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「伊達氏と上杉氏」展と岩出山行 [伊達政宗]

このところ「伊達氏」づいている。そもそも1011日の宮内地区地区長会研修を岩出山に決まっていたところに、ちょうどいいタイミングで、上杉博物館で「伊達氏と上杉氏」特別展


109日、特別展に行ってきた。4時少し前だったが賑わいは残っていた。とりわけ「洛中洛外図」の原図展示とあって、その前は二重の人だった。あらためて米沢の文化歴史遺産のすごさに脱帽。


上杉博物館で「伊達氏」が正面切って取り上げられたことには特別の感慨がある。かつてこう書いた


《思えば置賜に住む人間の置賜観が大きく変貌したのは、昭和62年の大河ドラマ『独眼竜政宗』の放映がきっかけだった。実はそれまで、政宗がこの地で生まれ、秀吉の命によって岩出山へ移される25歳まで過ごしたことを知っている人はごくわずかの歴史好きに限られていたといってもいい。南陽市の観光課職員も外からの問合せではじめて、政宗が置賜に縁あることを知ったという話があったほどだった。そしてそのわけを、上杉氏による伊達遺風一掃政策が400年近くこの置賜を支配していたからと(小川弘先生に)聞かされ、なるほどと思った。たしかに言われてみれば、この地で「だでごど」といえば良からぬことを指す。それが「伊達事」を指しているのだと言う。同じ意味合いで「うだで」とも言うので、古語の「うたてし」とどう関わるかの問題もあると思うが、それにしても置賜人の記憶から伊達の記憶があれほどすっぽり抜け落ちていたのはたしかに異様なことだった。鷹山公が養子としてこの地に入り、政宗公両親の墓地のあまりの荒れようを見て驚かれ、隣地の者に墓守の役を任じたという話も伝わる。この地に在る者には当たり前であったことも、外から入った鷹山公からみれば明らかにおかしく思えたのだろう。》


館山城跡が国史跡に指定されたことを記念しての開催で、どれだけ頭に入ったかはおぼつかないが、一通り解説も目を通しながら1時間以上かけてまわってきた。私の中でも置賜に於ける伊達の時代がそれなりにイメージとして定着したように思う。多くの国宝を抱える博物館としての矜持のゆえと思うが、解説文章のレベルが高く、なかなかすっと頭に収まらないのはしょうがないのだろうか。


岩出山研修記念RGB.jpg

そして昨日11日、岩出山への視察研修。特に公式の訪問等はないので出発間もなくから御神酒をいただきながらの和やかなバスの旅。着いた頃は大分出来上がっており、とにかく先ずは城山公園の伊達政宗公立像前にみんな揃って、相馬市からというご夫婦にシャッターを押していただきました。伊達と相馬は対立の関係だったとご主人が話してくれました。


たしかに、

陸奥相馬氏(中村相馬氏)は、・・・(戦国時代)武勇に秀でた当主が続き、更に独立心が旺盛で、現在の米沢宮城県を領する伊達氏や、現在の茨城県北部を領する佐竹氏に対しても一歩も引かなかった。伊達氏とは小高と中村の双方に目を配らせて30回以上におよぶ戦闘を重ね、たびたび苦杯を舐めさせている。やがて伊達政宗が現われ南奥州の諸大名が悉く政宗の軍門に降った時も、相馬義胤は敗れたとはいえ独立を維持し、伊達氏と戦う意地を見せた。そして天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原征伐に際し豊臣方について本領を安堵された。(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/相馬氏)とありました。ただし、伊達氏と相馬氏のこんないい話もあるようです。

伊達政宗、相馬領を通過・いい話


祝日の翌日とあって休館が多い中で、刀剣専門の中鉢美術館に入り、説明を聞きながらじっくり日本刀を観ることができました。あらためてパンフレットを見ています。東北のすごさを思わされるいい文章ですのでコピーしておきます。


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~日本刀の源流~

鬼と恐れられ 俘囚と蔑まれた 東北の鍛冶たち

中鉢 弘

蕨手刀から.jpg

 今から千年ほど前、東北を舞台に前九年・後三年の戦いがあった平安時代中期の頃に、蝦夷の「蕨手刀」から、左図の変化を経て、「日本刀」と称される姿のものが完成しました。

 当時、東北には平泉の軍備を担った「舞草(もうくさ)」、出羽三山の信仰普及を兼ね諸国を往来した「月山」、律令政権側への前線に位置した「玉造」などの鍛冶集団があり、各々の使命を担っていました。

