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「吉里吉里忌」(1) 栗山民也氏の思いの極み [井上ひさし]

吉里吉里忌-3.jpg井上ひさしさんが亡くなって8年になるという。ずーっと御無沙汰だったが、遅筆堂文庫からの案内に惹かれてフレンドリープラザに足を運んだ。行ってよかった。栗山民也さんの話に、井上ひさしという人の戯曲への大事な視点、その仕事のすごさを教えられた。

(4月15日のことだから、もう10日になる。この記事は翌日に書き始めた。)

胸ポケットに入れたレコーダーを席に着いてすぐセットしておいた。案の定「撮影、録音禁止」のアナウンス。迷ったがそのままにしておいた。栗山さんが、こみ上げてきて言葉が途切れる場面があった。そこをよく聴いてみたくて再生した。よく録れていた。どうして「撮影、録音禁止」なのか。何度も何度も聴くことで理解できるということがある。年齢を重ねるごとに呑み込みが悪くなって切実に思う。栗山さんの話はそういう内容に満ちていた。発せられた情報は正しく理解されることを求めているはずだ。聴き返すことができなかったら、なんとはなしの「よかった」で終わってしまうところだった。なぜ「撮影、録音禁止」なのか。

山口宏子氏との対談の最後のところ、その場面を再現してみる。

*   *   *   *   *

吉里吉里忌-4.jpg(山口)井上さんの作品というのは、もちろん上演して観ておもしろいというのもあるんですけれども、新しい時代の演者を得ることによってまた、作品に新しい血が通ってちがう良さが見えてくる、だからその、どっか本棚の一番上にガラスケースに入れて奉っておくというんじゃあなくて、常にそこに新しい声を聞くというのが、井上作品の私たちにとって、すてきな継承の仕方だと思うんですね。そういう意味で、これまで井上作品とあまり縁のなかった方たちを、栗山さんを介してですね、キャスティングされて上演していくということをも井上作品を新しくしていくことに成果が上がっていると思うんですけれども、キャスティングがユニークですよね。たとえば「雨」ですと歌舞伎の方ですし、「シャンハイムーン」が狂言の方だったり、その一方「樋口一葉」を小泉今日子さんがなさったり、これまでとちがったキャスティングということも、魅力再発見ということなんだと思いますけれども。
(栗山)あのー、通常アンサンブルという言葉をよく聞きますよね。で、僕も若い頃は、アンサンブルというってのは。声の質もみんな似ててね、調和だなと思ったんです。だけどそれが違うのは、たとえば中国なんていうのは、アンサンブルって言いながら、全部が違う性格の、全部が違う声質を持った人間たちが、一つの空間でぶつかりあうのがアンサンブル、だと僕は思ったんですね。その意味で、井上さんの作品もまったくそうなんですよ。たとえば6人でも7人でも登場人物がいたら、ムダな人間が一人もいない、その他というキャスティングが一人もいない、みんなそれぞれの役割を持っている、世界を持っている、それぞれの声を持っている、それがぶつかりあうことで、新しい価値観が、その瞬間が生まれるのが演劇なんですね。「よく稽古をしましたよ」っていう姿を見せるなんて、そんな博物館的な演劇なんて全然つまらないわけで、じゃあそのためにはどういう人物がいいのか、っていうとね、だから僕なんかあえて、宝塚と新劇となんか歌舞伎をぶっつけるとかね、ま、それで、なんか「しまったな」みたいな瞬間もあるんだけども(笑)、あるんだけども、でもね、井上さんの作品っていうのはそういうことを許してくれる感じがするんですね。
(山口)そこがやっぱり、日本の現代に生きる様々な見識(?)であったり、様々な技術を持った人たちが集まって、それぞれの良さを出したり、それを抑制したりしながら作って行くに足るその土俵としても、戯曲の強さというのはありますよね。
(栗山)それぞれに言葉の演技ですよね。それは肉体を駆使しますよ、井上さんの芝居っていうのは。それでも少なくとも、人間の言葉っていうのが相手にどう関わって、その言葉を聞いた時には、人間の神経がどう変化して次の言葉になっていくのかというダイアローグが、実に魅力的なんですね、時間が、時間の往還が。それがいつのまにか、どんどんどんどんと前に転がしていくんですね。その力というのは、ちょっと普通の作家には見られない強さだなあっていう気がします。
(山口)もうお時間になってきたんで・・・今後の抱負も含めて最後にちょっと一言お願いできますか。
