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mespesadoさんによる1億人のための経済講座〈Ⅱ〉(番外編6) ウヨク脳、サヨク脳の由来 [mespesadoさんによる1億人のための経済講]

当初、番外編(5)の「サヨク脳からの脱皮せよ!」のコメント欄にメモったmespesadoさんの議論ですが、3本目の結論が見事です。そこに至るの展開がすごいので1本の記事にしておきます。(その流れの中で私の文章も入れていただいています。光栄です!)

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mespesadoさんがウヨ・サヨ論を「スリーパーセル(潜伏細胞)」発言問題に適用して、≪やれサヨクはお花畑だぁ、やれウヨクは差別主義者だぁ、などと罵倒し合っても何も有意義なモノは生み出さない≫。「客観視する余裕」を説かれています。

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447mespesado : 2018/02/15 (Thu) 21:54:22 host:*.itscom.jp

 先日来、ウヨ・サヨ論を書いていたところですが、世間ではお誂え向きの話題が盛り上がっているようですね。例の三浦瑠麗氏の「スリーパーセル」発言です。去る2月11日放送のワイドショーで次のような発言があった件についてです:

(三浦)…実際に戦争が始まったら、テロリストが仮に金正恩さんが殺されても、スリーパーセルといわれて、もう指導者が死んだ、っていうのが分かったら、一切外部との連絡を絶って、都市で動き始める、スリーパーセルというのが活動される、活動すると言われている。
(同席者)普段眠っている、その暗殺部隊みたいのが・・・
(三浦)テロリスト分子がいるわけです。それがソウルでも、東京でも、勿論大阪でも。いま結構大阪がヤバいって言われていて。
(同席者)潜んでいるって事ですか?
(三浦)潜んでます。というのは、あの、いざというときにその最後のバックアップですよ。そうしたら首都を攻撃するよりかは、正直他の大都市が狙われる可能性もあるので。東京じゃないからという風に安心はできない。というのがあるので、正直我々としては核だろうがなんだろうが戦争して欲しくないですよアメリカと。

 この発言に噛み付いたのがサヨクでした。例えば前に名前を出したことのあるkojitaken氏のブログでは、http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20180214

> その三浦が最近フジテレビのワイドショーで発した暴言が叩かれている。 当然だ。

という風に、理由を述べることもなく、そんなこと言うまでもなく明らかでしょ、と言わんばかりに「当然だ」の一言で済ませています。そして在日コリアンのsionさんのページにリンクしています「誰がスパイなんだ」とバカが言うhttp://shionandshieun.hatenablog.com/entry/2018/02/12/160623

  ある日のこと、テレビを観ていたら、ある特定の地域を指して、在日をスパイ呼ばわりする女性学者が居るじゃないか。もちろん、直接、そうだ と断言する発言ではなかったが、あからさまにそれを示唆しているように 思えた。 どういう了見で語っているのだろう。 テレビを観ながら、ああ、この国でも馬鹿がのさばる国になったのかと思 ってしまった。 三浦瑠麗さんはワイドナショーで発言する際、関東大震災で朝鮮人がデマ で虐殺され、アメリカで大戦中に日系人がスパイとされて収容所に入れら れ、今、イスラム系の人々がテロリスト扱いされていること、それに自分 の発言で韓国朝鮮系の子どもたちがどんな辛い思いをするか少しでも考え たのだろうか?

と散々です。ところが、このような批判そのものに対してウヨク側は猛反発。

> 過去、朴正煕暗殺犯に在日が使われたことがあり(文世光事件)、日本国 内に北のスリーパーセルは多数存在すると思うが、その可能性に言及した だけで猛バッシングされる。叩いている連中の中にも、工作員がいるかも しれませんね。北朝鮮批判を一切封じるために。 また行き過ぎたポリコレ。誰も在日コリアンの事なんて言ってないのに、 発言に対し鬼の首を取ったように『差別だ!』と曰うエセ人権派。逆にあ なた方の方がバランス取れてない。北朝鮮のスパイがいる事に警戒するの が何が悪い?この国の拉致被害者は何人いると思ってるんだ! 在日=北朝鮮の工作員なんて、一言も、三浦さんは言ってないでしょうが。 それを連想ゲームで勝手につなげてるほうがよっぽど偏見であり、ヘイト だよ

