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「宮内認定こども園」の歴史・「祈り」について(平成29年度辞令交付式講話資料) [こども園]

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4月1日は宮内認定こども園の辞令交付式。近藤園長になってから講話の時間が与えられている。幼稚園時代は全員を前にして話したが、0歳児からの保育を担う認定こども園になってからは半数以上が現場を離れることができない。なので、読んでわかってもらえる講話資料をつくるように心がけてきた。今回は新しい園長先生をお迎えするので、宮内認定こども園まで65年の歴史をふりかえってみることにした。そのあと「祈り」の意義についてと思って作った資料だったが、自分の歴史に重なる園の歴史を語っているうちあらかた時間がなくなって、「祈り」のほうは、そのことを取り上げるきっかけになった「稀勢の里奇跡の優勝」についてで終えた。

宮内認定こども園の歴史

昭和261951)年の10月、宮内熊野講堂において賀川豊彦先生講演会開催。この時集まった八千円を50年後100年後の人材を育てるための幼稚園をつくりなさい」と宮内に残す。

(賀川先生は昭和7年5月16日か17日頃も宮内に来られている。熊野大社石段下の土社神社前で撮った写真が残っている。賀川豊彦全集の中に「花すぎて緑の山に小鳥鳴く世のさわがしさ気にとめぬごと 宮内にて」とあるのを見つけたときはうれしかった。犬養毅首相が銃弾に倒れた五一五事件直後の歌だ。今に通ずる当時の宮内を彷彿させる。さくらんぼの木とともに寄附していただいた園裏が整備なるとき、そこにこの歌碑が建てられたらいいなあと思い続けている。)


 賀川豊彦先生:貧困からの解放、戦争のない平和な世の中を目指す社会運動に生涯を捧げたクリスチャン。若くして神戸の貧民街に暮らし、その体験から生まれた自伝小説「死線を越えて」は、大正時代、歴史的ベストセラーとなる。その印税はすべて社会運動に注ぎ込まれたという。働く人の生活安定を目指す生活協同組合の運動を立ち上げるなど、社会事業家、政治家として活動の範囲は世界中に及び、ノーベル文学賞の候補に2回、平和賞の候補に3回あげられる。


・昭和271952)年5月、13人の園児で宮内幼稚園スタート。その年はじめてのクリスマスには23名に。第一期の卒園生は7名。

(私は13人の中に私は入っていないが23人の中には入っている。その前年双葉保育園で年少児の1年を過ごしたが、叔母が宮内幼稚園に勤めたので転園した。新しい環境に移るのがいやでものすごく抵抗したのをおぼえている。それをやさしく受けとめてくれたのが芦名能子(よしこ)先生だった。まもなく第2代園長となる宮越文次郎先生と結婚する。現在息子さんの住むロスアンゼルスにおられる。4年前に講演していただいた芦名定道京都大学教授の叔母さん。)


・昭和341959)年から平成91997)年まで40年間、足立守先生、アヤコ先生生。赴任後間もなくピアノ購入のための募金活動、翌年園地の拡張、さらに保育室の拡充と、園児数の増大にあわせて対応。昭和521977)年の学校法人南陽学園の認可園舎全面改築。総事業費6000万円のうち2000万円を寄付によってまかなう。昭和591984)年から4年間、200名を超す園児数

(足立守先生は出雲の算盤問屋のご出身。牧師、園長としてだけでなく、企業家としての力も遺憾なく発揮された。当時隆盛だったロータリークラブに入会され、そこで築いた人脈を活かして学校法人化、新園舎建設を実現した。それまで「キリスト幼稚園」と言われてマイナーなイメージを、名実備えた「宮内幼稚園」へと脱皮させた。守先生を支えたのがアヤコ先生の保育への情熱と献身だった。その厳しい指導で育った先生方がいまのこども園の基礎を支えている。若い先生方がどう引き継いでくれるか。両先生、現在は出雲市に在住。)


