の詩の近代 は用意され開始されたのだと信じている。/詩の詩たるゆえんは、期するところのない魂魄の躍動にある。その意味において、当今功利の文人が、ためにすると ころある文学のことごとくは、雲井龍雄の詩心の前に、ほとんど顔色ない。そしてその詩心は、反逆不屈の一生と一体である。ここに日本東国の志硬い青年のお ぐらくも勁い情念の一典型が塑像のごとく立っている観がある。その沈冥鬱屈の情を、今日の青少年は知らねばならぬ。》(村上一郎『雲井龍雄の詩魂と反骨』「ドキュメント日本人3 反逆者」学藝書林 昭43年 所収

 その詩心のありようにおいて雲井龍雄は屹立した存在なのです。

 置賜が、詩吟史上特筆すべき上杉謙信公と雲井龍雄という二人の存在と共に在ることの意義に思いを致しつつ、まずは置賜に於ける詩吟の歴史を繙いてみます。

 

二、詩は吟じられてはじめて詩である

 

 置賜詩吟史にとって貴重な文章がありました。尾崎周道が長岡正(山上学話会)に宛てた書簡です。

《先頃、宮島大八先生の談話を集めた冊子を読みたり。その中に、宮島誠一郎先生の詩吟について語られている。「大体俺の親父は詩吟が好きで、今の詩吟などは本当のものではないといって、よく皆を集めて吟じて聞かしたものだ。その中それが段々、人に知られて、当時長く宮内省に出仕していたものだから、明治天皇が 宮島の吟声を聞きたいと仰言って、親父は李白の『七徳ノ舞』と頼山陽の楽府の中の一つと、例の『静や静しづのおだまき繰り返し、昔を今になすよしもがな』 という歌と三首吟じたところ、大層お気に入って、それから屡々陛下の御用を仰せつかったということだ。」/(中略)/米沢の俗説に、宮島誠一郎先生が西郷南洲と会った時に詩吟をやることになり、その頃米沢に詩吟の方法がないので、金剛流の謡の節をまぜた吟法をやったということが伝わり、それが米沢流詩吟の 始まりだという話があるが、これはあやまりであることがわかった。/また、大八先生は細井平洲先生が非常に音節にくわしかったことも語られていること。ま た鷹山公時代に農家の子弟も唐詩選を吟じたということが古い本にあるから、小生は誠一郎先生は米沢にあった音節たしかな吟法であったのではないかと推測する。/その吟法は宮島誠一郎・雲井龍雄・甘糟備後先生らの師山田蠖堂先生や興譲館の教授窪田梨渓先生から習われたものとみて間違いではないと思う。/この 事は興譲館の教授法の中に詩は吟ずるものという正風があったということではなかろうか。》(『百周年記念誌 山上学話会のあゆみ』平成5年)

宮島誠一郎写真.jpg 宮島誠一郎(栗香)は、幕末期にあっては京都探索方雲井龍雄の先輩として行動を共にし、戊辰の役にあっては奥羽列藩同盟の立役者、明治になっては上杉藩挽回に奔走、勝海舟とも親交深く、明治政府中枢としていち早く憲法制定・議会開設を建白、「興亜会」設立にも関わってアジア主義の先駆けともなったという米沢が生んだ日本史的傑物でした。その遺志は、並外れた書家にして真の日中友好に生涯を懸けることになる子宮島大八(詠士)に引き継がれます。右の文は大八が記していた父誠一郎と詩吟との関わりです。

 この文からつぎのことがわかります。

 ・宮島誠一郎は明治天皇の御前で、求めに応じてしばしば詩を吟じていたこと。

 ・細井平洲先生が音節に詳しかったこと。

 ・鷹山公時代、農家の子弟が『唐詩選』を吟じていたこと。

 ・米沢では、詩とは元来吟ずるものであり、音節たしかな吟法が伝わっていたこと。

  「詩の詩たるゆえんは、期するところのない魂魄の躍動」(村上一郎)、吟ずることによってその躍動はお互いの共有となる、置賜においてまさにそれこそが詩であったのです。個から発した詩が吟じられることによって共感を生み、ひいては共同体の魂の基盤を形づくる、その伝統は今もこの地に生き続けます。