 あるいは三浦氏本人も、釈明として

> 日本は、韓国に次いで北朝鮮にとっての重要な工作先ですから、日本にも 存在すると想定することは当然でしょう 正直、このレベルの発言が難しいとなれば、この国でまともな安保論議を することは不可能です

と述べ、ウヨとサヨ、お互いに話が噛み合いません。

 つまり、国防上のリスクがあることを警告することを優先するか、特定の人々に対する差別を防ぐことを優先するか、の違いが出ているわけで、「秩序の維持」を「個人の尊厳」より優先する人は国防上のリスク回避の方が大事だし、「個人の尊厳」を「秩序の維持」より優先する人は差別が起きることの方を問題視する、という絵に描いたように典型的な争いになっています。そして問題は、ウヨク・サヨクともに、「自分は『個人の尊厳』と『秩序の維持』のどちらかを確かに優先している。そしてどちらを優先すべきかは自分の背負って立つ価値観に依存する」ということを全く自覚していないことです。

 ウヨクでもサヨクでも、もしこのような「客観視する余裕」を持つことができたなら、このような炎上事件を発生させることなく、自分が重要と思う意見を伝えられただろうと思うと残念です。

 なお、このことは当の三浦氏についても全く当てはまり、有本香さんが、

> 軽率だとは思いますが、潜伏者によって何かが起こされるリスクへの言及 はあっていいと思います。問題は言い方かと。「大阪がヤバい」は軽薄だ し、偏見に繋がらないような配慮の一言がなかったことは地上波ではまさ に軽率。でも生放送でないようですしこれで三浦さん全否定のように言わ れるのも気の毒。

とコメントしておられるのが冷静な見方というものでしょう。なお、このような客観視の勧めをもうちょっとリクツっぽく解説したのがのサイトです:

リベラルは失敗から学んだのか -拉致問題と三浦瑠麗の「スリーパーセル」発言から考える議論の方法http://blogos.com/article/277642/?p=2

> 私の結論として、三浦のバラエティ番組の発言が不用意だったことは間違 いない。では、三浦の指摘した事態が「フェイク」なのかといえばそれも またどうなのだろう。正直、三浦の主張については、自分はそれが存在す るべきものだと考える。これは今まで見てきたとおりである。おそらく、 三浦の話はフェイクではない。 しかし、だからといって、三浦の発言が許容できるものかというと話は別 である。 なぜなら、この手の話は確かに差別問題を招き寄せる可能性が高いからだ。 それを回避して議論を進めるには難しい判断となる時がある。 こう考えてみよう。

> 1.ある特定の属性や集団Aの中に、(a)という小集団がある。
 >2.(a)について語る時、A=(a)では必ずもない
> 3.(a)はAの部分に過ぎない。
> 4.だからといって(a)が存在しないわけではない。
> 問題はA=(a)とする短絡的な拡張解釈自体である。この短絡的な拡張解釈を「差別」という。今、ネットに溢れかえっているヘイトスピーチやヘイトクライムはまさにこれだ。今回の一件の結論として、三浦の間違いは拡張解釈の危険性を予知していなかったことといえる。
> バラエティ番組という面白ければよかれというフレームで、なんの留保もなく、また情報ソースも十分に言及できないものを、拡張解釈の危険性を全く考慮してなかったのだから、これは危険だと言われても仕方なかろう。よって三浦を私は弁護できない。
> しかし、だからといって(a)は幻というのもまた違うだろう。つまり、三浦が成そうとした議論が無意味とも思えない。
> ここではっきりさせなければならないのは、このようなセンシティブで憎悪扇動に陥る可能性が高い事象に対する議論の仕方である。

と述べて、適切な議論の仕方に対する提案に進んでいます。やれサヨクはお花畑だぁ、やれウヨクは差別主義者だぁ、などと罵倒し合っても何も有意義なモノは生み出さないのですから、こういう冷静な議論こそが大切です。

*   *   *   *   *

mespesadoのウヨ・サヨ議論が、本能レベルまでさかのぼって、さらに進化(深化)して納得させられます。

*   *   *   *   *

449mespesado : 2018/02/15 (Thu) 22:48:23 host:*.itscom.jp

>>448

 ウヨ・サヨ議論はもともと私が亀さんの『人生は冥土までの暇潰し』http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-1560.html211日の『朝日vs.産経』に付けたコメントで、

