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mespesadoさんによる1億人のための経済講座(2) [mespesadoさんによる1億人のための経済講]

mespesadoさんの発言の度にmespesadoさんによる1億人のための経済講座のコメント欄にメモってきたのですが、夕べ一挙に4連続発言がありました。日本はこれからどうするか、どうすればいいのか、その展望が拓けてくる発言です。新たな展開ですので、あらためて「mespesadoさんによる1億人のための経済講座(2)」とします。

「感覚的に理解できる日本の経済」、いいかえれば「心で納得できる日本の経済のしくみ」です。ぜひ書籍化なることを切望します。国民の共通理解となるはずです。「国民の共通意思形成」に向けての大きなステップアップです。(↓太字は転載者)

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678:mespesado : 2017/12/07 (Thu) 21:47:13 host:*.itscom.jp
>>646
 さて、この Chapter3 の要約を一言で言うと、私がこの連載の一番最初にこの本の批判論者(=アベノミクス賛同者)のアマゾン・レビューとして引用した >>332 の中の

> 結局、この著者が言いたいことは、成長より分配ということです。

ということに尽きると思います。では、このレビュアーはなぜ、「成長より分配」ではダメだ、と主張するのでしょうか?このレビュアーは、上記の一言に続けて

> 「弱者を見捨てるな、生活保護をもっと充実させろ」と書いています。そ
> のためには法人税も増税しろという意見です。

と説明を補い、それではダメだ、という理由として以下のように続けます:

>  世界では「市場」か「分配」かの議論はとうの昔に終わっています。
> 「分配」で成功するのなら、ソビエトや北朝鮮は繁栄しているでしょう
> し、JALが倒産したりはしなかったでしょう。このグローバル競争の時代
> によくもまぁこういう古い考えの人がまだいるのですね。私は、格差は
> ある程度は仕方がないと思います。必要なのは結果の平等ではなく、機
> 会の平等です。

 こういう考え方をする人は結構いて、社会主義的な考え方が嫌いな人に多いと思いますが、実は現代の、特に日本においては、かえって時代遅れな考え方だと思います。
 なぜかというと、「市場」か「分配」かで「分配」の方を選ぶという社会主義を選んだソビエトや北朝鮮が繁栄できなかったのは、「国内生産力が充分でなかった」からに他なりません。マルクスは資本主義における格差の残酷さを批判して「(結果の)平等」を社会制度とする共産主義を提唱したのですが、実際にこの政治形態を実現した国はすべて国内生産力が不十分、つまり国内生産だけでは国民の需要を満たすことができませんでした。そんな状態の国が無理やり結果の平等を実現させるとどうなるか。国全体として供給が足りてないのですから、それを全員に割り振れば、当然の結果として「全員」が「貧乏」になります。これでは国民には夢も希望もあったものじゃありません。これに対して資本主義形態であれば、国全体として供給が需要に追いついていなくても、国民の一部である「金持ち」に富が偏在することにより彼らだけは需要を満たす供給を受けることができ、満足できます。かわりにそれ以外の人が煽りを食って、共産主義のような平等に貧乏になるよりも更に貧乏になるわけですが、もともと金持ちは国民のごく一部ですからその違いは対したことはありません。ちょっと具体的なモデルで考えてみましょう。ある国で国民が百人いたとして、供給力が210、需要が300であったとします。この場合共産主義であれば、すべての国民に2.1ずつ分配するので、供給が満ち足りる3の分配に比べて全員が0.9ずつ不足するので、確かに全員平等ですが、全員が貧乏です。ところが国民100人のうち10人が金持ちで、この10人だけで供給210のうち30を受けていたとすると、彼ら10人は一人当たり3を得て満足し、残る90人で残りの180を分けると、一人当たり2.0ずつ分配されますから、貧乏は貧乏ですが、その貧乏な程度は共産主義の場合の2.1とあまり変わりません。まあ、もっとも「金持ち」というのは「ちょうど満足する」だけ稼ぐのでは飽き足らず、一人1あれば充分なものを、一人で10とか100とかせしめようとするので、もっと格差は付くでしょうが。
 ただし重要なことは、資本主義で、かつ(王政でない)「機会の平等」が保証された社会では、現実に金持ちが世の中に存在してその満足を見せ付けられていますから、庶民は今は貧乏でも、「自分も努力すれば金持ちの仲間入りをして満足な生活ができるかも」と希望を持つことができます。この「希望」があるがゆえに、貧しい人も収入を増やそうとして生産活動に努力をする結果、国全体の生産力が上がり、供給が増えて、結果として庶民も一人あたりもらえる配分が増えて、前より豊かになる、というのが資本主義のメリットなわけです。上で引用したレビュアーが言いたいことはこういうことだと思います。しかし、この考え方は、少なくとも日本においては最早時代遅れになってしまいました。長くなったので、一旦ここで切ります。        (続く)