 

三、詩吟文化隆盛の証――『米澤詩吟讀本』

 

表紙.jpg 今から約八十年前の昭和11年 開催された「米沢詩吟大会」を機に、米澤詩吟振興會(会長 西海枝信一)によって『米澤詩吟読本』が発刊されました。金森太郎山形県知事の巻頭言に曰く「日本精神に還れ!とは刻下澎湃として漲る国民衷心の叫びである。欧米追随の時代は去った。吾等は栄光輝く伝統的大和魂に拠って世界和平の聖戦に健闘せねばならぬ。吾等は今こそ真の日本人として奮起すべきの秋であ る。・・・」

  和漢著名の詩百編、藩祖謙信公に関わる詩三十一編、直江兼続公三編、上杉鷹山公三編、雲井龍雄五編を含む郷土に関わる詩四十四編、実に合わせて百七十五編 を集録した二三六頁堂々の大詩編、巻頭言は「日本精神の振作と共に郷土愛の情緒涵養上洵に好個の良書たるを失はぬ。敢て青少年諸子に本書を推挽する所以である。」と締められます。当時の米沢において、詩吟文化がいかに隆盛を極めていたかを証する貴重な書です。

 その頃の米沢の詩吟について、岳鷹会の平吹岳導前会長が当時の記録(月刊誌『朗吟』)から記しています。

《「こ の頃米沢市外窪田村の木口勇太先生は、詩吟を大いに普及し、米沢流の名吟家として知られていた。」「米澤詩吟振興会主催の全国詩吟大会は、上杉伯爵御夫妻 の御臨席を得て米沢市長の講演のあと詩剣四十番を行った。当日は東京、仙台、会津若松ほか各地の名士が出吟し盛会のうちに幕を閉じた。」或いは「米沢市は 早くから詩吟振興の気運に恵まれ盛んであったが、同市の家政女学校(現米沢中央高校)では課外教育として詩吟家の香坂琴城先生を招いて週二回指導してもらい、情操教育によって将来を期せんがために詩吟を奨励している」などの記事が紹介されている。》(『懐風 第三十四号』 平成21年)

1-DSCF6528.JPG 昭和初期、米沢には西海枝信一(弁護士・図書館長・市議会副議長)率いる米澤詩吟振興會と香坂琴城(大町郵便局長)率いる米澤士風會がありました。その源流を成すのが、明治年間に江戸期以来の藩校流に独自の節調を加えて米沢流詩吟を生み出した青木清次です。青木は明治22年の市制施行以前から兄深沢忠蔵(米沢市長)と共に同志のグループを結成して指導に努め、米沢流詩吟宗家として昭和14年には常信庵に顕彰碑が建立されています。その流れを引くのが山上学話会です。

 

四、山上学話会

 

山上学話会pi_kmi04.jpg 山上学話会は明治191886)年に創設され、米沢流詩吟の伝統を今に伝える地域に根ざした研修団体です。昭和621987)年の百周年祝賀会で、長く会の中心にあった佐藤勝会長(当時)がその歴史と意義について語っています。