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・平成101998)年、池田春善先生が第5代園長に就任。少子化の中で厳しい園経営。時代の保育ニーズの高まりに合わせ2時降園が3時降園。6時半までの延長あずかり保育、7時半からの早朝保育の開始。

(少子化傾向が顕著になり出していたが、保育園長の経験を活かして、保育ニーズの高まりという時代の要求に対応させた園経営をされた。豪放磊落さが魅力だった。理事会無視で突っ走る面があり、後始末もあったが、それはそれ、理事会として現場にまかせっぱなしでもなんとかなっている時代だった。)


・平成142002)年、菅井敬一郎先生(元南陽市教育委員長)園長就任。平成152003)年に、1年おくれで創立50周年事業開催。

(池田園長が突然去った後引き継いだ若い先生が病気で退任、なんとか3ヶ月だけお願いと当時理事仲間だった菅井先生に頼み込んだ。それが結局3年間務めてもらうことになった。長く地元高校の理科の先生で、地質学の理学博士でもある。宮内ではよく知られた親の代からの教育家族ということもあって、とりわけ保護者との間にいい関係をつくられた。それが50周年事業の成功につながった。退任後は28年度まで監事を務めていただいた。昭和6年のお生まれで今年86歳。)


・平成182006)年、近藤国親先生就任。平成232011)年311大震災。耐震診断の結果「地震の震動及び衝撃に対して倒壊し、または崩壊する危険性がある」→新園舎建設へ。 

(創業者安藤百福によってインスタントラーメンの草分け「チキンラーメン」が販売開始されたのが昭和33年、大阪高槻工場が稼働したのが昭和34年、ちょうどその頃新潟から出て日清食品に入社、その後ずっと主に西日本で営業畑を歩まれた近藤先生は昭和15年のお生まれ。定年を迎えて東京神学大学入学、修士課程まで修めて65歳で宮内へという異色の経歴をもつ近藤先生。「10年はお願いします」との願いにお応えいただいて10年間務めていただいた。ずーっと経営的には厳しい時代が続いたが、牧師である近藤先生の着任で本来の形にもどって落ち着きを取り戻した。その落ち着きがあったからこそスタートできた新園舎建設事業だった。平成28年度、遊具小屋が完成し、一応建設事業は終了。新園舎建設委員会の解散委員会には近藤先生もお招きしたい。ただし30年度事業に持ち越している園北側の市道整備がなれば、北側園地を整備しなければならない。夢いっぱいの事業になればと思う。)

 

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・平成242012)年5月、新園舎建設委員会が発足。平成252013)年12月起工。平成262014)年7月完成。9「宮内認定こども園」スタート。

(「3歳までは母親の元で」、それが3歳児から受け入れる幼稚園の考え方だった。その考えを0歳児から受け入れる保育園的考えに切り替えるにはきっかけが必要だった。私にとっては福島栄光学園理事長の岡村宣先生から「幼稚園ニーズは減っているけど0歳児からの保育ニーズはどんどん高くなっている」と言われたことだった。その後平成25年6月、仙台で聴いた藤森平司先生の「都会の核家族ではお母さんが外部と接触するのは宅急便のお兄ちゃんだけ。そんなところに子供を3歳まで置いたら大変なことになる」と聞いて、私の中の「三歳児神話」は完全に崩壊した。現在、以前の幼稚園児である1号認定は全園児の半分もいない。)

 

・平成282016)年4月、近藤園長から井上達也園長へ。平成292017)年4月、井上園長から林原泰樹園長へ。

 (新しい牧師さんが決まるまでということでお願いした井上先生は文筆でも活躍する元高校の国語の先生でクリスチャン。「最低2年は」とお願いしていたが、林原先生にお出でいただけることになって井上先生は「私はピンチヒッターですから」と一年で退任。4月1日から着任されたのが、東京信濃町教会で副牧師を務められていた林原先生57歳。ドイツ在住経験2回計6年半。奥さん共々宮内の地を気に入っていただいている。新しい風をこの宮内の地に吹き込んでいただけるものと期待しています!)