>  人間には「マッチョ本能」というか「闘争本能」というものがあり、 通常の資源が普通にある状態のときは、この本能はスイッチがオフにな っているが、飢餓が発生したり隣国が責めてくるなどで「有事」が発生 したときは、集団の防衛のためにこの闘争本能のスイッチが入ります。

> ウヨクの人は、有事でもないのにやたら闘争本能にスイッチが入り、他 のスイッチがオフの人にもスイッチをオンにさせようと働きかける。だからウザい。

>  他方サヨクの人は、自分はインテリだと思っているからインテリのたしなみとして「正義真理教」の信者かと見まがうほどに「正義」にこだわる。ところが自分で一から考える能力は無いので、西洋で発達した「西洋基準の」ポリコレの受け売りに終始してしまう。ポリコレが西洋人の過去を正当化するためのご都合主義のツールに過ぎないことも知らないで

>  要するに、ウヨクは本当は自分が弱い存在であることを受け入れられないから強者にいびつな形で憧れる、サヨクは自分が本当は頭が悪いことを受け入れられないから頭の良い人のフリをしようと必死になる。それだけのことだと思います。

と書いたのを、最後の段落について亀さんが『放知技』で紹介していただいたのがきっかけですが、この最後の段落に書いたこと、実はもっと根源にまで遡れるんじゃないかな、と思い直しているところです。つまり

 人間の体には2つの高密度情報を抱えている器官があります。その一つは「脳」、他の一つは各細胞が共通に持っている「DNA」です。

 人間は、この「脳」と「DNA」という2つの情報にいわば「支配」されています。そして「脳」が担っているのが「頭のよさ」であり、「DNA]が担っているのが「強さ」です。ただしここでいう「強さ」とは「生きる力」と言った方が適切かもしれません。

 そこで、人間は、「自分」を「保つ」ために、「頭の良さ」か「強さ」のどちらかに「すがって」生きようとします。

 さて、人間の中には「頭の良さ」について自他共に「苦手」である、という人たちがいます。同様に、「強さ(生きる力)」について自他共に「苦手」である、という人たちもいます。

 で、(一見すると亀さんとこに書いたのと逆に見えますが)前者のような人が「ウヨク」であり、後者のような人が「サヨク」になります。実際、ウヨクのことを「バカウヨ」などと蔑視することがありますし、サヨクのことを「ブサヨ」と蔑視することがあります(「ブ」は「ブサイク」などの「ブ」で、肉体的に劣等であることを意味するので「強さ」が劣る意味ですよね)が、決して「ブウヨ」とか「バカサヨ」とは言いませんよね。

 さて、このとき、ウヨクは自分でも「頭が悪い」と自覚しているので、これに加えて「強さ」まで劣るというこになったら両方ともダメということで取り柄がなくなってしまいます。それは人間としての尊厳上許されない、というか、耐えられないので、「強さ」だけは持っているぞぉと思いたくて、強さと言うものに執着します。なので、自分にちょっとでも弱いところがあるかもしれないということを恐れ、自分の「弱さ」を決して受け入れることができないわけです。

 サヨクはこの反対で、自分でも「弱い」ことは自覚しているので、これに加えて「頭」まで悪かったら取り柄が無くなってしまい、そのことに耐えられないから「頭の良さ」だけは持ってるぞぉと思いたくて、頭の良さに執着し、自分の「頭が悪い」ことを決して受け入れることができないわけです。

 例のウヨク脳とサヨク脳で「秩序の維持」と「個人の尊厳」のどちらを優先するか、というのはかなり抽象化された思考の末の分類であって、その土台となる「本能」のレベルでは、それぞれ「DNA」と「脳」の「出来の良さ」への執着があるんじゃないかと思います。

 *   *   *   *   *

ウヨ・サヨ議論はさらにさらに深化(進化)して、なぜウヨク脳がDNA優先で、サヨク脳が脳優先になるのかが見事に解き明かされます。

この議論の中で、また私の文章から引用していただきました。その文章と関連する記事を2本見つけ出しましたので、参考まで記しておきます。

「損得の視点」を超えるものhttp://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2006-06-03