(栗山)「太鼓たたいて笛吹いて」という大竹しのぶがはじめて井上作品で主役をつとめた作品、そのときにね、あるところで死んでしまったと思っていた兵士が、井上さんの言葉で言えば、生きていた英霊、日本では60万人もいたという、それが帰って来たんですね。その時にその兵士の前に林芙美子が立って、なんて言うかなと思ったら、井上さんはね、「おかえりなさい」・・・ん、そのセリフだけですよ。そしてね・・・ト書きがあって・・・・ごめんなさいね、ちょっとね・・「世界を抱きしめるように」っていう言葉を・・・その時のね、稽古場ってね、ちょっと異常な状況になるのね。ん、すばらしいでしょ。言葉を生業としている小説家ですよ、何でも言える人が「おかえりなさい」といういちばん単純でいちばん(???)と思ったら「おかえりなさい」でしょ。なんか、そうだな、井上さん、井上さんの作品をやるというのはそうした一つひとつの言葉の継承なんだよね。ん、だから大きな物語とか大きな何かていうんじゃあなくて、それがすごく楽しいんですよ。稽古場でね俳優が一つひとつ言葉を発見してゆく作業、間違っている時は間違っているとそう言いながらね、言いながらそれがいつのまにか掛け算になっていくという、だから時代がどんどんどんどん便利な方向に行くんだけども、人間が会話によって組み立てなくちゃあいけない、恋をしなくちゃいけない、ケンカをしなくちゃあいけないっていうことを忘れてしまったら、人間が人間でなくなってしまうということにクサビを打つのが、やっぱり文化や芸術だと僕は思います。そのためにやっぱり、井上さんってものすごく、ん、貴重な人です。いま、公演っていうか、うれしいなって気になるのね、稽古に入れるのはね。
(山口)井上さんがお使いになる言葉って、前に直接うかがったのは、使い古されて手垢がついてつるつるになってその辺に転がっている言葉のほんとうの輝きというのを見つけ出して、それをおくのが戯曲の言葉だよって言われたことがあるんですね。小説は新しい意味を見出すのが小説家、戯曲というのはあたりまえの言葉のほんとうの意味というのを見つけだす、それを語っていくのが戯曲なんだということをうかがったんです。今の栗山さんの「おかえりなさい」というのは、ほんとうにそういうことなんだなと思うんですね。そういう言葉が、宝石が連なるように綴られている井上さんの作品というのを、これからもさまざまな、それにどう光をあてて輝きを引き出すかというのが演出家の仕事だし、それをどう再現していくかが俳優さんの仕事なので、そういうまだまだ新しい輝きというのが見つけ出せる井上戯曲というのが、これから栗山さん、ますます様々な作品に取り組んでいただいて、私たちを楽しませ考えさせていただきたいと思います。じゃあ、長くなりましたけれどもどうもありがとうございました。
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「おかえりなさい」のセリフのト書きが「世界を抱きしめるように」、そこを語るとき栗山氏は感極まって言葉が出なくなった。そして間があって語られた言葉が「その時のね、稽古場ってね、ちょっと異常な状況になるのね。ん、すばらしいでしょ。」対談の中のいちばんのヤマ場、聞きどころだった。私自身、揺さぶられたかしてテープに雑音が入り、聞き取れなくて(???)になった。栗山氏がなぜここでそれほど感極まったのか。知りたい気持ちがあって『演出家の仕事』(岩波新書 2007年)を求めた。「第1章 『聞く』力」の結びが対談内容に重なった。
相和す人ではなく、逆の人をぶつけたときに生まれる面白さに出会いたい。異質のものが相手の言葉を聞き、その上でぶつかることで新たな可能性は生まれるのです。/皆同じ発声でしゃべり、皆同じ演技スタイルで身体を開き、動くその調和を「アンサンブルがいい」と書かれた劇評によく出会います。それは違うのです。人間の性格も感じ方もそうですが、芝居は全員違った立場の人が舞台上でぶつかり合い、それぞれが自分の声で主張する。そのときの衝突が生む、不調和な調和の時間。私は、それこそアンサンブルだと考えます。アンサンブルという言葉は、「演劇とは何か」という言葉と重なります。/だからこそ、何度も繰り返し、そのときに発せられた他者の言葉を開くこと、そのときの自分の周りを見ることが、稽古場では求められるのです。そして、そのときに起こる感情に素直に反応し応えることが、次のせりふを生み出していくのです。/毎回、初めて聞く言葉として、聞く。初めて見るものとして、見る。物語の結末に向かって計算で組み立てていくことなどせずに、その瞬間に起こる変化だけに忠実になればいいのです。そこでぶつかり、生まれる対話は、だから生々しく現在形のまま、鋭く響き合うのです。/今、必要だと思うことを、曖昧なカタチのまま置き去りにすることなく、見捨てず、その瞬間自分の手のなかに掴もうと必死になればいいのです。/その瞬間こそ、アンサンブルのなかにいる一人ひとりの、それぞれのリアリズムがぶつかり合い、ドラマはいろいろなカタチを現して見えてくるのです。》(18-19p)
「その瞬間」という言葉が3回出てくる。「世界を抱きしめるように」語られる「おかえりなさい」の場面がまさに「その瞬間」だった、と私には思えた。「その瞬間」こそが、演出家冥利の至上の瞬間であり、「おかえりなさい」について語りつつ、栗山氏の中にその時の「その瞬間」がよみがえったのではなかったか。
実は、平成3年に「しみじみ日本・乃木大将」の舞台を観て以来、もう井上ひさしの芝居は観なくていいと思いこんできたのだが、あるいは栗山氏との二人三脚の結果か、井上芝居は新たな地平が切り拓かれていたのかもしれない。不明を恥ず。栗山氏の思いの極みにふれて、切に栗山氏演出の舞台を観たいと思った。(つづく)
【追記 30.5.9】
今朝の山形新聞「気炎」欄に天見玲さんが「おかえりなさい」と題して書いておられました。
天見玲300509.jpg
 

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