679:mespesado : 2017/12/07 (Thu) 22:17:30 host:*.itscom.jp
>>678
 現代の日本というのは、世界でも稀な供給過多の国です。それもハンパじゃないほど供給過多です。>>678 で掲げたモデルで言えば、100人の国民の需要が全体で300なのに、供給力は1000ある、というようなものです。
 この場合、仮に共産主義のような全員に平等に配分すると、一人あたり3あればよいものを10ももらえますから充分ハッピーです。まあ、そんなに配っても消費しきれないので残りの700は輸出しますが。
 これに対し、資本主義で、特に格差を野放しにする新自由主義だと、100人のうち10人で例えば820を独占して、残る90人が残りの180を分け合うので、金持ち10人は一人3あればよいものを82ずつせしめ、残る90人が一人3必要なのに、2ずつしか手に入らず貧乏になってしまうわけです。
 この様子を見て、昔の供給が不足していた時代に慣れた人は「貧しい人が大勢いる?そんなの当たり前じゃん。それがいやな人はもっと努力しろよ」などと言うのですが、変ですよね。だって全体で既に1000も生産力があるんですから、全員に「最低3個」は行き渡るんですよ??それでは努力した人が浮かばれないってんなら、残りの700を努力した人に傾斜配分すりゃあ良いだけじゃないですか。全員に最低限の3ずつは行き渡るだけ生産ができているのに、何でわざわざ「最低限必要な3ももらえない貧乏な人を人為的に作る」必要があるんでしょうか?
 「でも、必ず3は配分されるなんて制度を作ると怠ける人が出てきて供給力が下がり、今1000生産されているのが300を割ってしまって全員に3すら行き渡らなくなってしまうのではないか」と危惧する人もいるでしょう。
 確かに産業革命以前の生活必需品の生産も労働集約型で、人が人力で汗水たらして働かないと生産できなかった時代ならそのとおりでしょう。ですが、現代はかつて人間が肉体労働でやっていた仕事をほとんど機械が行っています。
 まあ、農業は工業に比べてまだまだ労働集約的ですし、新たにニーズの増えてきた介護の仕事とか、人の命を左右する医師(特に技術力の要る外科医)、それから不測の事態に命をささげることになる警察、消防、自衛隊などといった仕事はありますが、これらも技術の進歩で、かつてよりはるかに安全で労働力の負担は軽減されてきているのです。いつまでも、まるで働かないことに対するペナルティーのように「意地悪して満足できないように貧乏にする」必要なんかないのではないでしょうか。職業に対するインセンティブを失わないように「ある程度の格差がある」ようにするということと、「国民全員に最低限の需要は満たすように配分する」こととは両立するのです。                (続く)
681:mespesado : 2017/12/07 (Thu) 23:51:31 host:*.itscom.jp
>>678
 それから件のレビュアーが言う「グローバル競争の時代」というキャッチフレーズですが、これの実態と言うのは、少なくとも日本にとっては「海外から国産より性能の良いものが入ってくる」のではなく、「国内で生産するより安い製品が入ってくる」ことに負けないためのの競争力という意味であることは重要なポイントです。 
 これ、もし海外からの輸入品の品質が(日本の消費者にとって)満足のいくものであるならば、例によって「オカネを消去して」経済活動を眺めると、これはいわゆる「国際分業」という非常に有意義なことが生じているだけのことである、ということがわかります。