 明るい未来へ  (平成28年度『光の子』)

 ちょうちょう組のみなさん、そして保護者のみなさん、ご卒園おめでとうございます。ここまで育てあげるまで、多くの喜びと共に大変なこともいろいろあったことと思います。まだまだ道半ば、しかし子育ての苦労も後で振り返れば、子どもと共に在ったひとときひとときが、かけがえのない人生の宝物です。

 私のような団塊の世代も七十代、「少子高齢化」の言葉を目にしない日はないほど現実の問題になっています。そんな中、その現実を悲観的にではなく前向きに考えようということで、「縮充社会」という言葉が登場しています。提唱者は参加型地域づくりの実践者山﨑亮東北芸工大教授です。《縮減でも縮退でもない。拡充でも補充でもない。縮みながら充実させて、質感が良く暖かい地域社会》ということです。

 先ごろ中学の同級生数人で温泉に行って、宴席で十分酔って部屋に戻ってから議論になりました。具体的な課題をめぐっての議論だったのですが、われわれ世代はいくつになっても「前へ前へ。上へ上へ。広く広く」の発想が抜けきれません。過去の失敗の経験を糧にしてもう一度、ついそんな発想にもなってしまう。同世代が集まると、そうした上昇志向的感覚を共通理解にして話してしまうのです。

 私たち同級生が集まってよく話す人は、自慢話のできる人です。敗戦にうちひしがれた中に生れ、高度成長期のまっただ中で成長期青年期を過ごし、それぞれの立場で「がんばって」きました。「がんばる」の語源は「我を張る」だそうです。いつも追い立てられるようにして、たえず周囲と自分を引き比べさせられながら生きてきた結果としての自慢話。「へえぇ」とは言いつつもほんとうはだれも聞きたくなんてないのかもしれないのに、共通の話題としてはそこにゆくしかない。

 ところがそんなわれわれ世代も終活を意識する歳になって、眼の置き処が変わってきていることも事実です。そんな中での「縮充社会」、「周囲と比べる必要はありません。今あなたは充たされていますか。」世の中全体ひとりひとりの心の中味が問われ出しているようです。

 宮内認定こども園は、宮内幼稚園時代から数えて六十五年の歴史があります。私は、叔母が先生として勤めるようになったので、開園間もなく双葉保育園からたんぽぽ組に転入した第二期生です。宮内幼稚園はずーっと「キリスト幼稚園」と呼ばれてきました。今ふりかえって大事だったなあと思うのは、お祈りの習慣です。お祈りのときは目を閉じます。そのとき、目に見える世界から別の世界に入ります。日々重ねたその習慣が「心の世界」を育ててくれたような気がします。現実の世の中を生きてゆくには、ときには「心の世界」はかえってわずらわしい、うっとうしいように思うこともありました。しかし終活年代に入った今思うに、それなりに納得できる生き方はできたかなと思えるようになっています。「キリスト幼稚園」のおかげです。

 大きく時代が動き出しています。明るい未来へ向かうのか、重苦しく閉ざされる方向に向かうのか。私は古代神話の岩戸開きを思い起こしつつ、明るい未来に賭けています。思いが先か世界が先か、ニワトリが先かタマゴが先かのようですが、私は断然思いが先です。思うから世界はそのようになるのです。若い世代の思いがけない思いが時代を切開いてくれると信じています。

 「後生畏るべし、いずくんぞ来者の今に如かざるを知らんや」(これからの世の中を担う若者の力はすばらしいにちがいない。きっとこれまでの世代を乗り越えて、新しい世界を切り開いてゆくことだろう。)

 

祈り

『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』リン・マクタガート著 インターシフト社 2014

 稀勢の里の奇跡の優勝は日本国民の「祈り」の結果です。優勝決定の瞬間、確信しました。本割りも優勝決定戦も、立合い前のあの一瞬の静寂、「祈り」の集中を感じました。「日本国中、みんな祈ってる!」