 律令政権の東北進出・侵略に服した鍛冶達は、諸国に俘囚として移配され、その地の鍛冶集団の成立・繁栄に大きく関わりました。

 原本が鎌倉時代末期の刀剣書の写本『観智院本銘尽』(重要文化財)に《神代から当代まで上手のこと》として四十二人の名工が記される中、東北の鍛冶が八工、その縁者を含めると三分の二を越えるほど、高い評価を得ていました。

 この評価を裏付ける事として、平安時代、天皇を警護する衛府の長官たちが正装する時の衛府太刀として、俘囚太刀(毛抜形太刀)が用いられていました。平重盛の肖像画(国宝)も誇らしげに佩ぴているのは俘囚太刀(毛抜形太刀)です。

 当時、覇権を争った源平の宝刀も東北の鍛冶たちの作品でした。

 『今昔物語』に《見たまえ 我が帯たるこの太刀は陸奥の国から伝え得たる高名な鍛冶のめでたき太刀なり・・・欲しき事かぎりなし・・・》。

 この一文が黒沢明監督の「羅生門」のもとになったのです。

 平泉が滅亡するまで東北は刀剣王国でした。その後に刀剣王国として繁栄した備前長船。その双璧「正恒」は、東北「有正」の子と多くの刀剣古書に記されています。

 同国の「桃太郎の昔話」の「鬼」は、この事を物語っているものと思われます。

 東北は、ロシア沿岸と直接の交流があり、韓鍛冶(からかぬち)系の大和鍛冶とは異なった集団がありました。

 日本一の素材にも恵まれ、東北平泉の、平和を重んじた浄土思想のもと、日本人の精神文化の象徴とされた日本刀が完成されたのです。

 在銘で現存する最古の奥州刀「閉寂」。その銘文から東北の高い精神文化が読みとれます。

中鉢美術館.jpg刀剣旅日記.jpg


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岩出山ほうきDSCF5359.jpg

竹工芸館もなかなかです。退職後石巻からこの地に越してここでの作業に通っているという人が竹ザルを編んでいました。採算を考えたらこれだけで生活するのは到底無理とのこと、もっともです。手仕事の未来を思いました。向いに竹細工店がありました。土間ボウキがたったの380円で驚きました。岩出山にはなにか独特な感覚があるようです。しらふの状態であらためてじっくり行ってみたい町でした。電線地中化の先進地でもあります。赤湯温泉表町通りの電線地中化にあたって南陽市から視察に来たことがあったそうです。


伊達氏が岩出山に移る経緯、『南陽市史』にていねいに書いてありました。以下、配布資料です。


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伊達政宗の転封(『南陽市史 中巻』 第一章 米沢藩の成立と北条郷 第一節 伊達政宗の転封と北条郷の人々)


奥州仕置

 天正十八年(一九九〇)七月、関東の北条氏を亡した豊臣秀吉は、徳川家康を江戸(関東)に移封し、奥羽仕置さらに奥羽征討のため会津に向かった。七月二十六日、下野国宇都宮に着いた秀吉は、直ちに伊達政宗と最上義光を呼び寄せ、奥・羽両国の仕置(処分)にあたっての意見を徴した。旧奥州探題家、旧羽州探題家の権威と自尊心を利用しようとしたのであろうか。しかしこの時、伊達政宗は、米沢を中心とする本領は安堵(認可)されたが、旧芦名領(会津領)を没収された。なぜなら、政宗は「惣無事令」の後に芦名氏を攻め滅ぼしたのであり、これは明らかに豊臣統一政権に対する挑戦であった。政宗は奥州探題家の指揮権を申し立てたが認められる筈もなく、没収されたのは当然である。

 翌二十七日、秀吉は小田原陣に参候した伊達・最上以外の諸大名を呼び出し、秀吉と正式に臣従関係を結ばせてその所領を安堵した。そして、それと共に、妻子を京都に差し出すこと、領内を検地して藩財政を確立すること、家臣たちの領内諸城を破却し妻子を城下に召し置くこと、を命じた。すなわち秀吉の豊臣政権は、宇都宮に出頭した諸大名に秀吉と正式に臣従関係を結ぱせると共に、豊臣政権下の大名としてその領国における大名権力の強化をはかったのである。ただし、伊達、最上の同氏だけは、充分に大名権力を確立していると認められたものか、豊臣政権によるテコ入れは不要とされ、大巾に自分仕置権を認められた。

