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「にぎわった頃の宮内を思い起こしてみよう」(鍾秀学)(3) 子どもたちの感想 [地元のこと]


先日子ども達の感想が届きました。みんなそれぞれいい感じに受けとめていてくれて安心しました。すぐお礼の文章を書きました。足りなかったことを補いつつ授業の記録も入れました。全員分用意して、昨日評議員会での授業参観(20分ぐらいで全クラスを覗く)の時渡してきたところです。

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6年1組のみなさんへ

 鍾秀学の授業では楽しい時間を過ごさせていただきありがとうございました。そしてこのたび、みなさんの気持ちのこもった感想をいただき、ほんとうにありがとうございます。
少ない時間の中であれもこれもと欲張ったのでどれだけ伝わったか心配だったけど、一人ひとりが一生懸命聞いてくれたことがわかって大変うれしい気持ちになりました。
 みんながどんなことを書いてくれたかを集計してみました。
   宮内音頭・宮内小唄 11  山正旅館 10  小学校の児童数 9  製糸業 9
   宮内の人口 7  菊まつり 7
 授業のとき、山口翔平くんのおかげで大受けした「山正旅館」、10人もの人が書いてくれていました。山正旅館が載った昔(大正8年)の地図の写真があったので探してみてください。そして今のどの辺か見当つけてみてください。
宮内町地図 大正8年.jpg宮内町地図一部 大正8年.jpg 
 宮内音頭も好評だったようです。インターネットで「宮内音頭」を検索すると授業の時見てもらった映像を見ることができます。「宮内小唄」も音声だけは聴くことができますので探して聴いてみてください。にぎやかだった頃の宮内がよみがえってきます。

 授業から帰って忘れないうちに、授業の記録を書いてみました。実際はずっとハチャメチャだったのですが、ほんとうはこういう風にすればよかったという反省をしながら書いたものです。授業の時の資料と照らしながら読んでみてください。

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  今の宮内はすっかり静かな町になっているけれども、私がみんなぐらいの時はずっとにぎやかな町でした。昭和30年に宮内町、吉野村、金山村、漆山村が合併 して新しい宮内町が誕生しました。そのことを記念して「宮内音頭」と「宮内小唄」が作られました。「宮内音頭」をyoutubeで聞いてみましょう。 (https://www.youtube.com/watch?v=01rKUVhNTo8
  宮内は明治時代から製糸業で発展した町でした。製糸とは、繭(まゆ)から糸を取ることです。蚕に桑の葉を食べさせて育てると、蛹(さなぎ)になるために1 本の細い糸を出しながら繭をつくります。その繭をお湯に入れてふやけさせて1本の長い糸を取り出すのです。そうしてできたのが生糸で、それが撚(よ)り合 わされて絹糸になって繊維製品に加工されます。(このあたり、じっと聞き入る様子。私語もなくしずかに集中の雰囲気でいい感触。どの子どもにも理解させる には写真を用意すればよかった。一個の繭からどのぐらいの長さの糸ができるか調べておくべきだった。いいサイトがあります →http://web.tuat.ac.jp/~kaiko/lecture/silk.pdf
  当時の日本で、製糸業は大事な輸出産業でした。今の日本でいちばん輸出が多いのは何ですか。(「機械」などの声。そのうち「車」)そう、自動車産業です。 2016年の自動車輸出は16%。ところが生糸はというと、大正の中ごろは28%、大正のおわりの最盛期には43%にまでなります。宮内は、まさに輸出の 花形産業を担っていたのです。宮内の当時(大正9年1920)のようすがわかる和歌が残っています。「小さなる町にはあれど中空(なかぞら)に黒煙りはく 煙突いくつ(上野甚作)」 なぜ煙突がいくつもあったのかわかりますか。(「繭をお湯に入れてふやけさせて」の話をしっかり覚えていてくれました。)漆山 の製糸工場の写真が残っています。
  当時のにぎわいを伝える文章があります。「朝夕製糸工女の往来繁(しげ)し、殊(こと)に夏の月影涼しく秋葉の峰にかかり、街、紫に暮るる頃家居に急ぐ三 千の工女亦(また)当町の一名物たり。」製糸の仕事に従事するのは若い女の人でした。給料もよかったので「娘三人いれば蔵が建つ」と言われていたほどでし た。宮内小学校のことも書いてあります。「宮内尋常高等小学校は、熊野山南麓(なんろく)にありて、数年前の改築に係り、土地高燥にして校庭の広大なる、 県下稀(まれ)に見るべし。」いい環境にあってグラウンドも広いと当時から言われていたのです。  
  146年間の宮内の人口と小学校の児童数の推移をグラフにしてみました。私の祖父が生まれたのが明治22年(1889)、ちょうどこの頃から人口も児童数 も増え始めます。この宮内で製糸業が軌道に乗り出した時期です。そして父が生まれた大正7年(1918)頃から人口の伸びがグンと大きくなります。昭和の 初めの世界恐慌(1929)まで、製糸業最隆盛期です。女性の人口が男性の人口を上回るのが大正8年(1919)です。昭和15年(1940)までつづき ます。昭和16年(1941)に戦争が始まります。昭和20年(1945)児童数2266名で最高です。なぜかわかりますか。アメリカによる空襲を逃れて 都会から子ども達が学校ごと宮内に移って来たのです。「疎開」といいます。(疎開の子ども達が宮内駅前で撮った写真です。↓)
   疎開E7968EE9968BE58590E7ABA5E588B0E79D80.jpg
  私が生まれたのが昭和22年(1947)、児童数も人口もこの頃がピークでした。私が小学校の頃は1500人でしたが今は343人、実はこの数はちょうど 私の祖父が生まれた頃の児童数と同じです。つまり製糸業が軌道に乗り出した時期です。まさにスタートの時期です。今みんなは、スタート台に立っているので す。 
  宮内のにぎわいを思い起こす上でもうひとつ忘れてならないのが「菊の宮内」です。花笠音頭(https://www.youtube.com /watch?v=6qy_HuWjxT8 2:16〜)の歌詞に「菊は宮内 あやめは長井 ばらの名所は東沢」とあるのを知っていますか。製糸業が盛んだった頃、宮内には製糸取引の人などいろんなお客さんが来ました。その人たちをもてなす料理屋 さんが宮内にはいくつもありました。今から100年ちょっと前にそれらの料理屋さんで競って菊人形を飾るようになったのが、宮内で菊まつりが盛んになる始 まりです。昭和4年(1929)山形新聞主催による県下の名所投票で山正旅館の菊人形が第一位を獲得します。
 私がみんなぐらいの、今から60年前は日本中のあちこちで菊まつりが行われるようになっていました(全国で130都市、150会場)。その頃のポスターを見てください。「東北一を誇る・・・」と書いてあります。数ある中でも宮内の菊まつりは図抜けていたのです。  
  その頃のにぎわいぶりがわかる写真があります。鳥居の場の東西広場が菊人形会場で、鳥居の北側に渡り廊下がつくられていました。そこから十文字方向(南の 方)を撮った写真です。11月3日には仮装行列も行われ、多くの人を集めて町中お祭り騒ぎでした。仮装行列は一時中断しましたが、「菊と市民のカーニバ ル」と名前を変えて今に伝わっています。
  NHKの大河ドラマ『独眼竜政宗』がテーマだった昭和62年(1987)が入場者数65,516人で記録に残る中で最高でした。その後、菊まつりもだんだ ん下火になって平成20年(2008)からは、宮内を離れて花公園での開催になりました。(昨年から少しずつ、また宮内に戻っています。)
 かつては製糸業で栄え、菊まつりでにぎわった宮内ですが、これからどうなってゆくのでしょうか。宮内が勢いをつけはじめた明治20年ごろの宮内小と今の児童数がほぼ同じ、宮内が新しい時代をつくってゆく、今がちょうどその出発点です。

