秋たけなわ、10年前の菊まつりが思い出される [菊まつり]
第一景 上杉鷹山 棒杭の商い(置賜無人直売所の起こり)
ある日、鷹山公が遠乗りに出かけた時のことです。
街道の途中に数本の棒杭が立ち、おにぎりや野菜やわらじなど暮しや旅の必需品が入ったざるが吊るされておりました。中には売上金らしいお金も入っています。
鷹山公が側近の佐藤文四郎にたずねました。
「だれも盗まないのか。」
文四郎が答えました。
「はい。地元の者はもちろん、旅の者も誰ひとり品物や金を盗むものはいません。公は潰れかかった藩を立て直しただけではなく、人の信じあう心も甦らせたのです。もう棒杭にさえうそをつかないのです。」
今でも置賜のあちこちに無人販売所が見られるのは鷹山公の功績が今もこの地に息づいているからにちがいありません。》
第二景 名僧虎哉和尚と梵天丸(伊達政宗の夏刈資福寺時代)
《若き伊達政宗、「梵天丸も斯くありたい」、あの梵天丸と虎哉和尚の場面です。置賜盆地のちょうどまん中の夏刈の地、当時東北でも有数の寺院、資福寺がありました。梵天丸と名づけられた政宗は、六歳のときから、父輝宗が美濃の国から招いた虎哉和尚と共にこの寺で育てられました。虎哉和尚は、宗教や学芸から軍事、政治にいたるまであらゆる教養を政宗に授けました。政宗が生涯師として敬いつづけた虎哉和尚でした。資福寺は伊達と歩みを共にして、今も仙台北山の地で「あじさいの寺」として有名です。
もうひとり政宗にとって大切な人物、片目で内気、母にもうとんじられる梵天丸の中に眠っていた優れた素質を見抜いたのが片倉小十郎でした。以来片倉家は常に第一の家臣として伊達家に仕えました。今でも片倉小十郎直系のご子孫が伊達政宗を祀る仙台青葉神社の宮司として奉仕されています。》
罪のない善男善女が悪人に捕らえられ、まさに皆殺しにされようとする危機一髪のその時、「しばらく~」と大声をかけて現れた主人公、超人的な力で悪人から救うという歌舞伎十八番「暫」の名場面、実はこの主人公鎌倉権五郎景政こそ熊野大社大銀杏を手植えしたその人なのです。
景政は弱冠十六歳で奥州藤原氏支配の端緒となる後三年の役に八幡太郎源義家に従って初陣、片目を矢で射抜かれつつも勇猛な働きで後世に名を残すことになります。かねてより宮内熊野を信仰し戦の必勝を祈願していた義家は、景政に命じてお礼詣を行わしめたのです。二人に縁(ゆかり)ある鎌倉幕府成立に先立つほぼ百年前のことでした。今も境内には、義家神社と共に景政神社が祀られています。》
《上杉謙信と武田信玄、あの川中島合戦で大活躍した宮内熊野の「お獅子さま」の場面、ここからわずか400mほど先、熊野大社大銀杏の木の下にございます。電線が取り払われた熊野石畳開運通り、鳥居をくぐって歩けば開運間違いなし、通りの途中もいろいろ趣向を凝らしてございます。どうかゆっくりご覧になってください。》
この年の入場者数は、二週間の短縮にも関わらず前年より3,090人増の21,810人、一日当たりでは、442人増の948人となり、入場料が前年までの大人700円が300円になったこともあるが、入場者数を見る限り将来への足がかりを得た年となったといっていいのではなかろうか。
かつての雄、枚方も二本松も尾道ももう第一線にはない。菊人形が飾られ、入場料をいただく「興行」としての菊まつりの名残りをとどめるのは、南陽のほか、北海道の北見、茨城の笠間稲荷、福井の武生、南砺、それに名古屋。南陽の踏ん張りを支えるのは「全国一の歴史と技と文化を誇る・・・」、その「誇り」が大きい。今年の宣伝チラシには「未来へ伝えたい技がある。つなげたい文化がある。」とある。菊人形の伝統、菊づくりの文化に支えられた菊まつりを守ろうとする使命感が伝わる。今年、第四十八回となる「一般社団法人全日本菊花連盟全国大会」が初めて南陽市で開催される。競技花となるのはその名も「南陽の光」。会場周辺には三間(五・四m)の大のぼり100本がはためき、全国から集まるお客様を迎えるにふさわしい華やぎを演出する。歯を食いしばってがんばっていれば、きっと未来は明るいと思いたい。なんといっても、菊は桜とともに日本の国花なのである。
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【追記 28.11.2 】