 だが、奥羽仕置はこれで済んだのではなかった。同年八月九日、秀吉は伊達改宗から没収した会津黒川城に入ったが、ここで第二次の奥羽仕置がなされたのである。

 まず、宇都宮での奥羽諸大名に対する知行割をふまえ、小田原陣不参大名の所領を没収して豊臣氏蔵入地(豊臣政権の収入になる領地)を設置し、また新大名の配置を行なった。

 次に、奥羽政治への基本方針を発表した。それは、

 ①検地して年貢米銭を定めた上は、そのほかの課役を百姓に掛けてはならない。

 ②武士は軍役をつとめ、百姓は田畠耕作に専心すること(兵農分離)。

 ③百姓の「刀・わきざし・弓・鑓(やり)・鉄砲」などいっさいの武具をすべて召し上げること(刀狩)。

 ④よその村・町へ出た百姓は召し返すこと(百姓の地付き)。

などであった。そして、特に検地については、八月九日に検地条目(検地のしかた)を示し、同十二日には、いわゆる「なで切令」を出している。すなわち、検地のことは、武士・百姓とも納得するようによくよく申し聞かせるべきだが、それでも反対する者は、城主でも百姓でも「一郷も二郷もことごとくなでぎりに仕るべく候」。日本六十余州かたく命じてあるのだから出羽・奥州も粗末にはさせられぬ。たとえ亡所になってもかまわぬから厳しく検地せよ。山のおく、海は櫓櫂のつづく所まで念を入れよと命じた。これが世にいう「太閤検地」である。

 では、われらが北条郷に検地はいつ実施されたのだろうか。今までの研究では、天正十八年に置賜價賜地方には実施されなかった。検地が実施されるのは翌十九年、伊達政宗の転封がきまってかららしい。


豊臣軍置賜に入る

 奥羽の仕置は、豊臣秀次・徳川家康・浅野長吉・宇喜多秀家・蒲生氏郷・片桐且元・大谷吉継・上杉景勝らによってすすめられた。仕置軍は奥羽諸大名の諸城に人数を入れながら北上した。仕置軍にいたと思われる徳永石見守寿昌が天正十八年(一五九〇)八月二十二日に伊達政宗に出した手紙に、置賜の町人・百姓たちがみんな山中に逃げたり、高畠に越したりし、戻るよう命じても拒否しているとある。政宗は旧葛西・大崎領を接収し検地する浅野長吉・蒲生氏郷・木村吉清ら仕置軍の案内として、八月十一日米沢城を出発していた。政宗の女子衆は、米沢城を出て(出されて)高畠に移居していた。すなわち、米沢城下は仕置軍の占領下にあったわけで、前記の百姓・町人らは仕置軍を恐れて逃げたのであろう。この情勢は米沢周辺だけのものでなく、わが北条郷も同じ情勢であったであろう。
 政宗は、多少の抵抗を排除しながら大崎・葛西の旧領を収封し、斬領主木村吉清・清久父子に渡した。次いで、仕置に従わず南部信直に反抗する九戸政実を討つべく南部九戸まで出向いたが、豊臣秀吉から上洛の命あり、九月二十八日米沢に戻った。
 ところが、十月十六日、大崎・葛西地方に大規模な一揆が勃発した。原因は大崎・葛西の旧臣らを中心とする検地反対とみられる。一揆勢は岩手沢城や古川城を落とし、新領主木村吉清父子を佐沼城に攻囲した。政宗は二十三日に命を受けて二十六日には米沢を出発。十一月十四目に蒲生氏郷と会い、一揆勢を討ち、二十四日には佐沼城から木村吉清父子を故出した。だが、蒲生氏郷との問に問題があり、また秀吉から一揆との関係を疑われて上洛を命ぜられた。政宗が決死の覚悟を示すため、金箔をはった磔(はりつけ)柱を押し立てて上洛したというのはこの時のことである。