《ここ山上通町、裏町の慶長年間以来の歴史と、時の世の時代環境等が背景・・・すなわち、屯田士族としての代々二百六十余年、それが急角度に明治の文明開花の 御代に至っての人々交々の驚異、ましてやこれから立つべき青少年の前途に対する戸惑い・・・思案考究に詰った心ある青年達が、淡い光を見出した希望への止 宿が学話会の発足になったものと思われます。・・・この継続と伝承の根源は・・・一つには、山上通町・裏町の屯田開拓の歴史と、その環境条件にさいなまれ た明治初期の青年同士の、生きる光を求めようとした根性の結合によったことがその基本・・・二つには、その根性の結合を青少年同志の情熱によって、苦の中 に楽しみを創造し推進するに至り、長い年月の屯田の貧苦を反骨の努力と希望に切替える流れになった・・・三つには、この山上通町・裏町の地域の皆様の御理 解と更に御協力を得たこと》といいます。当初は自由民権の気運の中で若者同士が語り合うことから始まった集まりで、「若い者が夜遅くまで、時折集っている が一体何をしているのだろう。悪い集りでなければよいが?」と怪訝に見られていたものの、外部も巻き込んだ弁論大会、討論会に発展して地域の信頼と期待が 集まるようになり、《その後毎年回を重ね、詩吟剣舞も加わり、山上両町の健全な青少年の集いとして一躍衆の認めるところとなった。町内の大人衆はこれから の町内や世の中をつぐ若い者達よ!と、学話会の諸活動について、むしろ協力・支援を送るような気持ちとなり、その後会場の修復・諸用具の整備など、大きな 助成をいただく倖せをえた》といいます。《子弟教育の基本観念がよく培われていた代々の屯田地域》から醸成された、上杉武士の魂を今に伝える研修団体で す。その継続的成り立ちの基盤となったのが「詩吟・剣舞」であり、山上学話会は地域における伝統文化継承のあるべき典型を示してくれています。

 

五、吟道岳鷹会

 

 吟道岳鷹会については、『米沢市史 現代篇』(平成8年)の「第五章 戦後の教育と文化 第三節 戦後の文化活動」にある「吟詠」の項の紹介が要を得ます。

  《米沢に近代吟詠が開花するのは戦後のことである。昭和三十二年米沢市中央公民館に詩吟講座が設けられ、翌三十三年にその講座のなかから米沢吟友会が江田 忠(岳鷹)を師範として発足した。社団法人日本詩吟学院岳風会に所属し、江田はその師範で、当時山形大学助教授であった。同年十一月第一回の吟詠大会を開 催、翌三十四年から県南秋季吟詠大会として規模を拡大、市芸術祭へも第一回から参加、以来連綿今日に至る。昭和五十三年に吟道岳鷹会と改称するが、五十年 ごろから会員の増加も顕著となり、山形周辺や高畠・南陽地区に相次いで傘下の会が誕生、さらに上郷・川西・白鷹等に会の組織が拡大する。江田会長が昭和五 十五年逝去、平吹慎吉(岳導)が第二代会長となる。

  現在の教授陣は、平吹岳導・佐藤岳瞭・佐藤岳洵・福島岳優ら二十数名におよび、その教場も三〇ヵ所を数える。また、全国大会や東北大会で多くの入賞者を出 し、レベルの高い活動が評価されている。吟詠は漢詩主流であるが、岳鷹会は宮沢賢治の新体詩や俳句なども吟題として取り上げ、現代吟詠の新分野にも挑戦し ている。》

平吹岳導先生写真.jpg また、当時吟道岳鷹会会長でありつつ、その本部組織である社団法人日本詩吟学院岳風会理事長を務めた平吹前会長が前記「米沢の詩吟」(『懐風 第三十四号』)の中でこう記しています。