 世界が大きく変わろうとしています。一週間後の6月12日になにがあるか知っていますか。そう、トランプさんと金正恩さんの米朝首脳会談です。いつミサイルが飛んでくるかとビクビクしていなければならない世界から、みんな仲良くなれる世界になります。
  去年の大晦日から今年の元旦にかけての「ゆく年くる年」見た人は?(夜中のせいか意外と少なかった。)お くまんさまから、新年を迎える様子が全国に向けて放送されました。何が放送されるかと思ったら、「大祓詞(おおばらえのことば)」という、いろんな穢(け が)れを祓(はら)ういちばん大事な祝詞(のりと)でした。日本は世界でも最初に新年を迎える国です。今年の世界は、世の中を清めるおくまんさまの祝詞で 始まったのです。そしたらその日、何が起きたか。そう、金正恩さんのオリンピック参加表明です。それから世界はどんどん明るい方向に向かい出して6月12 日のトランプ・金正恩会談になるのです。その引き金を引いたのがこの宮内のおくまんさまだったのです。
  「熊野神社の森を負い・・・」で始まる宮内小学校校歌。おくまんさまの下で学ぶみんな、いま新しい時代のスタート台に立って、これからの宮内を背負ってゆ くと思う人、手を挙げて。(→数人)じゃあ、今は決心できなくても、そう思いたい人?(→1/3ぐらい)もういちど!(→半分以上)。ほとんどごり押しで しつこかったかもしれないけど、こちらの思いは伝わったように思いました。

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 始まった時はちょっと心配だったけど、みんなの反応にだんだん乗ってきて楽しく終えることができました。ありがとう。
  私は今年71歳なので、ちょうど60年前に小学6年生でした。「勉強」ということをふりかえってみて自分の身についているものは何だろうかと思うと、自分 から進んでやろうとしたことです。なんでもいい、まず関心をもつことです。そこからどんどん世界を広げて行ってください。これからの世の中、若いみんなが 創る世界がどんな世界か、楽しみにしています。

     7月9日

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