 すなわち、「枯れた技術」になった製品については、何も限られた日本の労働者が生産しなくても、海外の労働者に生産を任せて、日本の労働者はより高度な技術を要する製品作りに専念すれば、海外の労働者(=日本に輸出して儲かるので消費者として豊かになれる)も日本の労働者(=高度な技術を要する生産に従事でき、輸出における国際的なイニシャティブを取ることができる)・消費者(安く手に入るので余ったオカネで他の商品を買う余力が出る)も全員がハッピーになる、という効果が得られます。
 ところが、もし私たちの国が、「海外から国産より性能の良いものが入ってくる」という国だったとしたらどうでしょう。消費者はわがままですから、輸入品の方が質が良けりゃ輸入品の方を買います。だから国産品は売れなくなり、そうなると国内の企業は潰れるか人員整理が必要になり、国内の労働者は失業します。その結果国内の消費者は貧しくなり、国内の生産活動は壊滅してしまいます(米国はまさにそんな状況にあるわけですね)。
 さて、話を戻し、「グローバル『競争』の時代」と言うけれど、日本におけるその『競争』とは「品質競争」ではなく、実は「価格競争」です。前者の品質競争という点で言えば、実際の生産を機械が行っていることや、日本人がもともと手先が器用で「機械を作る機械の精度」とか「モノヅクリの伝統という蓄積」のことを考えると、これらは進歩する一方で退化することはないのですから、競争も何も、基礎体力があるので、日本がこの点で心配することは将来にわたって何もないはずです(よく言われるソフトウェア技術でも、ゲーム天国の日本はやはり底力は強いと思います)。
 ですから問題は「価格競争」です。しかし、こちらは「オカネを消去して」眺めると、無意味な競争と化します。つまり日本の消費者や部品を調達するメーカーが「価格競争」の騒ぎに飲み込まれてコストダウンのために「安かろう悪かろう」に走るから弊害が生じるのです。つまり「高度成長期のように売れなくて儲からないから安売り合戦になり、コストダウンのために品質に目をつぶって安い海外製品を使う」という悪循環に陥るから問題になるのです。これはやはりオカネの仕組みが高度成長期にアジャストされているのがそもそもの原因であり、別に国内の高品質な部品が供給不足になっているわけでもないのですから、品質に悪影響のあるコストダウンなどしなくても済むように「オカネのルール」が変更できれば、物理的には何も不足がないので問題は生じません。
 さて、以上で説明したように、「グローバル競争の時代」などと言いますが、現実には労働者の尻を叩くような「競争」が必要な場面なんてないのです。
 あるのは先端技術の「発明」の分野だけです。そしてそれは労働者に苦行を強いるような競争ではなく、「頭の良い人たちに伸び伸びと才能を発揮してもらう環境を整える」ことだけ推進してくれればそれでよいわけで、あとは人類が生来に持っている好奇心が自発的に開花するのに任せればよいだけであり、「怠けたら消費する権利を奪うぞ~」という脅しはこの場合全く必要がありません。むしろ研究職従事者の将来の生活の安泰を奪うので逆効果です(国立大学の独立行政法人化などがいい例)。
 要するに、国民全員に最低限の生活を保障したからといって、この手の真に必要な「国債競争力」がなくなるということは無い、ということが言いたいのです。               (続く)
683:mespesado : 2017/12/08 (Fri) 00:53:21 host:*.itscom.jp
>>681
 それでは件のレビュアーの主張には全面的に反対(すなわち著者浜矩子氏の意見に賛成)か、というとそうではありません。
 この引用したレビュアーの意見の中で