原理的思考と関係的思考http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2006-03-19

先の記事では、今「放知技」板で俎上に上げられている副島氏とのやりとりがあります。後の記事では西尾幹二先生とのやりとりがあります。お二人とも私の意図がうまく伝わらないことをもどかしく思ったものでした。それだけにmespesadoさんからわかっていただいていることがほんとうにうれしいです。

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457mespesado : 2018/02/17 (Sat) 00:07:53 host:*.itscom.jp

>>449 

 私はこの >>449 の最後に 

>  例のウヨク脳とサヨク脳で「秩序の維持」と「個人の尊厳」のどちらを優先するか、というのはかなり抽象化された思考の末の分類であって、その土台となる「本能」のレベルでは、それぞれ「DNA」と「脳」の「出来の良さ」への執着があるんじゃないかと思います。 

と書きましたが、この「本能レベル」と「抽象化された末の分類」を結ぶ糸がようやく見えてきました。

 「秩序の維持」だの「個人の尊厳」だのって、いかにも西洋人の考えそうなクセのある概念ですよね。そこで、これらのクセのある概念の鎧を剥ぎ取ってその真の中身を暴いていくことにしましょう。

 まずは「秩序の維持」について。これに対応するウヨクな人が、このような「秩序の維持」という思想を意識して論を立てているとはあまり思えません。むしろウヨクな人の論を読んだリクツっぽい西洋人が、彼らの論の中に「秩序の維持」という思想を読み取った、と言うべきでしょう。

 ではこの中の「秩序」とは何か?

 ぶっちゃけて言えば、「自分達が慣れ親しんだ習慣」ということではないでしょうか。そして「秩序の維持」とは、そのような「慣れ親しんだ習慣」をかき乱すものに対する抵抗であり、これは本能に由来するものでしょう。人間に限らず生き物は、与えられた環境に適応すべく進化します。そして人間の場合、ひとたび与えられた環境に適応すると、その環境を「快」と感じ、その環境をかき乱す要因を「不快」と感じて排除しようとします。このような感情は本能に由来し、その本能を提供しているのはDNAです。つまり、DNAの機能が強ければ強いほど「秩序の維持」を強く求めることになります。

 次は「個人の尊厳」です。ブログ『移ろうままに』の管理者めいさんの論文( http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2017-12-26 )の中に、 

> 本来「人権」や「自由」という考え方は、弾圧や抑圧に対抗するものとして生まれてきたはずのものなのに

 とあることの類推で考えると、「個人の尊厳」という概念も、もとはと言えば、個人に対する弾圧や抑圧があったことに対する反発として出てきた概念のはずです。ではなぜ「個人」に対して弾圧や抑圧が起きるか?

 これは、その個人が大多数の人が慣れ親しんだ習慣に「逆らったこと」をしているがために、他の大多数の人たちが「不快」に感じ、その個人の異質な行動や、場合によってはその個人自体を排除したくなるからです。

 では、その個人はそもそもなぜ大多数の人が慣れた習慣に「逆らう」のか?それは、その個人がよそから来た「よそ者」であったり、個性が強すぎて他の人と意見が合わない、などの理由もあるでしょう。でも、そのような理由だけなら、彼らは「少数派」であり、力が無いので実際に「弾圧」されたり「抑圧」されたりして「解決」してしまうはずです。ところが、このような「逆らう人」が抑圧しきれないほどに力を持ち、しかもそれが他の大多数の人たちにも「共感者」を生むようになると、初めてこのような意見は「市民権」を得て、「個人の尊厳」という名の思想へと発展します。では、そのような「共感者」を産み、「思想」にまで昇華させるのは何の力でしょうか?それは「言語」の力であり、その言語による「知恵」という力であり、それを生み出すのは「脳」の機能に他ならなりません。これでやっと

 「秩序の維持」←→「DNA」 「個人の尊厳」←→「脳」

という対応が付きました。つまり、「秩序の維持」を重視するのは「DNA」の出来の良さに執着する人たち、すなわちウヨクであり、「個人の尊厳」を重視するのは「脳」の出来の良さに執着する人たち、すなわちサヨク、ということになる、というワケです。


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