  《昭和三十二年米沢市中央公民館主催の詩吟講座が、米沢流の佐藤勝(山上学話会会長)、佐藤武夫(米沢市議会議員)及び江田忠(山形大学助教授)の三氏を 講師として開催され、翌三十三年受講者を中心に江田氏を師範・会長とする米沢吟友会が発足した。江田氏は昭和十四年朝鮮京城における第一回詩吟コンクール で優勝した実績を持ち、昭和十八年に日本詩吟学院岳風会の創設者木村岳風から奥伝を認許されている。その縁で米沢岳友会は日本詩吟学院岳風会に所属し、そ の後昭和五十三年に吟道岳鷹会と改称して活動を続け、会員は米沢市の近隣市町にも拡がり現在六百名近くになっている。平成九年には創立四十周年記念事業と して上杉神社境内に上杉隆憲氏の書になる「九月十三夜」(上杉謙信)の詩碑を建立した。また、平成十七年には吟道岳鷹会など米沢で詩吟・剣詩舞を愛好して いる六団体による米沢詩吟剣舞全国大会が開催された。なお、日本詩吟学院岳風会認可の山形岳風会に所属する米沢香城会、米沢岳風会も米沢で活動してい る。》

 

六、座談会「 故きを温ねて新しきを知る 」(『創立四十周年記念誌』)

 

40周年記念座談会.jpg 吟道岳鷹会『創立四十周年記念誌』(平成9年)に掲載された「故きを温ねて新しきを知る」と題する座談会は、岳鷹会を担った方々による貴重な発言が多く盛り込まれています。一部先述と重なりますが、岳鷹会の歴史をたどってみます。

 詩吟は、江戸初期青少年教育の場として林羅山によって開設された昌平黌の勉学の一端として取入れられたことから全国に広がりました。特に五指に数えられたのが仙台養賢堂、水戸弘道館、米沢興譲館、会津日新館、熊本時習館それぞれの流派でした。米沢においては明治期、市内小国町の青木清次が興譲館流に独特の工夫を加えて米沢流を創設します。昭和12年(1937)に発表された全国の主な十六流派の中に「米沢流・青木」の名があります。昭和11年には市内小学校において二千五百人の聴衆を集めて全国詩吟大会が開かれ、このとき発刊されたのが『米澤詩吟読本』でした。

 江戸期以来の米沢詩吟の伝統の中で、青少年教育の一環として詩吟と剣舞を取入れたのが山上学話会です。その中心を担ったのが、吟道岳鷹会創設時を知る唯一の会員である佐藤岳瞭顧問(当時副会長)の父佐藤常一(初代鶴城)です。佐藤顧問が語っています。

 「明治という新しい時代になって旧藩の武士たちは生き方にとまどいました。しかし、当時の山上通町の青年たちは、刀にかわる学問と言論で世に立とうとしました。その集まりが学話会となったものです。百十一年前でした。/詩吟と剣舞は、討論、試胆会などと並んで修練の一科目でした。時代とともに浮き沈みもあったようですが、昭和三年、『山上一刀流剣舞』と命名され、上杉神社に剣舞が奉納されて、現在に受け継がれています。」 

 福島岳優現副会長の父南波正義(渓風)もまた山上一刀流剣舞師範でした。

  「学話会剣舞の師範をしていた父から云われ、自宅で剣舞を始めたのは六歳の時で漢詩の意味もわからないままでした。中学に入ってから、学話会に入会させら れましたが女性剣士は私ひとりだけ。その後、米沢吟友会が結成されたので、父のすすめで、すんなりと詩吟をお習いするようになりました。」

 米沢流詩吟の流れを汲む山上学話会の伝統は、佐藤岳瞭顧問、福島岳優副会長によって岳鷹会に受け継がれています。

江田岳鷹像.jpg  戦前において詩吟は、戦意高揚を目指した国粋主義的なものが主流でした。しかし敗戦によって壮士的詩吟が影を潜める中で新しい詩吟の在り方を示したのが日 本詩吟学院創設者木村岳風先生でした。岳鷹会の歴史は岳風先生と江田忠(岳鷹)先生の出会いに始まります。平吹岳導前会長が江田先生について語っています。

  「戦前戦中と木村岳風先生は朝鮮、満州に詩吟慰問されていました。/昭和十五年、京城の吟詠家たちを集めた吟詠会の席上で、(江田先生が)岳風先生に認められて、その場で奥伝をいただけることになり、ほどなく送られてきた雅号『天風』の許証を手にした時は大変うれしかったと語っておられました。」