> 「弱者を見捨てるな、生活保護をもっと充実させろ」と書いています。
> そのためには法人税も増税しろという意見です。

という部分がありますが、この浜矩子氏の意見はいかがなものかと思います。
 というのは、今の日本の生活保護の水準と言うのは決して低い水準ではありません。これに対し、生活保護を受けている国民の割合が世界の水準より遥かに低いというところに実は真の問題が存在していると思うのです。
 日本でしばしば問題になるのが「劣悪な労働条件で働く労働者の給与水準が生活保護の給付水準より低いことがある」という問題です。今の生活保護の給付規定では、そういう人は生活保護を受けられることになっているという話を聞いたことがありますが、もし実際に生活保護水準以下の収入しかない労働者が一斉に生活保護を受けたら、たちまち国家予算は予算オーバーになってしまうのではないでしょうか。ですから、これは「生活保護の充実」が問題なのではなくて、仕事を持っている人でさえ文化的な生活水準が確保できていないことが問題であり、やはりベーシックインカムなりそれに類する制度を早急に検討する必要があると思うわけです。
 次に2つ目の「法人税を増税する」話ですが、これは先ほどの意見とは逆の立場の意見ですが、やはり時代の変化を考慮に入れていない考え方であると言わざるを得ません。なぜ法人税は軽減されるトレンドにあるのかというと、もちろん法人税が国際的に見て高いと企業が海外に拠点を移してしまうという問題や、例のタックスヘイブンを使った法人税逃れをするという問題もありますが、法人税の引き下げが必要となる一番の原因は、企業が内部留保を溜め込む理由と同じで、「将来の企業の収益が不確定で倒産のリスクが不安だから」というのが一番大きな理由ではないかと思います。
 この問題については、私が何度も主張しているように、法人税という制度は廃止してしまって、そのかわりに企業の貸借対照表に影響を与えないような、国家による「一時預かり金制度」などの制度に移行してしまうことが根本的な解決法になると考えます。
 まあ、著者浜矩子氏の主張の悪いところを一言で言えば「大企業や金持ちを悪者と看做すサヨク史観から一歩も抜け出ていない」ことにあるのですが。                    (続く)

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めい

以前ももらされたことがありましたが、mespesadoさんとは《生命保険会社に勤めていて、しかも保険金の支払い状況に対する統計を分析する部署にいる》方です。それ以上は何も存じ上げない方です。

   *   *   *   *   *

685:mespesado : 2017/12/08 (Fri) 11:00:04 host:*.itscom.jp
>>682
 たかひろさん、健康被害の情報提供ありがとうございます。
 私の周りにも、自分と同い年で若くして亡くなる方が目立つのが気になっています。もちろん放射能が原因かどうかはわからないのですが、逆に可能性を否定できるものでもありません。
 さて、私はウヨク・保守系のツイッターとサヨク・リベラル系のツイッターをどちらも定期的に見に行っているのですが、その傾向は以下のように見事にきれいに分かれます:

① ウヨク・保守系の人は安倍政権の政治に肯定的だが、放射能の内部被爆の危険性に対しては見事に否定的である。
② サヨク・リベラル系の人は、安倍政権の政治には否定的だが、放射能の内部被爆の危険性を強く訴える。

 まあ、政治の話についてはよくここでも話題になっているからコメントしませんが、問題なのは放射能の内部被爆の件です。私は当初、これはウヨクの人はマッチョ主義で、日本の国防には究極核保有が必要だと考えるから、核兵器が「非人道兵器ではない」ことにしなければならないから内部被爆の危険が無いものにしなければならないことによるのかなあと思っていたのですが、どうも違うようです。というのは、例の青山氏のように、核武装論者で無い人でも内部被爆の危険を軽視する人がいるからです。
 彼らは多分ファクト主義で、今までサヨクが西洋のポリコレに洗脳されて、戦前の日本悪者説を鵜呑みにして社会に広めてきた(特に朝日新聞を中心とする左翼系マスコミ)ことを、資料に基づいて実証的に覆してきた、という自信があり、その延長線上で福島原発事故やチェルノブイリの事故の放射能の害を資料から実証的に調べると、大した被害が報告されていないことを根拠にしているのだろう、と最近は思うようになりました。
 しかし、これは、こと放射能被害に対しては「真実が隠される」という原発マフィアの存在に対してあまりにも純心過ぎるとしか思えません。バンダジェフスキー論文の肝心なところが削除されているとか、いろいろ不審な点はあるんですけど、そういうのは「陰謀論だ」と言って無視するんですよね。私だって、たまたま自分が理系出身で、セシウムと心筋梗塞の関連に関する生理的な機序について知っていることとか、何よりも自分が生命保険会社に勤めていて、しかも保険金の支払い状況に対する統計を分析する部署にいるおかげで「確かに健康被害はある」ことを一次情報として掴んでるから騙されないで済んでいるわけですが、そうでなければ本当のことなんてわからなかったと思います。
 皆さん、もう事故から7年が経とうとしてるからといってくれぐれも気を抜かないように。セシウムもストロンチウムも「半減期」が「30年」だ、ということを忘れないようにしましょうね。

by めい (2017-12-09 05:48) 

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