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「日本独立」の感覚 [日本の独立]

5月の地区長会の研修会の席で議員定数が問題になった。議員定数を減らすように地区長会で要求しようというのだ。私は持論の「議員は増やして報酬削減」論を述べた。8月になって総務課から資料の提示を受け、地区長連絡協議会の正副会長三者で今後の対応について協議した。三者三様、結構おもしろい議論になって、地区長連協全員が集まる場であらためて議論しようということで落ち着いた。

 

南陽市議員定数.jpg県内議員定数.jpg平成23年の地方自治法改正によって、地方公共団体の議会の定数について、人口段階別の上限数に係る制限が廃止され、市町村が自由に条例で定めてよいようになっている。そんな中で議員定数削減がさも良識的であるかのような空気が大勢を占める。そうした意見に私は一貫して逆らってきた。昨年3月市議選を前にして、議員定数削減より議員報酬削減」の記事に書いた通り。《議員定数が問題になっている。7月の参院選もだが、あと1ヶ月で南陽市議選だ。定数17人。私が市議の時代は25人だった。そのあとどんどん減ってしまった。私は「議員定数は多いほどいい。議員報酬はまだまだ少なくていい。」が一貫した持論だ。議員定数が少なければ少ないほど、市民の声が反映されにくくなるというあたりまえのことがどうしてわからないのだろうか。議会を牛耳りたい者にとっては、議員定数が少ないに超したことはない。定数が少なければそれだけ議員が特権化する。・・・》

 

議論しているうちに、「本来議会とはどうあるべきか」を明確にすることが大事ということに気づいてあらためて考えてみた。政治はゆきつくところ埴谷雄高の言う「政治の裸かにされた原理は、敵を殺せ、の一語につきる」であるというのは、根底に階級闘争史観があってのことで、その常態化は本来日本の風土になじまない。政治の場に常に敵対関係をつくり国民意思の分断を謀るのはアメリカによる対日占領戦略の要であった。「万機公論に決すべし」、議会とは本来公論の場であって、決して最初から敵味方相見えて勝敗を決する場ではない。対立があっても議論を重ねる中で自ずと見えてくる道がある。議論の先にあるのは共通理解であって、多数決ではない。議会とは本来その道を求める場なのではないか。その背景には常に天皇の存在があって、国民の意思の行方を見守っておられる。日本においてゆきつくところは「和を以て尊しと為す」であって、決して「敵を殺せ」ではない・・・とこう思いつつ、日本もようやく”まとまり”を求める方向を向きだしたと、そう思えた。「日本が独立する」とは、日本人としての共通意思が明確になることにほかならない、このことに気がついた。

 

参考↓

・「日本の独立」に向けた必死のせめぎ合い
http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2017-08-10

 

・「自衛隊アレルギー」と「天皇アレルギー」の解消→日本人の共通意思形成

 

 

 


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