 江田先生は山形県社会教育の係長として若妻学級を創設、全国に広めるなど社会教育面の先覚者で多くの著書、論稿があります。また民俗の分野にも関心が高く、置賜民俗学会を立ち上げて初代会長を務められました。 そのころ江田先生が好んで吟じられていた中には、戦後大ヒットした流行歌「異国の丘」の詩情を七言律詩調にしたものもあったそうです。

 

 江田先生は戦争終結まで、朝鮮の京城帝国大学法文学部東洋史学研究室助手を経て京城師範学校助教授の任にありました。当時の教え子松村武雄氏(寒河江市在住)によると、江田先生は毎日の朝礼で詩吟を披露されていました。木村流の一番弟子ということで、ラジオの朝鮮放送で江田先生の詩吟が流れたこともあったそうです。江田先 生は、学問と楽しみの両立が必要と説かれ、江田先生の泰然たる詩吟はみごとな声だったそうです。松村氏が江田先生の吟で特に好きなのは「静夜思」であった とのこと。京城大の同僚に、戦後東京大学に文化人類学教室を創設した泉靖一がおり、その弟子で世界的に著名な人類学者川田順造東京外語大名誉教授が、米沢 市六郷の農村文化研究所を通して置賜地方に大きな関心をもつことになったのについても、あるいは江田先生との縁が思われます。

 最後の著作となった『くらしの中の六十五章』に詩吟に関わる文章がいくつかあります。とりわけ24.の 「吟詠の芸術化について考える」から、江田先生の「吟詠観」が凝縮されて述べられています。《吟詠も、それが日本の芸術であるためには、聴き手を鮮明に自 覚した、独白でない対話的吟詠でなければならないと私は考える。そこに吟詠の社会的機能というものが期待されるのではないだろうか。なぜなら吟者が聴き手 に吟を通して詩の心を訴えるということは一つの働きかけであり、その働きかけに聴き手が何等かの反応を示すことになれば、それはすでに吟詠が吟者をこえて 社会的機能を発揮することになるからである。/ 格調高い吟詠は、これを聴く者に深い感動を与える。感動は共感をよびおこし、その共感を通して吟者と聴き 手の一つの精神的共同体が生れてくる。このような精神的共同体をつくり出すことが可能となるとき吟詠の芸術化という途も開かれると考えてよいのではないだ ろうか。》

 

 昭和328月、 米沢市中央公民館で江田忠(当時、雅号は天風)先生が講師となって、市民対象に詩吟講座が開講されたことから岳鷹会の歴史が始まります。会場が満員となる 状態だったと伝えられています。この講座のときから数えて昨年が六十周年でした。このときの受講生が中心となって動き出し、翌332月には新春詩吟大会が開かれ、38日には江田先生を会長として「米沢吟友会」が創設されます。

 江田先生の天風という雅号は木村岳風先生から直接いただいたもので、後に典岳という時期もありましたが、総伝になられたとき、上杉鷹山公の”鷹”をとって「岳鷹」と称されました。

  江田先生は昭和五十年代に山形芸術学園を始めとして、高畠町、南陽市と拡げてゆかれ、それにつれて地域の枠を示す米沢という名を表面に出さない名前が必要 だと考えられ、当時交流していた茨城県水戸市の椿本岳謙先生の吟道岳謙会をヒントにして「吟道岳鷹会」と命名されます。

 創設当時の思い出が語られています。

《福島 私は昭和三十五年からです。ガリ版刷りのプリントを見ながら耳で覚えるより他なかったから、道みち岳瞭先生と二人で復習しながら帰宅したものでした・・・。

 平吹 昭和三十四年二月現在の会員名簿によりますと三十一名です。この中には後の山形岳風会を育てた佐藤岳暎先生の名もあります……。

 岳瞭 岳暎先生は詩吟講座の開設当初から米沢吟友会創設に大きく貢献され方でした。》

 さらに、

司会 昭和三十七年、日本詩吟学院米沢支部米沢吟友会となってからの活動内容は、市内だけのものでしたが、昭和五十年六月に山形芸術学園に詩吟教室が開設されたことは画期的なものであると思います。その後、相次いで高畠、南陽吟友会が発足しています。・・・