 「祈り」というと思い出す本があります。『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』です。「ヒーリング効果を検証する」という章があって、「祈り」が実際に功を奏するかどうかを検証した結果について書かれてあります。結論は《得られた結果はもはや必然だった。どのような種類のヒーリングを用いようと、どのような「高位の存在」を奉じていようと、ヒーラーたちは患者の身体的、心理的状態の改善に劇的に貢献していたのである。》274p)そして次の章は「病気は集合的な力によって癒される」。《そうしたヒーラーたちが共通にもっているように思われたのは、我を通さず道をゆずっていることだった。/エリザベスからすれば、ほとんどのヒーラーは、それぞれの意思を表明した後で一歩身を引き、なんらかのヒーリング力のはたらきに身をゆだねていると主張しているように感じられた。/それはあたかもドアを開き、何か偉大なものが入ってくるようにしてやるかのようだった。/高い成功を収めたヒーラーの多くは、心霊世界から、集合無意識から、さらに、イエスのような宗教上の人物から、助けを求めた人たちだった。/それは、自分の力を誇示するような自己中心的なヒーリングというより、「この人が癒されますようお願いします」という依頼というべきものだった。/こころに描かれたそのイメージの多くは、リラックスすることと関係があり、心霊や光や愛を導き入れるものだった。》277p


芦名定道先生講演「子どもたちの未来へ―幼児期、そして人生における『祈り』の意味」(宮内幼稚園創立60周年記念講演会 平成25323日)

 個人の祈りから出発した場合、自分本位の祈りにとどまってしまいかねない。ここにとどまってしまってはいけない。だから、心をあわせる。

 《一緒に祈る。一緒に何かのことに関してそれぞれ何かのことに関して願いを口に出す。そうすることで、他の人がどういうことを願っているかがわかってきます。それと自分の祈りがどこかで結びついたりします。そうやってだんだんだんだん、心が一つになってゆく。それが祈りです。

 さらに、そういう中で、自分はよく考えると、いろいろ不満があるけども、よく考えた結果、恵まれていることに気がついたりもするわけです。結構自分は人に愛されている、そうやって育てられ、ここまで大人になったんだ、ということがわかってくるわけですよ。決して自分だけでいろんな過去を背負って生きてきた訳ではないわけです。もちろんいろんな生い立ちがあって不幸を背負って生きておられる方もおられるとは思いますけれども、ただよく考えると、いろんなところで、人に支えられてここまでやってきた、ということがおそらくわかるんだと思います。

 さて、それが先ほどから言っている「社会性」という問題。自分は実をいうと、人に支えられて、誰かに愛されて、ここにいま、自分はいる。これに気がつくこと、これが祈りということの、実際具体的な力なんですね。祈りを一つに心をあわせて祈る中において、自分がよくよく見えてくる。その時の自分は、よく考えたら、いろんな人に愛されたという自分のこれまでの一生が見えてきます。それをさらに辿って行くと、神の愛が見えてくる。こういう順番になります。ですから、祈る、愛するという問題は、非常に近い関係にある訳です。私たちは、祈るということを日々実践する、それはなんていうか、そう長いものではありませんから、祈り始めるとあっという間に終わる、結構すぐに終わると思います。ただそれを毎日積み重ねることによって、あるいは教会で祈ることによって、人と祈りを共有することによって、祈り合うことによって、人に祈られているということに気がつくことによって、そこにおいて、自分は何かによって生かされている、それが自分の中に、そうだ、というかたちでわかる訳です。これが先ほどから言っている自然教案から神の問題につながる重要なポイントになります。つまり彼は、幼児教育の中ににおいて自然教案という、非常にいまから見ても独特なというか、非常にすばらしいインスピレーションを与えてくれる教案をつくっているんです。それを彼の中では、キリスト教の彼自身の祈りという問題と結びつけている。それが祈りということにおいて、今日みなさんにぜひお話ししたいと思ってやってきました。

 心をあわせて祈る、これがいま、おそらく非常に重要な意味を持っている。たとえば、ここ2年ほど私たちの、おそらく日本における大問題、いろいろありましたけれども、なんといったって大問題は、隣の県、福島にある原発の問題、あるいはそこにおいて津波があったという、この大震災があった。これは私たち日本人にとって、共有している非常に切実な問題であろうという風に思います。