伊達政宗の転封
 政宗決死の覚悟が功を奏し、秀吉への申し開きは成功した。だが秀吉はこれを機に転封をほのめかしたらしい。政宗は父祖の地置賜地方だけは支配したいと手を尽くした。
 政宗は、翌十九年五月二十日米沢城に戻り、六月十四日、一揆鎮圧のため再び大崎地方に向かった。豊臣秀次・徳川家康・上杉景勝らの奥羽仕置軍も、米沢城ほか街道の諸城に兵を入れながら下向した。当然、北条郷の支配に任ずる宮内城や中山城にも仕置軍(多分上杉軍)が入ったであろう。政宗は、仕置軍の兵糧米として、領内の百姓各戸ごとに米二升、名子には米一升の棟役を課した。占領軍が進駐したわけである、村々の地頭たちは村の若者たちをつれて政宗に従って出征している。北条郷民たちは恐怖の目で仕置軍を迎えたことであろう。
 七月、一揆は鎮圧された。しかし、政宗は大崎地方への転封を命ぜられ、九月二十三日に岩手山攻め岩出山城に入った。日程からみて、多分一揆鎮圧の出陣地から米沢に戻ることなく岩出山に直行したのだろう。つまり米沢に帰ることを許されなかったのだろうと考える説もある。また後述するように、旧九月下旬(今の十一月頃)というのに旧領の年貢米を持ち出せなかった。所領は一揆のあとで荒れていたであろう。政宗と家臣団にとっては厳しい転封の命令であった。
 では、家臣たちはどのように移転したのだろうか。天正十九年八月、豊臣秀次配下の山内対馬守一豊と松下石見守之綱は、「掟」を示して伊達家臣団の移転を監視した。それによると、政宗家臣の荷物は異議なく通すこと、米沢領の俵物(俵に入れてあるもの。特に海産物)の他所出しはならぬこと、地下人(家臣でないもの・百姓など)で土地を離れている者は戻ること、などを令している。すなわち、伊達氏家臣は越せ、家臣でないものは越すな、年貢米などは持ち出すな、というのである。
 しかし、実際問題となると事はそう簡単でない。当時の置賜地方は兵農未分離で、村には小土豪(地頭)が館をかまえ、在家から棟役・段銭・夫役などを取り立てると共に、自らの手作地を持ち、名子・下人を抱えて耕作させていた。岩出山に越すとなら父祖伝来の土地を捨てねばならない。岩出山で知行地は給されようが、手作地はないわけだから全部の名子・下人を召し連れることはできない。まして大崎地方は検地反対一揆のため今秋の収量は三分の一と聞こえていた。
 家臣たちは、
居残りを希望する名子・下人に手作地を分配し、自身は若干の下人を連れて岩出山に越す。
広い手作地と名子・下人及び小作地を抱えた土豪百姓として残る。
当人は家臣として岩出山に越し、弟や子が手作地を抱えて残る。
などの選択を迫られたのである。
 若干の例を見よう。添川村南館の大立目氏は、兄の治部少輔が家臣として越し、弟の土佐が南館に残り百姓となった。。大塚村の牛谷氏は伊達氏に臣従して同村西館に住していたが、五代監物幼少につき岩出山に越さず土着した。同村寒河江氏も当主土佐が病死して嫡子源兵衛幼少につき御供せず土着したという。北条郷宮内村の大津氏は、当主土佐が御供して越し、弟又市郎が熊野社祢宜として居残った。また、後の慶長五年最上合戦に出陣した功で「郷士馬上」の特権を得ていた「北条郷十八騎」の面々なども、伊達氏旧臣が多かったのである。
 しかしながら、大方の村地頭は、当然、旧来の本領・恩領・手作地との関係を断ち切って、新知行地へ移っていった。北条郷村々の小農たちにとっては、一抹の不安はあるものの、重石がとれた気分だったであろう。
 天正十九年(一五九一)伊達氏の転封によって置賜地方の中世的社会は崩壊した。村地頭が去って兵農が分離し、検地に都合のよい条件がつくり出された。

   ○   ○


 置賜に生まれ二十五歳までこの地を拠点として成長した伊達政宗は、秀吉により岩出山への移封を余儀なくされた。それから二十三年を経た慶長十九年(一九一四)、徳川幕府の命により越後高田城築城総裁として出向の帰途、故郷置賜の土を踏み、次の歌を残している。

 越方(こしかた)の思い旅寝のふるさとに露おきまさる草枕かな
 

 ある時はあるにまかせて疎けれど無きあとを訪(と)う草枕かな

 故郷は夢にだにさえ疎(うと)からず
現(うつつ)になどかめぐり来にけん

政宗が終生抱いていたであろう故郷置賜への深い愛着の表現である。

 しかるにあろうことか、われわれが嫌悪を込めた意味で今も使う「ダテゴト」という言葉は「伊達事」であり、上杉がこの置賜を領有支配するにあたって、二一〇年に亘る伊達支配の遺風を一掃しようとした政策の名残りという(小川弘先生談)。たしかに、昭和六十二年、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」の放映によってはじめて、政宗が置賜で生まれ育ったことを知った置賜人は多かったはずである。上杉による伊達の遺風一掃政策は、斯様に徹底して現代にまで及んでいたのである。このことを知って以来、上杉がやむなく封じ込められた果ての「置賜」ではなく、政宗が生涯愛してやまなかった豊穣な「置賜」を取り戻さねばと思いつづけていた。「古代からのメッセージ
―宮内熊野大社の位置の不思議」