 平吹 江田先生は、当時の芸術学園の理事長と親しい間柄たったので開設されたわけです。

 岳瞭 昭和五十四年九月、先生がご病気になられてから私が代行して現在に至っています。

 平吹 支部を創設するときは必ず地元に熱心な方がいらっしゃって、その方々が十分に地ならし的に努力されてできています。》

 昭和534月、米沢吟友会は発展的解消をして吟道岳鷹会となります。昭和54年以来、米沢の冬の風物詩として有名になった上杉雪灯篭まつりの雪見の宴で吟詠をしたり、武禘式で吟じたりして、広く地域の人々に詩吟の存在が認められるようになります。

 昭和554月、江田初代会長惜しまれつつご逝去。六十三歳でした。

 昭和57年に上郷吟友会が発足します。つづいて59年に川西、62年には白鷹、飯豊町にそれぞれ結成されて、会員数も六百余名の大世帯となります。平成8年、組織改革が行なわれ、各吟友会は支部となります。翌9年、南陽宮内岳鷹会(宮内支部)が発足して今日に至ります。この間各支部は、地域の文化祭等に積極的に参加して詩吟の普及に努めてきました。

 

七、新たな詩吟文化創造への試行

 

 高齢化の進展とともに、一時は会員数六百名を誇った吟道岳鷹会も現在は三百名台に減少、そうした中にあって、地域に根ざした新たな詩吟文化創造への試行も行われています。

平先生m_07-DSCF8133-281d7.JPG 南陽宮内岳鷹会は、昨年二十周年を迎えた吟道岳鷹会の中でいちばん新しい支部です。その発足の動機を指導者平岳謙(謙雄)先生が記します。

 《私は昭和五十八年四月から平成二年三月までの七年間宮内高等学校に勤務させていただき、新しい学校(現南陽高校)創設のため地域の方々に筆舌に尽くしき れないご協力を戴ました。退職後も遺された人生の中で、このご恩にどうお酬いすべきかという課題がいつも心にのしかかっていました。平成二年四月から三年 間県庁総務部生涯学習学事課属託として務める事となり、そこで、若い仲間から生涯学習の理念などを学ぱせていただき、地域の未来にとって、生涯学習の内容 の整備がいかに大事であるかを知りました。そして、私のご恩返しは宮内地域の方の生涯学習活動のお手伝いをすることだと信じました。》(『創立二十周年記念誌』南陽宮内岳鷹会 平成29年)

  宮内支部は発足以来入れ替わりをくり返しながら、会員数ほぼ二十名前後で推移して現在に至ります。平先生の指導は、詩吟を通しての健康指導、生き方へのア ドバイスから歴史文化への関心喚起と広範囲に亘ります。そこから生まれたのが、詩吟を通しての地域文化の掘り起しという独自な取組みです。

 平成1911月 に行われた「宮内岳鷹会創立十周年記念祝賀吟詠会」において、会員全員で取組んだ構成吟『美し地 みやうち』に始まりました。祝賀会定番の「宝船」(藤野君山)、翌々年の大河ドラマ主人公に決定していた直江兼続の漢詩「菊花」に加え、結城健三の「稚児舞」や長部功の「妹背の松」、「双松公園」「長谷観音」を題材にした佐佐木信綱の「山のうへに」「長谷のみ仏」といった宮内関わりの和歌、さらに会員による創作漢詩「宮内讃歌」に、平先生から節調をつけていただいて構成吟としてスライド付きで発表したのがたいへん好評を得たのでした。とりわけ最後に全員で 吟じた結城哀草果の「置賜は国のまほろば菜種咲き若葉茂りて雪山も見ゆ」は、その後宮内支部を超えて広く吟じられるようになっています。