 おそらくいま日本において何が求められているかというと、若い人たちはそれぞれ自分の生活があります。日常の生活、その中でそれぞれ自分の思いがあります。それを祈ります。もちろんこれは、キリスト教の神に対して祈るのか、あるいは仏様に祈のるか、神社に行って祈るのか、あるいはそういうことではなく、思いをお互い述べ合うのか、それはいろいろあるとは思います。ともかく自分の生活の中における、そういう祈りをする、という日常生活があると思うんです。ただ、いま問題になるのは、そういうものがバラバラでいいのか、という問題が日本においてあるんだろうと思います。どうやったら日本において心を一つになるのか。心を一つにして復興するということをどうやって願うことができるのか、ということがおそらくいま日本にかかっている。ということを考えた時に、心をあわせて祈る、というのがわたしたちに大分切実な問題になっているんではないかと思います。祈る、これはそれぞれの宗教の祈り方で祈ったらいいわけですけれども、祈るということにおいて、願いを共有する自分の自己本位の願いではなくて、そこでほんとうに一つに人々が交わることができるような祈りを、ともにする。ということがおそらくいま日本でいちばん重要であろうというふうに思います。

 そう考えると、そういう人間になる。他人と祈りを共にできる人間になる。自然とともに生きることができるような人間になるというのが、日本のこれからの将来ということに関して、すごく重要な意味をもってくる、というふうに思います。そしてこれが、幼児教育の問題なわけです。つまり、50年後のいのち、おそらく50年後ここにいる人、私も含めてこの地上にはいないんではないか、ただその時に私たちの孫、子がいるわけですよ。でその孫、子がどうやってこれから日本をつくってゆくのか、地域を支えてゆくのかということを考えたときに、やはりそこで、お互いに祈ることができるような、心が一つにすることができるような、そういうことがすごく重要だろうということを感じる訳です。で、そのことが、教会、幼稚園において、子どもたちがまず身につけて欲しいことです。他人と共感できる、自然の中で生き生き生きる。そういう風な人間になってもらいたい。これが幼児教育の、おそらくは、到達するべき目標、ここを目指してゆく。賀川豊彦は、そういうふうな教育の種を宮内に播いたわけです。その種が、60年後、こういう形で、いまここに形になっている訳です。つまり、そういう幼児教育の先達が、祈りをもって播いた種が、60年後に、こういうひとつの祈りを中心とする60周年のこの催しになった、と考えれば、これから先、そのバトンを次の世代に渡す必要がありますね。そのバトンを消してはいけないわけです。ですから、このバトンを次ぎに渡すような工夫を、私たちはおそらくそれぞれの場においてやる必要があるんだろうと思います。  

 なんといっても、都会にないものがここにはあるはずです。まずなんといっても自然ですね。自然です。子どもたちが自然にふれあうことができる環境、これは都会では望んでも手に入れることのできない、それはおそらくはここにあると思います。それから人と人とのつながり、絆、これはおそらくは都会以上に、まあたしかに50年以上前から見ると、私たちの絆が弱くなっている可能性はあります。昔はもっと絆は強かったかもしれない。ただ都会から見れば、まだだいぶましかもしれません。宮内にはそれが豊かにあって、それをなんとか教会あるいは幼稚園という核で、祈りによって人々を結びつける場によって結びつくことができれば、それはおそらく次の世代に実を結んで、何かすばらしいことが起こるんじゃあないでしょうか。

 いろいろ大変なことが目白押しなのですが、発想を変えると、私たちには結構可能性がある。まだまだやれることがある、ということが見えてくるんじゃあないかとおもうわけです。となってくると、あとはどうやって心をひとつにするのか。その心がひとつになれば、おそらく、宮内幼稚園は、次の10年後にはもっとすばらしい70周年、さらに30年後には、もっと、もっともっとすばらしい100周年ということが実現できるんだろうと思います。》

(平成29年度宮内認定こども園辞令交付式講話資料 29.4.1



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