   ○   ○

舘山城跡国史跡指定記念特別展「伊達氏と上杉氏」(米沢日報デジタル 2016年10月2日15:00配信)

 米沢市上杉博物館(佐藤広明館長)は、10月1日から11月27日まで、開館15周年記念特別展「伊達氏と上杉氏 ー舘山城跡国史跡指定記念ー」を開催しています。

 米沢は伊達氏が置賜への進出から200年余りの間、その支配下にあり、伊達晴宗、輝宗、政宗の3代約50年間は伊達氏による領国支配の中心地となりました。

 今回の展覧会では、伊達氏のルーツ、初代の朝宗から豊臣秀吉によって政宗が岩出山に移るまでの歴史や、伊達氏と上杉氏の関わり、国指定となった舘山城跡の発掘成果を紹介する内容となっています。

 記念展初日の1日には、同館学芸員の角屋由美子氏が「中世伊達氏」をテーマにギャラリートークを行いました。角屋氏は伊達氏初代は、「念西」という法名を持つ出家した武士であるが、本当の名前がはっきりしていないことに言及し、伊達氏が元祖とする藤原山蔭の末裔とするために「尊卑分脈」という系図集の末尾にある「朝宗」に結びつけたという説を紹介しました。

 念西朝宗は、文治5年(1189)、源頼朝が奥州藤原氏を攻める合戦に従事し、石那坂(福島市)で藤原氏最大の家臣、飯坂大鳥城主の佐藤庄司一族を破り、頼朝軍の勝利を決定付けました。この功績により、念西一族は頼朝より伊達郡の地頭に念じられ、伊達氏を名乗りました。伊達氏発祥の地は桑折(こおり)で、展覧会では朝宗の墓の周辺(下万正寺遺跡)から出土した瓦やかわらけ(器)を展示し、その瓦が源頼朝が藤原泰衡らを追悼するために建てた鎌倉にあった永福寺のものと様式が同じで、佐藤氏一族の追悼のために頼朝と同様の寺を建立したと考えられます。

 他に、会場では伊達氏の初代からの肖像画や、伊達稙宗が息子である晴宗と争った「伊達天文の乱」、伊達氏から上杉氏へ養子を出す事に関連して、伊達氏が上杉氏の家紋である「竹に雀紋と桐紋」をあしらった空穂(矢を入れる容器)、米沢の西にあった寺、覚範寺(政宗が父輝宗の菩提を弔うために建てた寺)で出土した「一字一石経」の展示も見所です。

 舘山城跡に関連しては、伊達治家記録(だてじか(け)きろく)(元亀元年、1570)に、伊達氏の重臣であった新田四郎義直の居城として「舘山」が登場します。米沢市教育委員会の調査で、慶長年間(1596〜1615)以降のものと考えられる石垣が確認され、上杉景勝の命によるものと考えられますが、未完成のまま破城されたとみられています。舘山城跡は、伊達時代の山城と考えられてきましたが、発掘調査による石垣の発見で、上杉氏も関わっていることが明らかになりました。

 慶長14年(1609)に書かれた直江兼続の書状には、米沢にいた奉行の平林に対して、米沢城下町の整備に関して、「館山之儀一切無用之事」とあり、城普請の中断や破城の指示と解釈ができるものが送られています。

 他にパネル展示では、政宗の命でローマに赴いた支倉常長を取り上げ、支倉氏の系図の中で、出羽国置賜郡立石郷(米沢市立石)に、支倉常長の父、常成が居住していたことが書かれてあり、常長がここで生まれたと考えられる根拠を示しています。

 会期は、前期10月1日〜30日、後期が11月3日〜27日です。入館料は一般620円、高大生400円、小中学生250円です。11月3日は入館無料。


【追記 30.4.17】

山形新聞文化欄に昨日から「伊達政宗と山形」が掲載されています。昨日と今日2回分転載させていただきます。クリック拡大なります。

伊達政宗1.jpg

伊達政宗2.jpg
【追記 30.4.21】 画面上クリック拡大
伊達政宗3.jpg
伊達政宗4.jpg
伊達政宗5.jpg

 

 


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めい

山形新聞文化欄に昨日から「伊達政宗と山形」が掲載されています。昨日と今日2回分転載させていただきました。↑
by めい (2018-04-17 07:22) 

めい

山形新聞文化欄「伊達政宗と山形」3回分転載させていただきました。↑
by めい (2018-04-21 20:58) 

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