 平成2411月には創立15周年を記念した「置賜の詩心を訪う」と題した吟行を行いました。上杉神社での謙信公「九月十三夜」に始まり、松岬神社で鷹山公「なせばなる」、林泉寺で直江公「洛中の作」、常安寺で雲井龍雄「客 舎の壁に題す」、上杉家御廟で頼山陽「不識庵機山を撃つの図に題す」、白子神社で鷹山公「受けつぎて」、実に米沢は名詩と共に在る地であることを実感しま した。発掘進む館山城跡では、伊達政宗が戦勝に際して歌ったと伝わる「さんさ時雨」を、「仙台ではなく、こここそこの歌発祥の地」と銘打って歌いました。 さらに米沢市内を離れて、黒井堰で昭和天皇「最上川」、資福寺趾で伊達政宗「ふるさとは」と巡って宮内に入り、5年前の構成吟『美し地 みやうち』を現地で吟じました。

 平成2910月の「20周年記念吟詠大会」に向けてはスライド構成吟『宮内八景』に取組みました。選び出した宮内八つの場所景色に、それぞれに関わる歌、詩によって光をあてるという趣向です。平成18年 発刊の『南陽のうた』(牧野房編 南陽市教育委員会)が主な出典でした。第一景鳥居の場は漢詩「宮内讃歌」(宮内岳鷹会)、第二景熊野大社と大銀杏が 「蜩」(舩山敏子)と「今朝一葉なき」(鈴木冬吉)、第三景別所山が「国見はるかす」、第四景秋葉山が旧宮内中学校校歌(結城哀草果)、第五景吉野川が 「遊ぶ少年」(鈴木茂)、第六景「をぐらきに」(結城健三)、第七景双松公園と妹背の松が「山のうへに」( 佐佐木信綱)と「千とせふる」(須藤るい)、第八景宮沢城が漢詩「北條山下」(尾崎福秀)、そして最後を定番である結城哀草果の「おいたまは」を全員で合 吟して締めるという構成でした。

宮内八景12-1E5A78BE381BEE3828A.JPG 以上三つの構成吟はいずれもダイジェスト版がつくられ、年明け早々二百名を越す参加者で開催される「宮内地区新春懇談会」のオープニングで公開され好評を得ています。

 地域に伝わる詩歌には、個に発しつつその地域に関わる人々との共感への希求が込められています。その思いを受けとめ、詩吟として表現されることで個を超えた生命を得るのです。

  地域を題材にした構成吟の試みは、「詩吟は、こうしなければならないという制約に縛られるものではない。自由に節調をつけて自分の思いを表現すればいい。」という平先生による指導に端を発します。地域に発した詩歌が掘り起こされ、節調がついて吟じられることで、それは地域で共有する財産になります。そこから地域への愛着も生まれるかもしれません。10周年記念行事を機に始まる、地域に題材をとった構成吟は、5年ごと3つの回を重ねたことで、地域における新たな詩吟文化創造の可能性が見えたように思えます。

 

 おわりに

 

 吟道岳鷹会『創立四十周年記念誌』(平成9年) の「故きを温ねて新しきを知る」と題する座談会に触発されて、この地における詩吟の歩みを振り返ることになりました。あらためて置賜という土地の歴史文化 の豊かさを思います。詩吟は、その豊かさを盛り込む格好の器に思えます。伝統文化の護持発展に尽力された諸先輩の御努力に衷心より敬意と感謝を表して結び とします。ありがとうございました。

 

【追記 31.1.22】

今朝の山形新聞です。

置賜の民俗25 山形新聞.jpg

 

 

 

 

 


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めい

今朝の山形新聞記事、追記しました。
by めい (2019-01-22 07:23) 

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