すっかり忘れていたのだが、この経験をもとにその翌年、かなり力を入れて(えっけばって)書いた文章を見つけたのでコピーしておきます。
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受け継ぎたい山形の“宝物”
日本一の歴史―南陽の菊まつり
「菊は宮内あやめは長井ばらの名所は東沢」と花笠音頭にも歌われる南陽宮内の菊まつり。その起源は江戸時代にさかのぼる。今も宮内熊野の夏祭りで獅子冠行事を取仕切る百花園の先祖齊藤善四郎が嘉永二年(一八四九)、赤湯温泉入湯中の上杉の殿様に丹精した菊花を献上して大いに喜ばれ、ご褒美を賜ったとの記録が残る。このことがあって宮内に菊花栽培者がつぎつぎに現れるようになり、大正二年に料亭観月楼を会場に菊花品評会が開かれた。その一年前には料亭山崎屋でささやかな菊人形が飾られており、数年後には料亭宮沢、山正旅館とつづき、世界にその名を轟かせた最高級生糸「羽前エキストラ」を擁する宮内製糸産業の隆盛を背景に当時繁昌を極めた料亭が競い合う形で「菊まつり」が開催され、「菊の宮内」としてその名声は県内外に響くことになった。昭和二年には山形新聞社主催の県下名所投票で山正旅館の菊人形が第一位を獲得したこともある。
戦後の菊まつりの再出発は昭和二十四年、楽しみの何もなかった時代、製糸業隆盛の余韻の残る当時の宮内町、町を挙げての開催だった。そして昭和三十年代は全国的に菊まつりの最盛期、菊人形展を開催した都市は全国で百三十都市、百五十会場にも及んだという。当時熊野参道鳥居の場を会場にした菊人形は、東西広場を地上四メートルの渡り廊下で結ぶという実に壮観なものだった。
NHK大河ドラマ史上最高の視聴率を記録した「独眼竜政宗」を菊人形のテーマとした昭和六十二年がひとつの節目の年だった。置賜人にとっては、越後から会津を経て米沢へ苦渋の歴史を背負う上杉的感覚の上皮を剥いで、室町前期から二百年を越す伊達氏支配の歴史に光があてられ、縄文以来の明るく豊かな置賜を取り戻す分水嶺の年でもあった。しかし菊まつりはこの年を頂点に勢いを取り戻せぬまま平成の時代となり、新たな飛躍への模索の時代がつづいて現在に至っている。
この南陽の菊まつり、南陽より一年早い明治四十三年に始まった大阪枚方の菊人形が一昨年で幕を下ろしたことで、昨年が第九十四回、菊人形では日本一の歴史を誇ることとなった。昨年は従来の会場双松公園が新配水池工事のため、会場を四〇数年ぶりに宮内の街中に下ろし、テーマを大河ドラマから地元の身近な歴史や伝説にしたこともあって久しぶりに入場者数が前年を上回った。
私は昨年、この菊まつりにはじめて最初から関わる機会を得た。そして菊花栽培、菊人形づくりに携わる方たちの仕事振りに直にふれ、飾られた花、人形に備わる品格にあらためて心を揺さぶられた。南陽のレベルがいかほどのものかを確かめてみたくて規模の大きい隣県を訪ね、質においては明らかに凌駕していることを確認した。この伝統をなんとか保持しなければならないと切に思った。
とはいえ、入場料収入のみでの採算は夢のまた夢、市内外に協賛金を募り、前売券をお願いし、市財政の負担を仰ぎ、業者にも奉仕的精神を当てにしつつ経費はぎりぎりまで切り詰めての開催。継続は容易ではない。
思えば、清河八郎や雲井龍雄といった幕末の志士、戊辰の戦役で奥羽列藩の義に殉じたもののふ武士たち、我が県にも多く関わる尊い精神と生命の辛い犠牲を代償に出発した日本の近代が行き着くところ、その間、百年千年単位で積み上げてきたはずの地域に根ざした文化の悉くは、たちまち経済合理性の評価に曝され、怒涛の中に藻屑となって流されてゆく。気を抜けば菊まつりもその例外ではなかったはずなのだ。それをなんとか継続させた結果としての日本一の歴史。そこには先人への敬意と文化の蓄積へのこだわりがあり、それを次代に伝えようとするねばり、経済の合理に屈せぬ義侠があってのことだった。実にそれこそが受け継ぐべき山形の大事な宝物なのではあるまいか。南陽の菊まつりの「日本一」はまさにその勲章なのである。
(山形放送社説七千回記念論文募集応募原稿・平成十九年一月)
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