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大岡信氏の訃報に接して(1) イルカの話 [思想]

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大岡信さんの訃報で、宮内幼稚園を会場にした「詩人の会」を思い出した。昭和62年、大岡さん56歳のときだ。

 

詩人の会は、昭和59年に谷川俊太郎氏と正津勉氏、60年に吉野弘氏、61年に團伊玖磨氏、そして62年大岡氏。幼稚園のホールに50人ぐらい、ワインをチビチビやりながら当代一流の詩人の語りに耳を傾けるという、実に贅沢な集いだった。足立守園長のほか、錦三郎先生や武田正先生等が中心になっておられた。私は4回とも参加させていただいた。そして4回とも、その感想を「週刊置賜」に書いている。「週刊置賜」は、團さんと大岡さんのそこでの語りそのままを再現して連載してくれた。そのコピーが私の手元にある。「週刊置賜」はほんとうにいい仕事をしたとあらためて思わされた。テープ起こしを担当していた木村陽子さんは、80歳を過ぎたいま、松倉とし子さんの後援会でがんばっておられる。

 

以下、大岡さんの講演を聴いて「週刊置賜」昭62.5.16号に書いていた文章。私もまだ40歳、かなり気負っているが、イルカの話はよかった。ディカリズムの行き求める先はこの感覚に在り》。たしかに今もそう思う。演題は「日本の詩歌を語る―言語の神秘性」だった。


*   *   *   *   *


詩人の会

根源への誘(いざな)い


 第四回を数えた詩人の会、このたびは大岡信氏。普通の講演会にはない会場を覆うあの熱気は何に由来するのだろうかと考えながら、いま時代は過激さを求めている、ふとそんな気がした。

 表面一見平穏無事、わかりきった毎日をわかりきったように過ごしながら、地殻内部の大変動がいつ表面化するか知れない不安あるいは期待、久しく顧みられることのなかった哲学も復興の兆し、ここ数年来有象無象宗教がプームなのは周知の通り、いずれ収斂の方

向を模索しつつの試行錯誤、より根源なるものを求めてのラディカリズム(急進主義)の台頭が今後の時代思潮の主流になることは必定、先般の新日新聞襲撃はその具体的行動化の一表面化現象、言葉を操ってなりわいとする者、戦後のっぺり社会では通用したかもしれない底の浅いもたれ合い的正義漢風言辞の出る幕ではなくなったのではという疑念に捉われてみるのも、また時代の要請かも知れぬ。

 さて、私にとって大岡氏の話が過激であった理由。氏が友人であるカナダの言語学者から聞いた話。その学者、イルカの言葉を研究しているのだが、そのうちイルカと仲良くなるとイルカから話かけられるようになる。といってもイルカの言葉が人間の言葉であるはずはなく、イルカは、超音波のイルカ流信号を発信して来るのだが、その信号を受信した時というのは、身体中がしびれてゾクゾクするような物凄くエロチックな感竟に刺し貫かれるというのである。

 大岡氏はこの話をいかにもありそうな、なるほどそうであるはずに違いないという風に語られ、我々も確かにわかるという風に受け取ったのはどうしてか。氏はそのあと、イルカの交流に比べれば人間同士の交流はなんて表面的であるか、と嘆じられたのであるが、果たしてそうか。というのは、人間がイルカの信号を受信することができるということは、人間にもイルカと通ずる信号の発信能力があると考えるのが順当ではあるまいか。

 人間は、言語を介して、伝えるべきことを近似値的にしか伝達することができないが、イルカはことの本質そのものを伝達し合って交流しているのだという。この話を聞きながら、人間がとどのつまり求めてやまないのが、このイルカ的交流感覚なのではなかったか、そう思いはじめたのだ。この感覚の前ではすべてが相対化される、ラディカリズムの行き求める先はこの感覚に在り、と。


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